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月への供物
作者:かなめ

あまり自信がない。
どうしてこんな風になったんだろう。
 鈍い音と共に、彼の頭はかち割れた。
 彼の体は背後の壁に寄りかかり、そのまま床に崩れた。いきなり殴りかかったので、悲鳴を上げさせる間もなかった。彼は何が起こったのかわからないままに死んだのである。
 頭部から流れ落ちる血に染まった顔には、苦悶の色が見られない。即死したのが彼にとって唯一幸運だったことだろう。
 私はほおっ、と息を吐き自分を落ち着かせる。一時的な興奮は直ぐに過ぎ去り、驚くほどの冷静さを取り戻した。
 自分の手に少し返り血がついていた。無論凶器にはべったりだ。幸い衣服にはまったくと云っていいほどついていない。これなら誰にも気づかれることはないだろう。
 ほぼ無計画の殺しにしては上出来だ。
 だがこれで終わったわけではないのだ。それどころか、ここで止めてはなんの意味もない。
(気を抜くな)
 私は自分にそう云い聞かせると、次の行動に移った。
 凶器の火かき棒を一度ベットに放り出し、壁にかけられているコートを着た。私が今殺した神田英作の持ち物である。
 きちんとブラシがかけられ、クリーニングにも出されたらしくほとんど汚れていなかった。大切な物だったのだろうか。自分の衣服を汚しさない方がいいと思ったのだ。申し訳ないが、このコートに身が代わりをやってもらう。
 返り血の対策が済むと、私はベットの火かき棒を手に取り彼のいるところに戻る。
 彼の前に立ち、もう一度観察した。
 割れた頭部からの出血はだいぶ止まっていた。もともとたくさんは出ていなかったのだ。彼が即死したのは出血のせいではなく、脳座礁の為だろう。
 ぴくりとも動かないその体を眺めていると、ほんの少し前まで生命活動を行っていたようには思えなくなってくる。死というものがあまりに呆気なく感じた。私も一瞬の内に、単なる有機物の塊となる時が来るのだろうか。その瞬間、私はどう思うだろう? いや何も思えないに違いない。思う間もなく、唐突にやってくるのが死なのだから。
 彼には申し訳ないと思っている。こちらの都合で一方的に命を絶ってしまった。彼には何の落ち度もない。私に対して何かをしたわけでもないし、特別非礼な態度をとったわけでもない。本来なら私に殺されるはずなどない人間だ。
 そもそも死ぬのは彼でなくても良かった。彼を選んだのはただの偶然であり、別に誰でも構わなかったのだ。それが血の通った人間でありさえすれば。
 私は目を閉じた。客室には防音処理が施されている。狂犬のように荒れ狂う風が窓を叩く音しかしない。それもしばらくすると勢いが弱くなり、静寂が支配し始めた。
 あの声の主は、これを見ているだろうか? 見ているに違いない。今まさに彼の為に供物を差しだそうとしているのだから。
 目を開けると、窓から光が差し込んでいることに気づいた。まだ真夜中前なのだから、無論日の光ではない。
 窓に近づき夜空を見上げた。
 墨汁をぶちまけたように真っ黒な中に、それがぽっかりと浮かんでいた。青白い満月が。
「さあ早く」
 月が私に語りかける。
 何度聞いても硝子のように壊れやすく、繊細な声だ。今までに聞いたどんな音楽よりも美しい。
 今夜ふと月を見上げた時、この声を聞いた。その声の美しさ、降り注ぐ月光の妖しさに私はすっかり虜になったのだ。
 月は私に云った。
「血が欲しい」と。
 だから私は神田英作を殺したのだ。彼の血を月への供物とする為に。
「血を」
 わかっている。
「早く血を。ワインのような血を早く」
 私は火かき棒を彼の頭に降り下ろす。ぐじゃり、と嫌な音がした。だが月の美しい声がその不快感を拭った。
「そうだ。もっと、もっとだ」
 安酒をあおったようにぐらりぐらりと世界が揺れる。私は酔ったようにふらつきながら凶器を振り上げる。
 強く彼の頭を殴り、血を絞り出す。びっ、と血がコートに飛び散った。
「まだだ。まだ足りない」
 彼の壊れた眼球がこちらをじっと見つめていた。しかし私は容赦なくそれを叩き潰す。
 まだ、足りないのか?
「ああまだだ。まだ満足できない。もっと血を。さあ早く」
 ならば、と私はまた凶器を降り上げる。
 さあ好きなだけ喰らうがいい。


