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ねえお姉さま、わたしあなたがだいきらい



「君には本当に申し訳ないことを言っていると思う。俺のことは好きなだけ責めてくれていい。けれど、キャロルは何も悪くないんだ」
「違うの、お姉さま! わたしが……わたしがいけないの!」

 私なりにかわいがっていた妹は、私の婚約者の腕に支えられながら、涙に濡れた瞳を向けてくる。
 ああ、とんだ茶番だ。
 こぼれ落ちる涙も、震える肩も、どこまでが計算でどこまでが真実なのか、たいして敏くない私にわかるはずもない。
 三つ年下の妹は、幼い頃から、誰からも愛される子だった。
 誰にでも笑顔で語りかけ、誰かを悪く言うこともなく、誰よりも輝いていた。
 父も、母も、兄も、彼女を愛した。
 私の婚約者ですら……そうだったというだけだ。

「婚約は、君から解消してほしい。君には何も落ち度はないんだ」

 女性側から婚約を破棄されるというのは、世間的に、特に男性から見てとても不名誉なことだ。
 基本的に男性優位のこの社会で、女側から断りを入れるほどの理由があったのだろう、と周囲は判断する。
 そんな問題を抱えた男性の元に嫁ぎたいと思う女性はいないため、その後のお相手探しにも支障が出る。
 もっとも、この場合はキャロルがいるから問題はないのだろうけれど。
 婚約破棄を言い渡されたのちに、元婚約者の妹との関係が表沙汰になれば、婚約破棄の理由も自ずと知れるというもの。
 人の口に戸は立てられない。どんな噂が飛び交うものか、考えるのも億劫だ。
 それでも妹を選ぶというのだから、本当に、本気なのだろう。
 彼の、頼りなげにも見える優しい面立ちに、今は固い決意を感じる。

「ごめんなさい、ごめんなさいお姉さま……!」

 妹はずっと頬を涙で濡らしている。
 優しい子だ。少なくとも、そうだと思っていた。
 女だてらに学を修める私に、庭に花が咲けば摘んで見せに来てくれ、誕生日には毎年きれいに刺繍されたハンカチをプレゼントしてくれた。姉妹の仲は、決して悪くはなかったはずだ。
 その透明な雫が、偽りではないと信じたいのは、私が甘いのか。
 いや、単に、そうであってくれたほうがまだ救われるからかもしれない。

「……わかりました」

 自分でも驚くほど平坦になった声に、二人はそろってビクリと震える。
 私の次の言葉を待つその様子は、まるでそちらが兄妹のようにそっくりだ。

「婚約は解消、ということで。私から父に、すべて嘘偽りなくご報告させていただきます。父からまた改めてそちらへお話が行くでしょうが、なるべく私をわずらわせないようお願いいたします」

 私だろうと妹だろうと、家同士のつながりは作れるのだ。
 私よりも妹に比重が傾いている両親なら、婚約解消も、妹との婚約も、多少渋りはしても最終的には認めるだろう。他でもない妹の望みなのだから。
 彼の家の反応はわからないが、そこは自分たちでどうにかしてくれとしか言えない。
 順当に行けば、次の冬の妹の成人を待って婚約の公表、といったところだろうか。

「……お幸せに」

 定型句を、口にした。
 いずれ結婚すると思っていた人に、別れを告げる言葉。
 人がよくて、少し頼りなくて、けれど誠実で、好ましかった。
 恋や愛はなかったけれど、夫婦となってから時間と共に築かれていくものだと思っていた。
 彼は私と気持ちを育む前に、見つけてしまった。それだけのことなのだろう。
 誰からも愛される、かわいいかわいいキャロル。
 不公平だ、と思う気持ちがまったくないとは言えない。

 結局、最後まで涙は出なかった。
 ずっと泣いていたのは妹だけ。
 どこからそんなに水が出るのか、干からびてしまわないかと心配になる。
 泣き虫なところも愛される所以だとしたら、なるほど私には土台無理な話だ。

「お姉さま……」

 その、泣き濡れた瞳に。
 ほんの一瞬、憎悪が映ったように見えたのは、気のせいだったのだろう。






  ◇◆◇◆◇






 わたしのだいすきなお姉さま。
 揺らがない芯を持っていて、女だということがもったいないほどに格好いいお姉さま。
 女性の自立性に目が向けられてきている今でも、学があって仕事についているお姉さまは奇特に見られることもあるけれど、自分のしたいことを曲げない自慢のお姉さま。
 その、芯が強すぎて。
 自分の考えがすべてで、周囲の評価なんて気にも留めない、おバカなお姉さま。
 だいすきで、だいきらいな、わたしのただひとりのお姉さま。


