笑み屋
序
「いらっしゃいませ。笑み屋へようこそ。私はお客様を担当させていただきますカズヨと申します。こちらのご利用は初めてですか?」
店内に明るい声が響く。声の主はカズヨと名乗る若く笑顔の素敵な女性だ。
「では、当店のシステムをご説明いたします。わからないことがあれば、途中でも構いませんのでおっしゃってください。当店は名前の通り、お客様に自然で素敵な笑顔をお売りするところです。それはご存知ですね?はい。次にそのシステムですが、お客様のご要望に応じて一回、一週間、一か月の三つのコースに分かれています。各コースとも『笑顔の実』の処方と、スマイルトレーニング、メンタルケアが含まれております。なお、こちらでご提供するスマイルは、あくまでお客様ご自身の生活の精神的バックアップを目的としたものです。利益目的などの場合は、残念ですが契約できません。また、こちらでの契約内容と異なる悪用などの事例が確認された場合は、即時契約を解除し、それ相応の補償を求めますので、この点ご了承ください。効果が表れなかったらですか?はい、そのような場合はコースに関係なく、トレーニングなどの契約を延長することができます。もちろん追加料金などは発生しませんので、ご安心ください。」
一、緊張に勝つために
小さいころから、緊張とたたかってきた。人前で話すと、すぐに自分の顔が熱く赤くなるのを感じた。そして声も震えた。それを意識すればするほど、顔は一層熱くなり、声はさらに震えた。その度合いが極限まで達すると、涙があふれてくることさえあった。こんな自分が嫌だったが、どうすることもできなかった。掌に「人」という文字を書いて飲み込むとか、目の前にいる人たちをジャガイモだと思うとか、よく言われる方法は片っ端から試したが、どれも効果はなかった。でも今、人前に出ても緊張しない自分になりたいと強く思っている。自分の人生の一つの区切りを有終の美で飾るために。
来月、大学最後のダンスコンテストがある。ダンスとは中学の時に出会った。そこからすぐにのめり込み、大学でも迷わずダンス部に入った。技術的な部分なら、他の人に負けない自信がある。練習では常に完璧な演技ができている。それなのに、コンテストで納得のいくダンスができたことはない。一番の理由は、やはり緊張だった。審査員の先生方からは、
「ダンスは申し分ないレベルですが、表情がともなっていないですね。ダンスは、体と心、それから表情の三位一体で表現するものです。あなたは終始怒ったような感じで、顔が固まっているように見えました。その部分を磨いたら、表彰台は間違いないですよ。」と、いつも同じコメントをもらった。自分では笑顔のつもりだから、そう言われても正直困る。
今度のコンテストは、十年間のダンス人生の集大成だ。ダンスは大学を最後にやめることを決めている。ラストにふさわしい納得のいく舞台にしたい。すべてを出してやりきったと心の底から感じたい。でも、表情が硬いという大きな課題はまだ克服できていない。そんなとき、目にしたのが「笑み屋」の広告だった。胡散臭さも感じたが、藁にもすがる思いで店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ。」
笑顔の素敵な女性が出迎えてくれたが、こういうときも緊張してしまう。
「あっ、あのー。えーっと……。」
「どうぞ、お掛けください。今日はいい天気ですね。天気がいいと、気持ちもよくなりますよね。私は毎朝、必ず空を見上げてパワーをもらうんです。今日は澄み切った青空でしたから、いつもより多くのエネルギーが吸収できました。あっ、申し訳ありません。関係ない話をしてしまって……。」
彼女が笑みを浮かべながら楽しそうに話している姿を見て、緊張が少しほぐれた。自然体って素晴らしい。周りの人にまで元気を与えられる。彼女になら、本音でたくさん話せそうだ。
「そうですか。緊張してしまうから、自然な笑顔が出せないっていうことですね。でもお客様、今とてもいい顔されてますよ。表情が豊かでリラックスしているのがよくわかります。」
