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凜々子さんのめくるめく三季

作者:棔いち哉
【文月某日】

 私の朝はフルートの音色から始まる。

 澄んだ小川の様に控えめながら、途切れることのない優しい旋律。
 穏やかな気持ちで目覚めるには、ぴったりの選曲なのだと思う。
 この、段々に音が大きくなるというステップ機能も覚醒を促すのに適しているのかもしれない。

 しかしそのアラームを設定した本人は熟睡中なのだから、 まったく意味をなさないと思うのです。

 曲はクライマックス、音量は最大、でも私は別に今起きなくてもいい。

 苛々して抗議の声を上げると、隣で眠る薄い瞼がぴくりと動いて半開きの口からむにゃむにゃと謎の呪文を唱えたのち、みみずだってもう少し俊敏なのでは、と心配になるのろのろとした動きで携帯電話をいじくりまわしてアラーム機能を止めた。

 部屋には静寂が戻る。

 やっと落ち着ける、と思った所で携帯電話を握ったままぴくりとも動かない洋司さんに気付いた。
 寝起きが悪いのは知っているけれどここまでぐずぐずしているのは久しぶりだ。
 昨日お酒くさくして随分遅く帰ってきたもんね。しかもお土産なし。

 このまま寝坊するとどれくらい困るのかしら。と、思ったけれどそんなイヤな女ではないつもり。
 でも不満なので優しく起こしてはあげない。私は細くて量の多い髪に隠れる彼の耳に噛みついた。
 勿論全力ではなく、甘噛みも甘噛み、甘々噛みくらいのもの。
 耳の外側のすぐ隣の、ここ正式には何ていう部位なんだろう。くぼんでいる所に、やさしくやさしく歯を立てる。

「取れちゃう、取れちゃうよ、凛々子さあん」

 取れません。普段も十分だけど、寝起きの洋司さんの声はとびきり優しい。
 というより情けないとかどこか甘ったれてるという感じなのかしら。

 まあでも結構嫌いじゃない。
 そんな事を考えているうちに目が覚めたらしい彼の大きな手が、私の頭をそうっと撫でる。
 こんな事でご機嫌取れると思わないでほしい。
 でも払いのけたり嫌がったりするとあからさまに悲しそうな顔をするので大人しくしていてあげますけどね。
 ひとしきり撫でまわして満足したのか、洋司さんはよたよたとキッチンへ向かっていった。
 いつものコーヒーとバニラアイスの支度をしに行ったのだろう。私はもう一眠り。
 それにしても私の所まで布団をめくっていっちゃってどういうつもりなの。
 夏だから大丈夫だと思ったのかしら。私、服着てないんだけど。
 朝晩はちょっと寒いんですよ?
 男の人って、こういう所が本当、本当に駄目だと思う。

※※※※※※

 洋司さんと暮らし始めて2年がたつ。

 私は丁度その時、母を亡くして途方に暮れていた。母一人子一人で大変は大変だったけれどなんとか楽しくやって来たのに、あっけなくそんな日々は終わってしまった。

 事故だった。

 今際の言葉を受け取る事は叶わず、やけに現実感がないまま数日が過ぎ、埋めようのない喪失感が私にまとわりついていた。
 そうしていても仕方がないという事がわかる程度に大人だったけど、すぐに立ち直ることが出来ない程度には子供だった。

 そのとき何処をどう歩いたのか、道順は思い出せないが、気が付いたら当時住んでいた所を大きく離れた公園にいた。

 ペンキがはげかけた青いブランコ、滑り台に雲梯。

 そういえば子供時代を過ごしたのはこういう所だったな、とふと思い出したとたん、なんだかどうしようもなくなってしまった。
 強くて賢い母だった。
 いつもあたたかい母だった。
 もう一生触れる事はできない。

 その事実を随分しっかりと確認してしまった私は、生まれて来て一番大きな声でないた。

 それはあまりに大きな声だったらしい。
 色んな人が私を遠巻きに見たり、様子を伺いに来たりしたけれど、邪魔されたくなくてその場を離れて、誰もいない事を確認してまた泣いた。