 ねえ、たとえばこんなお話は知っている?
 お兄さまが士官学校に通っていた頃、久々に帰ってきたお兄さまを一番に出迎えたのはわたしだった。
 その日に帰ってくると知っていたから、ずっと、ずっとお庭で耳を澄ませていた。
 そして、門の開く音がして。

「お帰りなさい、お兄さま!」

 笑顔で抱きつけば、お兄さまはわたしを抱え上げて出迎えを喜んでくれた。
 その時、お姉さまは?
 晩餐の時間まで部屋から出てくることはなかったのを覚えてる。
 誰よりも最後にお帰りなさいを告げる声も涼しげで、とても帰りを待ち遠しく思っていたようには聞こえなかった。


 また、こんなこともあった。
 街へ視察に出ていたお父さまが、お土産にとわたしたちにお人形を買ってきてくれた。
 ピンクのお洋服を着た金の巻き毛の女の子と、青いお洋服を着た栗色ストレートの髪の女の子。
 偶然見つけたと言っていたけれど、わたしとお姉さまをイメージして作らせたものだとすぐにわかった。
 きっとお父さまは、自分によく似た人形に喜んで手を伸ばすわたしたちを想像していたことだろう。
 なのにお姉さまはこう言った。

「どちらでもいいです」

 と。
 それはきっと、わたしに甘いお姉さまが、わたしに先に選ばせてあげようということだったんだろう。
 けれど、確実にお父さまの意図を汲めていない。
 お父さまの少し悲しそうな顔も、お姉さまには見えていないんだろうか。
 わたしはどうすればいいのか悩みに悩んだ。
 お父さまの気持ちも、お姉さまの優しさも無駄にはしたくなかったから。
 考えて、考えて、そうしてわたしは青いお洋服のお人形を手に取った。

「わたし、こっちがいいわ! この青いお人形さん、お姉さまにそっくり! お姉さまがお忙しくて遊べないときも、これでお姉さまと一緒にいられるのね。お父さま、いいでしょう?」

 これで、お父さまの意図を汲みながら、お姉さまが選ばせてくれた意味も生まれる。
 お姉さまの失言がわたしの笑顔につながった。お姉さまがわたしに選ばせてくれたおかげで、わたしは本当に欲しいほうを手に入れることができたのだと思えば、お父さまの悲しい気持ちはなくなるはずだ。
 ホッとしたように、そしてうれしそうに表情を和ませたお父さまに、わたしは自分の選択が間違っていなかったことを知った。
 家族の笑顔を守れた。家族の仲を守れた。そして。
 家族に愛される、わたしを守れた。


 わたしは、愛されることにいつも必死だった。
 愛が当たり前のものではないと自然と知っていた。失われないよう、さらに愛してもらえるよう人一倍努力した。
 だから余計に目についた。
 お姉さまの自分勝手さが。優しさと無関心を取り違えた態度が。




「いつも人の顔色をうかがってばかりで、疲れないかい?」

 その指摘は、取り繕い慣れているわたしが呼吸を忘れるほどの衝撃があった。
 ひとりで庭を散歩していたとき、声をかけてきたのはお姉さまの婚約者だった。
 お姉さまの二つ上、わたしからすると五つ年上の男性。整えられたアッシュブラウンの髪と穏やかな深緑の瞳が、清潔で優しげな印象だ。
 図星を突かれたのはわたしのほうなのに、彼は苦みを帯びた微笑みをこぼした。
 それがわたしには、疲れきった人の表情に見えた。
 ああ、この人も同じなのだと。
 直感がそう告げていた。

 愛されたくて、嫌われるのが怖くて、人の反応ばかりうかがって、自分の意思なんて自分でもわからなくて。
 虚しいだけなのに、今さら、それ以外の生き方なんてできなくて。
 自分に芯がないからこそ、芯のある人に強く焦がれて、同時に強く嫌悪する。
 彼とお姉さまの前途は多難そうだと、簡単に想像がついてしまった。