「たくさんの人の前に立つとダメなんです。体も心も、顔までこわばってしまうんです。自分の弱い部分なので認めたくないんですけど。しかも自分で言うのもなんですが、結構プライドが高いので、友達とかにはそういうとこ、見せたくなくて。もっとさらけ出せたら楽なのも、頭ではわかってるんですけど。」
不思議な感じがした。初対面の人に、自分の弱点を包み隠さず話している。この人の雰囲気がそういう気持ちにさせるのか、もしかしたら、実は自分のすべてを受け止めてほしいという気持ちが私の奥底に潜在していたのか。彼女は相変わらず笑顔を私に向けてくれている。押しつけがましいものではなく、優しく柔らかく包んでくれるような笑顔だ。
「ご安心ください。お客様の中にはあたたかいスマイルが存在しています。今は少し眠っているような状態だと思ってください。」
「いつ目覚めますか?」
「間もなくですよ。私も精一杯お手伝いしますから、今日から一か月、一緒に力を合わせてがんばりましょう。」
全く根拠のない言葉だったが、なんだかできる気がした。
トレーニングとして与えられたのは、毎日十分、鏡を見ながら「喜怒哀楽」を繰り返し表情に出すというものだった。これが結構難しい。表情をころころ変えることもそうだが、「喜」と「楽」、どうしても似通った顔が出来上がってしまうのだ。なかなか上手くいかない。そこで、色々な人の表情を観察するようにした。テレビなどはもちろんのこと、周りの友人たちにもサプライズを仕掛けて、その表情をサンプリングした。「喜」の顔、それは言うならば縦に伸びる感じだった。目は、大きく丸く輝いた後に目じりがゆっくりと下がる。「楽」は顔全体が上下に圧縮されたような、クシャッとした顔になることがわかった。違いがわかったら、あとはそれをできるだけ再現することに努めた。初めは単なる真似ごとにすぎなかったが、次第に自然にできるようにもなってきた。
メンタルケアは三日に一度、店に通いカズヨさんとおしゃべりするというものだった。彼女の醸し出す空気、雰囲気はとても居心地がよく、自分が実はおしゃべりだったという事実にまで気づいたほどだった。
「何だかオーラが明るくなってきましたね。お客様がお店に入ってきた瞬間に、ここの空気があたたかくなるような、そんなエネルギーを感じますよ。」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、自信になります。私の中で眠ってた本当の私が少しずつ動き出してるみたいな。うまく言えないけど、以前とは違う自分になれてる実感があるんです。」
「よかったぁ。コンテストの準備はどうですか?今週末ですよね?」
「はい、ダンスはほぼ完璧に仕上がってるので、大丈夫かなと。あとは、心と表情が整えば問題ないと思います。」
「それをうかがって安心しました。お客様がコンテスト前にこちらにいらっしゃるのは、今日が最後ですね。今日は、お客様にとっておきの呪文をお教えします。『みんなの目は、あなたを監視しているのではなく、あなたを見守ってくれている。だから何も怖くない』。もし、コンテストの時に緊張しそうになったら、唱えてみてください。それからこれ。笑顔の実です。コンテストの直前にでも口に入れてください。飴のようなものですので、舐めてもらっても噛んでもらっても構いません。」
今まで、みんなが見ている前で上手くできなかったらどうしようとか、ミスしたら笑われるんじゃないかとか、周りの人を他人の不幸を喜ぶ存在と認識していた。でもそれは違うとこの言葉が教えてくれた。みんな応援してくれているんだと。一つの状況をプラスにとらえるのもマイナスにとらえるのも自分の気持ち次第だ。どんな状況でもプラスに解釈できるということを、カズヨさんの呪文で改めて感じたし、人前に出る怖さが薄れていった。
コンテストの当日もトレーニングをした。そのときに鏡の中の自分を見つめて、ゆっくり気持ちを込めてあの言葉を唱えた。
「みんなの目は、私を監視してるんじゃなくて、見守ってくれてるんだよ。みんな私の応援団。だから、何も怖くない。私ならできる。思いっきり楽しもう。」