 毎年のように続く異常気象のご多分に洩れず、この冬も酷く冷え込んだ。
 一月に四十路を迎えた私の体に、その寒さを強く堪える。場所柄のおかげで、さほど雪が降らないのことが唯一の救いだった。
 腕時計に目をやると、約束の時間を五分ほど過ぎていた。O君が遅刻するとは珍しい。いつの彼ならとっくにきているはずだ。
 私は店内のBGMに耳を傾けながらコーヒーを啜り、もう少しO君を待つことにした。もともと私はあまり時間にうるさい方ではないし、空想癖のある私は退屈というものを経験したことがない。
 雰囲気が気に入っているので、この喫茶店にはよく足を運ぶ。ブレンドコーヒーがいつもよりほんの少し苦かった。
 半分ほど飲み干したところで、カランカランと来客を告げるドアベルが鳴った。ひょっこり首を出して入り口を見てみると、入ってきたのはO君だった。こちらに気づいたらしく、O君は真っ直ぐ私のテーブルにやってきた。
 私の担当編集者のこの男はほっそりした体つきの優男で、私より四つほど年下。七年前に私が作家になったときからの付き合いだ。仕事ではそれなりに有能なのだがどこか間が抜けている。
「いやぁすみません、遅れてしまって」
 O君はそう云いながら椅子に座ると近くに居た店員にコーヒーを注文した。
「別に構わないけれど、君が遅れるなんて珍しいね」
 私はまたコーヒーに口をつけながら云った。
「このところ、少しごたごたしてましてね。ちょっと忙しいんですよ」
 O君はポケットから煙草を一箱取り出した。彼愛用のメンソールである。
「ふうん、それにしても相変わらずメンソール? いつもそれでよく飽きないね」
「何を云うんです。綾中さんだっていつもマイルドセブンじゃないですか。
 ああそうそう、ゲラ、持ってきましたよ。来週までにチェックお願いします」
 煙草に火をつけると、O君は鞄の中をまさぐって、それをテーブルの上に置いた。表題に"悪魔館の惨劇”と銘打たれたこのゲラは、今度の私の長編小説のゲラだった。これを受け取ることがこの会見の目的だ。
 マイルドセブンをくわえると、私はそれをぱらぱらとめくる。半年かけて書き上げたこの長編にはそれなりに自信があった。
「編集部じゃあそれなりに評判ですよ。今までで一番いいんじゃないかって」
「おだてたって何もでないよ」
 私は満更でもなさそうに云った。O君は人を持ち上げるのが上手い。
「来週まで?」
「来週までです」
 なら徹夜も覚悟しなくてはいけないな、などと思っているとO君が、
「綾中さん、次はどうするつもりです?」
「えっ、次?」
 私は言葉に詰まった。
「いやぁ、まだ考えてないよ。ただ主人公を変わった奴にしようかとは思ってるんだけど」
 ぼんやりとアイディアは浮かんでいたけれど、まだ人にはなせるような段階ではなかった。
「変わった奴と云うと?」
 そんな気持ちを知ってか知らずか、O君は鋭く訊いてくる。まるで尋問されているような気分だ。「ええと、そうね。幽霊とか妖怪とかお化けとかなんて考えてるんだけれど」
「はあ、ドラキュラですとか狼男?」
 まあそんなところかな、と答えながら私は想像を膨らませた。狼男が安楽椅子でパイプをくゆらせる……怖いな。

 喫茶店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。まだまだ日は短い。O君と別れて私は家路に着いた。
 冷たい風が勢いよく私の体に吹き付ける。コートをしっかり押さえながら、私は足を進めた。ゲラは手の鞄にしっかりと納めてある。
 大通りをしばらく北へ進んだ後、角を向かって右に折れる。すると裏通りに入り、私のマンションへの近道になるのだ。
 曲がった途端、しん、と静寂が私を包んだ。大通りにあった人気がなくなって、狭い道に私は一人っきりになっていた。
 こっ、こっ、と足音を響かせながら私はどんどん奥へ進むと、それに従って、辺りは寂しくなっていく。民家はあるのだけれど人の気配がしなかった。いや、人どころかあらゆる生き物の気配もしない。
 私はふと足を止めると、きょろきょろと周囲を見回す。何も視界に入らない。誰も、何も。命あるものは何一つなかった。あるのはただ静寂。
 まるで私一人だけが、ここに取り残されてしまったような気がした皆どこへ行ったのだろう? 私を残していったいどこへ……?
 ぶるぶるとかぶりを振って、馬鹿な妄想を振り払う。コートの襟を整えると、私はまた歩きだした。
「──血を」
 おや、と思って私は足を止めた。
 ──今……何か聞こえたような。
「足りない」
 足りない? いったい何が?
 妙な感覚に捕らわれた。氷よりも冷たい何かが、私の中から吹き出してくるような──。
「──さあ」
 この声は……。
「さあ早く」
 どこかで聞いた。いつか聞いた。ずっと昔のようで、それでいてついさっきのような。
「足りない。血が足りない」
 ああそうだ、これはあの夜──あの夜? いったいいつのことだ? 私はいつこの声を聞いた?
 私の中からますます冷たい何かが吹き出してくる。それは段々と私の体温を奪い始めた。ぶるっ、と身震いする。
 そうだ、これは十二年前の──。
 忘れていた。ずっと今まで。なぜ思い出してしまったのだろう? 思い出したいはずがない。あの忌まわしい夜、あの忌まわしい満月……そうだあの月が私に彼を殺させたのだった。私は神田英作の血をあの月に捧げた。
 安酒をあおったように、ぐらりぐらりと世界が揺れた。私はふらふらと足を進める。
 ──まだ、まだ足りないと云うのか。
 ぼんやりと顔を上げた。空を見る為だ。墨汁をぶちまけたような漆黒の夜空、その中にぽっかりと浮かぶ満月。
 妖しい月光を放ちながら、それは私を惑わすように語りかけるのだ。硝子細工のような繊細な声で。
「足りない」
 ──そうだ足りない。また血を捧げなければならない。溶岩のように煮えたぎる血を。
 目を閉じるとあの光景が鮮やかに蘇る。一つ殴る毎に手に伝わる重い衝撃、吹き出すどす黒い血、崩れてしまった彼の顔……。
 そうだ、十二年前の今日、私は人を殺したのだ。


