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鬼姫 紅の章
作:弐乃菜子



紅の章 07



「やあ、こんにちは。二人とも久しぶりですね」男はリビングの木製の椅子に座って、二人を待っていた。そして二人を確認すると笑顔で迎えた。
二人を笑顔で出迎えた男は、決していてはならない魔法使いの姿だった。
黒衣の外套を纏い、暗黒の闇よりも圧倒的な存在感を放つ男の名は、黒須(くろす) (ほたる)
『黒い魔法使い』、『黒』などと呼ばれ、自らが属していた組織『黒の教団』をたった一人で(・・・・・・)壊滅した、有史以来最悪、歴史上最強の魔法使いである。
彼の座っている目の前のテーブルの上には、一冊の古ぼけた黒い本が、無造作に無作為に置かれていた。
そしてそれが意図的なものであることは、明白だった。
二人は全身を緊張させたまま、男のあらゆる動きに注意した。
既に二人とも何が起こっても対処できるように、自らの能力を解放する一歩手前まで準備は出来ていた。明らかにそれとわかる殺意を二人は黒須に向ける。
しかし、そんな二人の姿を見ても男は笑顔を崩さず、ゆったりとした口調で言う。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。今日は、僕は君たちとお話をしにきただけです」
二人は男の悠然とした口調から嘘は感じとれず、そして相手が圧倒的強者であることを感じとっていた。
それでも何かあった時の為に、例えそれすらもこの男の前では意味がない事はわかっていても、自らの精神を平常に保つ為にも警戒は崩すわけにはいかなかった。蒼香はそのままの状態で男に問うた。
「話って何? そもそもどうしてあなたがここにいるの?」
「それが『黒の書』の意思だからですよ」黒須は目の前に置かれた黒い本を一瞥する。
「ということは、私たちを殺しにきたんですか?」深翠が『月夜見』の瞳の回転数を上げる。蒼香も後ろ手に『天使の羽根』を手に取る。
二人は無言で共同戦線を張ることにそれぞれ同意した。
「いえいえ、そんな事はしませんよ。だから二人ともその無駄な殺意を収めてください」黒須は大げさな手振りで言った。それは、お前らがいくら殺意を向けようと自分の敵にすらなれないと暗に示していた。
「信用出来るわけがないでしょう? ソレ以外にあなたが私たちと接触する理由が見つからない」蒼香が言った。
 ソレとは二人を殺す事である。
 この男の前では死すらもソレ呼ばわりになる。
 例えソレが自分の死であろうとも。
「それは誤解です。その機会は既に逃しています。そもそも君たちの死は僕ではなく、天倉君がもたらすはずだった。それぞれ5月と7月にね。だが君たちは生きている。いや、天倉君によって生かされた。『黒の書』の歴史は変わったんですよ。ただし君たちの最後が天倉君によってもたらされる、という事項に変更はありませんでしたけど」黒須は口調こそ残念そうなものだったが、笑顔だった。
「あなたが私たちを殺す歴史は『黒の書』にはないというわけですか。しかし、それを信用するわけにはいきません」深翠が黒須を睨む。
「そうね。当の『黒の書』はあなたしか読む事が出来ないのだから」深翠の意見に蒼香は同意した。
「困りましたね」黒須は言葉とは裏腹に、全然困っていない風に言った。「まあ良いでしょう。そのまま僕に殺意を向けていたいのなら結構です。そのままの状態で聞いて下さい」
二人は言われた通り、黒須への殺意を向けたままの状態で、黒須の話を聞くことにした。
もし黒須から何か不審な行動・気配を察知した場合、この殺意はそのまま行動となる。
それが全く無駄な行動に終わり、その瞬間自らに死が訪れることを二人は理解している。
それでも、ただ何もしないで殺されるのが嫌なだけ。
それはちっぽけなプライド。
彼に救ってもらった命に対する誇りだった。
彼はそんな二人の行動を見たらまた怒るだろう。
そんな事する暇があるなら逃げろ、と。
それはそうだろう。救ってもらった命を大切にしたいのなら、圧倒的な死へ向かうより逃げるべきだ。
二人も実のところ、心の底からそうしたかった。
今すぐこの場から逃げ出したかった。
――だけどそういうわけにはいかなかった。
心理的にではなく、物理的に。
二人がこの部屋に来るのに抜けた廊下。
二人がこの部屋に入るのに通った扉。
その両方ともが二人が黒須の姿を確認した瞬間に、この空間から消失していたのだった。
