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イタリア的な兵食車輌

作者:三田弾正
山口多聞様の企画名 架空戦記創作大会2016冬
お題「架空のミリメシ」
参加作品です。
ディスカ○リーチャンネル
『第二次世界大戦とトーロ』

第二次世界大戦において、連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥の言葉に連合軍を勝利に導いた物として『バズーカ、ジープ、C47、トーロ』と言う話が有る。バズーカ、ジープ、C47は皆様も良く御存じでしょうが、最後のトーロこそアイゼンハワーは元より、マッカーサー、パットン、ヴァンデグリフト、モントゴメリー、メッセ、トゥハチェフスキー、ロンメルらが口を揃えてその活動を称えている。

マッカーサー元帥は言う「アイシャルリターン、アイライクトーロ」
パットンは言った「弾と燃料、それにトーロだ!」
ヴァンデグリフト中将は言う「1942年ガタルカナルの戦いでトーロがいなきゃ俺たち海兵隊はジャップの攻撃で海へ叩き帰されていたぜ!」
モントゴメリーが語る「ドイツ一番乗りはトーロのお陰だ」
メッセは言った「うちの大将からのプレゼントだ」
トゥハチェフスキーは言う「戦車についてこれるのはトーロのみ」
ロンメルは言った「総統閣下、アフリカにはトーロが必要です」

この物語は、将軍から一般兵に至るまで愛されたトーロと呼ばれた物の物語である。

この証言は、第二次世界大戦に参戦し将兵として活躍した方々の証言である。

『日本との戦争におけるターニングポイントと言えば、1942年に始まるソロモン戦だが、その最初の戦いは日本軍が占領して飛行場を設営していたガタルカナル島への上陸作戦だった』

「小官が、ガタルカナル島へ上陸したのは、忘れもしない1942年8月7日の事でした。海兵隊としてみれば初の上陸戦ですから、それは緊張したものです。この頃はまだ上陸舟艇なんて便利なものは海兵隊は採用していなくて、デリックで降ろしたカッターに乗るんですけど、あれって、船の舷側から垂らした網を伝って降りるんですよ。

しかも何十キロの装備を背負った状態ですから、途中で足や手を滑らして海へ落ちる奴まで出る始末で、そうなると重い荷物が枷になって溺れるんですよ。味方が素早く拾ってくれないと死ぬだけですからね。何人もの兵が溺れ死んだんですよ。

まあ上陸したら日本兵は既に逃げ去っていて『こりゃ楽だわ』と思ったんですが、それが思い違いだと判ったのは翌日でした。飛行場周辺の安全確保後、船団からは昼夜を問わず物資の揚陸が始まり、我々も手伝ったのですが、現在と違い揚陸艦やコンテナなんぞは用意していませんから、一々物資を網に入れてデリックで艀へ降ろすんですから、なかなか進まないんですよ。

そうこうしている内に8日も暮れて仮眠でも取るかという最中に、日本海軍の急襲があったんです。我々は陸にいますから、何も出来ずに探照灯や照明弾で味方の船が次々に赤々と燃える様を地団駄踏んで見ているしかなかったんですよ。一刻は艦砲射撃が来るかも知れないと、親父ヴァンデグリフトたちと共に急造の蛸壺へ逃げ込んだりしていたんですけどね。日本軍は軍艦を攻撃し終わると撤退していったんです。

あの時は何故輸送船団を攻撃しないのか艦砲射撃しないのかと不思議に思ったんですが、戦後になって資料を読む機会が有って納得したんです。ただ、海兵隊の方は被害が殆ど無かったんですが、海軍は巡洋艦を6隻ほど失って、それって言うのも機動部隊指揮官のフレッチャー中将が、とっくの昔にニューカレドニアへ逃げ帰っていたことも原因の一つなんですよね。

そのせいで、臆病風に吹かれてた護衛艦艇は輸送船を連れて逃げたんですよ。それも揚陸途中なのにもかかわらずですからね、結果的に第1海兵師団は戦車も野砲も工作機械も殆ど無いばかりか、早期警戒のためのレーダーも揚陸していない。挙げ句に食料まで碌すっぽ無い状態でしたよ。

