十二月のある日、小さな公園での出来事です。
雪が降り出しそうに寒い午後でした。
一人の女の子が、淋しそうにブランコに乗っています。道行く人が肩を縮めて、歩いているくらい寒いのに、女の子はセーターにスカートという格好で震えています。
白い、少し汚れた靴で、地面を蹴りながら、女の子は呟きました。
「お母さんなんかきらいだもん」
女の子は誰もいない公園で、もう一度言いました。
「お母さんなんか、だいっきらいだもん」
でもそう言いながら、女の子は悲しそうな顔をしていました。
するとその時、誰かの高い声が返ってきました。
「どうして?」
女の子はびっくりして、辺りを見回します。
それでもそばには誰もいません。
気のせいかなとまたブランコをこごうとした女の子に、もう一度誰かが言いました。
「どうして悲しそうな顔をしているの?」
今度はとても近くで聞こえたその声に、女の子は立ち上がりました。
そしてもう一度よく見回しても、やっぱり誰もいませんでした。
女の子がため息をついて、またブランコに乗りなおした時です。
「お母さんと何かあったの?」
さっきの声がもう一度言いました。
何だろう、誰もいないのに。
女の子は不思議に思いながらも、その声が優しく聞こえたので、独り言のように話し出しました。
「あのね、お母さんとけんかしたの。お母さんが赤ちゃんばっかり可愛がるから、かえでのことなんて忘れちゃったから、それでけんかしたの。お母さんなんかだいっきらいって言って出てきちゃったの」
声に出してみると少しすっきりした気がします。震えていた体が少しおさまったようです。
そんな女の子にまた優しい声が言いました。
「赤ちゃんはもう生まれたの?」
「ううん、まだお母さんのおなかの中。でももうすぐ生まれるの。かえで、おねえちゃんになるんだって。
おねえちゃんになんか、なりたくないのに」
誰だかわからない声の相手に、女の子――楓は正直な気持ちを言いました。
すると少し待ってから、もう一度声が返ってきました。
「どうしておねえちゃんになりたくないの?」
そう聞かれた途端、楓の額にしわがよります。
それは今まで誰にも言ったことがなかった、本当の心、ずっと我慢していた気持ちだったからです。
しばらく考えた後、唇をとがらせながら楓は言いました。
「……だって、お母さんはかえでだけのものでいてほしいから」
そう、楓は赤ちゃんにお母さんをとられたくないのです。
でもそんなことを言ったらお父さんやおばあちゃんに、もう五歳なのに甘えん坊だと笑われるのもわかっていたし、何よりお母さんを悲しませるのではないかと思ったから、ずっと小さな胸に閉じ込めていた気持ちだったのでした。
けれど、楓は気づいていました。もう、自分がお母さんを悲しませてしまったこと。さっき『だいっきらい』だと言った時、お母さんがとても傷ついた顔をしていたのを。
早く帰ってお母さんに謝らなければ、そう思うのに、まだ頑固な足は動いてくれません。
だってやっぱり、お母さんだってひどいんです。
赤ちゃんができてからいつだって楓は我慢してきました。お腹が痛いから、気分が悪いから、一緒に遊べないんだというお母さんのことも気遣って、一生懸命笑ってあげて、お母さんのお手伝いもしてきました。お誕生日会も中止になって、運動会にも来てくれなくて、お楽しみ会も見に来られなくても、それでも大丈夫だと言ってあげました。
でも……。
「ピアノの発表会、あんなに頑張って練習したのに……」
同じたんぽぽ組のマミちゃんに、お母さんが見に来てくれるんだと嬉しそうに言われたことを思い出すと、楓はもっと悲しくなりました。
いくらお腹が重くて大変でも、発表会まで来られないなんて、やっぱりひどすぎるよ、お母さん……。
楓は小さな肩を落として、ため息をつきました。
その時、忘れかけていた優しい声が楓を呼びました。
「かえでちゃん、かえでちゃん」
今度はとっても近くで聞こえたその声に楓が顔を上げると、なんと驚いたことに――小さなカエルが膝に座っているではありませんか!
