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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

消火器ロマンス

作者: 緒明トキ

 憧れの高慢ちきな美少年・高郷くんの緊急事態に鉢合わせした私。どうにかして助けなくては、という思いと、ささやかな願いを糧にして、私は消火器を手に勇み入る。

 高郷くん、どうか、私のことを好きになって。


 ※少々あれな描写と残酷描写が含まれます。

 片思いの相手にプレゼントを渡そうと思って校内を探していると、犯罪の現場に居合わせてしまった。誰もいない廊下。週末に部活動の大会やら遠征やらが重なったらしく、金曜日の今日、学校はいつもよりがらんとしていた。私は一人、理科準備室前で耳を澄ませる。


 下駄箱に革靴が残されていたことから、まだ校内にいるとは思っていたが、こんな所にいるなんて。下卑た声が聞こえる。耳障りなそれは、骨格標本のような男、科学の原田先生のものだ。


――なあ、気持ちいいんだろう?ほら、素直に言ってみろよ、先生、気持ちいいですって。ほら、高郷、聞こえないぞ?


 その後に何をされたのかは知らないが、子犬がくんくん鳴くような声が聞こえて、私は硬直する。そういう経験はないけれど、わからないほど馬鹿ではない。


――高郷くん。


 扉につけていた耳を離して、準備室の扉を何度も引く。がたがたと鳴りはするくせに、一向に開く気配がない。


 鍵がかかっているのか、ふざけんな。左手にぶら下げていた紙袋が廊下に落ちて、中から大量にとったうち一番大きなぬいぐるみが顔を出した。高郷くんが好きな、鳥のモチーフのぬいぐるみ。何が好きか分からず、クレーンゲームに五百円玉を突っ込んで、片っ端からアームで叩き落とした。私の唯一の特技なのである。


 扉が震えていることに気付いたのか、中がしんと静まり返る。鍵を取りに行っていたらその隙に逃げられるかもしれないし、高郷くんのあられもない姿を人目に晒したくなんてない。どくどくと痛いくらいに脈打つ心臓を抱えて、冷えた頭で考える。どうやって入ろうか。なんにせよ、高郷くんを組み敷いているであろう骸骨の目を早くえぐってやりたい。


 私は廊下にかけてある消火器を右手にひっつかんで、施錠されていない理科室に走る。中に入って、黒板横にある扉を蹴る。狙うはこの古臭い扉の左下。レールをはめ直す。逃がしてはならない。

 踵を使って古ぼけたレールを抉るたびに、奥が見えない小さなガラスが震える。去年は理科の実験準備係をしていたのだ、この厄介な扉の開け方くらい心得ている。レールが歪んでいて、普通に引いても開かないのだ。左下を強く蹴って、滑りをよくしなくてはいけない。


 幸い鍵は「開」のままだ。他の理科の先生がいないことから、鍵をかけずとも開けられないと踏んだのだろうが、幸いにもその詰めの甘さのおかげで付け入る隙が生まれている。ただひたすら蹴りつけると、がこんと傾きながらドアが外れた。予想外だが通れるのでよしとする。


 中に入ると、呆然とした顔でこちらを見ている骸骨が目に飛び込んできた。背ばかりがひょろひょろと高くて、頬骨が出っ張っている。科学の原田先生は、大きな目をいつも落ち着きなく動かしている、気味の悪い男だ。白衣からのぞく、むき出しの汚らしい太もも。その枯れ枝のような体が跨いでいるのは、足首のあたりにスラックスとボクサーパンツらしき布の塊を引っかけた白い足。夕陽によってうっすら橙色に染まったそれは、まぎれもなく私の好きな人のものだ。

 頭の奥がじりじりと痛い。焼き切れそうな回路は、意外にも私を冷静にした。


「何してるんですか」

「いや、こ、これはだな……ま、待ちなさい、井上」

「何してるんですか、先生」

「い、井上、手に持っているものを下ろしなさい」

「先生、骸骨の分際で奥さんいるんでしょ、子供も生まれるって」

「落ち着け、なっ、落ち着くんだ」

「生徒に何してるんですか、せんせ」


 最後まで言い終わらないうちに、骸骨の細い指が扇のように広がりながら私の腕へ迫る。咄嗟に私は足を引いてそれを避けた。真っ逆さまに落ちていったテンションは、いつもより私を機敏にしているようだ。

