FILE.5 決別の時
何かが壊れる音。それが、どんな音だったかはもう覚えていない。壊れたのは、そう、音を立てて崩れたのは目に見えるものではなかった。信頼とか、自信とか、きっとそんなものだったのだろう。漠然とした…欠落した感情。
黒いソファに座るように勧められたコナンは、言われるがままに虚ろな目で腰を下ろした。ポケットの中で硬いものが太腿の辺りに触れ、コナンは先ほどベルモットに渡された物を思い出していた。
何の為に、彼女はこれをくれたのか。そんな事さえ、今は考える余裕は無い。
上目遣いで敵の様子を見ながら、コナンは黙ったまま向こうが口を開くのを待った。
「新一、何があっても博士を恨んではいけないよ。彼は今までお前が信じていたように、人柄のいい人だ」
最初に、言い聞かせるように言った言葉は、自分が何故組織に関わるようになったか、そもそも何故此処に居るのか、と言う事とは無縁な言葉だった。もしも言い訳めいた事を言えば、この、今までは密かに尊敬の眼差しで見ていた父親を、軽蔑出来たのかもしれない。
「博士はずっと私に罪悪感を感じていたんだ。私が裏の世界へ入ったきっかけが、少なからず彼と繋がっていた為に」
「何だよそれは」
コナンの瞳から、虚ろな色が消えうせ、怒りの炎が見え隠れした。
「そもそも、何で父さんが犯罪の巣窟みたいな組織にいるんだ!俺を殺そうとしたり…どうしてAPTXを開発させたんだ!協力的な態度は、全部見せかけだったのかよ…」
心に開いた傷口から、血の如く、言葉が溢れて流れる。優作は、じっと身じろぎもせず、何かを躊躇っているようだった。
「お前を殺そうとしたのは、ジンの独断だ。第一、取引現場を見られたと言う偶然の産物だった。あの時、お前が小さくなったと博士から報告を受けたときには本当に驚いた…だが解毒剤を作れるのは彼女しかいない」
「話してくれよ、父さん」
その一言で、言いたい事は伝わったようだった。優作は座りなおしゆっくりと口を開く。余裕のある父親とは対照的にコナンは一度、深呼吸して気分を落ち着けた。
「小説家として売れ始めて三年目、私は長いスランプに悩まされた。話の構想は浮かんできても、トリックが浮かばない。しかし、読者をあっと言わせるような仕掛けを作りたかった。博士に相談した時に自分よりも物理や化学方面に長けている人物がいる、と紹介されたのが彼だった。そちらの方面では有名だった科学者、宮野厚司だ」
過去を懐かしむような穏やかな瞳は、闇に染められた男を一瞬だけ無防備に光らせた。
予想外の名前に一瞬戸惑った。いつか灰原に死んだと聞かされた、彼女の父親の名前。コナンの背中を、嫌な汗が伝う。
「そしてその内に、彼の自宅の研究所で、様々なトリックを考えたり、私も知らない知識を教わったりして、懇意にするようになった。時には有希子―母さんも連れて、家族ぐるみでね。そしてしばらくして、宮野が作った小さな研究グループに参加するようになった」
「研究グループ? それが、組織の前身か」
「そうだ。もちろん、母さんは裏の顔は知らない。その研究グループを、宮野は『パンドラ』と名付けた」
「開けてはいけない、禁断の箱…?」
優作は小さく首を振った。
「我々は"思いがけない災いの根源"と言う意味で使っていた。科学は時に凶器になる。それを忘れない為にもな。宮野を始めとする科学班、宮野の細君・エレーナが指揮する薬学班。優秀な人材が揃っていたし、それぞれがプライドの元に競い合って、新種の薬やウィルスを開発した。それが次第に、犯罪を増幅させてしまうと知らずに」
常識を遥かに超える技術を手にしたとき、多くの場合、人間は闇に手を染める。きっと、優秀であり、科学の力を良く知っている彼らとて例外ではなかったのだろう。
「それからは段々研究所に人が集まるようになった。本拠地を此処に移し様々なチームを作り上げて間も無く、宮野の細君が不慮の事故で亡くなった。そして、二年前、宮野は死んだ」
曇った優作の顔を見ながら、コナンは心の中で途方に暮れる。灰原にとっては最悪な結末だ。何しろ、両親が黒幕だったのだ。
「私の小説はまた売れ始め、一作一作がベストセラーとして世間を騒がせた。昔の栄光を取り戻すことができた―」
ほのかに微笑を浮かべ、恍惚の表情で言葉を噛み締めている父親にコナンは苛立ちを隠せなかった。いや、隠そうともしなかった。
「所詮、人の犠牲の上に成り立った三文小説、ってワケか」
優作の表情がガラリと変わる。
「違う!私のせいじゃない。あれは、全てジンたちが勝手にやったことだ。もう、私が止められないほどに、組織は巨大化してしまった。…今更、私にどうしろというんだね、新一。そう、私は、私は悪くない、悪くないんだ」
自己弁護を繰り返す父親に落胆する。自分が小さな頃から見てきた背中の裏にこんな醜い男の顔があったとは。
頭を抱え、首を振り続ける苦悶に歪んだ男の姿は、もはや冷静沈着、頼もしい父親の姿とは似ても似つかなかった。
「母さんは、この事を知っているのか?」
「あぁ…有希子には深入りさせていないが、恐らく気付いているだろうな」
「ハッ…俺は両親に騙されていたってワケだ。ハハハ…」
自嘲気味に笑えた自分が悲しかった。これ以上この場所に居る必要は無い。コナンはソファから立ち上がり、もう一度、黒幕に視線を向けた。
「…最後に一つだけ。APTX4869のデータは何処にある?」
既に親子の関係ではなく、探偵と犯罪者としての口調を露わにした息子に優作は力無く首を振った。
「ジンが何処かに隠してしまった。私にはもう、どうする事も出来ない」
深く皺が刻み込まれた眉間に、コナンは絶望した。
「そうか…じゃあな」
…父さん
その言葉を飲み込んで、コナンは早足でその部屋を後にした。最期に、父がどんな顔をしていたのかは、後になっても解ることは無かった。
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