既に二人は黒須蛍の魔法によって、逃げ場のない空間に囚われていた。
いきなり問答無用でそんな空間に囚えておいて、殺意を解けなどというのは、土台無理な話しだった。
「さて、どこから話しましょうか」この空間を作った張本人である黒須は悪びれもせずに言った。
そもそもこの男に善も悪もない。
この男にあるのは、『黒の書』への妄信と忠誠、そして『唯一の(オリジナルワン)』への憧れだけだ。
黒須は、わざとらしくポンと右拳を振り下ろして、左の手のひらを打ち鳴らす。
「ああっ、この空間は話を終えたら解除しますから安心してください。まあ僕がわざわざ解除しなくても一時間もすれば勝手に解ける粗悪な空間ですが」
空間遮断と空間制作。その二つをほぼ一瞬で同時に、それも『月読の巫女』と『殺戮天使』に全く悟られることなく展開させ、さらにこの魔法だけに集中せずに一時間も展開させておくことが出来る化け物。
しかも、それすらもこの男の力の一端でしかない。
二人は黒須の台詞に戦慄することしか出来なかった。
そして、一瞬ではあるが二人はその圧倒的な力の差に、完全に戦意を喪失してしまった。
黒い魔法使いはその瞬間を見逃さない。
「ふう、これでやっとまともに会話出来そうですね。あと別にこれくらいで驚かないでください。天倉君のところの結界師、遠藤君であれば、これよりも大規模かつ悪質な事が造作もなく出来るはずですよ」全く恐ろしいですね、と黒須は笑顔で肩をすくめた。
「……そんな事はどうでも良いわ。それよりも話というのをさっさとしてくれない?」蒼香は精一杯の虚勢を張った。
「ええ、そうですね。わかりました。『月読の巫女』もよろしいですか?」
深翠は無言で頷いた。
「ではまず最初に、僕が君たち二人の前に現れるのは今回が最後になります」
「……それはどういう事?」蒼香は失いかけてた殺意を呼び戻す。それは横にいた深翠も同じだった。
黒須蛍が二人の前に現れるのは今回が最後。
それは黒須か深翠、蒼香のどちらかが、この場で消え去るという意味にも取れる。
そしてそれがどちらなのか、忌々しくもそれは確実に深翠と蒼香の側だった。
だが、再び殺意を取り戻した二人を見て、黒い魔法使いは苦笑いのような笑顔を浮かべただけだった。
「ああ、今のでは説明不足ですね。まあ君たちの早合点でもありますが、まあ良いでしょう。僕が言ったのは、この場でどちらかが死ぬという意味ではありませんよ。さっきも言った通り『黒の書』にその記述はありません。それは『彼女』に誓いましょう」
「『彼女』? それは誰ですか?」深翠が翠色の眼を細めて聞く。
「唯一の一」
黒須は最高に面白いといった笑顔を浮かべた。
「え? 『唯一の一』って女だったの?」
 その辺りの事情にはまだあまり詳しくない、蒼香が意外そうな声を出した。その横で、その辺りの事情に詳しい深翠は血の気の失った、青褪めた顔をしている。
「黒須蛍、何故……あなたが『唯一の一』が女である事を知っているんですか」深翠の声が震える。
「あっ」その発言で、遅れて蒼香も顔が青褪める。
今の黒須の発言は、あたかも自分が『唯一の一』と出会っている、とでも言いたげだった。
「まさか……ただの(・・・・)であるあなたが、『向こう側』に行けないあなたが『唯一の一』と、出会ったとでも言うんですかっ! いや――それとも『唯一の一』が……『こちら側』にやって……きた?」
「えっ、嘘? そんな……冗談でしょ。だって『唯一の一』が『こちら側』に来たら、この世界も『向こう側』と同じにされちゃうって竹は言っていたわ。どうなの、『黒』?! 答えて!」
二人の戦慄した声が、外界と遮断された空間に響いた。
黒須は笑顔を崩さず首を振る。
「残念ながら、『唯一の一』への質問は受けられませんね。それに君たちが『彼女』の事を知ることは圧倒的に無意味だ。君たちでは『彼女』には辿りつけない」男の声は、二人の心に神託のように重くのしかかった。
 無意識に震える体を両手で抱きかかえるようにして、深翠は考える。
『月夜見』の回転を止め、代わりに思考のサーキットを全開にする。
そして一つの結論を導きだした。
「――私たち二人は、『唯一の一』に出会う前に死ぬということですか。あなたは、それを伝えに来た。それを伝える事が、私たちの死への条件だったから」
歴史の(しもべ)は黙って『月読の巫女』の話を聞く。
「その通りです。さすがに思考速度が速いですね。『月読の始祖』に迫るだけあって優秀だ」黒須は心底、満足そうに頷いた。