 気がつくと、私は安楽椅子に座っていた。
 ゆっくりと周囲を見回す。見慣れた壁紙、見慣れたカーペット、見慣れた家具……。ぼんやりとした意識の中で、ああ私は自分の部屋にいるのだな、と認識した。どうやって行きついたかは覚えてないが、私はいつの間にか自分のマンションの仕事部屋に帰りつき、愛用の安楽椅子にもたれていたのだ。
 茶色いトレンチコートが傍らに落ちていた。先ほどまで着ていたものだ。
 私はぼうっとしたまま椅子から起きてコートを拾い、それを壁にかけた。そのまましばらく立っているとしだいに頭がはっきりしてくる。すると、帰り道での事がぽつりぽつりと思い出されてきた。
 けれども、あの声はもうしない。
 私は部屋の窓辺に目をやった。無味で紺の厚いカーテンがひかれている。あれを開いて夜空を見上げれば、そこには月が浮かんでいるのだろう。暗黒のそらにぽっかりと浮かぶそれは、血を欲しているのだろうか。けれども私にはカーテンを開けてそれを確かめる勇気がなかった。
 脳裏にはあの光景が浮かんでいた。十二年前のあの光景が。
 狂ったように亡骸の頭を割続ける私の姿──狂ったように? いや違う、私はあの時確かに狂っていたのだ。そうでなければ誰があんなことをするものか。
 鉄の臭いが鼻をつく。はっ、として思わず尻餅をつくと何かに触れた。針で突くような冷たさを感じて、手を引っ込めると繊細な音が響いた。そうそれはちょうど、液体が跳ねるような──
 私は飛び上がって部屋の隅まで後ずさった。血の海の中に、神田英作が横たわっているのを見た。
 きゅっと瞼を閉じる。とにかく目を背けたかった。私の犯した罪から逃げ出したかったのだ。

 ふっと臭いが消えたような気がして私はこわごわ目を開けた。血の海は枯渇していた。彼の亡骸も消えていた。
 ほおっ、と息を吐いた。こんな幻覚がずっと私を苦しめ続けるのだろうか。これは罰なのかもしれない。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。昨日まではこんなことは起こらなかった。あの夜のこともすっかり忘れていたのに。
 ふっと別の疑問が頭をよぎった。
 そもそもどうして私はこんなことを忘れることができたのだろうか? 忘却への逃避、というものを聞いたことがあるがおそらく違う。そうだ、私は忘れる為に何かしたはず──。
 私は壁にある一枚の絵の前に立った。
 ──そうだ、この裏に。
 額縁を壁から取り外して裏を見ると、茶色い大きめの封筒が張り付けられている。私はこの中にあの夜のことを閉じこめたのだ。
 私はまた安楽椅子に腰掛けた。琴線のような張りつめた空気がぞわりと体をなでる。
 封を破る指が震えていた。中の物を引っ張り出すのに何分もの時間をかけた。まるでパンドラの箱を開けているような気がして。
 ようやく取り出したそれを一度デスクに置く。私の狂気が込められた原稿を。
 この幾枚かの紙片には、あの夜のことが克明に記録されている。つまりこれはあの夜を描いた小説であると云える。少し滑稽なような気もするが、当時の私は真剣にこれを書いていたし、実際今夜まではその狂気がぶりかえすことはなかったのだ。それに物書きの私には、これ以上にいい方法がないように思えて。
 小説、とこれを表現したが、描かれていることに何一つ嘘はない。
あの夜の狂気と記憶を全て閉じこめてしまおうとしたのだから当然といえば当然ではあるが。登場する人物も全て実名であるし、その人物が行った仕草や発言も全てあの夜実際にあったことだ。その中には私自身も勿論存在している。当時の私はあの夜の出来事ならばどんな些細なことも頭の中に焼き付いていたのだ。
 気を落ち着ける為に、私はマイルドセブンを灰にした。突き抜けるような苦みが体全体に染み渡る。吸い殻を灰皿に押しつけた時、壁掛けの丸時計が小さく鳴った。
 私はゆっくりと原稿に手を伸ばす。
 パンドラの箱を開けることにした。


     *


 あの夜を、ここに小説として記録することにした。
 仮想現実の世界に押し込めることですべてを忘れたいと思ったのだ。
 この小説に書かれることはすべて事実であり、実際にあったことである。文章的装飾こそあれ、嘘を書くつもりはない。
 そうしなければこの小説の存在意義、つまり記憶を小説の中に封じ込めてしまうということが果たせないだろうから。
 この小説を書き上げた時、私が何もかもを忘れてしまうことを祈る。


 風が、冷たい音色を立てている。
 その風は時には高く、時には低く、音ほどを変化させながら、雪の結晶のように澄んだ音色を紡ぎ出す。聴きようによっては、船乗りを妖しく誘うセイレーンの歌のように、人々を惑わそうとしているようにも聴こえた。
 日が落ちて行くと共に、段々と風は強くなり、天候は悪化の兆しを見せた。
 吹き荒れる音色は次第に美しさを失い、地響きのように暴力的な轟音と化していく。
 そんな中にぽつねんと建つログハウス風の建造物がある。これが"スノー”だった。
 "スノー”はここT**山にあるスキー客を相手にした宿泊施設の一つで、その中でも特に人気のあるペンションだった。スキー場から近いこともあるが、洒落た内装、美味い料理、まだ二十八の若いオーナー──名前を福田竜二という──が人気の秘訣だった。クリスマスには予約で埋まるほどの人気だが、ピークの過ぎた今日はさすがに幾らか空いていた。
 しかし空いていると云っても、この時期に四名分の予約を受けるということはやはり繁盛している証だった。

 四人目、この日最後の客が"スノー”の敷居を跨いだのは、とっぷりと日が暮れた午後七時前のことだった。
 ドアベルが鳴る音に気づき、奥でコーヒーを啜っていた福田は慌てて玄関に駆けつけた。
 玄関口に居たのは、砂色のトレンチコートを寒そうに纏った男だった。身長は福田よりやや高く、肩まで髪を垂らした中性的な人物である。日本人離れした彫りの深い顔立ちで、見ようによってはハーフにも見える。
「御予約の綾中様でしょうか」
「ええ、綾中要といいます。部屋は開いてますよね?」
 綾中はコートから雪を落としながら答えた。「ええもちろん。部屋は二階の角部屋になります。まずは帳簿に記入をお願いいただけますか」
 綾中は福田の出したスリッパに履き替えて、ロビーで帳簿に記入をした。氏名、年齢、職業など。
「年齢が二十九歳……おや、作家さんなんですか?」
 帳簿を確認しながら福田が云った。予約の際に確認したのは氏名と電話番号だけだった。「ええ、まだ駆け出しなんですけれどね。いつまで続けられるか……この辺りに来たのも取材が目的なんですよ」
「取材? スキー場のですか?」
「いえ、雪山を見ておきたくて。推理小説を書いていまして、次の作品の舞台がいわゆる"吹雪の山荘”もの……ええとつまりこのペンションのような場所が舞台なのでその取材を」
「ああなるほど」
 福田は曖昧に頷いた。
「では、お部屋に御案内します」