 そのうち疲れ果てて、すこしぼんやりしていた所に現れたのが洋司さんだった。

 疲れて抵抗できない私を半ば強引にその場から……そうそう、彼は大人しそうな顔して意外と押しが強い。
 いろいろ物騒な世の中だから知らない人、特に若い男の人には気をつけなさいと母から口を酸っぱくして言われていたし、私だってそれが解らない程ばかじゃない。
 隙を見て逃げようと相手の様子をうかがっていたのだが、洋司さんは私を連れ回したり、諸々の手続きをしてあっという間にここで暮らす手はずを整えてしまった。
 毎日大切に扱われながらそれが完了する頃には私は逃げ出すことを目論むのをやめた。
 初対面の私にどうしてここまで良くしてくれるのか、普通ならばうまい話には裏があると警戒してしまう所だろうが、理由には思いきり心当たりがあった。

 私はとびきり、かわいい。

 思い上がりではない。

 母も生前「あなたはお父さんに似て器量良しだから、きっと素敵な人にもらわれていくのね」と、すこし寂しそうにつぶやく事があった。因みにこれも親の欲目ではない、事実だ。

 道を歩けば誰もが振り返るし、保護欲をそそるらしいこの容姿の虜になった人に追い掛け回された事もある。
 ああそう、それが切っ掛けで誰彼かまわず愛想をふりまくのをやめたんだった。
 あれ、何してたんだっけ。

 ああ、そうそう私と洋司さんのなれそめってやつを思い返していたのだ。
 一緒に暮らし始めてから、距離感がつかめなくて険悪になったこともあるけれど、そういう時に洋司さんは可能な限り譲歩をしてくれたし、私も抗議するときは常識の範囲で行った(と思いたい)のでそこまで溝は深くならなかった。

 結果、今の生活は結構快適で、わりと満たされている。
 窓硝子に頭をこつんとぶつけて外を見る。

 お向かいの枇杷の木が風で揺れ、いつもの二人が立ち話をしている、いつも通りの景色。
 少し離れた所から鞄と黒い筒を背負って日向を歩く人影がくるりとこちらを振り返って手を振ってくる。洋司さんだ。

 もう、またそんな後ろ向きにふらふら歩いて。車に気を付けてね。

 そんな風に声をかけたけれど、洋司さんの耳には届かない。
微笑んで曲がり角の向こうへ消えてしまった。少しさみしい気がするけれど、これでいいのだ。

 そんな事を言った事が伝わってしまったら最後、破顔して抱き着いてきて多分眠るまで放してくれなくてうっとおしい事になるに決まっている。
 冷たいと非難されるかもしれないが、親しき仲にも何とやらと言う。
 しつこいのが嫌なのを私は曲げることが出来ない。


【霜月某日】

 ―――なんて風に思っていた時期がありました。なんとまあ懐かしい日々。
 静かな部屋には私一人。別に喧嘩して洋司さんが出て行ってしまったとかではない。
 お仕事が忙しくて帰るに帰れない、というやつだ。

 頻繁とまではいかないが、それでも結構よくある事。着替えを取りに来たり、時間が合えば一緒にご飯食べたりしているし全く会っていないという訳でもない。
 別になんてことない。私と仕事どっちが大事なの?みたいな気持ちにもならない。

 耳をすませても部屋の中はしんとしたまま。元からうるさい人ではなかったが、いるといないでは全然違う。

 枕とベッドの間の隙間に顔をもぐりこませる、という格好のまま深呼吸。こうしてからどれくらいの時間が経っているのだろうか。
 ゆるゆると起き上がると、息苦しくなりそうなほど圧倒的な西日で満ちていた部屋はすっかり暗くなっていた。

 ただ問題があって、すごく退屈なのです。
 私だってやることはきちんとしているし、一日中待ちぼうけをしている訳ではないけれどなんというのだろう。日常がある程度パターン化してしまっていて刺激がないのだ。
 今、何してるんだろう。
 全く会っていない訳でもないが、触れあえる時間はいつもよりもかなり少ない。
 ドライだよね、と批難されることが多い私でもこれはちょっとさびしい。
 いつのまにか夏が終わり、随分と涼しくなった。こういう日は洋司さんの膝を借りてごろごろしていたい気分なのに。

