年の暮れも近づいたある日のことだ。
久しぶりに勉強でもしようかと我が校の図書室に独りで向かったボクは、入った瞬間にこの部屋が日常の空間では無くなっているということを理解した。
まず、寒気が違う。
果たしてそれは、ろくに暖房設備を動かしていないのが原因なのか、それとも今の自分自身の状況のせいなのか。真実は分からないが、目の前にあるストーブの色と置きっぱなしにしてあるポリタンクから見るに、ストーブはついさっき働き始めたようである。今や貴重品となった石油独特の匂いが臭い。
耳に聞こえるのは時計が時を刻む音とどこかの窓から隙間を縫って入り込んでくる風の音とが、それぞれ自分勝手に音をたてる、お世辞にも上手くない演奏会の模様。だが、その曲調が他人事には感じられないのは、その不安定なメロディーがまさにボクの心情だからだろう、と思う。
そして何より──これがこの空間の原因なのだろうか──神秘的な情景が、いや、一枚の“絵画”がそこにはあった。
ボクとその人。二人だけしかいないこの部屋で、夕日の光線によって金色に染められた頬と、同じく流れる黒髪を赤茶色に変え、黄金色に光る机に座りつまらなそうにシャーペンを動かしている、ある美しい少女の様子をとらえた一枚の“絵画”が。
ゴクリ、
その奇跡に、思わずボクは唾を飲んでいた。
だから、ボクがあの神秘的な彼女に興味をもち、彼女の前の席に腰を下ろしたことは、決して不思議なことではないはずである。人間、好奇心には勝てないのだから。
その少女のことなのだが、前に座って気がついたことが二つほどある。
一つ。ボクは少女を知っていた。
腐れ縁というやつだろうか。その少女はボクが小学校四年生か五年生か六年生の時、初めて同じクラスになって以来ちょくちょくと同じクラスになっていた。しかし、ほとんど喋ったことの無いため、ボクにとっての彼女は、言われてみれば“あぁ〜いたな”程度の、つまり中途半端な存在の人であった。
昔は大人しくて、さらにマンガの中に出てきそうなビン底の眼鏡をかけていたため、地味で目立たなかったが、それがいまやすっかり大和撫子である。眼鏡一つで人間かなり変貌することを学習した。
二つ、なかなか面白い趣味を持っているということ。
最初、ボクは彼女が宿題か何かの勉強をしているのだろう、と思っていたのだが、今ボクの目の前に広げられている、または積み重ねられている本は、それとは少し違う物だった。
例えば、
『クイズ!あなたはどれだけ解けるかな?ってか解けるだろうよ、こんな簡単な問題』
『雑学王への道!これであなたも物知り博士に!多分、なれる?』
『The・Quiz〜クイズより愛を込めて〜』
『これができたらあなたは多分大方のクイズはできると思われますが何か?』
『クイズの解答欄に書いとーらん・・・何て言わない為の10の方法』
などなど、他にもまだ数冊あるがそちらも全てクイズ関係だ。──タイトルについては何も言わないでおこう。ただ、最後の本については酷いとしか言えない──とにかく、どうやら彼女はクイズマニアと呼ばれるものらしい。もう終わってしまったが、某テレビ局の一時一世を風靡したクイズ番組を毎週喜々として見ていたボクと似ているのかもしれない。
そういえば、まだ彼女の名前をまだ紹介していなかったようだ。失礼。彼女の名前は、斉藤朝。白肌の中にある黒の髪と目が和風美を感じさせる、ボクと同い年の少女である。
「神山君?」
いきなりボクの名字が呼ばれた。呼んだのは誰であろう斉藤さんである。その美しい仏頂面で、ボクの方を見ていた。
「・・・・・・あぁ、うぅん、何?」
その時まで、彼女のクイズの本を思いっきり凝視していたボクは、いきなりの不意打ち(いきなりじゃない不意打ちってのを聞いたことが無いが)に第三者から見れば滑稽なほど慌て様だったと思う。