 木製のまだ真新しい階段を登り、二人は二階へ上がった。
 二階は階段から向かって左方向に真っ直ぐ廊下が延びていて、突き当たりは窓になっていた。扉が片側の壁に四つずつ並んでいて、客室へと繋がっている。二階には奥に物置が一部屋ある他、客室以外の部屋はなかった。
 綾中に割り振られた部屋は一番右奥、201号室だった。冷たいフローリングをひたひた歩いて扉までたどり着くと、客の荷物を一度床に置いて鍵を差し込んで回した。
 きいっ、と乾いた音を立てながら扉が開く。二人は中に入った。
 部屋に入ったとたん、羽毛のような柔らかい暖かさが二人を包んだ。福田があらかじめセントラルヒーティングをつけておいたのだ。
 客室は十畳ほどの洋室で、壁には木の幹を思わせる色合いの壁紙が貼られており、床はパンケーキのようにふんわりとした絨毯が敷き詰められている。
 家具は木製のベットがある他、サイドボードが戸口から見て右隅のヒータの傍に置かれていた。その上には厚い硝子細工で作られた灰皿とマッチがあり、三段ある引き出しの中は聖書が一冊入っているだけで他には何も入っていない。
 部屋の左側に扉が一枚あり、それはユニットバスに通じている。
 前方の壁には、はめごろしの窓が一つあり、あおれは今強風に打ちつけられてがたがたと低い音を立てていた。
「荷物はどこに置きましょう?」
 部屋の中を物珍しげにきょろきょろと見回わしていた綾中は、福田の問いで我に帰り、
「ええと、そうですね。そのベットの傍にでも置いてください」と答えた。福田はそれに従い荷物を置いた。荷物はボストンバッグが一つだけだった。
「他の部屋も、こんな内装なんですか?」
「ええ、この部屋とまったく同じです」
 福田の答えに
「ふうん」と鼻から抜けるような声で云うと、窓辺にふと近づいた。
「風が、強いですね」
 と眉を少しつり上げて云う。
「来る途中はこんなに強くはなかったのに……セイレーンの歌のような妖しい音色がしたんですがね」
「はあ……セイレーン、ですか」
 福田はきょとんとした表情でとりあえず相づちを打った。
「あ、すみません妙なことを云って。それにしてもいい部屋ですね。あの人が云ってた通りだ」
「御友人ですか?」
「ええ、大学の先輩だった人なんですが、その人から泊まるならここがいいと聞いたもので」
 綾中は少しはにかみながら云った。
「荷物をほどかれたら、一階の談話室へいらっしゃいませんか? 夕食までの間にコーヒーでもお出ししようと思うのですが」
「わかりました。一階の談話室というと……階段の隣の部屋ですか?」
「ええ、他の泊まり客の方もいらっしゃると思いますので」
 福田は軽く会釈すると肌寒い廊下へ出ていった。

 十分ほどして、綾中は談話室の敷居を跨いだ。ちょうど福田が他の泊まり客にコーヒーを配り終えたところだった。
 談話室は客室よりやや広い部屋で、一方の壁には暖炉があり、薪から上がる炎の乱舞がこの部屋を暖めていた。無機質なヒーターよりもずっと力強い。
 壁際には本棚が幾つかと、サイドボードが二つある。一つには何種類かのボードゲーム、もう一つにはテレビが置かれていた。
 部屋の中央のテーブルを囲むようにして、ソファ三つ置かれている。福田の他に女性が一人と、男性が二人座っていた。
 そのうちの一人が、
「やあこれはどうも」と人なつっこい声で挨拶をした。短く黒い頭髪、丸い目に四角い銀縁眼鏡をかけている。綾中よりもやや体格のいい青年だった。
 綾中は挨拶を返してソファに座ると福田が出したコーヒーを礼を口にしてから啜った。
「君たち大学生?」一息ついた綾中は彼らに聞いた。年下と判断してか、敬語ではなかった。
「ええ、T**大学の学生です。ここにはスキーサークルの合宿で」青年は神田英作と名乗って、他の二人を紹介した。もう一人の長身の男性が村上明、大人しそうな女性が有山涼子。
「T**大学か。名門だね」
 綾中は
「ふうんそうか」と一人何か納得したように頷いた。「あなたもスキーをしに?」
 村上が訊いた。
「いや、僕は……」
「その方は作家さんなんですよ」
 福田が口を挟み「私も昔は書いたものですが今はさっぱり」と呟いた。
「へえ、じゃあ取材旅行かしら」
 有山がコーヒーを啜りながら云った。
 綾中は曖昧に返事をしながらポケットを探った。
「煙草を吸っても?」取り出したマイルドセブンを少し振った。
 誰からも苦情は出なかったので、綾中は一本くわえて火をつけた。
「ねえ福田さん、夕食は何時頃ですか?」と云ってから、
「別に催促してるわけじゃないんですけど、ナイターに行きたいものですから」と付け加えた。
「ナイターですか?」
 福田ちらりと窓から外を見た。
 風は相変わらず吹き荒れていた。降り積もった粉雪をすくい上げ、霞がかかったように辺りを白く染めていた。
「止した方がいいでしょう。風が強すぎます」
 福田につられて有山は外を見て、
「あら、本当ね」と残念そうに呟いた。
「こんなに風が強くなってたなんて気づかなかったわ」
「君はのんびりしてるからね」村上がからかい気味に云う。
「あら、なんだか私が鈍いみたいな云いかたじゃない」
 村上は表情だけで
「違うのか?」と示した。
 神田はやれやれ、と肩をすくめるとまたコーヒーに口をつける。綾中は美味そうに煙草をふかした。
 鈍い低音が鳴った。壁にかけられた時計が時刻を刻んだのだ。
 福田は夕食の準備を整える為に、会話を切り上げ談話室を後にした。

