モミジと小説家
「来たな、小説家」
背後に気配を感じ、日向モミジは振り返らずにいった。
放課後、グラウンド脇の木陰。モミジの目線は、サッカー部の練習風景に注がれたまま、揺るがない。
小説家こと佐方三郎は、木のうしろから姿を現した。モミジの隣に腰を下ろす。
「なぜ僕だと。いやそんなことより、もういい飽きたが、君は一年、僕は二年だ。敬語を使ってはどうかな、日向モミジ」
「もう聞き飽きた、小説家め。小説のネタだかなんだか知らないが、迷惑だ、心から」
「それこそ聞き飽きたな。この未来の小説家、興味あるものへ妥協はしないのだ。君の取材をするまで、僕は諦めん」
「ストーカーじゃないか」
目線は決して合わせなかったが、二人の目から飛び出した光線は、物理法則を無視して空中で屈折、ぶつかり合って火花を散らしていた。
二人の戦いは、もう数ヶ月にも及ぶ。
赤味噌高校でその名をとどろかす、自称未来の小説家、佐方三郎──小説のネタになりそうだという、ただそれだけの理由で、ターゲットとなる人間の触れられたくない部分や、忘れたい過去、癒えきっていない傷口をえぐり出すという、学校一の有名人。ターゲットとなった人間は、彼の興味が尽きるまで、とことんまで観察されるのだという。校内はもちろん、校外であっても──具体的には、家のトイレ、風呂、寝床までもの密着取材。以上、すべて噂に過ぎないが。
モミジが彼につきまとわれるのには、理由があった。
彼女の見つめる先、グランドのフェンスのさらに向こうで、サッカー部の赤いゼッケンが複数踊っている。大勢からたったひとり、そのひとりを、モミジが見失うことは決してない。
サッカー部副部長、佐々木吉長。
四月の入学式に一目惚れ、それから約八ヶ月、絶賛片思い中だ。
その理由を、知りたいのだという。この自称未来の小説家は。
「ストーカーというなら、君こそだろう」
赤い表紙のメモ帳を広げ、小説家は淡々と言葉を紡いだ。
「君は、2Aの時間割を完全に把握しているな。移動教室のたびにすれ違っている。弁当持参のくせに、佐々木吉長を一目見るため、昼は毎日購買へ。放課後には、飽きもせず部活見学。そんな君にストーカー呼ばわりされるとは」
「そういうのはストーカーとはいわない。恋する乙女というのは、等しくそういうものだ」
ずばり指摘されても、モミジはひるまなかった。小説家のいっていることはすべて本当だ。本当だが、それのどこがいけないのか、という思いがある。だれかに迷惑をかけているというわけでもない。
小説家は、ため息を吐き出した。メモ帳を閉じ、横目でモミジを見る。
「常々いっているが、僕にはどうしてもわからないんだ、日向モミジ。佐々木吉長といえば、いままでに泣かせた女は数知れず、女たらしの代名詞のような男だ。そんな男に、そこまで惹かれる理由はなんだ。僕につきまとわれるのが嫌なら、答えてもらおうか」
「顔」
実に簡潔に、モミジは答えた。
一瞬、ときが止まる。
長い長い時間をかけて、小説家がモミジに向き直る。驚愕のあまり、顎が外れそうなほどに開かれている。
「もちろん、冗談だ」
「…………なんてわかりにくい冗談だ。君のセンスには脱帽する」
本当に帽子があったら脱ぎそうな顔で、小説家が呻いた。モミジは笑った。
「呆れるほど単純な理由だ。たった一度、とおりすぎる景色のなかで、幻のような笑顔を見てしまった。ひどく優しい笑顔だった。それから、彼の性癖を知った。二股三股はあたりまえ、泣かせた女は数知れず。けれど、なにか計り知れないたくさんのものがあるのだろうと、勝手に思ったんだ──ならば救いたいと、思った。数多の相手を泣かせるたびに、自分も泣いているのではないかと、そんなふうに思ってしまったから」
こんなことを誰かに話すのは初めてだった。小説家は黙って聞いている。その顔を見るのはどこか怖くて、モミジは佐々木吉長から目を離さなかった。休憩時間なのだろうか、仲間と集まって、なにやら談笑している。
モミジは息を飲んだ。
信じられないことが起こった。
佐々木吉長が、こちらを見た。遠い距離だったが、モミジは、目が合ったのを自覚した。
「……どうしよう」
流れ出たのは、自分でも驚くほどの、震えた声だった。モミジは身じろぎができなくなってしまった。すぐに立ち上がって、逃げ出すこともできるのに、身体が動かない。
「絶好の機会、というやつではないのか」
淡々と、小説家の声。だがモミジは、それどころではない。
モミジの見ている先で、佐々木吉長がこちらに向かって歩き出していた。身軽にフェンスを乗り越えて、高い位置から飛び降りる。フェンスという、放課後の二人を阻んでいたはずの絶対的な存在は、いとも簡単に取り払われた。彼はまっすぐにモミジに向かってきた。傾斜を登り、目の前に立つ。
「あのさ」
決して自分に話しかけられることのなかった、低くて甘い声が投げかけられる。モミジはびくりとした。どう返事をすればいいのか、見当もつかない。
気を利かせるつもりなのか、小説家が立ち上がるのがわかった。気配が遠のく。
佐々木吉長は、モミジを見下ろした。腰を曲げ、紅潮した頬に、手を伸ばす。
「オレのこと見てるよね、いつも。──好きなの?」