「その本に興味があるなら、貸そうか?」
そんなボクを気にも止めず、彼女は一冊の本を手に取り、ボクに突き出した。その本の表紙には大きい字でタイトルが書いてある。
『傑作クイズ集──この本が売れたら諸君はビビる。私もビビる』
・・・・・・この本の著者は本を売る気があるのだろうか?某都知事選立候補者の演説の一部である。売る側の自分がビビってどうする。
「・・・・・・じゃあ、借りようかな」
何となくボクは、彼女の申し出を受け、その本を借りることにした。借りる、と言った瞬間、斉藤さんの動きが止まったのが気になるが、一体どんな本なのだろうか。
「意外」
本を差し出したまま、いつも通り無表情で斉藤さんが言った。
「神山君って、こういうのに興味あるんだ」
こちらとしては、斉藤さんが自分から話かけてきたことが意外である。
「あぁ、まぁね」
ボクは本を受け取り、ぱらぱらと何ページか本をめくってみたが、別に特別変な所は無かった。と、なると、この本の売れない理由は内容にあるのだろう。
「じゃあ、クイズのどんな所が好き?」
「えっ、どんな所?」
「うん。出題者との知恵比べ?それとも他の回答者との勝負?早押しクイズの時のスリル?」
斉藤さんは楽しそうに目を輝かせている。何だろう、この圧力は。
「・・・Cの早押しの時のスリルで」
「ファイナルアンサー?」
「ファイナルアンサー」
「・・・正解」
まず、これには正解も不正解もない、ということを言っておく。次に、これは一昔前に誰もがやったことのあるだろう小芝居だが、それを斉藤さんがやると新鮮に感じられるのは何故だろうか。
「神山君って、早押しが好きなんだ」
実際のところ、ただの思いつきなのだが、
「うん」
と、ボクは無責任にも言っていた。
「じゃあさ、じゃあさ」
その頃になると、彼女の声は一層喜を帯びた口調になり、心なしか頬も光うんぬん関係なく紅く染まってきていた。余程嬉しいのだろう、と思ってから、当たり前か、と考え直した。
一体この世の中に日本で、しかも高校生でクイズマニアという人はどれくらいいるだろうか?いたとしても彼ら(彼女ら)が出会う確率はいかほどだろうか?大多数が会うことなく青春時代を過ごし、大学に入り気の合う仲間達とクイズの話で盛り上がるのだろう。
彼女もその道を歩んでいた。もしかしたら小学生の頃からこんな趣味を持っていたために、話が合わず友達が出来にくかったのかもしれない。中学時代もまた然りだ。
そんな所にボクが現れた。彼女の本に興味を持った、ボクが──。
「神山君、聞いてる?」
その言葉に意識が想像から現実へと戻る。現実のボクの前には不機嫌になった彼女がいた。
「あっ、ごめん。もう一回言って」
「えー!ヤだよ。恥ずかしいもん」
斉藤さんが恥ずかしいとは・・・・・・。一体何を言ったのだろうか。
「言ってよ」
「ヤだ」
「言ってよ」
「 ヤ だ 」
「いいじゃん」
「よくない!」
斉藤さんは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「もう私帰る!」
そう言ってボクを睨み、椅子を机の中にしまおうとして、
ガラガタガン!
──転んだ。
「・・・・・・っぃったぁー」
「斉藤さん、大丈夫!? 」
あまりの急なことに、ボクは吃驚して慌てて斉藤さんに駆け寄った。どうやら足が椅子に引っ掛かって転んだようだ。
「・・・ええ、大丈夫よ」
どうやら、彼女は嘘をつけない人種らしい。顔に脂汗が光り、手を足首において大事そうにさすっている人を見て、誰が大丈夫だと思うだろうか。
「歩ける?」
ボクがそう聞くと、斉藤さんはバカにするなといった表情でボクをまた睨み、そして、
ガラガタガン!
