Signs of Life
揺蕩う命は――夢を見る。
甘く甘い、過ぎ去りし過去の夢を。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、美化されし過去を。
*
ライ。それが俺のあだ名だった。本名なんてこの際どうでもいいよ。みんな、俺の事をライと呼ぶのだから。
そんな事より、俺の目の前をちらつくこの光景は何だろう? 小さい男の子が走っていて……あ、転んだ。思いっきり、べしゃって。案の定、その子はわっと泣き出す。
*
桜が舞う……薄桃色の妖精がひらひら、ひらひらと。
建物が見える。あ、ここ、俺が卒業した小学校だ。お世辞にも大きいとは言えないベージュの校舎、赤い屋根。しょっぼい校舎に不釣り合いな、グラウンド中に植えられた桜の木。
そのグラウンドでは運動会が開かれているらしい。さっき転んだ男の子が、泣きべそをかきながらもゴールイン。大人達も子供達もその子を称え、拍手を惜しみ無く送る。
転んで泣きべそをかいていたその子は、凄く誇らしげにしていた。ビリだったというのに、変なの。
――あの男の子、どこかで見たような……。
突然カメラのズームみたいに男の子がアップになる。白いシャツに縫い付けられた、黄色のゼッケン。そこに黒い字で、こう書かれていた。『1ねん2くみ やぶき みらい』と。
矢吹未来、俺の名前だ。まるで女の子みたいな名前だけど、正真正銘、俺のフルネーム。
――そうか。俺は、俺の人生を見ているのか。
そんな事を考える間も、走馬灯のように景色は巡る。
今度は中学校だ。グレーの校舎に、屋根に取り付けられた三つの小振りなプロペラ。風力発電機だと校長先生は誇らしげに言っていたっけ。残念ながらどんなに風が吹いた所で、ドライヤー五分程度の電力しか得られないらしいけど。俺が卒業した中学校は、それしか取り柄が無い。
あ、文化祭の光景だ。辺りは黒い絵の具を塗りたくったみたいに真っ暗だけど、グラウンドの中央からオレンジ色がぱちぱち弾けている。多分、キャンプファイヤーだろうな。夏服の生徒たちが輪になってオレンジ色を取り囲み、男女ペアで踊っているから。
解き放たれた民族舞踊の軽快なステップに合わせ手を打ち鳴らし、くるくる回るフォークダンス。みんな一斉に同じ動きをするものだから、何だか気持ち悪いなぁ。
ダンスも一通り終わったあと、俺はクラスの女の子に告白されたんだ。ずっと好きだった。だから付き合って下さいと。俺に初めての彼女が出来た瞬間。だけど――
「あんたは、私の思ってたライじゃなかった。だから」
サヨナラ。半年付き合って別れた。俺が告白を承諾した時は「まぁ嬉しい!」って感じで、涙を流しながら両手で口元を覆っていたはずなのに。
女って解らないなぁ。自分の理想を許可なく人に押しつけてさ。それで少しでも食い違おうものなら悪役のレッテルを男に貼り付け、自分は都合よく被害者面するのだから。
「女のくせに」
俺は綺麗な考え方をする人ではなかった。だから浅はかながらも、女を見下す性格になってしまった、中学一年の冬。
いま思い返すと本当に馬鹿な考えだった。ごめんなさい。女の人に男のような力は無いけれど、心は男より強いんだね。俺の姉ちゃんを見るうちに、そう考えるようになったんだ。
気が付けば、景色は高校時代に移っていた。受験に関心を持つ事ができなかった俺が選択したのは、行きたい高校ではなく行ける高校。
特に受験勉強をしなくても余裕で合格できた。だって、確実に入れるレベルだったから。さすがに学年トップの特権である、入学式の答辞は俺じゃなかったけど。
空虚。俺の高校時代を表すには、その言葉が最も相応しい。
友達が居なかったわけじゃない。成績が悪かったわけじゃない。ただ、何となく。
――満たされない。
*
俺には両親が居ない。俺が中学二年の辺りに、両親の乗る車が事故に遭ったから。酔っ払いの運転する車に追突され、通り掛かった大型トラックに轢かれて――。
これは現場に居合わせた人達の目撃証言を掻き集めた話らしい。俺はそのとき姉ちゃんと留守番だったから、真実なんて知りやしない。知らなくて良いんだ。
