劣等生、東條由比
こちこちと鳴る秒針の音。
とつとつと話す先生の声。
カツカツと響くチョークや、板書を取るペンの音。
あぁ、授業中っていうのは、どうしてこうも眠くなるのだろう。
窓際のこの席は差し込む太陽の光で程よく温まり、私を容赦なく夢へと誘う。
夢の中で私は甘いクレープを食べていて、仲のいい友達と昨日見た漫画の話をするのだ。
魔法とモンスターが蔓延る異世界で戦う冒険譚。絶対に有り得ないから楽しめる、幻想の世界の話。
「ゆい……、由比!」
その友達の声がする。
うるさいなぁ、佳苗。私は今、このストロベリーチョコを存分に味わっているんだから、邪魔しないでよ。
「由比ったら! 当てられるよ!」
あてられる? あてられるって何に?
あぁ、そうか。今日は私の出席番号の日付だっけ。でも、大丈夫な気がする。多分。
「……東條!」
「はひっ!?」
先生の声に稲妻に打たれたように立ち上がる。驚きのあまり、私の黒いショートカットがぶわっと逆立ったかのような感覚がした。クラスメイトの視線は私に集中している。
「今の話を聞いていたら、答えられるな? 魔術憲法15条はなんだ?」
担任でもある強面で厳しい斉藤先生のにっこりとした笑顔が怖い。私は必死に教科書を見比べて答えを探してみるけれど、当てはまる答えは見つからない。
「えへへ……聞いていませんでした……」
照れ笑いと共に素直に答えてみたが、斉藤先生は深く溜息を吐き、「しばらく立っていろ」と言った。
「いいか、この世界……パラレルドとリアリムは非常によく似た文化背景がある。歴史の授業でも習ったと思うが、共通する歴史上の人物もいる。いわば、この世界、パラレルドとリアリムは表と裏のようなものだ。詳しくは今は習わないが、自分と同一存在の人間も住むかもしれない。だから、混乱を招かない為にもリアリムからの召喚魔法は魔術憲法15条『不干渉の義務』で禁止されている。ここ、次のテストで出すからな。東條、お前もしっかり覚えとくように」
「はぁい……」
クラスメイトの誰かがくすくすと笑う声が聞こえてくる。それで私はあの夢の世界はリアリムの世界だったのかと気がつくことができた。
リアリムにも私が住んでいるのなら、何も知らないただの女子高生として平和に暮らしているのだろう。
けれど、私が住むのはパラレルドの地球。
あらゆる世界と時空が繋がり、異世界からやってきたゴブリンの窃盗や幻獣園のワイバーンの脱走事例が多発する、魔術学の発達した世界だ。
校舎の外を見れば、魔術の実技が行われているのだろう。エーテルの渦があちらこちらで舞っていた。
放課後、友人である宅間佳苗が私の肩を叩いて笑う。
「災難だったね、由比」
「ごめんね、佳苗……いっぱい起こしてくれたのに」
「いいのよ、別に。でも、こんな調子でよくこの高等魔術学校にまで入学できたよねぇ。やっぱり実家が高名な魔術師一族だと違うの?」
「うーん……わかんない。お姉ちゃんが口添えしたのかもしれないけど、私、中学校の頃から魔術学は座学も実技もE判定だったもん。基礎魔力だけはA判定だったけど……」
「はー、やっぱ東部魔術師協会統括、東條家宗家の血は伊達じゃないんだねぇ」
「扱えなかったら何の意味もないけどね……。魔術の素養なんてない一般市民に生まれたかったよ、私」
「ぼやかない、ぼやかない。魔術師になりたくてもなれなかった普通学科の生徒に聞かれたら唾吐かれるよ」
「そうだけどさぁ……」
私みたいな落ちこぼれが魔術のエリートである東條の一族だというのは、無駄にプレッシャーがかかるものだ。魔術書でぱんぱんになった無駄に重い鞄を持ち、とぼとぼと家路に着く。江戸時代からあるというやたらと広い2階建ての日本家屋の引き戸を開けると、浅葱色の狩衣を纏った男と鉢合わせた。その新緑色の髪には細い触覚が2本ぴんと立っている。
「おかえりなさいませ、由比様」
「あ、うん。ただいま、弟切さん。お姉ちゃんは?」
「茅様はまだお休み中です。今日はなんの予定も入っていませんから」
「休みかぁ。じゃあ、どうして弟切さんが現界してるの?」
「昨夜の連合会議の書類整理を申し付けられましたので」
「……それ、当主のお姉ちゃんがやらなきゃいけない仕事じゃないの?」
「問題ありません。私は茅様の文字はそっくりそのまま書けますので」