「更にあなたは『唯一の一』と既に出会っている。もしくは連絡を取る手段を手に入れた。つまり私たちの死ぬ時期はそう遠くない」深翠は自らが考えた結論を述べた。だがそれでは全てが説明できるわけではなかった。むしろその更に先に何かあるはずだった。でなければこの魔法使いが現れたりなんかしない。
「そんなの簡単でしょう」やや震えた声で蒼香が、深翠に向けて言った。
「簡単とは……どういうことですか?」漸く体の震えが収まってきた深翠は、いつも通りの対蒼香用のつっけんどんな声で返す。
 蒼香が一度深呼吸する。深翠の返してきたいつもの声に、自分もいつも通りの対応をしようとしての行為だった。
「あなたは考えすぎよ。まさかあなたは、この男が全てを正直に私たちに伝えると思っているの?」声の震えは取れていた。
「……っ。ええ、確かにそうですね。どうかしてました」
「本当にどうかしてるわね。わざわざ『月夜見』解除してまで出した結論がそれじゃあ」蒼香はため息をついて深翠を一瞥した。
だがその後、「まあ私はあなたが出した結論から考えただけだけどね。その前の考えは思い浮かばなかった」とばつが悪そうに言った。
「素晴らしいっ! やはり一度は僕が見込んだ人達です。二人の言う通り、僕は一つの嘘をついた、それが何なのか僕の口からはいえませんが、聡明な君たちならばすぐに結論は出るでしょう」黒衣の男は一際大きな声で二人に言った。
「そうね。でもそれはあなたの前では言わないわ」
「そうですね。これ以上踏み込んだら……」
「踏み込んだら?」男は笑顔で言う。
 爛とした青蒼、
凛とした緑翠、
四つの瞳が黒い魔法使いを睨む。
「「私を殺すでしょう」」深翠と蒼香の声が遮断された空間でハミングした。
黒い魔法使いは満足そうに笑顔を浮かべる。
「君たちは本当に素晴らしい。それ故に残念だ……あと一年後に死んでしまうということが」
「それが私たちの寿命ってわけ?」蒼香が言う。
「そうです。正確にはあと401日。そして今の言葉を伝えた事で、それは逃れられない歴史となった! 例え『神の複製品』でもね。あと今ので僕と君たちの最後の邂逅という歴史も確定しました。本当に残念ですが」
「これが最後になるって事は、心底嬉しいわ」蒼香が吐き捨てるように言う。
「それには激しく同感ですね」深翠が蒼香の発言に頷いき、問うた。「それで、私たちはどうやって殺されるのですか?」
「二人とも神殺しの刀で一撃。首を跳ねられて殺されます」
黒い魔法使いの言葉は、二人に自らの死に様を伝えるだけでなく、二人を殺す者も示していた。
「――そっか」
「――そうですか」
二人はその時全く同じ表情をしていた。
それは――確信していた未来が、起きることを受け入れた表情だった。
「さて、それでは刻限が迫ってきましたので」男はそう言ってテーブルの上にあった『黒の書』を手に取る。
そして黒須が二人には聞き取れない言葉で短く呪文を唱えると、遮断されていた空間が元に戻り、廊下と扉が出現した。
黒衣の男はそのまま何事もなかったかのように、椅子から立ち上がり玄関の扉の方に歩き出した。
奈落の闇が移動しているようだった。
二人は男の動きを眼球で追う。
魔法使いは玄関で一度立ち止まり、振り返って言った。
「ああ、忘れてました。最後に一つだけ。もし一年後にあなたたちが死ななければ……いや、やっぱりやめましょう。まずそんな事はありえませんから。それではもう二度と会うことはないでしょう。あなたたちに『唯一の一』の祝福がないことを願います。そして――」
決して来ない、十三の夜でまた会いましょう。
男の最後の言葉は、二人には聞こえなかった。
二人はそれぞれ横目で一瞬だけ横に立っている相手を見てから、空気が抜けたように、その場にへたり込んでしまった。
「はぁ……」
「ふぅ……」
二人は似たような疲れたため息をついた。
そして緊張の糸が切れて脱力したままの蒼香が、同じく脱力して軽く放心状態の深翠に問うた。
「何回だった?」
「……さあ? もう回数が多すぎて数えてる暇なんてありませんでした」
「……私も同じ。途中からわからなくなっちゃった。あまりにも回数が多すぎて」
「そうですね……はぁ」
「ため息なんてつかないでよ……ふぅ」
「あなただって」
「まあため息もつきたくなるわね」
「……全くです。それじゃあそろそろこの部屋から出ませんか?」ふらふらと深翠が立ち上がった。
「……そうね。もうこれ以上ここにはいたくないわ」深翠の提案に蒼香は賛同して、よろよろ立ち上がった。
よたよたと、二人が玄関の方に向かうと、そこには驚くべきものがあった。
玄関側のドアに、

