【14話】 “甘い香りの女と、不思議男と、極妻姉御にはご用心”
翌日―…。
今日から結婚式翌日まで、俺はちょっとした長期休暇。
でも、月華は相変わらず忙しそうにパソコンの前で仕事中。
「月華、たまには一日くらい休んでも怒られないんじゃないか?輝や楓の世話もしてるのに、そんなに仕事仕事じゃ倒れちゃうよ。」
ソファに座り、隣でカチャカチャとキーを打つ月華に声をかけると、彼女は手を休めてにっこり笑った。
「うん、ありがと、拓海くん。じゃあ、ちょっと紅茶休憩にしようかな。」
「じゃあ、俺が紅茶入れてあげるよ。」
ソファを立って紅茶の準備に向かうと、しばらくしてから『あのね…』と月華が俺に小さく声をかけた。
ん?
「何?」
手元を動かしながらちらりと振り返ると、言いにくそうに黙り込む月華。
んん?何だ?
「何だよ。言ってくれなきゃ分からないよ。」
紅茶を二人分用意してからもう一度声をかけると、ちらりと俺を見遣った彼女は、ようやく口を開いた。
「…うん、昨日ね、拓海くんのスーツからすごく甘い香りがしたの。クッキーみたいな匂いと、甘い香水の匂い…。いつもあんな香りしないのに…。誰かと…一緒だったの…?」
ぎくっ。
焦りで思わずカップを揺らし、『カシャン』と音を立てた俺を月華がじっと見遣っていた。
うぅっ、俺ってば何びくついてんだ。
何もやましいことしてないじゃないか。
堂々としてろ、拓海。
「あぁ、うん。昨日秘書課の子が手作りクッキー持って来たんだ。それをいただいたからだよ。でも、ほとんど悠斗に食われたけどね。」
「なんだ、そうだったんだ?良かった。私ってば、てっきり拓海くんが浮気してるのかと勝手に思い込んじゃってた。えへへ。」
ホッとした顔でさらりと言ってのけた月華に、『浮気なんかするワケないじゃん』と即答すると、彼女は『うん、そうだよね。ごめんね、変なこと言って。』と申し訳無さそうに謝った。
浮気…か。
抱きつかれて告られたのは、浮気じゃないよな?
だって俺、ちゃんと断ったし。
でも珍しいな、月華が浮気を疑うなんて…。
「別に謝らなくてもいいよ。でも、月華がそんなこと言うなんて珍しいね。何かあったのか?」
紅茶を運びながらさり気なく尋ねると、月華は『うん…』と小さく頷いてから話を続けた。
「昨日、今度出す本のことで出版社行ったあと、偶然雪乃に会ったの。で、お茶しながら喋ってたんだけど…、雪乃の彼氏、浮気してるんだって。あの子にしては珍しく結婚話まで出てる彼氏なんだけど、『上手くいかないかも…』ってへこんでた。それで、雪乃に言われたの。『拓海くんはカッコいいから、会社の部下の女たちが狙ってるのは間違い無いだろうし、あんたも気をつけなさいよ。』って。」
……。
なるほど。そういうワケか。
にしても、雪乃さんでやっと思い出したぞ。この胸のモヤモヤした胸騒ぎみたいな妙な感じ…。
雪乃さんと昔、合コンで出会った時と同じなんだ。
これから何かが起こりそうな、そんな嫌な予感―…。
まぁでも、きっちり断ったし、大丈夫だとは思うけど…。
「そっか。なるほど。それで、もしかしたら、俺も浮気してるんじゃないか?って疑ったワケか。」
紅茶をテーブルに置いて笑いながら返すと、彼女はこくんと頷き、申し訳無さそうに紅茶をすすっていた。
まったく、雪乃さんの“ありがた迷惑な忠告”にも困ったもんだな。
はははっ。
「大丈夫だよ、月華。俺、浮気も不倫も、するつもり全然無いし…って言うか、興味無いし。」
だって、俺が興味あるのも好きなのも月華だけだし♪
にへへっ。
月華の肩を抱き寄せキッパリ断言した俺に、彼女は『うん。』と嬉しそうに笑っていた。
それにしても葉山の奴、昨日のあれでちゃんと解ってくれたかな…。
…不安だ。
片手に月華、もう片方に紅茶のカップを持ってひとり不安に駆られていると、不意にドアがノックされた。
「はい、開いてるよ。」
軽く返事をした直後、開けられたドアの向こうには日下部さんの姿。
「お嬢様、出版社の方がお見えです。」
むむっ。
出版社?