 重いかしら、と多少遠慮する気持ちもあるのだが、見上げると、彼はいつもにこにこしてわたしを優しく撫でてくれるからそんなに迷惑ではないはず。

 ああなんだか、今、すごくあのひとに会いたいなあ。

 うわ、声に出してしまった。
 ひとり言なんか言ってしまった事とその内容の恥ずかしさからひとしきりじたばたする。
 なんか負けた気がする。悔しい。なんで私ばっかり。
 それもこれも全部洋司さんが帰ってこないのがいけないんだから。もう!
 なんかもうこのままもやもやしてるのも悔しいし、いっそ会いに行ってしまおうかな。
 いやいくらなんでも。それはちょっと。
 …………いやー……。

 うん。

 それいいかも。そうしよう。
 たまにはびっくりさせてもいいかも。
 思い立ったら吉日と言うし。

 外に出ると、予想よりも冷たい風に頬を撫でられて、背筋がピンと伸びる。このところぼうっとしがちだったので、しゃきっとできて丁度いい。
 自分でも驚くほどに軽快な足取りで私は歩き出した。

 お仕事場は何度か連れて行ってもらった事があるから覚えている。
 道を三回曲がって、銀杏並木の坂をずっと歩いた先にある学校だ。柊一さんはそこの研究室にいる。
 研究室にいるという事は研究をしている訳だけど、私にはさっぱりな内容。
 まあ、なんでもかんでも分かり合うとか無理な話だし、それに関して不平を言われたことは無いので問題なし。

 むしろ問題と言えば、前に研究室にお邪魔した時に同僚?後輩?の人達が私をよってたかってちやほやするので洋司さんが若干不機嫌になった事かしら。

 ひとりで出歩くと怒られるし、のんびりした見た目なのに独占欲が強いんだから。
 でも今現在、私をほったらかしにしてるし、むしろ会いに行ってあげてるんだから喜んでくれてもいいくらい。
 日中に降った雨のせいか、地面に落ちた銀杏の葉が大変滑りやすくなっている。
 転ばないように気を付けつつ、目線の少し先を行く月を追いかけているうちに目的地へ着いた。
 前に来たときは学生さんがいっぱいいたけれど、今日はとても静か。夜だもんね。
 記憶を頼りに研究室の方向へ足を進める。中庭に面した一階の部屋。部外者の私は建物の入り口から入れるのかわからないから、窓から声をかけて迎えに来てもらおう。

 そうして覗き込んだ窓から漏れる明かりは、夜道に慣れた私にはちょっと眩しすぎた。
 細めた目をゆっくり開いて、部屋の中を見回す。暫く部屋の中を覗いて、私は洋司さんを呼ぶために開きかけた口を、閉じた。
 不在だった訳ではない。ちゃんといた。忙しそうだったから声をかけるのが憚られた訳ではない。丁度晩御飯食べてた。

 女の人と向かい合って楽しそうに晩御飯、食べてた。

 見たことが無い人だ。多分きれいなほうに入る。
 洋司さんはよそゆきの顔で何か話して、女の人はそれを聞いて笑っている。
 いつも、もっとだらしないとまではいかないけど、そんな格好つけた感じじゃないじゃない。
 私が知らないだけで、外では誰にでもそうなのかもしれないけれど、なんだかもやもやして、結局そのまま来た道を引き返してしまった。
 その夜、洋司さんは少し早く帰って来た。
 お仕事がひと段落したから、しばらくはいつも通りに帰って来られると嬉しそうに言う。

 それからはいつも通りの日々に戻った。ばらつきはあるものの決まった時間帯に出て行って、帰ってくる。遊びに来たお友達が、私にちょっかいを出して来て洋司さんはそれを見て面白くなさそうにしたりする。
 いつも通り過ぎるくらいいつも通り。
 私の感じた違和感は、気のせいだったのだろうか。