 夕食はそれから一時間足らずで準備が整った。
 食堂は談話室よりも縦長に広い部屋で、天井からは装飾の入った照明が部屋を照らしていた。壁際には古めかしい振り子時計があり、単調なリズムで時を刻み続けている。壁紙は客室や談話室よりも深い色合いで、絨毯は壁紙よりもさらに深い色だった。
 中央には、木製の大きなダイニングテーブルが置かれていて、それを囲むように木製の椅子が並べられていた。
 料理はフルコースにで、福田が一人前菜からデザートまで給仕をした。料理の味に苦情を云う者は居なかった。
 飲み物には赤ワインが出されていた。市販のテーブルワインではあるが、安いものではなかった。アルコールが進むにつれ皆頬を赤らめ、饒舌になっていく。
 全員が食事を終えたのは一時間後のことだった。福田が出した食後のコーヒーを飲みながら、ほろ酔い気分で雑談に興じていた。
 一仕事終えた福田も空いている席に座ってコーヒーを啜りながら雑談に加わっていた。

 しばらくして、その場はお開きになった。というのも昼間の疲れが出たらしい有山が眠気を訴えたからである。
「福田さん、明日は晴れるんですか?」
「ええ、天気予報によると」
「じゃあ思いっきり滑られるのね」
 有山は少し微笑んで、
「じゃあおやすみ」と云い残すと食堂を出ていった。
「元気なお姫様だ」
 村上はけらけら笑った。
「こっちはくたびれたよ」
 神田は欠伸をしながら云うと腰を浮かせた。
「寝るのか?」
「さてね、僕は寝つきが悪いから。適当に部屋で寛いでおくよ」
 他の二人にも声をかけて、神田は食堂を出て行った。ちょうどその時、時計が時刻を刻み、低音が部屋に響いた。
 福田はコーヒーを飲み終わり、綾中はぼんやりと窓の前に立って外を眺めていた。相変わらず風は勢いよく荒れ狂い、粉雪を吹き上げている。空は晴れてこそいたが、外に出られるような様子ではなかった。
「綾中さん」
 村上が声を呼びかけるとびっくりしたように振り向いて、ちょっと気恥ずかしそうな顔をした。
「なんでしょう?」
「もしお疲れでなかったら僕の部屋にきませんか?」
 と云いながら村上はグラスを傾ける仕草をする。
 綾中はにっ笑みを浮かべて、「いいですね。うかがいましょう」
「では何かお持ちしましょうか?」
 二人のやり取りを見ていた福田が云った。
「自前で持ってきているので結構ですよ。それよりご一緒にどうです?」
 そう云って村上はまた同じ仕草をする。
「いえ、私は……仕事ですから」
 福田が自虐的な笑みを浮かべながらそう云うと、村上は残念そうに肩をすくめた。
「──月が」
 唐突に綾中が呟いた。
 目を丸くして二人が見ると、綾中は窓から空を見上げていた。小麦粉のような粉雪が舞う中で、ぽっかりと満月が浮かんでいた。真っ暗な夜空に漂うそれからは、月光が下界に降り注いでいた。どんな反神秘主義者でも、妖しく誘い込んでしまうような月光を。
「月がどうかしましたか?」
 福田が訊くと、綾中は首を振って、
「いえ、なんだか誘い込まれてしまうような気がして。どうかすると、声が聞こえてくるような──」
 村上が笑うと、綾中は少し頬を染めた。
 二人が食堂を出た後、福田は食器を片付ける前に少し空を見上げてみた。
 妖しげな大きな顔が、福田をじっと見つめていた。


 静寂が、すべてを支配していた。
 こちこち、と時計の音が大きく響く。
 どんどん、どんどん。
 扉をたたく音が静寂を打ち破る。
 ようやく扉が開くと、福田は目の前の村上にすがりついた。少し後ろには綾中がぽかんと口を開けて立っていた。
「あの、福田さん──」
「……警察、警察」
 二月二十日。午後十一時五十八分のことである。