 わたしと彼は、時折庭の片隅で語り合った。
 未来の義兄と親睦を深めることは、何もおかしいことじゃない。彼はわたしと話す以上に、お姉さまに顔を見せていたから。
 ベンチの周囲には背の低い花しか咲いていないため、誰か人が来ればすぐにわかる。誰からも見える代わりに、誰にも声を聞かれる心配のない場所だ。わたしと彼の秘密は守られる。
 実際には少しもロマンチックなものではなく、愚痴と弱音のオンパレード。
 誰にも話せないことも、不思議と彼になら話せた。いつもは決して言葉にしようとは思えない、本当の自分をさらけ出せた。
 彼も、きっとそうだった。
 わたしたちは似ている。
 それが、救いであり絶望のはじまりだった。

 彼との語らいは、楽しいか楽しくないかで言えば楽しくなかった。
 ただ、まるで頭の上に重ねられた本を一冊だけ減らされるように、心は少し軽くなった。
 逢瀬のたび募っていく想いも、きちんと自覚していた。
 彼から向けられる熱のこもった視線の意味も。
 それでも、わたしたちは何も言わなかった。言えなかった。

 怖かったのだ。
 わたしにとっても、彼にとっても、お互いを選ぶということは他のほとんどのものを捨てるようなものだった。
 今まで積み上げてきた信頼も、家族の仲も、友人すら失うかもしれない。
 人に愛されるためにしてきたすべての努力が、一瞬で塵ほどに意味をなくす。
 何よりも周囲の目を気にするわたしたちには、選べなかった。選ぶ勇気を持てなかった。
 だから、わたしは少しも期待していなかった。
 彼が、お姉さまよりもわたしを選んでくれるとは。
 ただ絶望だけがそこにあった。




 月日は巡る。
 我先にとまばゆい花々が咲き誇る季節がやってきた。

「お姉さま、お誕生日おめでとう!」

 わたしは笑顔で絹のハンカチを差し出した。
 四隅に赤バラ、縁には蔦の刺繍をあしらったハンカチは、ありがちな意匠ではあるけれどわたしの力作だ。
 パーティーが始まってからではお姉さまもわたしも忙しいからと、毎年先に贈っている。
 刺繍したハンカチを贈るのは、七年ほど前からのこと。最初は拙かったそれを、文句も言わずに受け取ってくれただけでうれしかった。
 本当はあまり得意ではなかった刺繍を覚えようと思ったのは、お姉さまと違い学のないわたしも、何かひとつ取り柄が欲しかったから。
 刺し傷だらけの指が痛んで眠れない夜もあった。文字どおり血の滲む努力が必要だった。
 年々洗練されていく刺繍は、わたしの努力の結果だと、お姉さまは気づいているだろうか。

「ありがとう」

 お姉さまは相変わらず、ニコリともしないでハンカチを受け取った。
 パーティーのために、普段はしないお化粧を施されたお姉さまはいつもより血色がよく見えて、あとは笑顔があれば大輪のバラのように美しいだろうに。
 もったいない、と素直に思いながら、心の奥底ではじわじわと不満が広がる。
 差し出した手に見返りを求めるわたしには、一言のお礼だけでは物足りない。

 今日開かれる誕生日パーティーは、もちろん十八歳になるお姉さまが主役。
 春生まれのお姉さまの誕生日パーティーは毎年、華やかな季節に見合わない、だいぶ控えめなものだ。
 その数ヶ月前の冬、わたしのために行われるパーティーとの差を不思議に思う人も、口さがないことを言う人もいるけれど、実際は社交の場を苦手とするお姉さま自身の希望だったりする。
 本当はパーティー自体なくてもいいと言っていたのだけど、さすがに体裁的にそれはできなかった。
 お姉さまはたぶん、何かを祝うという行為自体に興味がないんだろう。たとえそれが自分に向けられたものでも。
 万事そんな様子のお姉さまに両親は数年前からプレゼントを用意しなくなったし、それについてお姉さまが文句を言うようなこともない。
 その代わりというわけではないけれど、わたしは毎年お姉さまへのプレゼントを欠かさなかった。

 ねえ、でも。
 何をあげても喜んでいるように見えない人に、プレゼントを贈る虚しさを、お姉さまは知っている?
 ひと針ひと針、お祝いの気持ちを込めて刺した刺繍を見て、お姉さまはほんのわずかにでも心を動かしてくれているだろうか。
 わたしには、何も……なんにも、読み取れない。