残念だったな。
もう出発したぞ。
       怜

という張り紙が張られていたのだ。
二人はとりあえず、当面の敵を怜として共同戦線を張った。

ちなみに二人が数えていた回数とは、二人が黒須蛍に殺されたであろう瞬間を数えた回数である。
二人は数え切れなかったが、その数は、二人合わせて218回。
単純計算で4秒に1回はどちらかが殺されていた、戦場のように死の香り漂う十五分間だった。

マンションの外に出た深翠は、ほぼ真上から容赦なく照り付けるお天道様を懐疑的に流し見て、巾着から懐中時計を取り出し、現在の時刻を確認して、一度視線を外してからもう一度海中時計の中の指針を見た。大神深翠の人生で初めての二度見だった。
深翠に初体験を経験させた張本人である、懐中時計の短針と長針が、そ知らぬ顔で一番上で出会おうとしていたのだ。
二人がマンションに訪れたのは午前9時過ぎ、そして遮断された空間の中にいたのは十五分程度なのだから、明らかにおかしな事が起きていた。
 深翠は自分の時計が壊れたのだろうかと首を傾げると、横から視線を感じたのでそちらを見た。蒼香と眼が合う
 すると蒼香が深翠に左手首に巻いていた、腕時計の指針を向けて見せた。
 蒼香の腕時計の長針と短針も一番上で出会おうとしていた。
 それを見て深翠も自分の懐中時計を蒼香に向けて見せた。
 二人はもう一度眼を合わせ、真上にきた太陽を仰ぎ見て、それぞれ納得したように頷いた。
 黒須の製作した隔離空間による効果なのか、それとも元々怜が仕掛けておいたものなのか、二人にはわからなかったが、のうのうと出会いを果たしたそれぞれの時計は壊れていなかったらしい。
 二人は、ほぼ同時に時計を買い換えようと考えた。

 当面の目的を失った蒼香はマンションの入り口で、これからどうしようか考えていた。新しい時計を買いに行くか、それともこのまま帰るか。
――いやそれとも……と蒼香は三つの選択肢で揺れていた。
 その横にいる深翠は全く別の事を考えていた。