だって、死んだ人は生き返らないから。残された者がどんなに切望しようと、渇望しようと、二度と話す事も、触る事も不可能なんだから。
悲しくないと言ったら、嘘になる。大型トラックの運転手が憎いかと聞かれれば、答えはイエス。
だけど俺は両親が居ない家庭ながらも、それなりの日々を送っていた。
女手一つで家計を支えてくれた姉ちゃんは、本当に強い女性だった。両親が死んだ当時、姉ちゃんは高校二年生。成績優秀で、医学部への進学も夢じゃなかった。
だけど両親が死んでから、姉ちゃんは高校を辞めた。奨学金を貰えば良いじゃないかと思うが、奨学金だけでは……到底暮らしていけなかったんだ。
両親は俺たちに内緒で、多額の借金を抱えていた。我が子には貧しい思いをさせたくなかったが故の行い。
両親は俺たち姉弟を、いろんな場所に旅行で連れていってくれた。その反動が、これだ。こんな事になるくらいなら貧乏でも良かった。姉ちゃんは泣きながら、毎晩のように愚痴っていた。
しかしある日を境に姉ちゃんの愚痴は姿を消す。仕事なんてしたはず無いのに、スーパーの従業員になって、立ちっぱなしでレジを打つようになった。そんな三つ上の姉。
帰宅はほとんど夜の八時か九時。朝と比較して明らかに疲れた顔つきなのに、姉ちゃんの口から「疲れた」という言葉を聞いた事は、ただの一度も無い。
俺にできる事と言ったら、家を掃除して、洗濯をして、買い物に行って、夕飯を作って――玄関で「おかえり」と出迎えるぐらい。
家事に勤しみ、休日しかバイトする時間の無かった俺に、姉ちゃんの負担を軽くする事はできなかったんだ。きっと。
それにもう二度と、家を掃除する事も、洗濯をする事も、買い物に行く事も、夕飯を作る事も――そして玄関で「おかえり」を言う事も……何ひとつとして、できない。できやしないんだ。
永遠に、ね。
*
「あんたみたいな身勝手な弟、死んだって誰も悲しまないわ!」
高校三年の夏。担任の先生から渡された、進路希望のプリント。A4サイズのそれは至ってシンプルなもので、進学か就職か。どちらかの文字を丸で囲って提出するだけ。
俺は迷わず就職に丸をつけた。一刻も早く姉ちゃんの負担を減らす。その事しか考えていなかった。姉ちゃんがどんな思いで働いていたか、まともに考えもせずに。
家に帰って、そしたら姉ちゃんは仕事が休みだったから――意気揚々とそのプリントを見せた。
途端に姉ちゃんの顔は茹蛸みたいになった。あ、怒ってる。俺がそう考えるよりも早く、姉ちゃんは怒鳴り散らした。
「馬鹿! お金の事ならライは気にしなくて良いって、あれほど言ったでしょう!? 就職は認めないわ」
人間誰しも、善かれと思っていた事を頭ごなしに否定されれば、カッとなってしまうだろう。その時の俺はまさに、そんな状態だった。ムカッと腹の底から込み上げてきた怒りのエネルギーは、ぜんぶ口を経て怒鳴り声に変換される。
「何それ、まだまだ借金が残ってるだろ! 家族の借金は、家族で返す。それのどこがいけないんだよ!」
両親の作った膨大な借金、姉ちゃんはたった一人で、健気に返済を続けていた。高校三年間、そんな姉ちゃんをずっと見てきた。いよいよ俺が高校を卒業するまで半年近く。ようやく姉ちゃんの力になれる、そう意気込んでいたのに。
「ライ。私はね、父さんと母さんに誓ったの。弟を、せめて大学までは行かせてあげたいって」
初めて聞いた、姉ちゃんが身を粉にして働く理由。どうして……そんな事、ただの一度も教えてくれなかったじゃないか。どうして、人の進路を勝手に決めようとするのか。
尽きせぬ疑問で、俺の頭はごちゃごちゃになった。何だか、たった一人の家族である姉ちゃんに裏切られた気がして、思考が着いてこなかった。
「……俺に進路を選ぶ権利は無いの?」
もしかして姉ちゃん、俺に仕事を継続する根気が無いと思ってる? だったら大丈夫だよ。コンビニのバイトで慣れてるから、根気なら人並みにあるよ。だから――
「ライ、言う事を聞きなさい。貴方は借金の返済に関わらなくて良いの。貴方には関係ない。だから変な気は遣わないで、大学へ行きなさい」
俺を頼ってよ! 姉ちゃん!