 こいつは私にまで危害を加える気かと僅かに湧き上がった怒りは、翻った白衣の奥、顔を色々な液体でべとべとにした高郷くんの途方に暮れたような表情を見て、ばちんと弾けた。目の前が真っ赤になる。


「さわんな」


 言うが早いか、引きずるようにして持っていた消火器を、遠心力に任せて振り回す。教師の頭に当たった手ごたえを感じながら、折り返しもう一撃。武器を持ってきて正解だったなと、崩れ落ちる巨体を眺めながら思う。兄が持っているゲームでは、クリーチャーと戦う際に消火器が武器になった。廊下で咄嗟にそれを思い出したのだ。使い方についてはよく覚えていないが、こんなに重いのだから多分鈍器だろう。私はありったけの力で消火器を振り回して、何度も何度もクリーチャーの頭を殴る。高郷くんの体にこびりついた白いものを、涙の跡と充血した目を見てしまったら、もう、止めることなんてできない。


「死ん、じゃえばっ、いいのにっ!」


 きっと生きていても恥を晒すだけだ。この骸骨は今後、奥さんや子供を、何より高郷くんを巻き込んで社会の底辺まで落ちていくだけなのだ。ならば、ここで私の正当防衛によって死んでしまえばいい。

 絵の具をぶちまけたような夕焼けはとてもきれいだ。それなのに、似たような色をしている床のゴミは、どうしてこんなに汚いのだろう。動かなくなったそれの真上に両手で消火器を持って行く。映画の名シーンのようだ。頭の上に掲げたこれは、王様の子どもなんかではないけれど。


「死んじゃえ」


 水たまりの中のそれに叩きつけるようにして消火器を落としてから、細長くて大きなその体を蹴ってどかし、高郷くんの顔を覗き込む。


「……大丈夫?」

「あ……ああ……い、いのう、え……?うわあ、あああ……」

「怖かったね、高郷くん」


 ハンカチを差し出しても、受け取ってもらえない。仕方がないので、ほとんど握力の残っていない手でその顔を拭った。擦ったところだけ、白い肌がほんのり赤く染まっている。

 抵抗の色がない高郷くんはがくがく震えながら、うわ言のように私の名前とかすかな悲鳴を繰り返す。プライドの高い彼のことだ、まさかあの骸骨にこんな目に遭わされるなんて考えてもみなかったのだろう。


 顔もおつむも大変よろしい高郷くんは、神さまがえこひいきしてつくってしまったせいか、苦労を知らずに生きてきたらしい。出来の悪い人間を見下して、その整った顔を高慢につんと上げて、たくさんの人の嫉妬と羨望の中にいた彼は、まさかこんな下種に性的対象にされようとは思ってもみなかったのだろう。そこはひとえに彼自身の慢心が招いた結果な訳だけれど。


 日本画にある美少年のようなすっきりとした顔立ちに、絹のような短髪。線の細い体と白い肌。うなじも腰のラインも女の私から見ても扇情的なのだから、痴女だけでなく痴漢にも気を配るべきだったのだ。幼いころから武道をたしなんでいるとはいえ、油断のしすぎだ。鼠だって猫を噛むし、平民だって革命くらい起こす。


「い、井上、ぼ、僕は、僕はこんなこと、あああ、違うんだ、嫌で、気持ち悪くて、ううっ」

「そうだね、嫌だったよね。だから吐いちゃったんだよね」

「あ、あ、いやだ、気持ち悪い、きもちわるい、あの臭いが、あ、味が――」

「うん、大丈夫だよ」


 下半身に何もつけないまま、高郷くんはすがるように私の体にしがみつく。背中に震える爪が食い込んで、私は思わず小さく身をすくませた。目を見開いたまま、私の貧相な胸に顔をうずめた高郷くんは、かすかに嗚咽を漏らす。軽く体を包むと、震えが少し収まったような気がした。