 自分は何故怜の自宅まで来たのだろうか。
もう竹たちが旅行に出掛けた後であり、怜の自宅にいないことなど百も承知だった。
本当に旅行に付いていきたかったら、伝言を受けた直後に怜の自宅に行けばよかったのだ。そうすればほぼ確実に旅行に同伴できただろう。
だがそれが出来なかった。
竹の自宅の修繕が終わるまで会いに行かないといった手前(それは竹には伝わっていなかったが)自ら取り決めた約束を破って、会いに行っても良いものかと思ったのだ。
それにこれが自分ひとりで決めた約束ならいざ知らず、これと同じ約束をした人物がいる。
恋敵である山吹蒼香である。
もし約束を違えば自分は旅行にいけるだろう。
しかし、自分だけ約束を破ったという事実は残る。
それは竹に対しても、蒼香に対しても負い目を負うことになるのだ。
でも竹と怜が連れ立って旅行に行くという事実にはどうしても賛同できなかった。
しかし、約束が……
などと朝、伝言を受けてからずっとから考えて、結局結論らしきものを出すのに2時間弱かかった。というより時間が経ったからこそ結論が出たのである。
もうこの時刻なら竹たちは旅行に出てしまっていることだろう。
だから今から行っても、竹たちはいないはずである。
いないつもりで行くのだから、もしまだ竹たちがいたとしても、それは約束を破ったことにはならない。
という破綻して暴走した論理により導き出された結論だった。
今考えると、頭の悪すぎる結論に深翠は溜息をついて、自分の頭を小突いた。

実はそれは横でチラチラと深翠を見ている山吹蒼香も同じようなものだった。というか全く同じ考え、結論に達しての行動だった。
恋は盲目というよりは、恋は暴熱といった二人であった。
「よしっ、決めた」深翠が自分の頭を小突いたのと、ほぼ同時にチラチラと深翠を見ていた蒼香が突然「これから買い物でもしに行かない?」と深翠を見て言った。
「は?」予想だにしていなかった突飛な発言に、深翠は自分の頭を小突いた体勢のまま停止した。
「洋服、選んであげるわよ。着たいんでしょう?」
「私は、別に……」
「別にーじゃないわよ。ここに来るまでの間、何回も私と自分の服、見比べてたじゃない。あれだけ見られて気付かないわけないでしょう」蒼香はやれやれといった顔をした。
そんな態度を取った蒼香の頬はやや赤くなっていたが、深翠はそれには全く気付かずに、
「……不覚」と口の中で小さく呟いた。
深翠は蒼香に洋服が着たい事を見抜かれていた事よりも、自分が殆ど無意識で彼女と自分を見比べていたという事実の方が恥ずかしかった。
「でも、ただとは言わない」蒼香は少し声を低くして言った。
「何ですか?」深翠は警戒する。彼女は知り合いだが友人ではない。むしろ敵、恋敵。何を言われるのかわかったものではない。
だが深翠の意表を突く事を蒼香は言った。
「私があなたの洋服選ぶ代わりに、あなたは私の和服選んでよ。一度着てみたかったし。浴衣が良いかな。そのうちお祭りもあるでしょう」蒼香はぶっきらぼうに、だけど少し恥ずかしそうに口を尖らせていった。
「え?」深翠は一瞬何を言われたかわからない、といった顔をしたが、すぐに取り繕って「わかりました」と笑顔で言った。
「……」
「……」
暫し二人に微妙な沈黙が訪れた。
「じゃあ、行こっか。とりあえず駅ね」
「そうですね」
二人は照れ笑いのような苦笑いを一瞬だけ浮かべて、怜のマンションを後にした。