──またこけた。
「どうやら、立つことも難しいみたいだね」
その可愛らしい動作に、思わず笑みがこぼれた。今の彼女は、先程の冷静な様とは一変して、今風の女子高生となっている。
「肩、貸すよ」
「・・・大丈夫よ」
ボクがそう言っても彼女は顔も合わせずに断った。だからボクは、
「仕様がない女だね」
「えっ、きゃぁあ!」
無理矢理斉藤さんの手をボクの肩に掴ませ、立ち上がらせた。
「止めてよ、大丈夫だって」
「そういう言葉は歩けてから言うもんだよ」
見れば彼女の細いはずの右足首は、左のとは別物のように腫れているのが靴下の下からでも分かった。これでは歩けまい。
「でも、これからどうするの?多分、保健室は開いてないよ」
斉藤さんがボクに言った。確かにそうなのだ。我が校の保健室の先生は何故か帰るのが早い。五時半には保健室は閉まっている。ある意味、公務員の鏡だ。
そして現在の時刻は、
「五時四十五分か・・・」
タイムオーバーである。
さらに加えてこんな問題もできた。
「どうやって帰ろうかな・・・・・・」
斉藤さんが心底困ったように呟く。
「親に迎えにきてもらえば」
「私の家、ニ人とも車持っていないのよ」
この子にしてこの親ありとは正にこのことか。どちらも変わった人である。
ただ、困っているのはボクも同じだった。
「神山君、私のことは気にしないで帰っていいよ」
このことだ。ボクも帰りたいのだが、その為には斉藤さんを見捨てなければならない。しかし、ボクはケガした人をほっといて帰れない程には人が出来ている。
だからボクは、
「斉藤さん、家どこ?」
「えっ、馬浪ニ丁目だけど・・・」
「ちょうどいいや。ついでに斉藤さん、自転車のニ人乗りは馴れてる?」
「・・・うん、良く兄さんに連れ回されたから大丈夫だよ」
聡明な読者の方々は、もうお気づきだろう。斉藤さんもボクが何をしたいか理解したようだ。
顔を赤らめ、頷いたということは了承ととっていいだろう。
まったく、冬をこんな温度に設定したのは誰なのか。さっきから自転車を漕ぐボクの顔は悪意を持っているとしか思えない無慈悲な寒風にさらされ、痛みがジワジワと広がってきていた。
「・・・寒いね、神山君」
ただ、それがあまり苦にならないのは、後ろに乗っている人のお陰だろう。漢は女がいると、カッコつけたくなる生き物なのだ。
「全然大丈夫だよ」
顔は後ろに向けれないから、せめて声だけでも明るくボクは言った。
──今、ボク等はボクの自転車にニ人で乗っている。彼女を家に送り、ボクも家に帰れるという一石二鳥の行動だ。
「そういえばさ、」
ボクはこの状況で、さっきのことを思い出していた。
「結局あの時、何て言ってたの?」
斉藤さんが顔を赤らめた、あの言葉である。
「あぁ、あれ。・・・まだ聞くの?」
「気になるもん」
逆にこれだけ言われて言わないという方がすごい気がするのはボクだけであろうか、と思った時であった。
フゥゥー、はぁぁ〜
何かの覚悟を決めたのか、後ろで大きく息を吸う音が聞こえ、
──そして
「神山君、今度クイズ大会に一緒に出ませんか!!」
彼女の決意の大声が、冬の凍った空気の中を良く響きわたる。普段なら考えられない斉藤さんの声にボクは驚いた。そして急なお誘いに黙ってしまう。
「やっぱり・・・駄目、かな?」
次に聞こえた斉藤さんの声は消え入りそうで、見なくとも彼女の様子が分かる気がした。
ボクは考えていた、何と答えようか。何と言えばよいか。そして結局、ボクはこう言ったのだった。
「いいよ。一緒に出よう」
別に、下心は無い。
単純に彼女が誘ってくれたから一緒に出る。
それだけだ。義に厚い漢なのだよ、ボクは。
それに、そのクイズ大会に高校生が彼女1人だけだったら寂しいし、居づらいでしょ?ボクは彼女の神秘的な美しさより、クイズの話をしている時の目を輝かせた彼女の方が好きなのだから。(その後、自転車の上で誰かが激しく動き回り、結果転び、ボクまでケガをしたというのは余りに間抜けな話なので、誰にも話していない。)
ただ、クイズ大会に出るのは初めてだという事を伝えた。そんなにボクを当てにしないでね、という言葉と共に。
そしたら、彼女はこう言ったのだ。
「なら、一緒に勉強しよう?」
と。
数回の勉強会を重ねる内に、ボク等は互いに惹かれ合っていく。そして『カレシ』『カノジョ』の関係になるまでの過程については、また別のお話。
そして最後に、ボクが自転車を漕いでいる間中、ボクの背中より伝わってきた彼女の温もりが忘れられない、と言ってこの物語を終わっておこう。
その後2人は仲良く末永く暮らしました、という言葉を添えて──。
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