結局ギリギリで陸揚げされた食料は15,000人もいる海兵隊員を食わすとしたら5日分だけだったんですよ。結局は日本軍の倉庫から見つけた米を食べるしかない状態になったんです。それを足しても14日分で量がないから食事も一日二食だって決まって、気分は最悪でした。あの時ほど、海軍に罵声を浴びせたくなった事は無かったです。

我々は日本軍の攻撃が何時始まるかと身構えていたんですが、翌日は日本軍は航空機を飛ばしてくる程度で、軍艦が襲ってくるとかそう言う本格的な攻撃をしてこなかったんですよ。これなら揚陸をして欲しかったと思ったんですが、もう後の祭りですからね。

夕方になって空きっ腹を抱えながら塹壕堀や武器の手入れをしていると、司令部から親父が出てきて小官たちに言ってきたんですよ。『諸君、騎兵隊の到着だ』ってね。味方の増援が来ると聞いてみんな歓声を上げましたよ。味方の船団は夜陰に乗じて泊地に入港するらしく、ドラム缶に油入れて松明代わりに燃やして合図を出したんですよ。

小官らが日本兵の夜襲を警戒していると、星明かりの中、泊地には次々と輸送船が到着しはじめたのです。皆が『俺たちは見捨てられていない』って感動していたんですが、よくよく見ると船に掲げられている旗はイタリアの旗だったんです。

『確か、イタリアは第2派としてエスピリトゥサント島で待機していたのはずだな』って考えていたんです。後から聞いたら、合衆国海軍の連中が逃げ出した通信を傍受した、イタリア海軍南太平洋艦司令官アンジェロ・ベッローニ中将が合衆国海軍南太平洋艦隊司令官ゴムレー中将の待機命令を『命令系統が違う』からと無視し独断で出港し、430海里を丸一日で走破して夜陰に乗じて入港してくれたのです。

この当時のイタリア海軍は、戦闘処女の海兵隊と違って、欧州の戦いで幾度となく実戦をかいくぐっていたので、強襲揚陸艦、RoRo船、コンテナ船とかを要していて、更にコンテナ式兵舎とかを実用化していたので、心配した揚陸時の時間超過も起こらないで、昼頃までには全ての物資の揚陸を終了させたのにはおどろきました。

そのうえ、あれよあれよという間に10日夕方には、占領した飛行場近辺に偽装網でカモフラージュされた、立派なコンテナ兵舎、病院、食堂に管制塔まで完成していて驚きましたよ。

第2波として来たのはサン・マルコ海兵師団で、彼らはイタリア海軍でも最精鋭で、ギリシャの戦いとかで有名でしたからね、どんな厳つい連中かと思ったら、お洒落で陽気なイタリアンでしたね。それでもフル装備ですから安心はしましたよ。

夕食の時間になり、小官たちはまた米かと思っていたら、全員がイタリア側から夕食に招待されまして、食堂へ行くと驚きましたよ。あの戦場でフルコースなんですよ。流石にレストランで出るようにオードブルからとかじゃ無くて、今で言うバイキング形式の食事でしたけど、戦場であんな旨い飯を食べられるとは驚きましたよ。其れだけじゃ無くワインも出されてきたのは親父も驚いていましたけどね。

腹一杯ご馳走になって、ふと考えたのは、30,000人近い食事の支度をどうしたんだろうと思ったんですが、暫くは判らなかったんですよね。フルコースなんて今日限りだなってって思っていたら、それから毎日のようにイタリア料理のオンパレードですからね。嬉しいやらないやら、士気も上がりまくりでしたね。

結果的に余った米もイタリアさんが、あれよあれよとリゾットやパエリアとかにして出してくれましたが、凄く美味なんですよね。あの不味い米から此程の物を作れるとはと大いに驚いたものです。

(字幕 当時日本軍が持ち込んだ米の大半は、タイやベトナムで徴集されたインディカ米で保存状態の悪さから黄色く変色し臭いを発していた)

そうしている間に21日からのアリゲーター・クリークの戦いでは日本軍の攻撃を小官の第二海兵大隊とイタリアの第3海兵大隊で正面を請け負ったんですが、日本軍は無謀にもイタリアが持ち込んだセモヴェンテ自走砲の真正面に突撃してきたんですよ。