洋服と和服が一緒に置いてあるところ、という事で二人は電車で三十分のところにある、百貨店へと向かった。
電車での二人は不機嫌そうな顔をして終始無言だった。
何故なら電車に乗ってくる人が、代わる代わる二人並んで座っている二人の姿を見るからだった。
深翠も蒼香も、こういう人の目には慣れていたが、今日は二人一緒にいたのでいつもの倍の目に晒されていた。
そりゃ洋装と和装の美少女が二人並んでいたら、誰だって注目する。竹でもそうする。
そんな不機嫌そうな表情のまま、二人は百貨店のある駅へと到着。
まず最初に、どちらを見て回るか、という話で意見がぶつかった。
「言い出したのは私なんだから、洋服先に選んであげるわよ」
「いえ、言い出してくれたのはあなたですから、先に和服を選びましょう」
「いーや。あなたから」
「いえ、あなたから」
そんなやりとりを駅の改札を出たところで5分ほど繰り返していたのだが、今は8月の炎天下。
あまりの暑さに、
「……ねぇ、じゃあどっちの行くか決めるのも兼ねて、どこか涼みに行かない?」
「……同感です」
という結論になり、二人は百貨店に行く道の途中にあった喫茶店へ入った。
禁煙席の方を選んで座り、営業用の笑顔を浮かべたウェイトレスに注文を頼む。
蒼香はアイスコーヒー、深翠はアイスティー。
そして、頼んだものが来るまでの間にどちらのものを先に選ぶか、決めることにした。
だが、その議論も平行線になる事は明白だった。
なので蒼香が言った。
「じゃあどっちのメニューが先に来るかで決めよう。先に来たほうが勝ち。それで良いでしょう?」
「そうですね。そうでもしないと決まりそうにありませんし、そうしましょう。運に任せるのも悪くないです」深翠は蒼香の意見に同意した。
それから間もなく、勝負は決した。
「おっお待たせ致しました! あ、アイスコーヒーになります」先ほどとは別のウェイトレスが驚いたような声で、蒼香の勝利を告げた。
 二人は、驚いた声を出したウェイトレスには構わず、テーブルに置かれたアイスコーヒーを見つめる。
「じゃあ先にあなたの服を選びましょう」蒼香は笑顔になり。
「わかりました」深翠はぶすっとした。
 先に選ぶのは深翠の洋服に決定した。
それから暫くして、深翠のアイスティーが運ばれてくる。
それを確認してから、蒼香はガムシロップを入れただけで口をつけていなかった、少し氷の溶けたアイスコーヒーをストローで吸い上げた。
「ああ、やっぱりまずいわ。この店」蒼香は嫌そうな、でもどこか懐かしくて嬉しそうな顔をした。
「やっぱり?」深翠は自らのアイスティーにミルクとガムシロップを二個づつ入れながら、蒼香の言動の不自然に気付いた。「あなたこの店に前に来たことがあるんですね? だからアイスティーよりアイスコーヒーの方が早く来ることがわかっていた」
「当たり。まあそういうことね」蒼香はまずそうな顔でアイスコーヒーをまた口にした。
「フェアじゃありません」深翠は蒼香を睨んだ。
「聞かれたら答えたけど、別に聞かれなかったもの」蒼香は悪びれもせずに答える。
蒼香を睨む深翠と、そんな視線を気にせずアイスコーヒーを顔をしかめながら飲む蒼香。
結局折れたのは深翠だった。深翠は溜息をついた。
そもそも勝負がフェアであろうとなかろうと、勝負に乗って負けた時点で今更どうこう言っても後の祭りだった。所詮和服と洋服どちらの店に先に行くか程度の争いである。まあその程度の争いでも負けたくない相手というのはいるのだが。
その根底にある原因の張本人は現在、二人の気も知らず信州に旅行中である。
ただ何より深翠が不快だったのは、その張本人、天倉竹と山吹蒼香の行動が妙に似ていたことだった。
平然と嘘をつき、勝ちが決まれば悪びれず、どこか楽しそうにネタをバラして関わった者を地獄に叩き落す。そんな行動がそっくりだったのだ。
深翠は少し悲しくなり、なぜか竹に似た蒼香を少しだけ好きになった。だけどそのことが蒼香にばれないように不機嫌な顔を作る。それが恋敵に対する意地である。
不機嫌な顔をするという行為は造作もないことだった。何故なら負けたこと事態は不愉快なのだから、その作業は対して難しくないものだった。
「『月夜見』を使ってれば、私がこの店に来たことがあることわかったのにね」深翠が折れたことがわかったのか、蒼香が機嫌良さそうに聞いた。
それに深翠が若干不機嫌そうに答える。
「この力はもうあまり使いたくありませんし、それに竹さんから許可なしでの使用を禁止されていますから。この前それで怒られたばかりですし。それはあなたもでしょう?」
それに蒼香が苦笑いした。
「確かにそうね。私も私の力はもうあまり使いたくない。でも、もし必要な時がくれば迷わず使うわ」
「それは竹さんに危険が迫った時?」
「あなたが竹に迫った時とかね」
二人は同時に笑った。少し笑った後に蒼香が言った。
「ネタバラしするとね。私はこの店には来たことはないわ。だからもしあなたが『月夜見』を使っていたとしても、結果は変わらなかった」
「え? でもさっきは……」
「この店には来たことないけど、この店ってチェーン店でしょ? だからこの店じゃないけど、この店に来たことはあるの」
「ああ、そういうことですか」
「そういうこと。それでね、その時三人でこの店に入ったの。その日も今日みたいに暑かったから。それで一人がアイスコーヒー、一人がアイスティー。そして私はオレンジジュースを頼んだの」
蒼香はどこか遠くを眺めながら話す。もう手の届かない遠くを見ながら。
「そしたら、一番にコーヒーが来たの、それであの人はアイスコーヒーに何も入れずに飲んだんだけど……」蒼香は微笑みながら話した。その微笑みは誰から見ても魅力的なものだった。
「だけど?」
「あの人のあんな顔初めてみたわ。凄い顔して一言『まずい』ってね。それでその後暫くしてアイスティーとジュースが来たの。私たちはあの人のあんな顔見た後だったから恐る恐る、口をつけたんだけどね」
「それがビックリするほど美味しかった?」
「その通り。あの人はそれを知ってかなり怒ってたけどね。これは嫌がらせかって。どうやらこの店、コーヒーは全部インスタントでそれ以外は手間かけて作ってるらしいのよ。ジュースは絞りたて、アイスティーは葉っぱから入れるってね」蒼香は幸せそうな顔で続ける。
「それで、あの人は意地でも飲み干すって子供みたいに言って。そのアイスコーヒーに大量のガムシロップとミルクを入れて必死に飲んでたわ。今までコーヒーはブラックしか飲まない主義だった人がね。それが私がこの店に来た時の話」蒼香は最後まで笑っていた、話している最中どこか悲しげに見えたのは深翠の見間違いだったかもしれない。
蒼香はその後無言で、まずそうにアイスコーヒーを飲み干した。
深翠も考え事をしながら、美味しそうにアイスティーを飲み干した。