貴方には関係ない。待ってよ……それなら、俺は姉ちゃんの何? 家族なのに、関係ないの? 関係ない……俺は、姉ちゃんの家族じゃないの?
「全く……後先考えずに就職する気だったとはね。なんて馬鹿な弟なのかしら。もう少し……」
馬鹿な弟……俺が?
我慢できなかった。本当に、堪忍袋の緒ってあるんだな。そう実感した瞬間でもあった。
自慢じゃないけど、この時まで俺は姉ちゃんに対して汚い言葉を投げ掛けた事は無かった。今の今まで、ずっと。だけど、
「うっせぇクソババア!」
言ってしまった。思考がついてこなくて、身体が、口が先走ってしまったから。
俺は内心、言い過ぎたと思った。本当に、姉ちゃんに悪気が無いのも頭では理解していた。それなのに最低だ、俺。
「何よその口の利き方は、謝んなさい! それが嫌なら、私と口を利かないで!」
「ふざけんな!」
ごめんなさい。それが言えない。クソババアって言った瞬間、胸の中にぶわっと沸き上がった後悔と反省。
意地になって姉ちゃんと口論するうちに、そのどちらも薄れていって……気が付いたら、俺は姉ちゃんを打ち負かす事しか考えていなかったんだ。
「バカ、トンマ、ボケ老人、クソ野郎」
もし第三者が俺の言葉を聞けば、「まぁ酷い人。お姉さんに向かって、なんてこと言ってるの。最低!」とか何とか言うはず。だけどね、
「なんとでも言ったら?」
姉ちゃんの澄ました面構えを見ていたら、蘇ったんだ。あの時のどす黒く、反吐が出るくらいに汚らしい感情が。
――女のくせに。
捨てたはずの思想に囚われた俺は、最低とも呼べないくらい、最っっ低な一言を、姉ちゃんに……!
俺のために医学部を諦めた人に、ずっと一人で両親の十字架を背負っていた姉ちゃんに、ぶつけてしまった。
「死んじまえ」
ぎゅっと、胸にきた。姉ちゃんの顔が紙みたくなったから。血の気を失って、唇がわなないて。
俺は頭が真っ白になった。自分で言ったくせに、自分が言われたかの如く……いや、姉ちゃんに言った言葉が、俺にも同じくらい反射されたんだ。姉ちゃんは傷ついて、俺は苦しくて。
ごめんなさい。そう言いたくて、言わなきゃいけない気がして、俺は口を開きかける。本当に、その時だった。姉ちゃんから俺に、あの言葉が投げ掛けられたのは。
「その言葉、返すわ。あんたみたいな身勝手な弟、死んだって誰も悲しまないわ! 私なんか、手を叩いて喜んでやる!」
姉ちゃんの口から出たその言葉で、俺の心はずたずたに切り裂かれた。
胸に一瞬、味わったことも無いような、激しく鋭い痛みが奔る。と思いきや、ぞくぞくっと、胸の内側が冷たくなった。全身の血液が凍るような――そんな感じ。
思い通りに呼吸をすることもままならなくて、悔しい、悲しいを通り越して、ショックだった。
いや、この時の俺の気持ちを表す単語なんか、この世に存在しない。ショック。それが単に一番近かっただけ。ただ、それだけなんだ。
「……クソ女ぁっ!」
黙って立ち尽くしているのも辛くて、俺は無我夢中で家を飛び出した。もう解らない、覚えていないよ。
姉ちゃんがどんな気持ちであの言葉を言ったのか。姉ちゃんがどんな顔つきだったか。姉ちゃんは、俺が死んで悲しんでくれないのか。
――あんたみたいな身勝手な弟、死んだって誰も悲しまないわ! 私なんか、手を叩いて喜んでやる!