その時、イタリア側の大隊長がニヤリと笑い、耳を塞ぐ様に指示し終わると、セモヴェンテに合図を出したんです。すると4輛のセモヴェンテが一斉に75ミリ砲弾を発射したんです。一瞬でしたね。75ミリ榴弾の爆発で突撃してきていた日本兵はズタボロになっていましたよ。

彼方此方で歓声が上がりましたね。『負け続けていた合衆国が勝てる』ってね。まあイタリアの援護があったんですが、この頃にはイタリア人と我々は完全に打ち解けてましたから、仲間意識なので『一緒の勝利だと』ね。

あっと言う間に、日本軍を撃退していたら、基地の方から何やら装甲車が何台もやって来たんです。最初増援かなって思ったんですが、件の大隊長がまたニヤリとしながら言ったんですよ『飯が来たぜ』って確かに、もう夕方で食事時間を過ぎてはいたんですが、戦闘中ですからね。精々CレーションかDレーションを囓るしかないんですが、イタリアは違ったんです。

装甲車が塹壕の近くまで来ると、後方が開いて、中から旨そうな匂いが漂ってきたんです。なんと装甲車はキッチンカーだったんですよ、普通キッチンカーと言えば、トラックとかの改造なんですが、イタリア軍は装甲車をキッチンカーにしていたわけです。

これには驚きましたね。何と言っても戦場の際まで来て暖かい食事を配給して廻っているんですから。この後もイタリア軍と一緒の戦場ではキッチンカー、イタリア人は雌牛トーロって呼んでましたが、のお陰で将兵は暖かく栄養のある食事をする事が出来たんです。

ただ、戦場であれだけの料理をどうやって作ったのかと不思議に思ったのですが、件の大隊長に聞いて氷解したのです。後方基地で予め作っておいた料理などを冷凍やフリーズドライとかで保存し冷凍コンテナごと運んで、電子レンジで解凍していた訳です。つまりトーロには電子レンジが標準装備で、パッケージ化された糧食を目前で温めることが出来た訳です。

ガタルカナルの後、合衆国もトーロの保有を決定して、ライセンス生産をし始めて、ニューギニア、マーシャル、マリアナ、フィリピン、硫黄島、沖縄と海兵隊進む戦場にはトーロが一緒に進んだんですよね。
現在でもトーロの子孫たちが各国で使われていますから、その影響は多大だったとおもいます。

今となって、電子レンジはどの家庭にもありますけど、あの当時は見たこともない機具ですからね。皆、不思議がっていましたよ。まあ、あの便利さを知ったので、戦後にレイセオンから販売された家庭用電子レンジをワイフにプレゼントしたんですけどね」




『トーロは太平洋戦線だけではなく、世界各地で活躍しました。

インドでは、日本軍によるインパール作戦の最中、包囲されたインパールでは、後方で調理され冷凍やフリーズドライされた糧食が空中投下され、トーロで温め直され籠城したイギリス第4軍団を支えました。

逆に包囲する日本軍は、上級司令部の補給に関する無頓着で飢餓に陥り、空中投下されながら外れた冷凍コンテナを鹵獲し、凍ったり乾いたままの食事を囓り腹を壊すなどをしていました。

ヨーロッパ戦線では、ファシストフランス打破にルクレール将軍と共にパリへ入城し、歓迎するパリ市民へフランス料理を振る舞いました。

この様に連合軍の行く先々でトーロは活躍したのです。

逆に枢軸国側にして見れば、連合軍の糧食は垂涎の元でした。

アフリカ戦線ではロンメル将軍が鹵獲したトーロを使用していました。彼はヒトラー総統にトーロの採用を具申しましたが、贅沢の一言で却下されています』




『第二部はその開発についてのお話しです』

『トーロはイタリア軍で開発されましたが、その開発には2人の人物が大きな役割を果たしています。

一人は、マグネトロン有効活用を指摘した、イタリア王国ジェノヴァ公フェルディナンド・ウンベルト・フィリッポ・アーダルベルト・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ、もう一人はアメリカ合衆国のレイセオン社技師であったパーシー・スペンサーです。