「あっ、忘れてた!今日りっくんが来ることになってたんだった。いっけない!早く仕事済ませなきゃ!爺、応接室にお通ししておいて!すぐ行くから。」
再びカチャカチャと仕事を始めながら指示した月華に、日下部さんはいつもの笑顔で『はい、かしこまりました。』と答え、静かに行ってしまった。
おおっ♪
陸が来たのか♪そういや最近、あいつと遊んで無いな。
ちょうど仕事も休みに入ったことだし、少し遊んでやろうじゃないか♪
うひひひっ、久しぶりに拳が鳴るぜ。
るん♪
仕事に集中する月華に気付かれぬよう、そーっとソファを立ったところで、ぐいっと彼女に引っ張り戻された。
ぎゃっ。
「つ、月華…」
「りっくんを苛めに行こうと思ってるでしょ!そうはさせないからね!!」
ぎくっ。
「い、苛めるワケ無いじゃん。ちょっとトイレへ…」
「何がトイレですか!!嘘つくんじゃありません!!」
あぅっ。
一喝されて『う〜〜』と唸っていると、俺の足元にトコトコやって来た楓がきゅっとくっついた。
「にひゃ〜。ぱ〜、ぱ〜」
俺を見上げてにやーっと笑う楓をひょいっと抱き上げたのと同じくして、月華が横からにっこり微笑み楓に話しかけた。
「楓〜、パパがお散歩連れてってくれるって。良かったね。お外は暑いから、お帽子被って遊んでおいで。」
えっ。
外に散歩…
言われて窓の外へ視線を向けると、そこには夏のギラギラ暑い日差し。
…。
「ええぇ〜〜っっ、あんな溶けそうなほどクソ暑い中へ、楓と俺に行けってのか!?酷いよ、月華ぁ〜〜〜。鬼ぃ〜〜。」
楓を抱いたまま外を指差しぶーぶー文句を垂れると、瞬時にぎろっと睨み返してきた三角の瞳。
ひっ。
へ、蛇がいる。
「今、何か聞こえた気がしたけど、何か言った??早瀬。それとも私の命令が聞けないって言うのかしら?」
そう言って腕組をし…射抜くように俺を見据えた月華は、高飛車令嬢を通り越して、まるで極妻姉御状態。
ひぃぃ〜〜、こ、怖い。
うちの親父なんかより数倍怖い。
「い、いえ、とんでもございませんっっ。何も言っておりません…、今すぐ楓と散歩へ行かせていただきますっ!」
大きく首を振り冷や汗タラタラで即答すると、一変月華は『そう、じゃあ、“今すぐ”行ってらっしゃい。』とにっこり微笑み手を振った。
うぅっ、今すぐ…って。
そんな追い払うみたいに言わなくても。
「…は、はい…。」
「何?その不服そうな返事は。不満でもおありかしら?」
ひっ。
冷たく言い吐いてぎろっと鋭く睨みつけてくる月華に、俺は即座にぶんぶん首を振って否定した。
「い、いえっ!不服じゃありませんっっ。不満もありませんっっ!直ちに行って来ます!さ、楓、帽子とタオルを持って、パパと散歩へ行こぉ〜」
急いで楓の帽子とタオルを掴み、ダッシュで部屋を逃げ出した俺は、廊下に出たと同時にガクッと膝をついた。
はぁ〜〜、超怖かった。
睨み殺されるかと思った。
「ぱ〜」
「うぅ〜〜、楓ぇ〜〜、お前はこんなに可愛いのに、どうしてママはあんなに怖いんだろう…。パパ悲しい。」
「あら、誰が怖いって?」
ドキッ。
楓を抱いたまま振り返ると、後ろで仁王立ちしていたのは月華。
うぎゃっ!いつの間に!