その言葉を頭の中から振りほどきたくて、俺は走り続けた。どんなに息が切れようと、その時の俺を止めるには至らなかった。
むしろ息が切れていた方が、気が紛れていたから。
だから次第に足が上がらなくなっても、口から息を吸い過ぎて喉がからからに、引っ付きそうになっても、俺は走りに走った。
早くあの言葉を忘れたくて。だけど、それはしつこくも、俺の頭の中を絶え間無く反響していた。
――あんたみたいな身勝手な弟、死んだって誰も悲しまないわ! 私なんか、手を叩いて喜んでやる!
*
「どうして泣いてるの?」
女の子の声が聞こえる。泣いてる、俺が? ……誰?
俺はおもむろに、横たえていた身を起こす。ここでようやく、俺は自分がどこかの公園にいる事を思い出した。
そうだ。走りまくって、でも流石に限界が来て、この公園のベンチに横になったんだっけ。横になるって事は、じっとしてるって事。つまりは、余計に思考を巡らせてしまうわけで。
溢れたのは、涙だった。とめどなく溢れて溢れて、さっきの姉ちゃんとの喧嘩で溜まった何かが、全部涙に変わって流れ落ちていった。
本当に、あれだけボロ泣きしたのは何年ぶりだろうってぐらい、泣いて泣いて泣きまくった。ああ、こりゃ明日には目が腫れて、二重が一重になっちゃうな。そんな事を考え始めた時、俺は泣き疲れて熟睡していたんだ。夏服のままベンチで寝ている高校生なんて、物凄く怪しかったに違いない。
それで目が覚めた時、俺の目の前には、知らない女の子がいた。歳は多分、十歳くらいかな。
真っ白なワンピースに、水色のサンダルを履いていて、凄く涼しげだ。片手には、読みかけと思われる本が一冊。解けば腰辺りまで広がるであろう黒髪は、頭の後ろで一つに結われていて。綺麗な髪だったな。
うちのクラスの女子共とは、比べものにならない。やれパーマだ脱色だ。馬鹿馬鹿しい。女って、そんなに自分を飾り立てて、馬鹿っぽく見せる生き物だったかな。
「ねぇ、お兄ちゃんは、どうして泣いてるの?」
女の子の声に、俺ははっとして我に返る。いけない。やっぱり姉ちゃんと喧嘩した時に蘇ったあの感情「女のくせに」は、なかなか消えてくれそうに無い。しぶといなぁ。
辺りは既に薄暗く、街灯が自分の存在を此れ見よがしに主張している。
「悲しい、からかな?」
「悲しい? どうして悲しいの?」
ぐさっ。女の子って……いや、どうして小さい子供って、自分の気になった事は根掘り葉掘り聞き出そうとするんだろう。純粋で微笑ましいけど、ちょっと残酷。
「……言葉」
「言葉で悲しくなるの? お兄ちゃん、へんなの!」
コントラスト。俺の心と、女の子のテンション。気力そのものを無くした俺と、人の気持ちを読まずにはしゃぐ女の子。そうだよ、こんな小さな女の子に俺の何が解るってんだよ。
「いいから……ほっといて」
今は誰とも話したくなかった。早く……早く立ち去って。俺の目の前に立たないで。
ほっといて。そう言われた女の子の返事は、たったの一言。「やだ」と、俺の気持ちを蹴っ飛ばした。なに、このクソガキ。荒んだ俺の心が女の子を追い払うべく再び口を開きかけた時、その子はずいっと俺に何かを差し出してきた。
「これあげる」
「何これ」
それを片手で受け取った俺が無気力に尋ねると、女の子はぷうと頬を膨らませ、ムッとした顔つきになった。あ、怒っている。小さい子って、解りやすいなぁ。
「四つ葉のクローバーだよ! 見てわかんない?」
