魔王生誕縦書き表示RDF


「五分小説」という企画に参加して作った小説です。
他の作者さんの作品も是非見てください。
魔王生誕
作:安達 奇妙丸


 浅井長政からの使者は、冷や汗をべっとりと身体中に浮かべていた。
 懐から書状を取り出す手が微かに震えているし、顔色は青を通り越して白かった。
 だが、その使者を睨む織田信長の顔も、負けない程に白くなっている。


「岐阜殿は我が殿との盟約を破り朝倉に攻め入られた。我が浅井にとって朝倉殿は大恩ある御方。それを攻められるとあっては、もう盟約はこれまで。次は戦場で挨拶申し上げる、と、これが口上にござりまする。」


 無理に落ち着かせた声で、使者は口上を延べた。

 先程幔幕の中に使者が入ってきてから、恐ろしい程に無口だった信長の放つ殺気が、信長の横に控える森三左の肌を総毛立たせる。

 信長は床几から勢い良く立ち上がると、激しく鐺を大地に打ち下ろす。そして頬を軽く痙攣させながら轟然と言い放った。


「小谷に帰って浅井備前に申せ。そちには失望した……そちがそのような矮小な志しか持たぬ愚者だと気付かなかったのは、この信長の最大の過ちであった、とな!」


 使者を帰らせると、信長はいよいよ土気色に変わった顔を歪めながら、ぎりぎりと歯ぎしりを鳴らした。

 織田軍は今越前の朝倉義景に対する侵攻作戦の最中である。

 破竹の勢いで次々と朝倉方の城を落とし、遂にここ敦賀に立つ堅城、金ヶ崎城をも落としたが、ここで浅井に裏切られると、両軍に挟撃され、信長は破滅するしかない。

 更に、妹の市を嫁がせて義兄弟となった長政の裏切りは、信長に多大な衝撃を与えていた。

 森三左が緒将を呼び寄せ、幔幕の中が将達の声で溢れても、まだその衝撃から抜け出せずにいた。


「殿、皆集まりましたが……」


 珍しく陰気な顔で沈黙を行使する主君を不審に思い、森三左が声をかけた。


(……俺がここでやらねば、織田の破滅は避けられぬ。)


 主君の様子から不安が伝播したようで、緒将達は皆浮き足立っている。それが信長に元来の闘気を取り戻させた。

 信長はカッと目を見開くと、普段通りの良く響く声を流す。


「皆も聞いておる通り、浅井備前めが裏切りおった。岐阜に逃げるのは死地に飛び込むようなものよ……だが、敢えて退くぞ。」

 例えここで朝倉家の本拠、一乗谷に攻め入ったとしても、籠城されればそれまで。後は悲惨な殲滅戦になるだけである。

 ならば、危険と恥を承知で岐阜へ戻る。

 それが信長の決断である。



「藤吉っ!」


 木下藤吉郎が素早く前に進み出て、鋭く返事をした。


「そちに殿を任せる。俺の天下のためだと思って死ねっ!」


「はっ! しかと承知しました。」


 殿に向けてはっきりと死ねと言う信長も信長だが、それにあっさり答える藤吉郎もまた奇妙な男である。

「皆の者! これから岐阜に必死で退くぞ。岐阜に戻った後は、必ず浅井備前に死をくれてやろうぞ!」

 先程まで不安と緊張で、落ち着きの無かった緒将の目が据わった。

 並みの大将にこのような芸当は出来ない。信長の絶対的なカリスマがあってこそ為し得ることである。

 かくして、金ヶ崎の退き口は始まる。

 信長は、僅かな供を連れ、朽木谷から京へ逃れることにした。
 信長は道中、殆んど言葉を発することはない。

 考えることはただ一つ、義兄弟浅井長政のことだ。

 あれほど信頼し、義弟として愛したのに、そのお返しが今回の裏切りである。

 信長は元来、親族に甘い一面がある。

 その甘さが、今回の大失敗を呼んだことは明白であった。


(何故裏切った……長政、何故……)


 延々と続く悲痛な問い。無論答えは返ってくる筈もない。
 朝倉を滅ぼし、京の安全を確保すれば天下の形勢は決まる、という壮大な計画。

 朝倉攻めは、困るだろうと敢えて相談せずに決行した細かな配慮。

 そのどちらもが理解されなかったと考えれば考えるほど、信長の心に大穴を穿つ。

 絶望を纏った信長には、京までの道は無に感じられた。

 予想通り、浅井軍とは一度も遭遇することは無く、四月三十日に京へ入った。

(不思議じゃ……命からがらで再び踏んだ京の土……何故か前より渇いている気がする……)


 信長は将軍義昭に無事を伝えるための謁見を済ますと、緊張から解放され、やっと一息つけるようになった。

 しかしその安堵の後に、彼には新たな感情が、とても強く、とても理性で抑えきれぬ感情が生まれた。


――憤怒、である。


 以前穿たれた心の大穴に、どす黒い粘着質な塊が住まった。
(長政……俺に背いたらどうなるか思い知れ。早く地獄に堕ちた方が楽だ、と思わせてやるわ。)


 今まで圧倒的な才能を持ちながら何処か甘さが残っていた天才児は、義弟の裏切りで猜疑心というものを植え付けられ、爛々と光輝いていた瞳は、乾燥しきった血のような毒々しい黒色になってしまった。

 後に疲労困憊で京に戻った木下藤吉郎は、久方ぶりに信長に謁見し、衝撃を受けることになる。

――そこには魔王となった信長が立っていたからだ。


歴史小説難しい……













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