ヴァンパイアのお仕事
我が名はフルベルド。フルベルド・ヴァームガルデン。
貴族にして錬金術士の第一人者でもある。
ヴァンパイアとなり、自らの領地と祖国を滅ぼし、我が世界では伝説と呼ばれた存在だ。
私は月の光すら届かぬ雲に覆われた夜の闇の中を歩きながら、そっと耳を澄ませた。
人の足音、怒鳴り声、声を押し殺して泣く少女の衣摺れの音、静かな寝息…。
耳に神経を集中するだけで、壁の向こう側だろうが建物の中だろうが、実に細かな音が聞こえてくる。
ヴァンパイアとなり、様々な身体能力が飛躍的に向上した私は、多種多様な実験を己に課した。
純粋な力、反射神経、視力や聴力などの感覚器官、体力や傷などの自然治癒力…。
全てが以前とは比べ物にならない数値であった。
つまり、夜の街を誰にも見つからずに歩くという任務でも、私にとっては自身の邸宅の中を散歩するのと変わらない。
遥か遠くにいる衛兵を事前に察知し、窓を開けようとする屋内の者がいれば陰に身を寄せてゆったりと歩く。
端から見れば、私はただ何も考えずに歩いているようにしか見えないだろう。
正直なところ、見られても殺せば良いだけなのだが、麗しの我が主が貴族の邸宅に誰にも知られずに忍び込めと仰せだ。
ならば、是非も無い。
音もなく、私は我が主に聞いた道を進み、目的の地へと辿り着いた。
他の建物とは一線を画す広大な敷地を高い塀が囲っており、出入り口らしき門には警備の兵らしき者共が数人で見張っている。
問題は、その大きな敷地は二つあるということだ。
我が主が言うには、本邸よりも次男の家がデカいわけは無いから、小さい方に目的の人物はいるだろう、とのことだった。
しかし、敷地を見る限りどちらも広い。
奥行きが違うのかもしれないが、入ってみないと分からないだろう。
私は溜め息を一つして、陰に身を潜めた。
入ってみれば分かるだろう。
兵達から見えないように通りを横断し、軽く跳び上がって門の脇の壁の上に足を下ろした。
高い壁の上から下を見るが、誰も気付いた様子は無い。
敷地の方に目を向けると、森をただ切り拓いたような下品な作りの庭と、奥の方に横に広い邸宅が見える。
ランプか何かを持って歩く兵もちらほら見えるが、あの森のような庭があっては意味が無いだろう。
私は壁を踏み付けて夜空に舞い上がると、森の中へ降り立った。
柔らかい土の感触を足の裏で感じながら、私は木の陰をゆるりと歩く。
庭のセンスは壊滅的だが、中々良い樹木と土を入れている。庭師は腕の良いものを雇っているのだろう。
私は気分良く夜の散歩を続け、くだんの邸宅へと辿り着いた。
三階建て程度の屋敷である。だが、横には中々広く、部屋以外にも灯りは灯しているようだ。
私は建物の側面の中で、濃い影になっている部分に足を乗せた。
壁に垂直になるように足の裏を置き、壁を歩いて登っていく。
こういう屋敷だ。間違いなく屋敷の主は最上階の奥の部屋だろう。
私は耳を澄ましながら、壁を歩いていった。
どの階にも警備の者が三人以上歩いているようだが、王都に居を構えていてこの警戒心は何なのだろうか。
余程恨まれているのか、秘匿したいようなやましい事があるのか。
それとも、ただの臆病者か。
我が主に目をつけられるような上級貴族である。臆病者という答えは面白みも無い上に腹立たしくもあるが。
私はそんなことを考えながら、屋敷の屋上に出た。
奥へ歩いていくと、気になる声が耳に届く。
女の悲鳴である。華麗で美味しそうな甲高い悲鳴ではなく、くぐもった呻き声のような悲鳴だ。
この館の主は色狂いの変態か、それとも拷問マニアの変態か。
私は胸を躍らせて最奥の一室の壁に立った。
ぐるりと部屋の周りを見て回るが、どうも窓は見当たらない。当たり前か。
私は仕方なく、警備の者が二人いる廊下の窓を指で切り裂いた。
「な、なんだ…!?」
キィ、と音を立てて切り取られた窓は、まるで自身の重さを思い出したように庭の方向へ落ちていく。
私は地上でガラスの割れる音を聞き、顔を僅かに顰めながら廊下へと侵入を果たした。
私の存在に逸早く気がついていた警備の兵は、私が廊下に現れると同時に剣を抜いて口を大きく開けた。
あまりに遅いその兵士の動作に、私は廊下を進みながら身体を捻り、右足を軸にしてターンを決めた。
そして、兵士が叫ぶ前に右手を兵士の首へと突き入れる。
ズブリと私の指が兵士の首を貫通し、兵士は口を上下に開閉させて私を見つめた。
さて、後は奥にもう一人兵士がいるが、まだこちらを振り向いていない。
私は穴の開いた窓から死にゆく兵士の身体を投げ捨てると、音も無く先程の気になる部屋の方へ歩いた。
一秒か二秒程度の時間だ。
まあ、見つかる前に部屋には入れるだろう。
私はそう計算し、重厚な扉の四角い棒のようなドアノブに手を掛けた。
そして、力を込める。
金属のひしゃげる音と捻じ切れる音が響き、扉は開かれた。
私は人一人分の隙間が開いた扉を潜り抜けて室内に入り、扉を後ろ手に閉めた。
壊れた扉を無理やり閉めたので、もう開かないかもしれないが、私には関係無いことである。
室内に入ると、意外と広い、奥行きのある部屋であることがわかった。
木の板ではなく、石の板を重ねたような床だ。壁も石材を使い、その上に木の板を貼ってあるようだった。
女の悲鳴の反響音から、室内はかなり防音に気を使っていることが分かる。
「だ、誰だ…」
嗄れた年寄りの声だ。
私は神経質そうな男の声に首を動かし、部屋の奥に顔を向けた。
赤い魔方陣のような記号が描かれた床の上に女が寝かされており、その奥には半裸の高齢な男性の姿があった。
骨が浮いて見える瘦せぎすの老人は、長く伸びた白髪の隙間から濁った黄色い眼で私を見ている。
その足元で縛られたまま床に転がされている女は、赤い髪を振り乱し、口に布を噛まされた状態である。
女が我が主の求める安売りの奴隷とやらなのかは分からないが、どうもギリギリな状態に見える。
なにせ、腰に一枚布を置かれている以外は裸の状態なのだが、腕が両方とも無いのだ。
よく見ると、魔法陣を取り囲む複数の蝋燭の中に、女の手が紛れ込んでいた。
地面から生えたような形で立つ女の手は、ほっそりとしつつも肉感があり、見事な芸術作品に見えなくもない。
が、それを伝えても我が主は喜ばないだろう。
私は顔を上げると、警戒心も露わにこちらを見る老人に微笑みかけた。
「精が出ますな、御老体。ところで、何をしておいでかな?」
私がそう言って笑うと、老人は目を丸くして私の顔を凝視し、言葉に詰まってしまった。