奴隷の行方
さて、固まってしまった老人を眺め、私は一歩魔法陣に近づいた。
どう見ても無意味な紋様だが、問題はその魔法陣の上で女が死にかかっていることだ。
一応、肩の辺りに紐を縛ってあり、血が流れ過ぎないようにはしてあるようだが、最早死ぬ目前だろう。
瞳から光が失われていく女の顔を見て、私はとりあえず一足飛びに女に近付く。
「なっ!? き、消え…っ」
私の動きを眼で追うことの出来なかった老人が何か言っているが、私は気にせずに女の首筋に顔を寄せ、女の血の匂いを嗅いだ。
予想通り、処女である。綺麗過ぎる肌を見た時から、この女は貴族の令嬢であろうと予測はしていたが、私の勘は冴えている。
「女よ。死にたくないか? 死にたくないのならば、首を縦に振り頷くが良い」
紳士たる私が一応女に声をかけると、女は微かに口を開いた。
私が女の言葉を聞こうと耳に意識を向けると、目の前に来た私に気がついた老人が驚愕の声を上げた。
「な、なんだ!? 何を言っておる! 生き返らせるとでも言うつもりか!?」
女がもう死ぬと理解しているのか、老人は怒鳴るような大声で私にそう叫んだ。
耳に意識を集中していた私は顔を顰めて老人を睨むと、牙を剥いて口を開いた。
「御老体、まだ死んでおらんぞ。まあ、死んだも同然だがな。しかし私ならば、この女に永遠の命を与えることが出来る。死なぬ身体になれば、この程度の傷なぞ瞬く間に癒されるだろう」
私がそう言って女に顔を向けようとすると、老人が半狂乱になって怒鳴った。
「な、なにぃっ!? え、永遠の、命…!? お、お前が永遠の命を…!? そ、そうか! 我が儀式は成ったのだな! わ、私だ! 私が、お前を呼んだのだ! さあ、私に永遠を生きる身体をくれ! 永遠の時間を!」
老人は泣き、笑い、悲鳴をあげるように叫びながら私を見た。
やはり、この儀式は不老長寿のための儀式であったか。悪魔を呼び出そうとしたのか、この老人の信仰する邪神を呼び出そうとしたのかは分からないが、全く意味の無い儀式だ。
私は老人の努力を鼻で笑い、命を失いかけている女の首に牙を突き立てた。
「う…」
微かに呻いた女の首に口を押し付け、血を吸った。
喉に流れる新鮮な血の香りと濃厚な味わい。
まるで熱いものが流れるように喉から胃に血が落ちていくのが分かる。
素晴らしい味だ。甘味、酸味、濃さ、仄かな苦味。
バランスの良い当たり年の果実酒のようなその処女の血を、私は存分に堪能した。
すると、女は背筋を反らし、床の上で跳ねるように身体を動かした。
直後、女を縛っていた縄が千切れ、口に噛まされていた布が破れて口から吐き出された。
「ヒッ、ヒァ…こ、殺してやる…殺して…」
女はまだ錯乱気味のようだったが、誰に何をされたのかは覚えているようだった。
腕の無い体で乳房を揺らしながら、女は同じく半裸の老人を血走った眼で睨んだ。
「す、素晴らしい! 本当に生き返ったのか! おお、神よ! 私はこれで、これで永遠の命を…!」
老人は歓喜に噎び泣きながらそう叫ぶと、両手を広げて私を見た。
私は困ったように笑い、肩を竦めて老人を見返す。
「残念ながら、私には醜い者から血を頂く趣味は無くてね。残りの余生を楽しみたまえ」
私はそう言って嗤い、呆気に取られたように固まる老人を眺め、地面に生えた美しい二つの腕を手に取った。
そして、錯乱中の女を見ながら口を開く。
「さて、間違えて反対に付けたらバカみたいだからね。動かないでくれたまえ」
私はそう言って女に近付くと、女は私を敵と認識したのか、牙を剥いて威嚇してきた。
元が美しい顔である。眉間に深い皺を作って牙を剥く姿もまた美しい。
だが、私に牙を剥くというのはいただけない。
私は女の無防備な腹を軽く蹴りつけた。
すると、女は扉まで吹き飛び、背中から扉に衝突して扉の形を歪めてしまった。