 どやどやと、人が忙しく出入りする。制服を着た彼らを尻目に、一同は談話室に押し込められた。
 風が強く視界があまり良くないと云っても、大吹雪と云うわけではないので、警察は二時間ほどかけて“スノー”に駆けつけた。
 四人を談話室へ押し込めたのは灰色のコートを着た大男で、法水と名乗った。階級は警部補だった。法水は淡々と感情を交えず状況を知らせた。
 福田が発見したのは間違いなく神田英作であったこと、死因が脳挫傷であること。傍には血だらけの火かき棒が落ちていたこと。死んだのは十時半から十二時半であること。
「──もっとも、実際は十二時には発見されていますから実質的には十時半から十二時の間ですが」
 法水は云い終えると、四人をじっくり観察するように見渡した。暖炉の炎がはぜる音と、時計の音だけがしばらく部屋を支配した後、有山がそれを破った。
「何でしょう?」
「あの……殺された……と云うのは本当なんですか?」
「でしょうな。自分を撲殺するとは思えませんし、なにより滅多打ちにされていますから。ところで──」
 法水は福田を見た。
「福田さん」
 ぴくっ、と怯えたように福田は顔を上げた。
「今夜ここに居られたのはこの四人だけなんですね?」
「ええ──彼を別にすればですが」
 法水を自分に云い聞かせるように頷いて、「戸締りはきちんとされていた?」
「ええ、綾中さんが見られて……二階に案内した後コーヒーを入れる前に」
「確かですね?」
「確かです」
 法水は手帳に何やら書き込んだ。「となると……」そう低く呟いて。
「実は先ほど部下に確認させたんですがね。玄関口以外の場所の戸締りは完璧だったそうです。こじ開けられた跡もなし。玄関にしたって先ほど私らが来るまでは閉まっていた。それにここにも細工の跡はなかった──」
 法水はまた一人一人の表情を見た。鷹のような鋭い目だった。
「となると、外部犯である可能性は除外できるようです。もし外部の人物ならば外に出ていない──どこも鍵がかかっていますからな──そして必死の捜索にも拘わらず曲者はこの建物から出てこない」
 とんとん、と人差し指で彼は自分の鼻先を叩いた。法水が何を云いたいのか、この場の全員にわかっていた。
「残念ながら、あなた方の誰かが殺したと考えるしかないようです」
 有山が何か云おうと口を開けたが、法水はそれを目で黙らせた。
「自分が殺した、と云う方は立っていただけますかな?」
 淡々としたままそう云うと、もう一度一人一人をじろじろ眺める。誰も立とうとしなかった。時計と火の音が、また談話室を支配し始める。
 やがて諦めたように大きな溜息をつくと、
「仕方ありませんな。とりあえず、それぞれのお話をお聞きしましょう。
 そうですね、先ずは福田さん……よろしいですね?」
 福田は無言で頷いた。
「もう一度確認しますが、見つけたのはあなただった?」
「ええ……そうです」
「なぜ?」
「は?」
 法水はまたとんとんと鼻を叩いた。
「なぜあなたが発見することになたのでしょうか?
 十二時でしたね? 用を聞きに行くには遅いようですが」
「いえ、コーヒーを入れて欲しいと伺っていたので、それをお持ちしたんです。ですから……」
 法水ふんふんと軽く頷いた。
「だから部屋を訪ねた、と。それから?」
「血だらけで壁に寄りかかっているのを見つけて……とにかく驚いたものですから揺さぶって声をかけました
 死んでいるとわかったので部屋を飛び出し、村上さんの部屋にとびつきました」
「通報はいつ?」
「その後三人でもう一度神田さんの部屋に行って確認した後で私が通報しました。
 その頃にはいくらか落ち着いていましたし、ここの責任者は私ですから」
「なるほど、他に話すことはありませんか?」
「……いえ」
 法水はまた鼻を叩くと、
「どうやらあなたが見つけたのは犯行直後だったらしいですね。コーヒーなんて淹れるのに十分もかからないでしょう? その間に被害者は……」
「いえ、その……」
 福田が何か云いにくそうに口を開いた。
「何です?」
「内線電話でコーヒーを頼まれたのはだいたい三十分くらい前のことなんです。ちょっと事務の書類を整理していた途中だったので、それが終わってからコーヒーを」
「ああ、そうですか」
 法水は相変わらず淡々とした調子で云うと、
「では十一時二十分前後から十二時までの間に彼は殺された、ということになりますな。悲鳴は聞きませんでしたか?」
「いえ、客室は防音になっているので誰も聞かなかったと思います」
「何かまだ付け加えるべきことは?」
「いえ、本当にこれで全部です」
 法水は満足そうに頷くと、有山を見た。
「ええと、あなたは……有山さんでしたな? 次はあなたにお願いしましょう」
「え、あのあたし……」
 今にも切れそうな生糸のようにか細い声でぼそぼそと呟いた。
「確か、神田さんとはお知り合いだったとか」
「そう……です。T**大学のスキーサークルの友人でした。ここへは合宿で」
「つかぬことをお訊きしますが、神田さんとは特別親しかったということは……」
 途端に、彼女の眉がきっ、とつり上がり、
「そんなことはありません。ただの……友人でした。気のいいサークルの仲間。それ以上のことは……」
「そうですか。いや失礼、別のことをお訊きしましょう。
 先ほどの福田さんのお話で犯行時刻がかなり絞り込めましたが……例えばその時間村上さんと会っていたとか、まあ云ってしまえば何かアリバイになるような事実はありますか?」
「……ありません。夕食の後はずっと眠っていましたから。けどあたし……」
「いえ、そこからは結構。さしあってこれだけです」
 法水はしばらく手帳にペンを走らせた。
「さて、と。お次は村上さんお願いしましょう。
 あなたも、大学のスキーサークルの方だとか?」
「そうです。神田とは大学に入ってから知り合いました」
「有山さんとも?」
「そうです。三人とも大学に入学してから知り合いました」
「なるほど、それで……例の時間帯には何を?」
「飲んでいました。そちらの方と」
 村上は少し綾中に視線を向けた。
「……ただ、アリバイにはなりません」
 法水は少し興味を持ったように眉を上げた。
「十一時半頃に、綾中さんがシャワーを借りているんです。福田さんが飛び込んできた直前に上がられたので、僕にはアリバイはないことになります」
「なるほど……よくわかりました。
 ところで、婚約をなされたようですな。こんな時に何ですが、おめでとうございます」
 村上はちょっと驚いたようだったが、自分の薬指を見て、
「ああ、この指輪ですか。ええそうです、半年ほど前に婚約しました。卒業と同時に結婚をする約束なんです」
「当てましょうか? 相手は有山さんですね」
 さあっと、有山の顔から血の気が引いた。やがてその表情は恐怖に埋め尽くされていく。
「……どうして?」
 彼女が怯えた声で訊いた。
「勘ですよ、ただのね。そしてそれは見事に当たったらしい。
 おや、しかしあなたは指輪をされていないようですな。わざわざ外されたんですか?」
「……眠る時にはいつも外しますから」
「では部屋から持ってきていただけますか」
 有山は顔を反らした。
「忘れてこられたんですか? 妙な話だ。婚約指輪というのはいつも身につけるものだと思っていましたが」
「うっかり忘れたんです。準備が忙しかったものですから」
「嘘は困りますな」
 法水は鼻を叩くと、ビニールの小袋をポケットから取り出してみせた。銀色の指輪が入っていた。
「現場に落ちていたそうですよ。ベットの近くにあったと聞いています。
 さてと、不思議ですな。なぜこんなところにこれがあったのでしょうか。ちょっと遊びに部屋を訪ねることはあったとしても、指輪を外す機会と云うのはあまり考えられないように思えますが?
 あなたが先ほど云ったようにただの友人としての間柄だったとしたら」
 呆気にとられていた村上の表情に疑いの色が差し、それが深まるにつれ憤りが彼を支配し始めた。
「……村上さん、今はこれだけで結構です。それと、動機があるからと云って即犯人だと断定するほど警察はおろかではありませんから御安心ください。近頃は無差別殺人なんてのが流行してますからね。
 では、最後にあなた」
 法水は綾中を見た。
「綾中さん、あなたは作家さんだそうですが、ここへは旅行ですか?」
「取材ですよ」
 落ち着き払った声で綾中は答えた。
「そう、推理作家がひょっこりやってきたところで偶然にも殺人事件が起きたわけです。しかも凶器はおなじみの火かき棒。
 何か御意見をくださいませんか?」
「僕から云えるのは、いかにも胡散臭い人物に限って犯人ではないということだけです」
 綾中は不愉快そうに云った。
「なかなか気の強い方のようですな。とこれで、犯行時刻にあなたはどこに?」
「もう知っているでしょう」
「あなたの口からはまだ伺っていません」
 綾中はやれやれ、と肩をすくめると、
「村上さんと酒を飲んで、シャワーを浴びていましたよ」
「なぜです?」
「酒を飲むのは飲みたいから、シャワーを浴びるのは浴びたいからです」
「そうですか? 他にもあるような気がしますな」
「へえ、例えば?」
「そうですな、証人を作れます。自分は確かにアリバイがあると」
「まるで僕の小説のようですね。しかし飲もうと誘ったのは僕ではありませんよ。事前に何らかの策略を立てることは不可能です」
「なるほど、しかしその場で思いついたのかもしれない。あなたの作品にもそんな話がありましたな」
「おやおや、とんだところファンがいたらしい。サインでもしましょうか?」
「いや結構」
「それはそれは。ところで、あなたはことを難しく考える癖をお持ちのようだ。現実にそんな不可能犯罪が起こるとでも?」
「ローズ・ドラクールの件があります」
「二百年も前のことです。しかも密室殺人はこれ一件だけで他には起こっていない」
「記録に残っている中では、です。自殺として葬られたものがどれだけあるか見当もつかない」
「刑事の台詞とは思えませんね」
「私は警部補です」
「それは失礼。
 僕は被害者とは今日会ったばかりです。つまり動機の持ちようがない。おまけに機会もなかった。なぜあなたはまだ僕を疑うのですか?」
「私はまだその両方を認めていません。動機はあったのかもしれない、いや、なくても殺したのかもしれない。お得意のトリックで不可能犯罪を成し遂げたのかもしれない」
「屁理屈だ」
「どうですかな。浴室を調べても?」
「僕ではなく村上さんに許可をもらってください。彼の部屋ですから」
 法水が顔を向けると村上は軽く頷いた。
「許可をくださいました。ちょうどあなたで終わりですから見に行きましょう。
 福田さん御案内いただけますか?」
 福田は腰を上げた。
「法水さん」綾中が云った。
「なんです?」
「お年はいくつです?」
「三十八」
「結婚は?」
「まだですが」
「でしょうね」
 法水は鼻を鳴らした。