モミジは、自分の心臓の音を乗り越えて彼の声が届いたことが、いっそ不思議なぐらいだった。比喩ではなく、本当に、爆発しそうだった。溶けそうな声と、熱。触れられている左の頬に、全神経が集中する。
好きなの、という、その問いの意味すら、理解するのに時間を要した。
やっと脳にまで信号が届いて、モミジはほとんど上の空で、うなずいた。
「好き、です」
自分のものではないような、うわずった声になる。
瞬間、佐々木吉長の表情が、奇妙に歪んだ。人を見下した笑みの形に、唇がねじ曲がる。
「マジで?」
彼はひどくおかしそうだった。それからモミジに背を向け、フェンスの向こうの仲間たちに声を張り上げた。
「おい! やっぱ、こいつ、オレのこと好きなんだってよ! いったろ、自意識過剰なんかじゃねーって。マジでこいつにストーカーされてんだって。やべえ、被害届出さねえと」
鈍器で殴られたかのように、モミジの意識が揺らいだ。
赤いゼッケンたちが笑っている。
通りすがりの生徒や、ほかの部活の面々も、注目しているのがわかる。
遅れて、羞恥が追いついた。頬が一気に紅潮して、目頭が熱くなる。どういうことなのか、理解するのはいとも簡単だった。
まるで相手にされていないのだ。
馬鹿に、されているのだ。
佐々木吉長は、もう一度振り返った。モミジの耳に口を寄せ、甘い甘い声で囁く。
「ねえ、あんたさ、気持ち悪ぃよ。せめてもっと美人になってさ、それから出直してくれない」
「────!」
モミジの言葉は声にならない。しかし、なにごとかを口にする前に、佐々木吉長の身体は後方に倒れた。
拳を突き出して、顔を真っ赤にして立っていたのは、小説家だった。
彼は、一目でそうとわかるほどに、怒りに溢れていた。唇をわななかせ、しかし言葉を発するわけではなく、たったいま殴り倒した佐々木吉長を燃えるような目で見下ろしている。
「っんだよ、てめえ。小説家じゃねーか。ケンカ売んのかよ!」
「煩い」
小説家が再び拳を振り上げる。しかし、すぐに立ち上がった佐々木吉長が反撃する方が、彼の挙動の何倍も早く、強烈だった。小説家の華奢な体躯は軽々と殴り飛ばされ、体勢を持ち直すまでもなく、第二撃、三撃を見舞われる。
モミジは、目の前で繰り広げられる惨状を、スクリーンの向こう側の出来事のように、ぼんやりと見つめていた。思考が追いつかなかった。なにが起こっているのだろう。なぜあの憎たらしい小説家が、どう考えてもケンカになど向いていない男が、彼を殴ったのだろう。どうしていま、いいように、返り討ちに合っているのだろう。
ひとしきり殴りつけて、つばを吐き捨てると、佐々木吉長はモミジには一瞥もくれず、再びフェンスの向こうに戻っていった。
顔面に血を滲ませて、小説家が芝生の上に転がっている。
やっと我に返って、モミジはポケットからハンカチを取り出した。小説家の血を少しだけ拭ってやり、あとは自分でやれとばかりに押しつける。
「……これで充分だな」
自嘲気味につぶやいた。小説家が、かすんだ目をモミジに向ける。
「なにがだ」
「ネタだよ。恋に落ちた理由も聞いた、おもしろい結末も見た。ついでに参加もした。充分だろう」
小説家は答えない。
寝転がったままで、彼は赤い表紙のメモ帳を取り出した。目の上が腫れて、そんな目で何が見えるのかというほどだったが、それでもページをめくる。
赤く染まる空の手前に、小さなメモ帳。ちらりと、モミジも横からのぞき込む。そこには、字など書かれていないように見えたが。
「あと一つだけ、聞きたいことが」
懲りずに、小説家はつぶやいた。
モミジは苦笑した。もう笑うしかない気分だった。ごろりと、小説家の隣に寝転がる。
そうしたら、涙が出てきた。
重力に逆らってまで耐えてきたのに、字面と平行になったことで、突然気がゆるんでしまったかのようだった。ぼろぼろと、あとからあとから、熱いしずくが流れ出る。
たぶん、モミジの恋は終わった。
本当は始まってもいなかった、それでもモミジにとっては全力の、幼稚な幼稚な恋。
目を開けていられなかった。モミジは手の甲で目元を隠した。
「なんでも、答えてやる。聞けばいい」
しゃくりあげるようなみっともない声だったが、それでも精一杯の虚勢を張る。
隣の気配が、動いた。
なにも見えない世界で、唇に、あたたかい感触。
息が止まるかと思った。
モミジは目を見開いて、隣を見た。
「──いまここで、僕が交際を申し込んだら、君は承諾してくれるだろうか」
声など出ようはずもなかった。
なにもかもが突然すぎて、モミジの頭がぐるぐると回る。
初めてまともに見た、小説家の真剣な瞳。気を抜いたら吸い込まれそうで、モミジは慌てて目を逸らす。
「するわけがないだろう」
自分のものではないような声が、こぼれる。
小説家が、メモ帳を閉じた。少しだけ咳き込んで、モミジのハンカチで頬の血を拭う。
「なら、聞き飽きるまでいい続けるとしよう」
「なんだそれは」
モミジは思わず、吹き出した。泣きたい気分はどこかにいってしまっていて、心の中で少しだけ、小説家に感謝する。
終わってしまった小さな恋。
けれど、この男との奇妙な関係はまだ続きそうだと、悪くない予感を胸に。
読んでいただき、ありがとうございました。
恋愛モノに挑戦、と思ったのですが、難しいです。精進します。