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夜、冒険者の噂を酒のつまみに

夜がきた。


既に多くの人が入り、初めての接客業に緊張していた元奴隷の少女達も、今では忙しさに緊張感など吹き飛んでいた。


今回の接客担当は六人。アリシアなどの年齢の高いメンバーだ。厨房担当は中間の年齢層の五人。


ちなみに、今日からピアノの演奏をするということで客の注文などが少し落ち着くまで待っている。


ピアノの前の椅子にはエリエゼルが座っており、その隣にはピアノを間近で見聞きして勉強するためにソニアとクーヘが立っている。


食堂と厨房に居ない少女達は居住スペースの掃除などをしている。フルベルドとレミーアのヴァンパイアコンビはまさかの留守番である。


俺は厨房から食堂の様子を眺めながら料理と酒が行き届いたことを確認し、エリエゼルに向かって片手を挙げた。


演奏の開始を告げる合図である。


まあ、料理を食べながら泣いたり、酒を呑みながら興奮して叫ぶ輩もいるが、問題無いだろう。


俺がそう思ってエリエゼルを見ると、エリエゼルは軽く頷いてピアノに向き直った。


エリエゼルは近くに立つソニアとクーヘに何かを言うと、ゆっくりと鍵盤の上に指を置いた。


食堂で食事を満喫していた客の何人かもエリエゼル達の雰囲気に気付き、食事の手を止めて見入る者も現れだした。


そんな中、エリエゼルは透き通るような、シンプルな和音から音を紡ぎ出した。


ピアノから美しい音が鳴り響いただけで、食堂の喧騒が失われていく。


代わりに、ピアノから響く見事な旋律に誰もがエリエゼルの背中から視線を外せなくなっていった。


エリエゼルの手が僅かに数回動くだけで、俺は何の曲か分かった。


パッヘルベルのカノンである。


そして、中学校の時の合唱曲で歌った歌でもあった。


懐かしい、優しい旋律だ。


ゆっくりと進んでいたリズムが、少しずつ音を増やして賑やかになっていく。


誰もが聴き惚れるエリエゼルの演奏に、近くで聴いていたソニアとクーヘに至っては涙まで流している。


中々感受性が豊かで素晴らしい。


と思っていたら、食堂で食事をしている客の何人かも泣いていた。


そして、誰もが(しわぶ)き一つせずにその演奏の終わりを見守った。


曲が終わり、余韻まで全てを楽しみ終えた客達は割れんばかりの拍手喝采をエリエゼルに贈った。


エリエゼルは椅子から腰を上げると、客に向けて頭を下げる。


「次の演奏は、少々時間を置いてまたさせていただきます」


エリエゼルがそう言うと、歓声が上がった。


どうやら、皆またピアノを聴けると思って喜んでいるようである。


客が口々に興奮した様子でピアノや料理について語り合う中、俺は店員として働いている少女達にも、葉野菜とハムやチーズを挟んだサンドイッチを提供した。


交互にサンドイッチを食べて感動し、働きに戻る少女達を眺めていると、ソニアとクーヘが帰ってこないことに気が付いた。


エリエゼルのいる方を見ると、ソニアとクーヘがピアノの前に座って鍵盤を指で押して音を出してみている。


エリエゼルは二人に何か言いながら、二人の後ろからピアノの鍵盤をドレミの順番に押していた。


どうやら今すぐ二人にピアノを教えるらしい。


客の一部も興味深そうにその様子を見ているから問題は無いか。


俺がそんなことを考えながら自分用に出した生ビールを片手に呑んでいると、厨房から一番近いテーブル席に座る二人の男から気になる話が聞こえてきた。


「そういえば聞いたか? 伯爵の話」


「タムズ伯爵か? 殺されたとか何とか」


「馬鹿、お前。そんな話はもう古いんだよ」


「いや、今日の昼に聞いたんだが…」


「知るか。とにかく、最新の噂はタムズ伯爵は殺されたんじゃないって噂だ」


「は?」


は?


二人の会話に聞き耳を立てていた俺は、思わず聞き役の男と同じように疑問符を上げるところだった。


フルベルドからある程度の話は聞いているが、変態貴族はヴァンパイアになってしまったレミーアによって殺害されたはずである。


俺が不思議に思っていると、噂好きな男は得意げな笑みを浮かべて聞き役の男を見た。


「いや、死んでるのは間違い無いらしいぞ? ただ、自殺でも外部の者に殺されたわけでもないって噂だ」


「なんだそりゃ? 病気で死んだのか?」


「いいや…お前、邪神信仰を知ってるか?」


「ああ。あの怪しい宗教か。不死を求めていろんな奴らが裏で何かやってるっていう…」


「そう、それだ。どうやら、タムズ伯爵はその邪神信仰で不死を手に入れようとしたらしい」


「…で、失敗したってか?」


「それは分からん。失敗して死んだのか、何かを本当に召喚して生贄として殺されたのか」


「殺されたら不死も何も無いじゃないか」


「元々、邪神を召喚出来たら不死にしてもらえるってのは眉唾らしいからな。ただ、問題は…召喚された邪神は、いったい何処に行ったんだろうな?」


「おいおい…なんだよ、怖がらせるつもりか」


二人はそんな噂話に花を咲かせ、酒を呑んで今度は酒の話に脱線していった。


「ふむ…邪神ね。俺が召喚されたなんて話…ではないよな?」


俺はそう呟き、生ビールを口に流し込んだ。


どっちにしろ、よく分からないこの世界に来てしまったんだ。


前向きに考えるとしよう。


問題は、さっきの噂が本当だとしたら、伯爵が召喚した怪物を探す兵や冒険者なんてのが現れるかもしれないということだ。


つまり、こんな怪しい店が公に知られたら、真っ先に調べに来るに違いない。


兵が攻めてきたとしても、俺達がダンジョンの深部に逃げ込むための道は現在三箇所ある。


兵が突入してきたら真っ先に来るのは食堂だ。


そういう形で攻められたら、厨房か居住スペースからダンジョンに逃げ込むしかない。


元奴隷の少女達は最悪捕まったとしてもダンジョンマスターに囚われていたとされるかもしれないが、俺とエリエゼルはどう言い訳しても無理だ。


ダンジョンから出たら死ぬんだからな。


フルベルドとレミーアは戦闘力もあるし捕まるか微妙なところだが、朝に攻められたら負けそうだ。


一度避難訓練をしておこうかな。


塔の攻略方法は俺とエリエゼル、フルベルドだけが知っていれば問題は無いが、脱出経路を教えておかないと少女達を此処に置き去りにしてしまいそうだ。


まあ、今日来ている客の顔を見るとその心配はまだ先になりそうだが。


今日来ているのは、以前もこの店に来た兵士の集団である。


後、最初の客として来た二人の冒険者だ。


他に客は来ていない。つまり、新規の客がいないのだ。


密かに広まっているという状態が続いてくれれば、俺がダンジョンを深くする時間が生まれるだろう。


俺がそう考えて一人頷いていると、軽やかな鈴の音が鳴った。


誰かが外からやってきたのだ。


俺は一時思考を中断して食堂の入り口に目を向けた。


そこには、随分と物々しい格好の兵士らしき者が数人立っていた。


既に食事をしている兵士の面々との違いは唯一つ、武装しているかしていないかである。


俺は盾を手にした兵士達を眺め、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。



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