「さて、そろそろ行こう」蒼香が立ち上がろうとした時に、
「ちょっと待ってください」と深翠が蒼香を止めた。
「何?」蒼香が怪訝そうな表情を作って聞く。
「……これからは私の事、名前で呼んでください」深翠が真面目そうな顔をして言った。
「どういう風の吹き回し? まさか私が昔の事、話たからとかいう理由だったら殺すけど?」蒼香は深翠にだけわかるように殺気を出した。
「いいえ、そうじゃありません」深翠は毅然とした態度を崩さない。
「じゃあどうして?」
「あなた、という呼び方だとあなたと被って嫌なんです」
「――」蒼香は一瞬呆気に取られた顔をした後、くすくすと笑う。
「じゃあ私も名前で呼んで。被るのは嫌だから」と蒼香は笑いながらと言った。もう深翠に向けられていた殺意は解除されている。
「わかりました」深翠も微笑む。
「うん。それじゃ行きましょう。深翠の洋服を選びに」
「そうですね。蒼香の和服を選びに行きましょう」
 会計は争いを避ける為に割り勘だった。
 そこで、財布を取り出すのに巾着に手を入れた深翠と、
 財布からお札を取り出す為に自分の腕を見た蒼香が、
「「あ」」思い出したように、同時に声を上げた。
「それと――私たちを差し置いて出会うような」
「持ち主の思いが読めない時計も買い替えになきゃね」
 もう一度微笑みあって、会計を済ませた二人はまずいコーヒーと、美味しいアイスティーを出す喫茶店を後にした。

蒼香は思う。
こっちが思いもしなかった事を、突然大真面目になって言う。
そんなところが大神深翠はどこか天倉竹と似ていた。
蒼香も深翠が少しだけ好きになった。
だけど相手には一生そのことは気取られないようにするつもりだった。
それが恋敵に対する意地である。
一番似ているのは、深翠と蒼香なのかもしれない。
8月7日の午後の事である。