「うわぁっ」
あんまり驚いてブランコから滑り落ちそうになった楓は、あわてて鎖をつかんでふみとどまりました。
「そんなにおどろかないで、かえでちゃん」
驚かないでって言ったって……突然膝の上に言葉を話すカエルが座っていたら、誰だって驚きます。
楓は文句を言うべきなのか、どうするべきなのかわからずに、ただあんぐりと口をあけて座っていました。
その間にも、カエルは黄緑色のすべすべした足でふんばりながら、よいしょ、よいしょとスカートの上をよじのぼっています。
そして自ら楓の手のひらに乗ると、落ち着いたように、ふう、と一息つきました。
瞬きを何度もしている楓の目と、カエルの丸い両目が合いました。
「僕はね、こんな姿をしてるけど、実は魔法使いなんだ。かえでちゃんのために、とっておきの魔法をかけてあげる」
顔いっぱいの大きな口でそう言う声は、やっぱり先ほどまで楓がお話していた声と同じでした。
独り言のつもりで話していた相手がカエルだったなんて、しかも魔法が使えるなんて、楓は一体どう答えたらいいのかわかりませんでした。
「どうしたの? びっくりしすぎて声が出ないの?」
愛嬌たっぷりの顔で楓を見上げて、黄緑色のカエルは首を傾げます。
答えを待っているようなカエルの瞳につられるように、楓は口を開きました。
「えーと……かえで、カエルさんとお話するのははじめてで……」
吹き付けてくる木枯らしをものともしないような元気いっぱいのカエルに、今度は楓が首を傾げました。
そういえば、カエルさんは冬には土の中で眠っているんじゃないのかな?
幼稚園の先生にこの前読んでもらった絵本で、そんな話があったことを思い出しました。
「あのね、僕はカエルだけど本当はカエルじゃない。魔法使いなんだよ」
わかったようなわからないような顔で、楓は頷きました。
そうか、魔法使いだから、冬にも眠らずに元気なのかな。頭の中ではどこかずれたことを考えている楓です。
驚きつつも、もともと好奇心旺盛な楓は、カエルの観察を始めました。
楓の手のひらにも満たないような小さい姿、鮮やかな黄緑色の体、印象的な丸い二つの目、大きくて、笑っているような口、とにかく全てをじっくり眺めると、楓は満足げに笑いました。
どうやらこのカエルが気に入ったようです。
「それで、どんな魔法をかけてくれるの?」
楓なりに納得した途端、嬉しそうに返された質問を聞いて、カエルはまるでいばるように、小さな胸を張って言いました。
「よくぞ聞いてくれました。あのね、お母さんとかえでちゃんを仲直りさせてくれる、とってもすてきな魔法だよ」
「本当? わぁ、はやくかけてかけて!」
はやる楓の気持ちをおさえるように、カエルはせきばらいを一つして、ゆっくりと両手を上げました。
「じゃあ僕の手をとって、かえでちゃん。しっかり握って、離しちゃだめだよ」
これから何が始まるのか、どきどきしながら、楓はカエルの両手を握ろうとして、ためらいます。
握るには小さすぎて、でも待っているカエルにそう言ったら傷つけてしまいそうで、しばらく考えてから、楓はそうっと指先でふれるように、カエルの両手を握りました。
三本の小さな指が楓の指を握り返してきて、それと同時にあたりに一段と強い風が吹きました。
あまりの風の勢いに、楓が目を閉じた時、カエルの声が聞こえました。
「かえでちゃん、見てごらん」
風がやんで、楓はカエルに言われたとおりに目を開けました。
すると……信じられないことに、楓は空の上にいたのです!