女の子が俺に渡したものは、四つ葉のクローバーを押し葉にしたものだった。ちょっとよれよれになっていたものの、形はしっかりと原型を留めていた。
「それ、持ってるだけで幸せになれるんだよ。スゴイでしょ? ルカは幸せになっちゃったから、それはお兄ちゃんにあげる。悲しいって言ってたから、お兄ちゃんにも幸せになってほしいんだ」
知ってるよ、クローバーが幸福の象徴である事くらい。てか、お前ルカって名前なのか。
さも自分が物知りであるかの如く、その子、もといルカは腰に手を当て胸を張り、誇らしげに語る。気が付けば俺は、くすくす笑っていた。
「そっか。サンキュ」
小さい子って、気楽で良いな……あ、そうだよ。俺にも小さい頃、あったじゃん。まだ父さんも母さんも生きてて、姉ちゃんと俺が居て。
何も知らなくて、お気楽で……幸せに満ちていた、小さい頃。
*
南の海に連れて来てもらった事がある。俺がルカと同じくらいの頃、だからちょうど十歳くらいか。
南の海はテレビ越しに見るのと実際とではかなり違って、俺は凄くはしゃいでいた。白い砂浜と、どこまでも透き通ったアクアマリンに大興奮して、ちびだった俺は足元を見ていなかった。
この時、俺は身を以て知ったんだ。海には、場違いなほど深い場所があるって事。ちゃんと足元を見てなきゃ、美麗な砂浜で一生を終えるかもしれないって事。
「――ライ!」
白いワンピースを着て、麦藁帽子をかぶった姉ちゃんの声に気付いたと同時に、俺は空がぐるぐる回るのを一瞬だけ見た。
次の瞬間には、音が消えた。波の音、風の音、木の葉がそよぐ音、全部が詰まったような、ごぼごぼという音になっていた。
視界は一面の青空……空に似て非なる光景が広がる。息ができない。怖い。今まで考えもしなかった概念が、俺の脳裏に過ぎる。
――死ぬ。
綺麗だったのに、アクアマリンの海。気持ち良かったのに、優しく足を洗う漣。でも今は、それらが一致団結して、俺を殺そうとする。
足掻いても、どんなに足掻いても、太陽に向かって進む事はできなくて、遠ざかって……。やがて力が抜けた俺の身体は、無尽の大空――深淵の水底へ沈んでいくはずだった。
――ライ!
水圧による閉塞感の中、何かが飛び込む音がした。
それはあまりにも唐突過ぎる流れで、俺の腕は痛いぐらいに、でも絶対離さないとばかりに……姉ちゃんに掴まれていた。視界に映った白いワンピースが、俺を救いに来た天使みたいで。
その瞬間だよ。死ぬという概念は、ほとんど吹き飛んだ。もしもあの時、姉ちゃんが決死の覚悟で飛び込んでいなかったら、俺は間違いなく溺死していたんだから。
*
(そっか……姉ちゃんがいるから、今の俺が在るんだ)
俺が姉ちゃんとの思い出に浸っていると、ルカは何かを思い出したように「あっ!」と声を上げた。
「時間だ、そろそろ帰らなきゃ! じゃあね、お兄ちゃん」
華奢な手首に巻き付けた銀の腕時計を見遣り俺に軽く手を振って、くるっと後ろを向いた……と思いきや、たたたたっと走り出していた。何から何まで、マイペースな子だなぁ。
「ルカ!」
ベンチから立ち上がった俺は、既に公園を出ようとしているルカを呼び止める。彼女は立ち止まり、こっちを向いた。
「サンキュー、四つ葉」
俺の言葉に、ルカは笑顔で最大限に腕を振る。俺もそれなりに応じると、冷静になって、姉ちゃんとのやり取りを思い返してみた。
(やっぱ俺、姉ちゃんに酷いこと言っちゃったよな。まずはきちんと謝ろう! 進路の話はそれから落ち着いて……うん、とりあえず、帰るか!)