【睦月某日】
 そうでない事を確信してしまったのは、それから結構日が経ったときのこと。

 その日は洋司さんが帰ってくるのを待たずに、布団でごろごろしていた。
 帰りが遅いし、しかも寒すぎて鼻がむずむずする。
 窓ガラスに触れたら縮み上がって飛び上がるくらい冷たかった。
 そんな日なので、お布団に避難せざるを得なかったのだ。
 寒いと眠くなるのは自然の摂理だし、この振る舞いに関して責められたことはなかったので私はそこにいた。

 金属が擦れるような音が聞こえて目を覚ます。

 次に規則的に床を叩く音。
これは洋司さんの足音。
 ぱちりという音を立てて電気をつけて、そこにいるって解っているくせに私の存在を確かめる為に布団をめくるので衣擦れが起こる。

 最後に私の名を呼ぶ。

 はずだった。でも実際は足音の後はしんとしてしまった。
 寝ぼけていたのかと思って身を起こす。寝ぼけてはいなかった。

 洋司さんはそこにいた。

 外の街灯からの明りが頼りだけの暗い部屋で、こちらに背を向けて座って、携帯電話を触っている。
後ろから覗き込んでみたら誰かとメールをしているようだった。

 しばらくやり取りした後携帯電話を静かにテーブルの上に置き、鞄を極力静かに開ける。
 中から取り出したのは白いリボンのかかった小箱だった。

 くるくる回して、じっくりと眺め、テーブルに置いてから携帯電話を手に取る。
 しばらく液晶画面を操作してそわそわし出したかと思うと小箱を手に取る。
また携帯電話を手に取る。

そんなことを何度か繰り返した後、洋司さんはとても丁寧な手つきで小箱の白いリボンをほどいた。

 箱を開けるときに紙の擦れるこそり、という音がゆっくり静かに響く。

 そうっと取り出されたのは銀の首飾りだった。
僅かな明りを弾いて強く銀色に光る。

 大人っぽくて華奢で綺麗なデザイン。一目でわたしへのものではない事がわかった。
 洋司さんは誰かの為への贈り物を優しく、細心の注意をしながら箱へ戻し、リボンをかけなおそうとしてうまくいかず結局、携帯電話の操作を始めた。

 多分リボンの結び方を調べたのだろう。画面とにらめっこをしながらリボンを手に取り箱へかけ直すことを再度試みはじめ、ライトが消えてしまわないように時々液晶に触れる。

 動きはせわしなく、落ち着かなそうなのにその背中はどこか楽しげだ。
 全ての作業はとても静かに行われている。きっと彼は私に気付かれたくないのだろう。

 ならば私は気付いていないように振舞うべきだ。
 細心の注意を払って、布団の中に静かに潜る。
 ぬくもりが残っている筈なのに、やけに冷たく感じるその中に私は深く深く、潜り続けた。

【如月上澣】
「えーっと」

 違います。そこじゃないです。

「……ああ、そうか」

 そこ滅多に開けないでしょ。取っ手、埃かぶってるし。
「あれー」

 そこ見たの三回目。
 平静を装っているつもりで装えていない背中を私はぼんやりと眺めている。

「おっかしいなーここだと思ったんだけど」

 ……そうですね。そこにありましたね。
 一昨日までは。

 部屋の中を探し回っている洋司さんに心の中で語りかける。
 彼が探しているのはリボンのかかった小箱。
 あったはずのものがないのは、私の仕業だ。

 あの箱を持って帰って来た晩、悪戦苦闘の末リボンが元に戻ったのはかなり時間が経ってからだった。
普段器用な人なのに何を手こずっているのか、やれやれと思いさっさと寝てしまおうと思ったのだが眼が冴えてしまって眠る事は出来ない。

 仕方がないので思案などを巡らせているうちにふつふつと湧いてきたのは怒りだった。

 人畜無害の草食系男子、むしろ半分植物なのではというレベルで穏やかな洋司さんも人並みにそういう事が起こるのね、と逆に感心してしまったのだが、よくよく考えるとこれは私、怒っていい事態である事に気付いたのだ。