「もうそろそろいいかい?」

 コンコン、というノックの後に届いたのは彼の声。
 一瞬にして硬直した身体と笑顔を、お姉さまに気づかれていないといいのだけれど。

「もう大丈夫よ。行きましょう」

 お姉さまは声に答えて、すぐ脇にあった本棚の上にハンカチを置いた。
 胸までの高さくらいしかないその棚の上には、ちょうど、わたしによく似た人形もお行儀よく座っていて。
 わたしが定期的に着せ替えている片割れと違い、それはずいぶんと薄汚れてしまっていた。
 お姉さまの部屋に来るたび、意識的に見ないようにしていたのに、ふいに目に入ったそれに心が揺れる。
 まるで、わたしがお姉さまに愛されていない証明のように思えてしまうから。

「ああ、キャロルと一緒にいたんだね。邪魔をしてしまったかな」
「大丈夫よ! それを言うならわたしのほうこそお邪魔かしら」

 部屋に入ってきた彼に、わたしはにっこりと作った笑顔を向ける。
 いつもは絶対に彼に見せない作り笑い。でも、それはあちらも同じこと。
 そんな、妹に向けるみたいな優しいだけの笑顔。二人きりのときには一度だって見せたことがないのに。

「きれいだよ」

 エスコートするために腕を差し出しながら、彼はありきたりな褒め言葉を口にした。
 お姉さまは、やっぱり笑わない。
 いつもにこやかな彼と並ぶと、表情のなさがさらに際立つ。
 まるで氷の女王だ、という声が当たり前のようにささやかれている。春の花を束ねたような妹とどうしてこうも違うのかと。冬生まれのわたしと、生まれる日を間違えたのではないかと。本当に血がつながっているのだろうかとまで。
 婚約者殿もかわいそうに、と彼に対する同情の声も聞く。成人前の妹とのほうがよっぽどお似合いだと、そんな声に暗い喜びを覚えてしまうわたしは、どれほど罪深いのか。

「わたしは先に行ってるわね。主役は遅れて来るものだもの」

 これ以上、二人が並んでいるところを見たくなかったわたしは、そう言って扉に近づいていく。
 ズキン、ズキンと痛む胸は、嫉妬か、罪悪感か。両方だから、始末に負えない。

「それじゃあお義兄さま、お姉さまをよろしくね!」

 一度だけ振り向いて、二人に笑いかけてみせた。
 笑顔は、歪んでいない自信があった。
 “かわいい妹”でいられている自信があった。
 そうして仮面をかぶればかぶるほど、心は歪んでいくと、自分の心を見失うのだと、わかっていても。
 もう、外し方なんてとっくにわからなくなっていた。

 二人の後ろで、古ぼけた人形が微笑んでいる。
 作りものの表情を浮かべるわたしと、ほんとうによく似た人形が。




 彼と次に顔を合わせたのは、その十日ほど後のこと。

「シーラも、もう十八になった」

 ああ、終わった、とわたしは悟った。
 今まで、秘密の語らいで、一度も出てこなかったお姉さまの名前。
 お互い、言いたいことは山ほどあったはずなのに、爪先が触れただけで破裂する膿みのように、自然と避けていた。

「もう……終わりにしようか」

 そして本当に、破裂したのだ。
 彼はきっと、もうじきお姉さまに正式に結婚を申し込む。
 お姉さまが成人した年に婚約して、およそ二年。順当なところだろう。

「わ、わた……しは……」

 声が、震えた。
 おめでとうございます。お姉さまとあなたの幸福をお祈りしています。これからも家族としてよろしくお願いします。
 正しい答えはわかっていたのに、舌が動いてくれなかった。
 ひとりでにこぼれ落ちる涙が、思慕を何より伝えてしまうとわかっていて、止められなかった。
 何も、言えなかったから、うなずいた。
 何度もうなずいて、これでいいのだと、思い込もうとした。

 今さら別の生き方はできない。
 何も、捨てられない。
 捨てられないのなら仕方がない。
 はじめからわかっていた終わりだった。
 似ているから、惹かれた。
 似ているから、彼の気持ちが手に取るようにわかる。
 別れを、飲み込もうとして……飲みきる前に、彼が、わたしを引き寄せた。
 気づけばわたしは彼の腕の中にいた。

「あいしてる、キャロル」

 ああ、ああ、ああ……。
 その言葉を、その想いを。
 たった五つの音を告げるために、どれだけの勇気と覚悟が必要だっただろう。
 似ているから、自分のことのようにわかってしまう。
 わかるからこそ、どうしようもなくうれしくて、慕わしい。