*
ルカが公園を去ってから、おそらく五分は経った時。俺も同じく公園から大きな通りに出る。
歩道には仕事を終えて帰宅中のサラリーマンや、路駐して待機中のタクシードライバー。テニス部の活動を終えて家路を急ぐ学生。
そんなわけだから結構スムーズには進めない。急いで帰りたい俺としては、何だかもどかしい。
今ものろのろと幅を取って歩く女子高生の間をくぐり抜け、家の方角に目を向けたその時だった。
「あ、女の子が!」
俺の横にいたスーツ姿の若い男の人が、ちょっと離れた場所の横断歩道を指差している。それをきっかけに、がやがやと道行く人々がざわめき出した。
何、女の子がどうかしたのかよ? 俺はそんな悠長な事を考えながら、男の人が指差した方向を見る。
人々の意識は、視線は、横断歩道に突き刺さっていた。その中心に居たのは――
「な、ルカ!?」
ルカ。さっき俺の心をちょっとだけ和ませてくれた女の子、彼女が横断歩道を渡っていた。
だけど不自然だ。これだけ人通りが多いのに、ルカ以外、横断歩道には誰もいない。なぜ渡らないのか、なぜルカだけが渡っているのか。
目を懲らすと、ルカはさっき抱えていた本を読みながら歩いている。危ないなぁ――そしてルカの更に向こうを見た俺は、固まった。
俺の胸に、不吉が去来する。
何でって、向こうから凄いスピードで大型トラックが迫っていたから。普段なら特に気にも留めない光景。だけど、違ったんだ。
その大型トラックの動きは、真っすぐ過ぎた。もっと言うならば、無人のトラックの、アクセルだけがぐっと踏み込まれたような状態。
そうか、道行く人々は渡らないんじゃない。渡れないんだ。ルカは本に夢中で、周りの状況に気付いていない。
ルカに向かって突進する大型トラックが一瞬、街灯に照らされた。そして視力の良い俺の目には、運転席のとんでもない光景がありありと映った。
ハンドルを握っているはずの手は、だらりと下がっている。座席にもたれ掛かる身体。そんな運転手を見た俺は、何が起きていたかすぐに理解した。
――居眠り運転!? ……いや、違う!
いくら居眠り運転でも、せいぜい細切れの眠りのはず。それに、ハンドルも握らず座席に背を預けているのもおかしい。多分、発作か何かで一時的に意識を失って……いや、そんな事はどうでもいいんだ!
大型トラックのぎらつく車体は、ルカに吸い寄せられるかの如く接近している。このまま……このままだとルカが!
――ルカ! 死なせてなるものか!
俺がそう思ったのと、ようやく気付いたルカが迫り来る金属塊に固まったのは、ほぼ同時。
俺は走り出した。
ルカは立ち尽くした。
――間に合え! 間に合ってくれ!
俺は力の限りに、立ち尽くす通行人を押し退けた。
邪魔だ、欝陶しい、どけ。そんな言葉を発する時間も惜しくて、とにかく肘や手の平で押して押して押しまくった。同時進行で、地面を全力で蹴る事も忘れない。
歩道から車道へ踊り出る。車通りがその大型トラック以外なかったから、そこから俺はルカに向けて一直線だった。ルカは足が竦み上がってしまったらしく、一歩も動けていない。早く、もっと早く!