 何をこそこそするのか。

 というかまず私に一言あるべきではないだろうか。こうして一緒に暮らしていて、今後の身の振り方にも関係する事だし。
何でこんな大事な事を言ってこないのか。

 言い出しにくい話題ではある。
それは解る。
私が怒ったり責めたりすると思っているのだろう。
普通はそういう反応をするのだろうが、人の心は大変移ろいやすいものであるという事は私も知っている。

 少しさみしいが無理に引き留めて洋司さんの心が変わる訳でもない。
 表面的には気にしていない風を装って彼の幸福を願うくらいの度量はあるつもりだ。

 心の準備もあるのだろう。手に取ったあと二回落としたペンで丸を付けたカレンダーの日付が渡す日なのだろう。まだ大分先。
言い出す準備が整うまで私はその日を待とう。

 と、待って暮らしていたのだが一向に言ってくる気配がなく、洋司さんが話す内容といえば教授の加齢臭が厳しいけど指摘できなくてつらい、とか電車で顔面をドアに挟んだ人がいた、とかそんな本当に、心底、どうでも、いい、話ばかりだった。

 私が言い出す契機をつぶしているのだろうかと思い、出来るだけ機嫌がいいように振舞ったのだが言ってこない。
 そういう素振りもない。

 というかにこにこでれでれしながら相変わらず私を褒める。

 こういうのテレビで見た事がある。
夫が浮気を隠すために、妻に過剰に優しくするとか、プレゼントを買って来るとかそういう状況なのではなのではないだろうか今まさに。

 先日も私の好きなもの買って帰って来てた。

 まさかこのまま何も言わずに同時進行みたいなことをするつもりなのか。こいつ、と。
 あ、いけない言葉が乱れちゃった。

 そう、確かに私と洋司さんは夫婦のような法的拘束力はない関係だけれども、それはあまりに不義理ではないだろうか。

 わりと温厚な私も流石に頭に来て、普段私が触らない所に隠されていた小箱(どこに仕舞ったのかはぬかりなくチェックしていた)を、普段洋司さんが触らない所に移動させた。
 そしてカレンダーに丸を付けられた当日である今日に、至る。

 彼はああでもないこうでもないと部屋をひっくり返しつづけている。

「あー…僕のばか…」とか呟いているから、自分が変な所に仕舞ったと思い込んでいるようだ。

 たしかにあの夜、目をこすりながらふらふらしていらっしゃいましたもんね。
 随分長い間部屋の中を探していたが、振動する携帯電話に急かされて出かけて行った。
 結構解りやすい所に隠したのだが逆にそれが良かったみたいだ。
 うまくやった、と私はご機嫌に振舞う。
 その日はちょっと元気がなさそうに帰って来た。あらあら、良からぬ事を企むから、そういう事になるんですよ。洋司さん。

【如月下澣】

 おかしい。

 私はひとりぼっちの部屋で低く唸る。
 大捜索の日以来、洋司さんは一度もあの箱を探そうとすることはなかった。
 私が気付かないうちに見つけたのかと思い確認すると、隠した場所に小箱はそのままあるのだ。
 無くしたものを見つけていないのに、洋司さんの態度はいつもと変わらない。
 優しく、穏やかで、静かだ。

 あんなにそわそわしていたのに。

 首飾りを手に取っていた横顔を思い出す。熱の入った眼差し、緊張しているのか固く引き結ばれたくちびる。

 私には一度も見せたことのない顔だった。だから却って気持ちの整理が出来たのだった。そして洋司さんはころころと気持ちを変えるタイプではない。
 割と一度決めた事は貫き通すし、頑固なほうだ。どうして…

 ――――――ああ。

 そうか、と私はかぶりをふる。思わず声も出てしまう。
 あの小箱を家に持って帰って来てから来客はなかった。
私と彼の二人だけの日々。
 私がそれを隠したことに気付いてしまったのだろう。