 村上から受け取った鍵で、福田は扉を開けた。
 暖房を消し忘れたのか、部屋の空気はまだ暖かい。それが冷たい廊下に流れ込む。いそいそと動き回る捜査官たちを後目に三人は中に入った。
 ふかふかとした絨毯の上を大股に歩き、法水は浴室に向かう。綾中、福田がその後ろに続いた。
 奥の扉を開けると洗面所に出る。その奥が浴室だった。ユニットバスになっているので、トイレもそこにある。
 扉が開け放されていたので、浴室はすっかり乾いていた。
 法水は不審な箇所を探し始めた。綾中はにやにやしながらそれを見ている。福田は直ぐ後ろから二人を眺めていた。
 しばらくして、法水は浴槽の中に入り、窓を調べ始めた。この浴室で窓はそれだけである。ハンドルを回すと何枚も重なった細長い硝子が開き、横になった鉄格子のような形になる窓だった。風を入れる為の小さな窓で、人の頭ほどの大きさしかない。
 法水はそれを開けた。途端に冷たい風が浴室の中を駆け巡る。慌てて窓を閉めると、法水は窓を固定しているねじを調べ始めた。
「どうです?」
 綾中が茶化すように訊いた。
「ねじがさびていますな。痕跡を残さず取り外すのは難しい、か」
 法水は天井を見上げた。
「となると後はこれですな……福田さん」
「はい?」
「これはどこかに繋がっていますか?」
 法水は天井を指さした。換気扇だった。
「それは、天井裏からそれぞれの部屋の浴室に繋がっているはずです。実際に試したことはありませんが」
 法水は換気扇を調べ始めた。
「ここも錆びてますな。やはり無理か……いやどこかに別の方法があるかもしれない」
 ぶつぶつと呟きながら、法水はまた一通り浴室を調べた。何も見つからなかった。
 綾中が何か云ったが、それを無視して浴室を出てくると、法水は洗面所を調べ始めた。ここにも換気扇が一つあったが、ねじは錆びていた。それを法水の横で見た綾中は、
「どうやらあなたの杞憂だったようですね」と云った。
 法水は顔をしかめてみせると、
「私は当然疑われるべき可能性について見当したまでです」
 といいわけがましく云い、部屋を出ていった。