「ひぃぃ〜〜〜っ、行って来ますぅぅ〜〜〜!!」
慌てて立ち上がった俺は、楓を小脇に抱えて猛スピードで彼女の前から逃げ出した。
◆
もの凄い勢いで屋敷を飛び出し、渋々楓を連れて向かった先は、庭にある大きな池。
その中に浮かぶように建っている東屋に腰を下ろし、ふぅっと一息ついた。
月華の鬼ぃ〜。
ちょっと陸を可愛がってやろうと思っただけなのに、あんなに怖い顔で怒らなくてもいいじゃないか。
しかも、追い出すなんて…。
しくしく。
「ぱ〜。ぱ〜。あ〜。」
さめざめ泣く俺をくいっくいっと引っ張り、ご機嫌に遊ぼうと誘う楓。
「ん?あぁ、ごめんごめん、楓。お散歩に来たんだから遊ばないとな。あ、ほら、見てごらん、おととがいっぱいいるよ。気持ち良さそうだね。おっ、そうだ、せっかくだからお水でパチャパチャして遊ぼう。」
暑い時は、水遊びが一番だ。
早速楓の靴を脱がして、橋の袂から少し水につけてやると、『きゃっきゃっ』とはしゃぐ楓。
「そっか、気持ちいいか、じゃあパパもしよーっと。」
続くようにいそいそとサンダルを脱ぎ捨て、ズボンを膝上まで巻くりあげて池の中へドボンと足を浸すと、最高に冷たくていい気持ち。
「ひゃ〜、冷てぇ〜。極楽極楽。冷たくていい気持ちだね、楓〜。あ、ほら見てごらん。おととがいっぱい集まって来たよ。」
「にひー、お〜と、お〜と…」
「そうそう、おととだよ。おっきいのもちっちゃいのもいっぱいいるね。みんな、楓のこと好きだって。」
池の鯉たちに向かって必死に手を伸ばす楓を抱え、しばらくご機嫌に遊んでいると、不意に背後から声がした。
「冷たい飲み物はいかがですか?」
へ?
聞きなれた声に振り返ると、池のほとりに立っていたのは、涼しい顔でアイスコーヒーとバスタオルを見せる高坂さん。
「あ、高坂さん。すいません。ありがとうございます。いただきます。」
急いで池から出て東屋に向かうと、先にベンチへ腰を下ろした高坂さんが、俺にグラスを手渡した。
「今日も暑いですね。水分を取らないと倒れますよ。はい、どうぞ。…タオルは、ここに置いておくので、後で足を拭くのに使って下さい。」
「あ、どうも。」
素直にグラスを受け取りベンチに座ると、高坂さんはタオルを置いてから、今度は小さなマグマグを取り出した。
「はい、楓お嬢ちゃまにはリンゴジュースですよ。さっき作ったばかりの、果汁100%の美味しいジュースですよ。」
そう言って楓の小さな手に握らせた高坂さんは、にっこりと笑う。
一方、大好きなリンゴジュースを貰った楓も、にーっと嬉しそうに笑い、早速ストローをちゅーちゅー吸って飲み始めた。
はははっ。
相変わらず、高坂さんのジュース&お菓子攻撃に弱いな、楓は。
「ありがとうございます、高坂さん。楓の分まで…。あ、でも、どうして俺たちがここにいること…」
そういや、誰にも言わずに出て来たのに、何で居場所を知ってるんだ、この人。
しかもバスタオルまで持って来たし…。
むむぅ。
「え?あぁ、お嬢様にお茶を運んだ際に頼まれたんですよ。『きっと何も持たずに池で遊んでるだろうから、熱射病にならないよう何か冷たい飲みものと、タオルでも持って行ってあげて』…と。それで…」
さらりと答えて笑う高坂さんに、『なるほど。』と頷きコーヒーを飲んだ俺は、ついぷぷっと笑いを零した。
だって、可笑しい。
今すぐ出て行けって言ったくせに、月華ってばちゃんと俺と楓の心配してるなんて。
ふふふっ。
「そういや、早瀬さん、会社で秘書課のお嬢さんから、手作り甘甘クッキーの差し入れとラブラブメッセージを貰ったそうじゃないですか?それに、そのお嬢さん、毎日補佐室に通い詰めていらっしゃるとか。いけませんね、早瀬さん。お嬢様の目を盗んで不倫なんて。」
えっ!?