 一途で、頑固だけれど、掛け値なしに優しいから。きっと好きな人が出来た事をどうしても私に言い出せなかったのだろう。
 私がしたことに気付いて、そうして贈るはずだった相手への気持ちを押し込もうと決めたのだろう。

 ばかなひと。

 他のひとたちから見れば優柔不断に見えるのかもしれないけれど、その優しさを私はどうにも、憎むことが出来ない。

 倖せになってほしい。

 そのために私が足かせになっているのなら外してあげるべきだし、一時の激情に身を任せて彼の思いのこもった大切なものを隠してしまう、などといういじわるな事をしてしまう私が彼の傍にいるのは相応しくない。

 一歩ずつ踏みしめるように小箱の隠し場所まで向かう。
 ていねいに結ばれたリボンを崩さないように箱を持ち上げ、テーブルの上にこそり、と置く。

 すこしだけ散らかっているいつもの部屋。

 呼吸をすると彼のにおいがして、決心が鈍ってしまいそうになるから出来る限り息を止める。支度は簡単だ。身一つでここに来たのだから身一つで出てゆけばいい。

 人気のない部屋に向かって、私は自分の為にさよならを告げる。

※※※※※

 ふわりふわりと舞うように現れ、触れた瞬間はひどく幸福な気持ちになるのに、時間が経つと重くのしかかり気力と体力を確実に奪っていく。

 恋愛の事でしょうか、いいえ、雪です。

 ああもう、こんなしょうもない事を思いついている場合ではないんだってば。
控えめに落ちて来るそれを見上げ、私は思わずため息をついた。
 彼の家を出てから数日になる。とりあえず定住する所を決めずにふらふら泊まり歩いているのだが、身軽になるのは久しぶりだったので新鮮で楽しい。

 そうして浮かれてほっつき歩いていたら、天気を読み間違えてしまった。
 まだお昼前だが早々に今夜の宿を決めなくては、と探したのだが一向に見当たらない。

 雪の量は少しずつ増えてきたが、こういう場面で焦ると大抵碌な事にならない事を思い出し、小休止を取ることにした。今は公園の屋根付きベンチで休憩中、なのである。

 風がないので凍死の危機迫ると言った感じではないのが幸いだ。
 それでも体が勝手に丸まるのは避けられない。気分転換に全然関係のない事でも考えよう。出来れば少し楽しくなる類のことがいい。何があるだろうか。

 比較的すぐに思い当たる。

 人と一緒に暮らしているという事で我慢している事は多々あった。
 見た目とのギャップに驚かれるが、私は昆虫採集が趣味なのだ。
 彼が大変な虫嫌いなので自重していたがもう気兼ねすることはない。

 春になったら思う存分、だな。

 うきうきしながら深呼吸すると肺の中の水分が一気に冷やされて、むせた。
 いけないいけない。今は冬だった。
 そしてとりあえず今日の宿。

 大きく伸びをして、欠伸が出る。はしたないと自らを戒めながら公園の出口へ向かったが、私は踵を返して遊具の物陰に隠れた。

 何故かといえば非常に聞きなれた足音が耳に、飛び込んできたからだ。
 足音を刻んでいるのは背が高めの男の人で、深緑の眼鏡はきっときんきんに冷えているのだろう。

「凛々子さん」

 慣れ親しんだテノールに思わず笑みがこぼれてしまった。
 嬉しかったからではなく、予想していたことが的中してしまったからだ。
 その声の主は大変優しいので、出て行った理由に気付いても、身一つで出て行った私を心配して、探しに来たのだ。

 お人よしですね。

 初めて会った所が公園だったからだろうか、それとも付近を聞いて回ったのだろうか、どっちにしてもここで鉢合わせになったのはすごい偶然だが、暖かい部屋に帰って大好きなココアでも飲んだらいいです。