          *

喫茶店のバックルーム。
荒川宿禰(あらかわすくね)は速まる動悸を抑えていた。
「びっびっくりした〜。まさか大神さんと山吹さんが来るなんて。う〜っ、私だってバレてないよね? 私、学校にバイトの申請してないからなー。バレたら怒られちゃうようー」宿禰は情けない声で独り言を呟く。
 八九里高校はアルバイトをする生徒は、必ず学校に申請する決まりになっていた。
とはいってもその制度自体古いものを変更していない、というだけで、そんな申請をしている生徒は皆無である。
そもそも申請をしなければ、アルバイトをしてはいけないなんて事を知っている生徒も殆どいないし、教師側もその辺は完全にスルーしている。
 しかし、荒川宿禰は真面目な少女だった。
「どーしよー。あ、でもでもあの二人なら私の事なんて言わないかも……そうだよね、私の事なんて眼中にない……よね」自分の台詞にへこむ宿禰。
 実際二人は、アイスコーヒーを運んできた宿禰に全く気付いていなかった。
 可愛らしい顔立ちをしているが、基本的に荒川宿禰は地味な少女だった。
「ていうかあの二人ってあんな仲良かったっけ? いつも殺伐としてたけど……でも最近はいつも一緒にいたもんね。天倉君と一緒に……何か仲良くなる切欠でもあったのかなぁ? うーん、わかんないや。そういえば今日は天倉君の姿はなかったけど、夏休み中は一緒にいるのかなー。もしそうだったら羨ましいなー」宿禰は自らの思い人を思い出し、ぽーっと頬を赤く染める。
「ってそうじゃなくてっ! 今はそれよりも、アルバイトの事だよ、私っ」一人でジタバタする宿禰は、どうしよう、どうしよう、とバックルームで頭を抱えて呪文のように呟く。
 何人かの同僚のバイトがバックルームの前を通る度に、その宿禰の異常行動を見るや引いて逃げていく。当然の如く宿禰は周りが見えていないので、それには全く気付いていない。
これに関して彼女は後で激しく後悔することになる。
 荒川宿禰は自爆少女だった。
「あっそうだ! 黙ってて貰えるように頼めば良いんだっ! なんだー、簡単だ……? いや、全然簡単じゃないよっ。私あの二人を話したことないよー」宿禰涙目。
 それでも宿禰は考えた。
 たっぷり5分間、脳みそフル回転で。
「うーん、でも学校にバレてバイト辞めさせれたくないし……それにここで二人と仲良くなっておけば、これから天倉君と仲良く出来るチャンスも増えるんじゃ……はっ」
 そう思ってからの宿禰の行動は早かった。
 すぐにバックルームから飛び出して厨房に向かう。
 厨房の調理スタッフが凄い勢いで厨房に入ってきた宿禰に驚く。
 宿禰はそんな周囲の状況には全く気付かずに、この喫茶店で一番高いパフェを二つ自作し始めた。店長を含め誰もが、彼女の普段からは想像のつかない剣幕に、話しかける事が出来なかった。
 本職の調理スタッフ顔負けの速度でパフェ二つを仕上げ、宿禰はそれを両手に持って厨房を出、早足でホールを歩く。
 作戦は完璧。
 準備(わいろ)は万端。
 目指すは、大神深翠、山吹蒼香。
 いざ喫煙席。
 宿禰は張り切って、目的地へ向かった。
 しかし、宿禰の目指したその先に、大神深翠、山吹蒼香両者の姿はなかった。
 既に二人は5分ほど前に会計を済ませて退店していた。
 すれ違いだった。
「……あれ?」宿禰は天秤のように左右にパフェを持ったまま、空席となった席を見つめて石像のように固まってしまった。
 固まって微動だにしなくなった、宿禰に他のスタッフから促されてやってきた店長が恐る恐る声をかけた。
「あの、荒川さん? どうか……した? ここのお客様なら今さっき帰ったけど」
「あー、そうなんですカぁ。いっいえ、何でもありませんヨ?」
「いや、何でもないってのはないでしょう。何か片言だし、特にその両手のパフェとか……ほらお客さんも見てるし……」
 宿禰はギギギと音の立ちそうな動きで、5分前に空席となった席に座り、
「いエ全然おかしなことはないンでー、店長は気ニしないでくダさーい。お客サんもお気になさらズにー。私パフェ大好きなんですヨー」と言って自作のパフェ二つをパクパク食べ始めた。
荒川宿禰はタイミングの悪い、健気な少女である。


お読み頂きありがとうございます。予告通り、長めになりました。『紅の章』では多分今回が最長の部分になるんじゃないでしょうか。
*今日中に更新出来て良かったです。
人物紹介を作ってとのご要望がありましたので、現在製作中です。ただ小説との同時進行になりますので、すぐにはお届け出来ないかもしれませんが、なるべく早くup出来るようにしたいです。
それではもう暫くお付き合い下さい。











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