「きゃーっ、かえで飛んでるっ! 何これ、すごーいっ!」
おっかなびっくり、楓は首をめぐらせ、辺りを見回します。
地上ははるか彼方に遠く広がり、先ほどまでいた公園は小さく見えます。赤や青のお家の屋根がまるで人形の家のようです。
優しく頬をなでる風は、楓のまっすぐな髪をなびかせます。空の上にいるというのに、不思議と怖くない、おかしな気分でした。
いつの間にか、楓はカエルと手に手をとって、空を上手に飛んでいました。
寒さも感じず、ただただ美しい空の中、気持ちのいい飛行は続きます。
足元が落ち着かないふわふわとした感覚に慣れた頃、カエルが言いました。
「さあ、見えてきたよ」
どうやら目的地が近づいたようです。カエルが楓の手をひっぱり、少しスピードを上げました。
ゆっくりと降りていった先に見えたものに、楓は思わず声を上げます。
「あ……かえでのお家」
どこか冒険にでも連れて行ってくれるのかと期待していた楓は、自然としずんだ顔になります。
まだお母さんと顔を合わせる自信がなかったからです。
ところが、カエルがお見通しのように笑って首を振りました。
「これからが魔法のはじまりだよ。見てて、かえでちゃん」
カエルに引っ張られるままに、古い瓦屋根の上に楓は腰を下ろしました。一瞬ひやりとした感触に、楓はスカートを直します。
そして見下ろした庭に、一人の女の人が出てきました。長い髪を後ろでくくって、ワンピースを着ています。
その人の顔を見て、楓は驚いた顔をしました。
「お母さん……あれ? どうして髪が長いの?」
楓のお母さんは短い髪なのに、今そこにいるお母さんは長い髪をしています。それでも確かにその顔はお母さんでした。
ワンピースのお腹が大きいのは、今と変わりないのですが、一体どういうことなんでしょう。
大きな瞳を更に大きくして、見つめる楓の前で、お母さんは二人に気づきもせずに、洗濯物を干し始めました。
重そうなお腹を時々さすったり、腰を叩いたり、休み休み洗濯物を干し終えたお母さんは、縁側から部屋の中へ入っていきました。
お母さんと交代するように出てきたのは、おばあちゃんでした。確かさっき楓が家を出る前は、腰が痛いと寝ていたはずなのに、元気そうに庭へ出て落ち葉をほうきでかき集めています。
そして、おばあちゃんに続いて現れた人影に、楓は目を見張りました。
「あれ……おじい、ちゃん?」
それが写真で見たことのあるおじいちゃんの顔だとわかった楓は、今度こそわからなくなったように首を振りました。
そう、だっておかしいのです。おじいちゃんは楓が小さな頃に亡くなったはずなのですから。とても楓のことを可愛がってくれたのだと、お母さんやおばあちゃんから聞いていました。
黙っていたカエルが、ようやく口を開きました。
「そう、ここはね、かえでちゃんが生まれる前のお家だよ」
「かえでが、生まれる前?」
目をぱちくりさせながらたずねる楓に、カエルがゆっくりと頷いて、言いました。
「うん。僕が魔法で時をすこおし、戻したんだよ」
時を戻すなんて、そんなことができるんだ! 尊敬と驚きできらきらした瞳で見つめる楓の膝の上で、カエルは得意そうに座っています。
「じゃあ、楓はここにいないの?」
浮かんだ疑問をそのまま口に出すと、カエルは笑いました。大きな口が一気に広がります。
「かえでちゃんはちゃんといるよ、お母さんのお腹の中に」
ほら、と指差した黄緑色の指を追っていくと、いつの間にかまた出てきたお母さんとおばあちゃん、おじいちゃんが並んで縁側でお茶を飲んでいます。
何のお話をしているかまではわかりませんが、優しい笑顔でお腹をさわるお母さんたちはとても幸せそうに見えました。
その嬉しそうな顔は、どこかで見たことがありました。しばらく頭をひねってから、楓はあっと呟きました。
「今、おなかの赤ちゃんのお話するときの、お母さんの顔だ!」
そう言った楓に、カエルはそうだよ、といわんばかりに頷いてみせます。