「カズヨさん、本当にありがとうございました。」
翌日、お礼がてら笑み屋を訪ねた。
「どっ、どうしたんですか、足。」
カズヨさんは松葉づえ姿の私を見て、驚いているようだった。
「実は、昨日の演技の途中で、ジャンプの着地に失敗しちゃって。いつになく体が軽くて動けたから、調子に乗って普段より高く跳んじゃったんです。」
「じゃあ、コンテストは?」
「三分の一くらいパフォーマンスが残ってたから、途中棄権扱いになっちゃいました。でも、審査員の先生に初めて表情をほめられたんです。とてもリラックスできている自然体で、見ている私たちもすごく楽しくなれましたって。最後まで踊りきれていたら、文句なしの優勝だったと、こっそり耳打ちまでしてくれたんですよ。」
集大成と位置付けていたコンテストで怪我を負った私を前に、カズヨさんはかけるべき言葉を探しあぐねているように見えた。
「私、ほんとにカズヨさんに感謝してるんです。今回のコンテストだけを考えたら、ちょっと残念な結果に終わっちゃいましたけど、でも、それ以上に大きな贈り物をもらったんですよ、カズヨさんに。人とのかかわり方とか、物事のとらえ方とか、自分ってどんな人間なのかとか。それで、今日はもう一つ報告したいことが。これまで、就職に何も明確な目標がなくて、ただ給料が高くて仕事が楽で、みたいなことしか考えてなかったんです。でも、決めました。子どもたちにダンスの面白さや楽しさ、時には難しさや辛さも教えてあげられる指導者になろうと。一緒に笑ったり泣いたりできる存在になりたいんです。今までこんなに強い思いを持ったことがなかったから、この夢は絶対に叶えてみせます。何年かかってもあきらめません。」
自分でも驚くほど熱のこもった言葉で、カズヨさんに思いをぶつけた。カズヨさんはいつものスマイルでしっかりと受け止めてくれて、そして口を開いた。
「こちらこそ、ありがとうございます。お客様が力強くまっすぐ前を見て話してらっしゃる姿を見ると、それに少しでも関われたことを嬉しく思います。と同時に、私自身も更に上を目指していかなくてはと改めて感じました。お客様の人生の大きな分岐点に立ち会わせていただき、本当にありがとうございました。」
二、本物のプロになるために
「ホスピタルクラウンというと、病院を訪問して入院患者さんたちに笑いを届けるピエロですよね?」
「はい。」
「日本では、まだまだ少ないと聞いたことがあるのですが、ホスピタルクラウンになられたきっかけを教えてください。」
「映画です。九十年代後半に、実在する人物をモデルにした映画が製作されたんです。そこで初めて、ホスピタルクラウンのこととか、笑いと治癒力の関係とかを知って……。」
当時受けた衝撃は、昨日のことのように覚えている。道化師は、人に笑われるのではなく、人を笑わせ、笑ってもらう存在。そして、笑いという幸せを人々にもたらす。私は自分の仕事に誇りを持っている。しかし……最近の私は、自分で見てもプロ失格だ。
「迷いが生じたのはいつ頃からですか?」
「はっきりとはわからないんですが、子どもが生まれてからのような気がするんです。小児病棟で、病魔と闘っている子どもたちを見ると、無意識に我が子と重ねてしまうんです。それで、笑い方がわからなくなって。そうなると、負の連鎖です。この間なんて、『ピエロさん、怖い』って泣かれちゃったんですよ。笑いを届けられないピエロなんて……。」
「お客様は、笑いやスマイルのプロでいらっしゃるので、その部分については何も申し上げることはありません。ただ、仕事に対する気持ちの持ち方に、大きな欠陥があるように感じます。お客様の今の状態は、ある種の公私混同です。ですから、オンとオフ、公と私の切り替えがうまくできるようにしなければなりません。」
自分自身の甘えを完全に見透かされたような感じだった。
「どんなスポーツでも世界を舞台に戦うトッププレーヤーは、毎日のルーティーンを大切にしています。こうした行為はスイッチなんです。オンとオフを切り替えるための。毎日仕事の前に必ずすることって、何かありますか?」