 三人が部屋に戻ると、有山と村上、法水が残した捜査官が黙ってソファに腰かけていた。
 しばらくするとまだ若い男が入ってきて法水に小声で報告をした。法水は不機嫌そうに頷いて、二言三言呟くと。男は談話室から出ていった。
 福田がコーヒーを淹れようとすると、見張りの為に捜査官が一人ついていった。
 二人が戻ってくると、法水ははまた別の男から報告を聞いていた。福田は全員にコーヒーを配った。
 夜が明ける頃には捜査が落ち着いた。法水が全員に帰宅許可を与えた。ただし市内にいるようにとのことだったので、福田以外の三人は麓のホテルに部屋を取った。
 それからしばらくの間、この事件は熱心に報道され、法水の顔も何度か電波に乗った。しかし警察は大きな成果を上げることはできず、そのうちに市から出ることを全員に許可しざるえなくなった。
 実質、この時点で警察はさじを投げたのも同じだったらしかった。容疑者はたった四人だが、決めてがまったくなかった。
 次第に報道も下火になっていき、世間からこの事件は忘れ去られていった。ただ数ヶ月して、福田が"スノー”を畳んだことが地元で話題になった。

 こうして、事件は幕を引いた。
 真相を知っているのは、犯人である福田竜二だけである。

     *

 最後の一行を読み終えて、私は椅子に深くもたれた。
 十二年前の罪。
 その時記憶、その時の感覚が頭の中で渦を巻いた。

 "スノー”を廃業した後、私はしばらく貯金を切り崩して生活していたが、退屈しのぎにとある新人賞に応募したことがきっかけで作家になった。どうした皮肉か、推理小説作家というものに。七年前のことだ。
 ペンネームは"綾中竜二”だった。
 別に例の綾中要氏とはなんら関係ない。これは私が昔文芸部だった当時に使っていたペンネームだ。
 そういえば、同じ業界にいるはずなのに、あの事件以来彼とはまったく親交がないし、法水は読者だったらしいが私は彼の書いたという小説を見かけたことがない。誰からか話を噂を聞くともなかった。まるで幽霊のような存在に思えてくる。彼はどうしているのだろう。もしかすると亡くなったのかもしれない。
 彼以外の二人のことも気になる。婚約していたそうだが、まさか結婚はしていないだろう。お互いに向こうが犯人だと思い込んでいただろうから。
 ある意味では彼らも私が巻き込んだ被害者なのだ。そう考えるとまた罪悪感がこみ上げてきた。
(私のせいではない)
 そう思うとした。
(すべてはあの土くれが悪いのだ。あの月と云う名の土くれが)
 皆が食堂を後にし、一人残った私が月を見上げたことを脳裏に浮かべた。
(あの時、あんなものさえみなければ……。あの月を見た途端私の頭にあの声が響き始めたのだ。すべてはあの月のせい……)
 部屋にすうっと月明かりがさした。
 私は椅子から立ち上がるとふらりふらりと、糸に引かれるように窓辺に立った。 
(ああ、駄目だ。見てはいけない、見てしまっては……)
 そう必死に云いきかせても体は云うことを聞かない。マリオネットが操られるように、私は顔をゆっくりと上げた。
 月があった。
 私に罪を犯させた土くれ。私はじっとそれを睨んだ。すると……
「赤く……」
 ああやめろ。
「血を、血を」
 黙れ。
「さあ早く血を。血をよこすんだ。赤ワインのような血をよこせ」
 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。
 私は両手で耳を塞いだ。それでも声が止むことはない。十二年前の夜が浮かぶ。灰皿をふるい、神田英作の頭を割る私の姿。
 ──忘れろ。もう忘れてしまえ。
 私は声から逃げるようにデスクの原稿に飛びついた。私が一度あの夜を閉じこめたそれに。
 燃やしてしまえ、私の罪を、月を、狂気を。何もかもを焼き払い、忘れてしまうのだ。
 ポケットからライターを取り出し、原稿に火をつけた。それは次第に広がっていき、やがて全体を覆い尽くす。燃えろ、燃えろ燃えてしまえ何もかも。
 その時、妙に部屋が暖かくなった。いや、そんなはずがない。私の吐く息は白く揺らいでいるのだから。
 ──ではこの暖かさはいったい?
 そう思った瞬間。
「ぎゃあああああああああああああ!!」
 私は悲鳴を上げて床に崩れた。
 熱い。激しい業火が私の内側から燃えている。炎は体の中を渦巻きながら駆け巡り、私を焼き尽くそうとしているのだ。私は部屋中をのたうち回った。
 こちらの苦しみなどお構いなしに、原稿を焼き尽くすにつれ、頭の中の業火も勢いを増す。
 これは贖罪の為の罰なのだろうか。この炎が私の罪を、あの夜の記憶を、焼き尽くしてくれると云うのだろうか。
 声は聞こえなくなっていた。
 苦しみを堪えて窓から空を見上げると、巨大な火の玉が空に浮かんでいた。月が燃えているのだ。すべての元凶が燃えていく。
 もう、何もかもを思い出さなくて済む。十二年前の狂気も、罪も。
 月の声をもう聞くこともない。
 そう思った瞬間、炎はさらに燃え上がり、私のすべてを焼き尽くした──


お目汚ししました。
読んでくださった方、本当にありがとうございました。
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