まあるく突き出たお母さんのお腹を眺めながら、楓はとっても不思議な気分でした。
『楓もこうやって、お母さんのお腹にいたのよ』
そういえば、お母さんがそう言って教えてくれたことを思い出します。小さな赤ちゃんだった自分の写真を見せてくれたこともありました。
でもこうやって実際に見てみると、なんだかすごく落ち着かないような、それでいて心の奥にぽわっと灯りがついたような、くすぐったい気分でした。
ぼんやりとただ見つめる楓の膝で、カエルがくすっと笑います。
「見ててごらん、かえでちゃんがおっきくなっていくところをすこおしずつ、見せてあげる」
カエルがそう言った途端に、段々と現れる風景が変わっていきます。
大きかったお母さんのお腹がまたぺたんこになって、その手には小さな小さな赤ちゃん――生まれたばかりの楓が抱かれています。
お母さんはまだ慣れない手つきで、それでもしっかりと抱いてくれています。安心して眠る楓の顔を覗き込むのはお父さん。その顔はとろけそうな笑顔です。
眠る楓を見に、かわるがわるおじいちゃんとおばあちゃんが出てきます。二人とも、抱っこしたくて両手を出して大騒ぎです。
楓が小さなくしゃみをしたのを気に、みんなはあわててふすまの向こうへ消えて行きました。
そして出てきたときにはふにゃふにゃしていた小さな楓は、赤ちゃんらしく、まあるく太った姿になっています。
楓がにっこりと笑うのを見て、みんなが歓声を上げています。近所の人まで集まっています。
あまりの喜びように、楓は膝の上のカエルと目を合わせて、笑いました。
時はゆっくり、アルバムのページをめくるように過ぎていき、赤ちゃんの楓はぐんぐん大きくなっていきます。
座布団の上に寝かされた楓が一人で寝返りをした時、自分の指でガラガラをつかんだ時、しっかりお座りをした時、ハイハイで進むのに成功した時、初めて離乳食を食べた時、そこには全てみんなの笑顔と喜びがありました。
一枚一枚写真におさめ、笑いあい、時には涙して感動する、お母さんとお父さん、次から次へとおもちゃを買ってくるおじいちゃん、とにかく飽きずに一日中抱っこしようとするおばあちゃん、みんなが楓のそばにいました。
初めて熱を出した時には一晩中心配そうに看病して、眠れずにぐずったり、夜泣きをしたりする楓を抱っこしたり、おぶったり、中でもお母さんは一番忙しそうでした。
そしてひときわ、優しい優しい目で、楓の成長を見ているのでした。
けれども段々歩き出し、自由に動き出し、目も回るような成長をとげた楓は、どんどんいたずらをし、わがままを言い、お母さんの手を振り切って、自分のやりたいことをして、行きたいところへ行くことに大忙しです。今より少しだけ小さい楓が、庭の紅葉の赤い葉っぱに気をとられ、すてんと転んだのが見えました。
たちまち泣き出した楓を抱き上げ、なぐさめるのはお母さんです。その隣でなんとか笑わせようとあやしているのはお父さんです。そしてその様子を優しく笑いながら見ているのは、おじいちゃんとおばあちゃんです。いつでもどんな時でも、みんなが楓のことを見守っていてくれるのでした。
「かえでちゃん……?」
いつの間にか、楓の瞳からは、一粒の涙がこぼれていました。心配そうに見上げたカエルの上に、ぽたり、ぽたりと楓の涙が落ちてきます。
「カエルさぁん……」
何かを言おうとした楓の顔は、くしゃくしゃにゆがみます。大粒の涙をこぼしながら、楓はしゃくりあげていました。
「かえで、お母さんにひどいこと、言っちゃった……お母さんに、とってもひどいこと……」
もうこれ以上、下を見なくてもわかります。みんなが楓を大切にしてくれていること、みんなに愛されて、守られて、すくすくと育ってきたこと、楓の成長を、こんなにも喜んでくれるお母さん、お父さん、おばあちゃん……そして、おじいちゃん。今まで何も思ったことがなかったおじいちゃんのことも、こうしてずっと見てくると、もういなくなってしまったことがとっても悲しく思えてくるのでした。
