第九章 長く入りくんだ道
心臓を揺さぶる振動で始まった。
『Get Back』
ステージがライトに浮かび上がり、加奈が私の腕をぎゅっとつかんだ。
狭い店内は人で埋め尽くされて殆ど身動きできない。私たちからステージまでは遠く、人の頭の間からようやく垣間見える光。その中心にヒロユキの青白く照らされた顔が見えた。
激しい音の中で彼の声は淡々とリズムに乗っていく。感情を抑えた声は、彼の身体の奥から響くように深い。
「Get back jojo …」
彼がつぶやくように歌うと、何人かが悲鳴のような声をあげた。
ヒロユキのライブを聴くのは初めてだった。「The Whistle stop」と名づけられたこのバンドは、ライブを繰り返すうちに固定のファンがつき、今ではチケットをとるのもむずかしい状態だという。結成してから三年。今日が最後の夜になる。
甘く深みのある彼の声は、私の耳にしっとり染み込むように入ってくる。
涼子を追って「Hard Day's Night」という店を訪ねた日。彼と二言三言、交わした瞬間を思い浮かべる。形のいい二重の眼差しは、ひんやりとしていた。少し茶色がかった瞳の奥はどんなに見つめても底にはたどりつけない。彼のような男性に惹かれると切ないだろうな、とぼんやり思う。
しかしあの時、涼子は、私でも加奈でもない。彼に助けを求めたのだった。
激しいドラムとともに一曲目が終わり、拍手と歓声があふれる。
ヒロユキがマイクに向かうと、固唾を呑んで周りの女性たちが身体を乗り出した。
「今日はありがとう。ボクたちの最後のライブです。楽しんでいってください」
そしてピアノに向かい、一瞬呼吸を整える。
『Hey Jude』
どよめきにつれて拍手がおこった。
彼の声はバラードでより切なさを増し、ステージに心ごと吸い寄せられていく。
加奈が私の肩に頭をそっと乗せた。その頬に涙が流れ、私は加奈の腕を軽く握った。
こんなにも想えるひとがいる。私の内には涙を流せるほど愛しいものなど存在しないではないか。加奈の感情を理解しながらも、決して共感できないことが哀しかった。
加奈に付き合って欲しいと誘われ、こうしている私。背伸びをして店内を見渡すと忘我の表情を浮かべた見知らぬ女性たちがいた。両手で顔を覆い俯いてる人。ぼんやりステージを見つめている人。共に口ずさむ人。私はどうしようもなく此処でも、ひとりだった。
ふと、涼子も来ているに違いないと、私は思った。
アンコールの後、再びライトがヒロユキを照らす。
「今日でボクら、The Whistle stop は活動を停止します。whistle stopって、列車も普通に泊まんないような、ちっぽけなつまんない駅って意味なんだけど。オレらのバンドって、きっとそんなだよな?って三年前に結成しました。だけど」
そこで、ヒロユキは言葉を切ってうつむいた。
「もうWhistle stopじゃない」
彼の言葉に感傷はなかった。陰影の深い顔立ちは感情を現さない。解散を惜しむ気持ちは此処に、こんなにも溢れているのに、その向かう先は、それらを撥ね付けるかのように冷静だった。
「それがボクらの決断の理由の、ひとつです。今まで応援してくれてありがとう」
店内が静まり返った。すすり泣く声があちこちから聞こえる。
ヒロユキは、再びメンバーの紹介をして。それからピアノの前に座った。
『The long and winding road』
誰からともなく歌い始め、私たちも歌っていた。ヒロユキもその他のメンバーも憑かれたように各々の楽器を奏で続ける。
ビートルズを追い続けてきた。あどけない表情から次第に空虚な眼差しに変わっていく彼らを。もちろんリアルタイムではないけれど、追い続けるほどに彼らの苦悩が私を苦しくさせた。それは私たちが抱えている何かと重なるからだ。自分の思惑とは別に変わっていく、変えられていく現実。
ステージ上にいる彼らは、ひとつの時代を終えようとしている。
ライブが終わっても、加奈はなかなか立ち上がらなかった。膝を立てて、そこに顔を埋めたまま動かない。ライブの客ははけてしまって、椅子を片付けようとするスタッフが、すいません、と私に頭を下げた。
「加奈。行くよ」
加奈の目は涙で赤く腫れていた。
(涼子と初めて彼のライブに行ったとき、カスミソウの花束、持ってったんだ。)
花屋の前で、加奈がぽつんと言った。
私は足元に置いたカスミソウを加奈の手に持たせた。
「ほら。渡すんでしょ」
加奈の腕を引いて楽屋裏に連れていくと、そこは花束だけではなく紙袋やぬいぐるみ、寄せ書きの色紙など、彼らへのプレゼントであふれていた。
加奈はそれらをひとつずつ取り除きながら懸命に何かを探している。涼子が残していったものを探しているのだろうと私はすぐ悟った。しかし涼子は何も残しはしないだろうなと同時に思った。
「涼子、来てなかったのかな」
振り向いた加奈の口調は、寂しげで頼りなかった。
「来てたと、思うよ」
私はライブの最中に感じたまま答えた。加奈は小さく頷き、
「最後に花束残してくなんて。かっこ悪いね」
と自分を嘲る笑みを浮かべた。
「行こう」
カスミソウを胸に抱えて加奈は言った。後ろも振り返らないで歩いていく彼女から少し間隔をあけて、ゆっくり付いて行く。
空はよく晴れていて、東京にしてはめずらしく星がくっきり見えた。
人通りは殆どなく橙色の街灯が私の影を柔らかく作っている。加奈はどこへ向かっているのか、ただ歩いていく。
私は小さい声で「The long and winding road …」を歌っていた。ヒロユキの声が耳に蘇る。目を閉じて歌う彼はいったい何を思っていたのか。
この長く、入りくんだ道。あなたへと続く。
加奈は歩道橋を駆け上がり、橋の真ん中で空を見上げた。
「星が綺麗だねっ」
下にいる私に大声で話しかけた。通りを走るトラックの音に加奈の声はかき消されてしまう。私は立ち止まって、加奈を見上げていた。
彼女はカスミソウをちぎって下に落としていく。
トラックの荷台に乗せられていくもの。タイヤにつぶされていくもの。風に乗せられていくもの。
降ってくる白い小さな花々は、思い思いの方向に散っていった。
「ヒロユキね。メジャーデビューするかもしれないんだって。すごいよねっ」
すべてをまき散らした加奈ははしゃいだように、柵に手をかけて身体を乗り出した。
「彼ならぁ、きっと。成功するよねぇ」
加奈は空に向かって叫んだ。
信号で一瞬、車が途絶えた通りに彼女の声が響いた。
この長く、入りくんだ道。
あなたへと続く。
決して消えない。
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