ダメよ、危ない! 俺を制止する声が四方八方から聞こえる。でもそんな事、俺には関係ない。邪魔とも何とも思わない。
間に合えば良いんだ。この手が、腕が、ルカに届きさえすれば。
右の足首が悲鳴を上げる。関節が壊れそうなほど力を込め、地面を蹴ったのだから当然だ。
関節に針金を捩じ込まれたみたいな、鋭くて強烈な痛み。凄く痛かったけど、その程度で俺は足を止めるわけにはいかなかった。
左の足首も同様だ。それでも俺は跳ねるように地面を蹴った。次第に縮まる、俺とルカの距離。同時に、大型トラックとの距離も縮まる。
――間に合え!
猛スピードで突き進む大型トラック。そいつが巻き起こす風圧みたいなのが、俺の顔にぶつかる。ルカはへなへなと、路上に座り込んでしまった。俺の右手がルカの肩を掴む。
「……え?」
ルカが驚いたように、こっちを見た。馬鹿だな。駆け寄る俺に今さら気付くなんて。
いや、馬鹿は俺の方か。どうして会って間も無い女の子相手に、こんな必死に自分の命を擲ったりなんか。
あ、そっか。両親と同じ状況だ。今まで思い出したくもなかったけど、両親の死因は、大型トラックが横っ腹に大激突した事による外傷性ショック死。
先頭で信号待ちしていた所へ追突されて。交差点に押し出され、青信号で直進してきたトラックが……親を殺した。
そうだよ……記憶の奥底に根付いた両親の死。それと同じ状況でルカに目の前で死なれたら、後味が悪い所の話じゃないよ。
俺はもう、それ以上の事は何も考えられなかった。ただ腕の中にいる、自分より遥かに小柄なルカを守ること以外は。俺は無意識に、でも必死でルカを抱きかかえたんだ。
耳障りな低いエンジンの音。女の人の甲高い悲鳴。ルカの怯えた息遣い。それら全てが、俺の耳から急速に遠ざかっていく。
「大丈夫だよ――――」
次の瞬間には、目が飛び出すかと思った。実際に飛び出す事は無かったけど、肺の中の空気は全部出ていった。
一言で表すなら、全身に激烈な衝撃が迸った。それしか言いようが無いんだ、ホントに。視界が真っ白に染まって、真っ暗に裏返って。何も見えなくて――辺り一面が闇に閉ざされた。
*
「……ちゃん……お兄ちゃん!」
うるさいな……そんなに呼ばれなくたって、聞こえているよ。聞こえているけど……。
ごめんルカ。返事、できないんだ。どんなに吸い込んでも、息が入っていかない。むしろ苦しくなるばかりだ。胸の中にあるもの、全部吐きたい。
目だって上手く開けられない。半分開けたって見えないんだ。霞んで霞んで霞んで……ルカ、お前がどんな顔をしていたのかも、俺には解らなかった。ごめんね。
「誰か救急車を!」
知らない男の人が、そう叫んでいる。救急車……さっきの運転手のため?
「お兄ちゃん……ごめん、なさい……っ」
ふと俺の頬に、雫が落ちてきた。もしかして、ルカ、泣いてんのか? 馬鹿だなぁ。何でルカが泣くんだよ。俺なら大丈夫だって言ったのに。
「間に合って……良かっ……た」
それだけは伝えたかった。頭の中がふわふわして、全身もふわふわした感覚に包まれていた。なんか、全身の感覚が麻痺したような、そんな感じ。だから指一本、その時の俺には動かせなかった。
「駄目ぇ! 嫌だ嫌だやだやだやだやだっ! お兄ちゃん、目を開けてよっ!」
ルカ、泣かないで。そんなに悲しまなくたって、ちょっと眠ったら、すぐに起きるから、さ?