お腹の中にいた小さな小さな楓が、こんなに大きくなったことが、たくさんの思い出に包まれた、きらきらとした笑顔にかこまれた、大切な出来事だということが、楓の心に伝わってきたのでしょうか。楓の涙は、次から次へとあふれてくるのでした。
小さな肩を上下させる楓を、カエルは優しい目で見ていました。
屋根の上で流れる白い雲を背景に、まるでそこだけ絵の具を落としたように、黄緑色の体が光っています。
楓が少し泣き止むのを待っていたように、カエルは言いました。
「大丈夫、すぐに仲直りできるよ。だってお母さんは……かえでちゃんの大事な、優しいお母さんだもんね!」
片目をおどけたようにつぶってみせたカエルの真下には、もうすぐ幼稚園に入ろうという、今より少しだけあどけない楓の姿があります。
その隣にはお母さん。髪の毛を短く切った、見慣れたお母さんの姿です。まだそのお腹は大きくふくらんではいませんが……。
「さあ、そろそろ帰る時間だよ、かえでちゃん」
カエルがにっこりと笑って、黄緑の手を差し伸べます。楓も涙をふいて立ち上がり、その手を取ります。
風がふわっと二人の横を通り過ぎて、緑色の葉っぱがちらりと流れていきました。
そして楓が目をつぶった時、ささやくようなカエルの声が聞こえた気がしました。
「僕のこと、忘れないでね。ありがとう、かえでちゃん」
ありがとう……その言葉が楓の頭にこだまします。楓は声に出さずに思いました。
(変なカエルさん、『ありがとう』って言うのは、かえでのほうなのに……)
強い風が楓の体をつつんで、そっと地面におりた感覚がした時、聞きなれた声が楓を呼びました。
「楓、楓っ! こんなとこにいたの?」
少しだけくらっとする頭をおさえて振り向くと、そこにいたのは――。
「お母さん!」
そう、いつの間にかさっきまでいた公園に戻ってきたようです。
楓の目には、公園の入り口から、心配そうな顔で覗いているお母さんが映っていました。
その手には、楓の赤いコートを持っています。セーター一枚で飛び出してきた楓のために、持って来てくれたようです。楓を捜しまわっていたのか、お母さんの頬は赤くなっています。
そしてほっとしたように、急いでこちらへ駆け寄ってこようとしています。大きなお腹で、懸命に近寄ってくるその姿はまるで大きなペンギンさんのようです。
それを見た楓は、今にも泣き出しそうな、けれどもとっても嬉しそうな顔で言いました。
「だめだよ、お母さん!」
一瞬何のことだかわからないような顔をしたお母さんに、楓は得意げに言いました。
「……走ったらあぶないでしょ?」
その言葉に何ともいえない表情をしたお母さんは、駆け寄ってきた娘をぎゅっと抱きしめました。
「お母さん、ごめんね」
しゃがみこんだお母さんの耳に、楓はそっとささやきます。
お母さんは嬉しそうな、泣きそうな顔で首を振り、優しく楓を抱きしめるのでした。
「だけど楓、一体こんな時間まで何してたの?」
言われて見上げると、もう空は夕暮れで、楓はしばらくきょとんとした後、とびきりの笑顔で言いました。
「なーいしょ!」
ねえ、カエルさん? 見渡した先に黄緑色の小さな姿がないことに、少し淋しい気持ちを感じながら、楓はお母さんの手を握りました。
帰りついた家では、お父さんが汗をふきながら、何かをやっていました。
のこぎりを手に、ぎこぎこと切られているものを見て、楓は思わず声を上げます。
「あ、それ……紅葉の木!」
そう、それは庭の端にいつでもあった古い木でした。カエルさんの魔法で見た庭には、いつもその木が立っていて、夏には美しい緑色を、秋には濃い赤色の葉っぱがたくさん揺れて、楓たちを見守っていた、あの木でした。それでももうずっと長い間、そんな葉っぱを見ていなくて、楓もすっかり忘れていたのですが――。
お父さんは、突然帰ってきた楓の大声に驚きながらも、ほっとしたような顔をしました。