お茶を一口飲んで思い出したように言った高坂さんに、思わず飲みかけのコーヒーをゴボッと噴出してしまった。
「ち、違いますよ!不倫なんかするワケないでしょうが!!って言うか、何で高坂さん…そのこと…」
だって、メッセージのことは、俺と悠斗しか知らないはず…。
はっ!
まさか!
「高坂さん、それ、もしかして…」
「ええ、悠斗坊ちゃんから伺いました。とても楽しそうに教えて下さいましたよ。ついでに傍を通りかかったメイドさんにも、教えていらっしゃいましたし。」
恐る恐る聞いた俺に向かって、爽やか笑顔であっさり答え、美味そうにお茶をすすった高坂さん。
はっ!?
メイドにも教え…?…って、ぬぁにぃ〜〜!?
メイドにも言っただとぉぉ――っ!?
あのボケ〜〜、何を考えとるんじゃ!!
メイドなんかに言ったら、すぐに月華の耳に入るじゃねえか!!
そんなことにでもなったら…
なったら……
“月華が最強極妻姉御に変身”→“俺が何を言っても、言い訳にしか取ってくれない”→“殺される”
ひょえぇぇ〜〜〜っっ!!
こ、怖すぎる…
想像しただけで恐怖だ。地獄絵図だ。
悪寒戦慄がする。
うぅ〜〜、月華の耳に入る前に何としてでもメイドの口を封じて、且つ悠斗の息の根を止めねば!
「“不倫”は冗談ですが、そのお嬢さんには、ちょっと用心した方がいいと思いますよ。」
へ?
ひとり顔色を変えている俺を無視して、横で真剣に言った高坂さんに目をしばたかせると、彼はそのまま話を続けた。
「何だか嫌な感じがするんですよ。ほら、昔もいたじゃないですか?お嬢様にストーカーした男の子が…。何だか、そういう類のニオイがします。」
ニオイって…。
あんたは犬か。
でも、確かに雪乃さんの時と似てて、これから何か起こりそう?な予感めいたものは感じる。
だけど、あの葉山がストーカーなんてするとは思えない…。
俺が見てても、極普通の女だし…。
「ええ、気をつけます。でも、たぶん大丈夫だと思いますよ。」
へらへらと笑い答えた俺を、ちらりと横目で見遣った高坂さんは、『…だといいのですが…』と呟き溜め息を吐いた。
むむっ?
「何ですか、その含んだ言い方。」
「いえ、何でも。ただ、よく言うじゃないですか?甘い香りのする女は、危険って。」
へ?
「言いませんよ、そんなの。」
「お菓子作りの世界じゃ、そう言うんですよ。」
突っ込んだ俺に、にっこり笑い平然と返した高坂さんは、ひとりくすくす笑っていた。
むむぅ。
何か、絶対からかわれてる気がするぞ。
やっぱこの人の脳みそは、俺には理解出来ん。
けど、甘い香りの女は危険…か。
はっきり断ったからもう大丈夫だとは思うが、念の為ちょっと気をつけた方が良さそうだな。
…って!それよりも先に、極妻姉御に殺されないよう回避せねば!!
「高坂さん!ちょっと楓をお願いします!俺、例のメイドの口を封じて来ますから!」
それだけ言ってグラスをベンチに置いた俺は、猛ダッシュで屋敷に向かって走り出した。
早く行かねば、月華の耳に入っちまう!
サンダルを履くのもすっかり忘れ、東屋からだいぶ離れた場所まで走ったところで、背後から明るい高坂さんの声がした。
「早瀬さ〜ん!さっきの大嘘ですよ〜〜。坊ちゃんは、メイドさんには、な〜んにも言ってません。聞いたのは、私だけです〜。ちょっと面白そうだったので、ついからかっちゃいました♪あはは〜。」
は!?
な、何…ですと…?
う、うそ…
はあぁぁ??
嘘だとぉ〜〜!?
しかも、面白そうだったからからかった…って。
……。
がくっ。
や、やられた。
うぅっ、やっぱ、俺にはあの人が理解出来ねえ…。
何でここまで走らせておいて言うかな。
もっと早く言えよ…。
しくしく。
完全に脱力し、道の真ん中で両手両膝をついた俺は、重い空気を漂わせ、ひとり悲しみに暮れていた。
誰か…
頼むから、あの不思議男を何とかしてくれ… |