とにかく今は眠いんだ、俺。瞼が重くて重くて仕方が無い。だから、頼むよ。ホントに、すぐ起きるから、俺。
だから、今は……。
*
俺の目の前を流れる光景は、そこで終わった。俺が俺の人生を振り返る時間も、終わった。
「そっか……俺、もしかしてあのまま死んじゃった?」
そんなの有りかよ。まだ何も言えていないじゃん。姉ちゃんに……。
「ごめんなさい……」
こんな真っ白な空間で言ったって、聞こえるわけ無いけど、姉ちゃん。
ごめんなさい、俺、姉ちゃんのこと傷つけた。いっぱい酷いこと言った。今まで支えてきてくれたのも、海で俺を助けてくれたのも、働いて生活を支えてくれたのも――全部姉ちゃんだったのに。
俺、何も返せなかった。姉ちゃんに、何もできなかった。悲しいよ、悔しいよ、だけど……もう二度と、姉ちゃんに何かしてやる事は叶わないんだ。
姉ちゃん……ごめんなさい。あと、ありがとう。色々。
親不孝で姉不孝な弟だったけど……それでも俺、姉ちゃんのこと大好きだった。ううん、大好きだよ。今までも、これからも。だけど、
「……ごめんなさい」
これだけは、絶対に言いたかったのに。
――さようなら。
*
「ごめんなさい……」
朝日が差す公園のベンチ。そこに横たわり、木材の一つひとつを慈しむように撫でる一人の女性が居た。目鼻立ちの整った利発そうな美女が。しかし、その目は虚ろ。ここには無い、決して手の届かない何かだけを追い求めている目だ。
やがて女性はふらふらと立ち上がると、覚束ない足取りで公園の敷地から出る。
朝のこの時間帯、道行く人々は通勤や通学を目的とした人ばかり。この女性もまた通勤のため歩き出し、道行く人々の一部となる。
「それでね、あいつ見事に遅刻してきてさ!」
「きゃはは、何それ! った」
「あ……」
不意に女性は、反対側から来た二人組の女子高生とぶつかってしまう。白いワイシャツに、緑のチェックスカート。
その制服を見た女性の虚ろな目は一時的に光を取り戻し、眦が裂けんばかりに見開かれた。
「弟と……ライと同じ高校なのね、貴女達……」
女性はぽつりと呟き、「ぶつかって、ごめんね」と言い残すと、足早にその場を立ち去る。やがて女性は道行く人々に溶け込み、見えなくなってしまった。
ぶつかられた女子高生は少し機嫌を損ねたらしい。活動的なショートカットの髪をぐしゃぐしゃと掻きながら、ぶすっとした顔で、女性が消えた方向を見る。
「いたた……何だったんだろう? あの人いつもは一言も喋らない、まさに廃人って感じの人なのに」
「マキ、知ってるの? あの女の人の事」
肩に届く程度の茶髪で、明るい性格をしていそうな少女――もう一人の女子高生が、ショートカットの少女マキに尋ねる。
「あ、うん。知ってるよ。何でもあの人、七年前に弟さんが小さい女の子を庇って死んじゃったらしくてさ。それ以来、ずっとああなの」
七年前。
小さい女の子。
庇って死んじゃった。
それを聞いた茶髪の少女の顔が強張ったが、マキは気付かず、尚も話し続けている。
「――だからさ、ルカも気をつけなよ……って、ルカ聞いてんの?」
「え? あ、聞いてるよ……」
不意にマキは鞄から取り出した携帯電話に目を遣り、「やばい遅刻しちゃう。ルカも早く!」と叫ぶや否や、脱兎の如く走り出す。
茶髪の少女――ルカはただじっと、先程の女性が消えた方を眺めていた。下唇をぐっと噛み締め、溢れ出んとする何かを精一杯おさえるような、そんな顔つきで。
「ごめんなさい。でも私、彼の分まで生きます。頑張って、生きますから……」
それだけを風に乗せるように呟くと、ルカは踵を返す。夏の風が、彼女の茶髪をさわりと吹き上げた。
*
揺蕩う命は――夢を見る。
甘く甘い、過ぎ去りし過去の夢を。
帰らぬ命、誓う命、彷徨う命。
言葉は、届かない。
悲しみは――消えない。
end
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