「ああ、楓。帰ってきたんだね、心配したんだぞぉ」
今はお父さんにごめんねを言うより、紅葉の木のほうが気になっていた楓は、そのままつめよります。
「ねえ、お父さん、その木、切っちゃうの?」
「楓? どうしたの?」
楓の剣幕に驚いたお母さんと顔を見合わせて、お父さんは答えました。
「そうだよ。残念だけど、もう病気にやられちゃってね。切らないと他の木にも悪いんだよ」
「そんなぁ」
お父さんのトレーナーをつかんだ楓に、お母さんもお父さんも戸惑い顔です。
確かに、楓も今まで全くといっていいほど気にしていなかった木ですから、変に思われるのも仕方がありませんが……それでも楓は悲しい気持ちになっていくのでした。
その時、縁側のほうから、ゆっくりと下りてきたおばあちゃんが言いました。
「楓は、よくあの木の前であそんどったからなぁ。やっぱり少しは淋しいんじゃないかね」
お父さんたちにそう言って、おばあちゃんは腰をさすりながら、楓のほうへ身をかがめました。
「昔はねぇ、きれいな赤い葉っぱをつけて、目を楽しませてくれたんじゃよ。時任さん家の紅葉は立派じゃて、みんなが言ってくれてねぇ」
うん、そうだね……思い出の中を見てきた楓は、そう言いたくても言えないままに、ただ切られた木のほうを見ていました。
そして何も考えずに手をやったポケットの中に、かさり、と鳴る何かを見つけて、引っ張り出しました。
するとそこには――黄緑色の小さな葉っぱ、まるであのカエルの手のような、可愛らしい葉っぱがあったのです。
不思議に思って葉っぱを見つめる楓に、おばあちゃんが気づきました。
「あれ、この季節にどっからそんなもん、拾ってきたんかね」
そして細めた目で葉っぱを見つめると、おばあちゃんは思い出の中を想うように、目を閉じました。
「……葉っぱがね、カエルの手に似てるから、カエルデと言って、そこからなまって楓と言われるようになったそうじゃよ」
突然懐かしそうに言われた言葉に首をかしげた楓に、お母さんが笑って説明してくれました。
「この楓の木のことよ。紅葉はね、楓とも呼ばれているのよ」
お父さんも、横から参加してきます。
「お前の名前はなぁ、楓、夏には清々しい緑で、秋には鮮やかな紅葉で人の目を楽しませる、楓の木のように、美しく、そしてまっすぐに育つようにってお父さんがつけたんだぞぉ!」
「あなた、まだ楓には難しいわよ」
はりきって解説するお父さんを見て、お母さんはおかしそうに吹き出しました。
今は枯れかけたその木を見ながら、楓は思い出していました。
この庭にいつでも立って、静かに見守っていたあの姿を。
そして頭に浮かんだのは、黄緑色の小さな手。
手にした葉っぱを見つめて、楓は一人、微笑みます。おばあちゃんが言った言葉が、楓の頭の中で一つに結び付いていくようでした。
カエルさん、あなたは、もしかして……。
すっかりと切り倒されてしまった楓の木は、静かにその役目を終えたかのように横たわっています。
けれど楓には見えるようでした。あのまあるいカエルの目が、握られた楓とお母さんの手を見て、細められているのが。
不思議な不思議な魔法をかけてくれた、あのあったかいカエルの笑顔が。
黙ったままお父さんの作業を見ていた楓が、そっと口を開きました。
「あのね、お母さん。赤ちゃんの名前、かえでがつけてもいい?」
お母さんは顔をほころばせ、たずね返しました。
「あら、楓がつけてくれるの? 突然どんな風のふきまわしかしら」
楓はちょっぴり胸を張って答えました。
「だって、かえで、おねえちゃんになるんだもん!」
その答えに、家族全員が笑います。冬の夕日が、みんなを優しく包んで、暮れていきました。
さて、楓はどんな名前をつけるのでしょうか。
それは楓とあの黄緑ガエルだけが知っている、秘密なのかもしれません――。
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