「仕事を式神に押し付けるなっていう話をしてるの!」
「必要とされた時に使われるのが我々ですから、良いのですよ」
黒目がちの目を嬉しそうに細めて言われたら、私はもう何も言い返すことはできなかった。
私たちが話していると、階段をぺたぺたと降りてくる音がする。そちらに顔を向けると、ブリーチされた長い茶髪をだらしなくぼさぼさにした薄いグレーのスウェット姿の姉が目をこすりながら大きく伸びをしている。
その姿はどう見ても魔術師連合東支部を統括する東條家の当主には似つかわしくない。それでも、そんな姉の姿を見て弟切さんは深く深く礼をする。
「おはようございます、姉様。昨晩は遅くまでお疲れ様でした」
「おはよー、弟切……。書斎にいるからコーヒー入れてぇ……」
「はい、承知仕りました。では、由比様。失礼致します」
弟切さんは足音ひとつ立てずに台所のある方へ向かって歩き去る。
「お姉ちゃん、昨日遅かったの?」
私の疑問に姉である東條茅は頭を掻きながら手櫛でそのまま髪を撫でる。
「んん……。会合は11時には終わったんだけどねぇ、ゲームのミッションが終わらなくて、気がついたら夜が明けてた」
「……あぁ、そう。聞いた私が馬鹿だったわ……」
「由比、あんたこそどうなのよ。この間の抜き打ちテスト、とんでもない点数だったじゃない。100点満点で3点なんて初めて見たわよ」
「頑張ってるよ、……私なりに」
「あんたの『頑張ってる』程当てにならないものはないわよ……。まぁいいわ。じゃ、私ゲームするから」
のそのそと自分のパソコンの置かれた書斎へと向かう姉の姿は、この国でも有数の魔術師には到底思えなかった。
それでも彼女は今私が通っている高等魔術学校をトップの成績で卒業しているのだ。……信じられないことに。
それと同時に台所から短い黒髪の大柄な男が顔を出した。
「おう、由比。帰ってたのか」
「うわ、びっくりした! お兄ちゃん、仕事は?」
「今日の依頼は夜からだからな。制服のままでぼけーっと突っ立ってないでさっさと楽な格好してこいよ。今日の晩飯は西京焼きと筑前煮だぞ」
「やった! お兄ちゃんの筑前煮大好き!」
Tシャツにジーンズを身に纏った筋肉質な身体にエプロンを掛けたのは兄である東條湘だった。東條流魔術の中でも筋力強化に特化していて、自らの肉体を武器にする退魔師だ。あらゆる次元と繋がるこのパラレルドでは、迷い込んだ妖魔や悪鬼を討ち倒す退魔師は、悪い人間を取り締まる警察官と同じくらい重要な職業になる。共闘関係でもあり、兄も身分的には一応警察官にあたるそうだが、私に詳しいことはわからない。兄もあまり教えてくれないのだ。
「茅姉は……またゲームか。ま、あとで弟切に呼びに行ってもらえばいいか」
「お兄ちゃんまで弟切さんを使って……自分の使い魔とか式神呼べばいいじゃない」
「俺、そういうの合わないんだよなぁ。ひとりでやってる方が性に合ってるよ。あと、弟切は使ってるんじゃねーよ。頼んでるの」
「そっか、弟切さんはお姉ちゃんが6才の頃に呼び出したんだから、生まれたときから一緒の幼馴染みたいなものだもんね……」
「そういう事だ。お前こそ、使い魔呼び出せばいいじゃないか。お前、おっちょこちょいだし、サポートしてくれる奴が居た方がいいだろ?」
「そっ、そんなことないやい! ……と、思うんだけど……」
「ま、召喚できてりゃさっさとしてるよな」
「どういう意味だい、そりゃあ! 私が呼び出せる程の知識がないみたいな言い分じゃあないか!」
「いや、ないだろ?」
「……ない」
「いいからさっさと着替えてこい」
「はぁい……」
早くに父と母を亡くした私にとって、姉は父であり、兄は母のような存在だった。ふたりとも高位の魔術を扱える立派な魔術師でもあるし、東條家に恥じることのない存在だ。……私とは違う。
自室に戻り、セーラー服のリボンを解く。
「使い魔かぁ……」
ぼんやりと呟く私に、遠くの山から一心に注がれる視線があることに気がついていなかった。
視線の主は、「東條由比……」と一言呟き、夕闇に身を隠す。
一方平和な東條家では西京焼きの味噌の焼ける匂いがふわりと充満していた。
そう、この時はまだ平和だった。
あの少女が私の目の前に現れ、彼と出会うその時までは。