更に開きにくくなっただろう扉を眺めながら女に近付き、私は倒れたまま呻く女を見下ろして口を開いた。
「私はお前の主人だ。主人には、忠誠を誓うものだよ」
私がそう言うと、女はようやくまともな思考力を取り戻してきたのか、息を呑んで身を捩った。
「ほら、動くんじゃないぞ」
私はそう呟き、怯える女に腕をくっ付けた。
見る見る間に腕は繋がり、皮膚も広がるように伸びて傷口を覆い隠していく。
十秒もかからず、女は完璧な姿を取り戻した。
すると、くっ付いた腕に驚愕していた女は初めて自分が裸であると気がついたらしく、可愛らしい悲鳴を上げて両手で胸を隠す。
おお、早速繋がった両手が役に立っているじゃないか。
私は満足して頷くと、老人の方を振り向いた。
老人は胸を隠す女を呆然と眺めていたが、私の視線に気がついて短い悲鳴を上げた。
嗄れた、醜い悲鳴だ。
私は老人を冷めた眼で見据えると、奴隷について尋ねる。
「最近買った奴隷は何処にいるのかね?」
私がそう尋ねると、老人は狼狽しつつも私の眼を見返してきた。
「わ、わ、わ、私はし、知らん! 何の話だ!?」
そんなことを言いながら声を荒らげる老人に、私は首を傾げて扉に背中を押し付けている女を指差した。
「それではあれは、何かね?」
私がそう聞くと、老人は冷や汗を流しながら歯を食い縛った。
「せ、倅の女だ…今日見つけて奪ったのだ。私の願いのためには、怨みを抱えた女の魂が必要だからな…バカな倅がこれ見よがしに女を連れていたから目の前で奪い去ってやったのさ」
そう言って、老人は引きつり嗤いのような薄気味悪い笑い声を上げた。
私は苛立ちを覚えながら狂ったように笑う老人を一瞥し、扉の位置から動かない女に視線を移した。
「それで、どうするね? どうやら君は外れのようだし、好きにしたまえ。付いてくるならば、私と一緒に奴隷探しをして、その後は我が主の下に連れていってやろう。素晴らしき我が主をその眼で直接拝むことが出来るのだ。光栄なことだろう?」
私がそう告げて両手を広げると、女は顔を上げて私を見た。
「わ、私も、奴隷でした…もしかしたら、そのお探しの奴隷は…」
「なんと! あの狂える御老体の息子の伴侶になっていたのかね? 中々不憫な境遇と言えるな。私としては奴隷の方がまだマシな気がしてならないが…ああ、奴隷の件だが、君がたとえ目的の奴隷であっても、私が探しているのは十二人の奴隷である。つまり、まだ全員は見つけられていないのだよ」
女の告白に私がそう答えると、女は眉間に皺を寄せて老人を見た。
「…あのジジイを殺させてください。私は、彼奴を赦せない…」
どうやら、私の台詞を聞き、自身が持つ怨みを思い出したようだ。
私は頷いて女の傍に歩み寄ると、羽織っていたコートを女の肩に着せた。
「では、あの御老体は君に任せようか。ああ、君はもう以前の君とは違うからね。ただ思いきり殴ればいい。それで、御老体の無意味な人生は幕を閉じる」
私がそう言うと、女は浅く頷き、コートを両手で掴んで走り出した。
私からすれば、ただの眷属である女の動きは大した速度ではない。
だが、御老体からすれば女の姿が消えたと錯覚するほどの速度であろう。
その証拠に、老人に接近した女が老人を殴るためにコートから手を離し、結局半裸になって老人の顔面に拳を叩き込むまで、老人は呆けた顔のままだったのだから。
結果、私のコートが地面に落ちると同時に、老人の頭部は無数の破片と液体になって弾け飛んだ。
女は頭部を失った老人の体と自らの手を見比べ、私を振り向く。
私は無言で顔を顰めると、地面に落ちてしまった私のコートを指差した。
「きゃっ!?」
女は甲高い悲鳴を上げると、慌てて私のコートを拾い上げて自らの身体を覆い隠した。
全く。どうも気の抜けた部下が出来てしまったようだ。