1937年、パーシー・スペンサーはジェノヴァ公から供与されたマグネトロン調理器具に関する論文から画期的な調理器具を開発したのです。ジェノヴァ公のから指揮援助も受けた彼は、マグネトロンから発するマイクロ波をチョコレートに当てることで溶けると言うヒントから、電子レンジを完成させたのです。

電子レンジと名付けられた調理器具は、画期的な調理器具であったが、高価で有ったが為に民間で使われるようになるのは第二次世界大戦が終わって暫く立ってからで有るが、イタリア軍は1939年から大量に装備されました。

更に、ジェノヴァ公は大株主であるアリソン社のV-1710液冷航空機用エンジンを元にディーゼル化を依頼しました。いっけんこの様にガソリンエンジンをディーゼルエンジン化することは無謀と思えるますが、ソビエト連邦がイスパノ・スイザ12系列の液冷V型12気筒エンジンからT-34などに装備されたV-2ディーゼルエンジンを開発した事から、一概には無謀と言えない事でした。

1937年から始まった開発は難航しながらも1939年に試作機が完成し、AVDS-1710と命名され同年中には量産が開始されました。このエンジンは液冷V型12気筒28L 600pshを発揮し連合軍側の装甲車両の主力エンジンとして活躍しました。

イタリアではピアッジオ社が1939年にAVDS-1710のライセンス生産を開始すると共に、トーロ計画がスタートしたのです。開発は、アンサンドル社で行われ戦車と違い旋回砲塔などがないために基本的には圧延防弾鋼板をテルミット溶接で組み立てる形で行われ1年足らずの1939年12月には試作車が完成し、雌牛トーロと名付けられて翌40年に生産が開始されました。

トーロは、イタリア装甲車輛の中でも最高傑作と言われるほどの出来で、戦車では碌なものが出来なかったイタリアが連合国で数少ない感心された装備でした。

ここでトーロの構造を見てみましょう、トーロはエンジンとトランスミッションをフロントに置くFF配置を採用していました。これはイスラエルのメルカバ戦車に採用されているように、正面からの被弾に強い構造です。トーロの場合は後方には大型の観音開きの扉が有る関係で採用されたものでしたが、防御強化という副次的な効果も発揮しました。

装甲は、75ミリ圧延鋼板を45°の傾斜装甲として被弾経始効果を求めていました。また走行性能を上げるためにクリスティー式サスペンションを採用し幅広履帯であらゆる戦場を走り回れる能力を得る事になりました。

最大の特徴は車体中央に鎮座する大型電子レンジの存在でした。この電子レンジは後方の炊事所で作られた食事を冷凍保存し、トーロが牽く冷凍トレーラに積み込み、ベルトコンベアーで車内へ搬入し温めて、最前戦まで配達したのです。

(字幕 トーロのスペック 車体長6.2m 全幅3.3m 全高2.5m 重量40.2㌧ 前面装甲75mm 側面50mm エンジン ピアッジオAVDS-1710ディーゼルエンジン 28L 600psh 最大速度50km/h)

これにより、トーロの配備された戦線では、将兵が自ら自炊することも冷たい缶詰を食べることもなく、何時でも暖かい食事と飲料が安全早急に配達されてきたのです。
無論、枢軸国軍は砲塔もなく戦場で動き回るトーロを攻撃しましたが、持ち前の速度と重装甲に阻まれ撃破される数はたいした事が有りませんでした。

しかし、トーロを撃破した枢軸国軍には凄まじい報復が行われました。それまで緩慢な攻撃だったものが、トーロが撃破されると、嵐のような砲撃と空爆が行われたのです。
食い物の恨みは恐ろしいと言いますが、まさにその通りだったのです。

余りの攻撃の凄さに、イタリア戦線では『トーロを見ても一切手出しをしないように』と内々に命令が出された事も知られています。

こうして第二次世界大戦でベルリン攻略まで活躍したトーロでしたが、戦後は焼け野原になった各地での炊き出しなどで活躍し、多くの民衆の命を救いました。

現在、各地の博物館などでトーロの姿を見ることが出来ます。
現在トーロの子孫たちは各地で活躍し、最近ではシリア難民に対する給食活動や東日本大震災における災害派遣などでも活躍しています。
イタリア軍は戦車は米英から買えば良いじゃんで、食事車輌をかいはつしたのでした。

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