 もう、それだけで充分だと思った。
 わたしの恋は報われたと思った。
 その言葉があれば、彼とお姉さまが結婚しても、わたしが好きでもない男の元に嫁いでも、笑顔でいられると。
 わたしも、覚悟を、した。
 だから、続く言葉をすぐには理解できなかった。

「俺は、君が望めば望むだけ、手に入るものでありたいんだ」

 彼の声は掠れていた。
 望めば望むだけ手に入ったものなんて、なかった。
 いつも、不公平だと思っていた。
 愛されるために10の努力をしても、手に入る愛は7か8。なのにお姉さまは、愛される努力なんてしなくとも、2か3はもらえるのだ。
 きっとお姉さまは、わたしのことを誰からも愛される妹だと思っているだろう。自分のほうこそ不公平だとでも思っているかもしれない。
 わたしは、努力なしに愛されたことなんてないというのに。
 愛は測れないものとは言え、努力の結果として与えられる愛は、いつも満足には少しだけ届かなかった。
 それを、彼は。わたしが望むだけ、わたしに10の愛をくれると言うんだろうか。

「そ、れは……だって……婚約……」

 衝撃が強すぎて、うまく言葉を紡げなかった。
 いつのまにか涙は止まっていた。
 似ているはずの彼が、今、何を考えているのかがわからなくて。
 そして気づいた。
 似ているからといって、まったく同じではないのだと。
 違う部分もあるからこそ、惹かれたのだと。

「言って。俺が欲しいと。俺に愛してほしいと。そうしたら俺はどんな苦難にも立ち向かえる。君を、キャロルを選ぶ」

 夢を見ているのかと思った。
 けれど夢ではないこともわかっていた。
 わたしをきつく抱きしめる腕は、かすかに震えている。
 覚悟を口にする声もどこか情けなく。
 わたしの知っている、わたしによく似た彼だった。

「もう……自分の気持ちに嘘をつき続けるのは、終わりにしよう。お互いに」

 彼はわたしの顔を覗き込みながら言った。
 苦みの混じった微笑みと、わたしを見つめるあたたかなまなざし。
 追い風を受けたかのように、勝手に気持ちが走り出す。
 わたしは彼の背に腕を回した。

「すき、あいしてるの、マーティン……っ!」

 わたしは、わたしと彼は、初めて自分の意思で選んだ。




「君には本当に申し訳ないことを言っていると思う。俺のことは好きなだけ責めてくれていい。けれど、キャロルは何も悪くないんだ」

 マーティンの声は緊張のため硬い。

「違うの、お姉さま! わたしが……わたしがいけないの!」

 彼だけを悪者にはできないから、わたしも言葉を重ねる。
 わたしが、少しでもお姉さまに嫌われないようにとかばってくれる、マーティンの優しさが好きだ。
 だからこそ、一緒に戦いたい。
 お姉さまとではなく、自分たちの心に巣食う臆病虫と。

「ごめんなさい、ごめんなさいお姉さま……!」

 ボロボロとこぼす涙は、わざとらしいと思われてはいないだろうか。
 演出的な意味を否定はできないけれど、嘘泣きではない。たったひとりのお姉さまに嫌われてしまうのが恐ろしくて、なのにお姉さまよりもマーティンを選んだことが申し訳なくて。
 どうか嫌わないで、なんて勝手なことは言えない。言えるわけがない。婚約者を奪うだなんて、最低なことをしている自覚はある。
 だというのに、ここまで来ても、お姉さまに嫌われる覚悟ができていなかった。
 それほどに、わたしは、お姉さまを愛してもいたから。

「わかりました」

 お姉さまは、思っていた以上にあっさりと、婚約解消を承諾してくれた。
 それにほっとする気持ちと、ああやっぱり、と失望する気持ちが同時に存在していた。
 いつかの人形を、わたしに選ばせてくれたのと同じ。
 お姉さまは、自分の婚約者にすら、たいして執着がなかったのだ。
 わたしが必死の覚悟を決めてまで手を伸ばした存在を、こうもあっさりと手放してしまうのだ。

「お幸せに」

 お姉さまの表情は最後までピクリとも動かなかった。
 皮肉なのか、心からの言葉なのか。きっとそのどちらでもあったのだろう。
 ああ、お姉さまは、本当に。



 だいすきで、だいきらいな、わたしのただひとりのお姉さま。









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