 寒がりなのにご苦労様です。

 足音は敷地内を縦横無尽にしばらく歩きまわり、そして段々遠ざかっていった。
 私は息を押し殺し、耳をそばだて、それが完全に聞こえなくなったところで息を吐いた。

 無理も我慢もしていない。
 もう戻るつもりも顔を合わせるつもりもない。

 その証拠にあんなに彼が近くにいたのに、心はひどく静かだ。
 動くことはない。いや、軽やかといってもいいくらい。

 もう酔って帰って来た彼のたわごとに延々相槌とか打たなくていいんだから。本当に、清々しいくらい、軽やか……というか、身が――軽い。
 自分の身体がほんの少し宙に浮いている事と、後方の息を吸い込む音に気付いたのはほぼ同時だった。

「捕まえ、た!」

 急に視界が開ける中、私を抱き上げる手をなんとか振りほどこうとしたが、かなり強く抑えられていて、それはかないそうもない。

 してやられたとか、これからどうこの場を切り抜けるかなど諸々考えて苦々しい気持ちになったが、とりあえず私を拘束している人物が誰なのか(まあ解りきっているのだが)確認するべく、嫌々振り返る。

「……ああ、本当に、良かった…!」

 泣いている所なんて、はじめて見た。
 あっけにとられてしまっている間に、強く抱きしめられてしまった。
 私を雪から守ろうとする彼に向かって抗議の声を上げる。

「うん、うん」

 一人で大丈夫なのでお引き取り下さい。

「凛々子さん、こんなに冷えちゃって」

 私の話を聞いてくださいってば。

「とりあえず病院行こうね」

 いつもそうなんだから。

「あれ、帰って温めてからがいいのかな」

 ねえ私、いやなやつでしょう。だから放っておいて。
 ていうか抱きしめすぎて痛い。
 頬ずりされると涙が私にあたってそこ寒いんですけど。話を聞きなさい!

「良かった、本当に良かった」

 精一杯のしかめ面で彼を見上げる。
 涙のせいで眼鏡は曇っているし、鼻は赤いし、しゃくりあげてるし。
 なんだか私が悪者みたいで、言葉を飲む。

 抱きしめられて心地いいのは、彼の身体で風が遮られているからであって、別に寂しかったわけじゃない。そう、自分の中で自分の意思を確認する。
 どこかで点滅する信号の音と、近い所で雪を踏む足音が聞えた。

「あ、せんぱーい、見つかりました?」

 声の方へ私と彼は同時に視線をやる。
 そこにいたのは、いつかの夜に彼と話していた女の人だ。

「いた、いたよー。もうどうしようかと」
「良かったですねー」

 彼女は駆け寄り、私をまじまじと見つめる。

「ほんとだ、確かにかわいいですね」
「でしょー」

 彼女から顔をそむけた。しかし彼女はそむけた側に回り込んで私を見つめ続ける。
 私は仏頂面なのに、彼女は笑顔だ。

「なんとかわいい、猫ちゃんなのか……!」

 ―――その呼び方は、好きではありません。
 私は更に顔をしかめる。ちゃんと凛々子って名前があるんです。
 人間だって、おいそこの霊長類ヒト科、って呼ばれたら嫌でしょうに。

「でしょ。しかも賢いんだよー。なくしたもの見つけてくれたりさー」
「えー賢い。何見つけてくれたんですか」
「いや、なんか、あはは」

 あ、誤解してる!そうじゃなくて私が隠し

「やだ、鳴き声までかわいい。完璧ですね」
「やばい、こんなに甘えんぼなの久し振りだ。早くあったかいところ帰ろうねえよしよし」

 ああもうだから嫌なの。

 ねえそのひとの事好きなんでしょ、そんなだらしない顔してたら前みたいにフラれるからね!私と猫どっちが大事なのってまた言われるからね。

「後で抱かせてくださいね」
「いいよー」

 って何で勝手に決められてるの?
 私の意見丸無視なの?
 力いっぱいの抗議と脱走を試みるも、全くうまくいかず、疲れ果てた私は洋司さんのコートの中に入ることを渋々了承する。

 でも何か釈然としないので、服の中でちょっと爪を立てる。

 ひどく情けない悲鳴が聞こえたが、知らんぷりして丸まって目を閉じた。

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