 こんな姿は、普段の高郷くんでは考えられないことだ。一目ぼれした私が告白した時、彼は虫けらでも見るかのように私を見て、一言「身をわきまえろ、クズ」と言い放った。

 なぜだかそれにすらときめいた私は、以来ことあるごとに高郷くんに話しかけ、プレゼントを持って行った。初めのうちは全て無視されていたそれも、数をこなすうちにだんだんと憂さ晴らしのように扱われるようになる。私のことを散々蔑み、時には暴力を振るい、ぬいぐるみは窓から放り投げられ、カッターで切り刻まれ、燃やされ、別の女の子に渡されたこともあった。傷つかなかったわけではない。だがそれよりも、私が深く愛している高慢ちきで性格の悪い男の子に、私のことを好きになってほしかった。だからこそ、いつか報われることを信じて、私は耐え続けた。そろそろ一年。一人で何度も泣いたし、痛みや屈辱に押しつぶされそうになったこともしょっちゅうだった。毎日苦しかった。でも、頑張ってきた自分を裏切りたくはなかったし、夢に見た優しい高郷くんのことも忘れられなかった。


 だから私にとって、この状況は願ってもないチャンスなのだ。絶対に逃したくなんてない。


 精神的に、極限近くまで弱っている高郷くん。衝撃的な事象を共に体験することで、私に対する警戒心というか、壁が薄くなっているようだ。弱者が強者に勝つためには、期を逃さないことが大切だと私は思う。そう、猫を噛むなら今、革命を起こすなら、今。


「高郷くん、行こう。ほら、パンツはいて」

「え、い、やだ、やだ、井上ぇ……っいのうえ、行くな!僕を一人にするな!」

「大丈夫、一人になんてしないよ。だからほら、一緒に行こう?」

「い、っしょ、に……」


 なだめるように言うと、高郷くんは唇をわななかせて息を吐く。そして、ぎこちなく足元の布きれに手を伸ばすと、まるで子供が初めて着替えをするようにして、ゆっくりと上げていった。何とかベルトを締めてから、すがるように私を見上げる。普段は私のことをいいように罵る癖に、馬鹿だと見下す癖に、今はただ哀れな姿をさらけ出して、庇護を乞うている。胸がいっぱいになると同時に、この気持ちが満足感ではないと気づいていた。私の体にあふれているのは、ほの暗い優越感だ。


「い、井上、できた」

「うん、いい子だね、高郷くん」

「ん」


 暗くなっていく空の端は菫色だ。私のスカートに散った水玉模様はもう見えない。浮かび上がるような白い顔は人形のように冷やかだが、頬や目元は夕暮れの色をとどめている。


「ほら、いこ」


 私は立ち上がって、高郷くんへ手を伸べる。彼に何度もはたかれた記憶がよみがえる。お願いだから、拒絶しないで。祈るように胸の前で左手を握る。高郷くんの右手が動いた。


 ぐらぐらの吊り橋の上で愛し合って、そのまま落ちてしまえたら。非日常で抱いた恋心を疑いもしないまま死ねたら、それは本当の恋になるだろうか。


 考えて、内心首を横に振る。期待をするだけきっと馬鹿をみるのだ。踏みつけられたぬいぐるみを忘れることなんてできない。高望みをする気はないから、今だけでもこの夢に浸っていたい。おずおずと伸ばされる手を掴みたくなるのをこらえて、私は微笑んでみせた。


「私はずっと、高郷くんの味方だからね」


 どうか高郷くんが、もっとたくさん怖い目に遭いますように。そしてそれを助けるのが、私だけでありますように。一年夢見た私は、願わずにはいられない。吊り橋理論だって一時の感情だってなんだっていいから、私のことを好きになって。


 夕暮れ時は過ぎてしまったのに、床はまだ斜陽の面影を残している。

 王子様の白い手が、私の消火器色の手のひらを、恥じらうように包んだ。


 消火器というでかい獲物に振り回されながら振り回す女の子が書きたかっただけなんです。かわいいですよね。

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[良い点] 井上さんが素敵です……!  か弱い(筈の)女の子の、細くて柔らかい腕で消火器を振り回す勇姿に、胸が高鳴りました。 原田先生をフルボッコにするときの井上さん、なんだかもう、とにかくカッコイ…
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