突然そんな質問をされて、答えに困った。
「毎日仕事の前に……事務所に着いたら、まずコーヒーですね。で、そのあと着替えとメイクです。そして、最後に鼻をつけます。それくらいですよ。何も特別なことはしてないので。」
「それです!鼻!その動作をスイッチにしましょう。」
「はぁ。」
いまいち何を言われているのか、理解できなかった。
「鼻を付ける前に、深呼吸して、こう言うんです。『私はピエロ。周りの笑顔こそが、私の喜び。人々に笑顔を配ることこそが、私の使命。余計なことは一切考えるな。ただピエロの自分に集中しろ』。」
言い方は悪いが、きれいごとを並べているようにしか思えなかった。
「騙されたと思って、一週間やってみてください。自分自身を信じる心に勝るものは、この世には存在しませんから。」
翌日から言われた通り、呪文を唱えてから鼻を付けるようにした。初めの二、三日は、声に出していたので、ピエロ仲間やスタッフに変な顔をされた。そのあとは、目をつぶり心の中で唱えるようにした。すると、どうだろう。目を開けた時に飛び込んでくる鏡の中の自分が、オーラを発しているというか、今までとは違う顔に見えるようになったのである。気持ちの持ちよう一つで、こんなにも変化があるというのか。病棟に着いた後も、何も余計なことは考えなくなった。
「ピエロさん、あのね、昨日いつもの嫌な治療だったんだけど、泣かなかったんだよ。ピエロさんが作ってくれた犬の風船を抱っこしてたら、怖くなかったし痛くなかったの。先生にも、今日はニコちゃんで頑張ったね、って褒められたんだ。ありがと!また風船作ってね。」
スイッチのおかげだろう。今では仕事中、プライベートの私は一切顔を出さない。いわば、別人格が形成されたようなものだ。「二重人格」というと、マイナスにとらえられがちだ。しかし公と私の別人格は、オンとオフの両立にも、生活の充実にも欠かせないアイテムであると実感した。笑み屋に行ってよかった。甘えがあって弱っていた気持ちを、強く変えることができたのだから。
笑み屋のスタッフの方には、お礼の手紙を書いた。すると、丁寧な返事が届いた。
「仕事とプライベートがはっきりと分けられる人こそが、プロフェッショナルになり得るというのが私の考えです。その点からみても、お客様は正真正銘のプロです。人間の気持ちは、良くも悪くも伝染ります。常に明るいオーラを出していれば、周りにも必ず、笑顔の花がたくさん咲きます。ピエロさんとの出会いを待っている人は、まだまだたくさんいるので、これからも一人でも多くの人に、笑顔を届けていってください。」
三、お客様に快適な時間を提供するために
自分で言うと自慢になってしまうだろうが、よくアイドルのような顔だと言われる。昔はかわいい顔とかきれいな顔とか言われるのは、嫌だった。やはり男ならカッコイイと言われたかった。でも今は、これも自分の個性だし、女性にチヤホヤされるのも悪くないと思っている。俺は今、「顔」を武器にして接客業に従事しているのだが、お客様の前でどうにも自然な笑顔がつくれない。自然に柔らかい表情になれれば、今よりいい雰囲気を作り出し、お客様に最高の時間を提供できるのに。
「接客業なんですね。どのような?」
「んー、簡単に言うと、バーみたいなとこで働いてるんっすよ。カウンターでお酒作ったり。」
「それで、お客様とお話しする機会が多いってわけですね。」
「そうなんすよ。なんか、しゃべり方がチャラいってよく言われるんだけど、自分、根は真面目だと思うんすよ。だから、どうしても表情が硬いことが多くて……。どうにかならないっすかね?」
「そうですね……。お店にいらっしゃるお客様に快適で幸せな時間を提供したいっていう理由でしたよね?」
「うん、そう。だって、いい笑顔の人って、無条件で良い人に見えるし、自分のような、まあ、イケメンが爽やかな笑顔だったら、なんとかに金棒でしょ?」
「えーっと、鬼に金棒ですかね?確かにあなたの顔、整ってますよね。」
「あざーっす。よく言われるから、自分でもイケてる自覚はあるんすよ。とりあえず、一回のコースで。効果が実感できたら、また来るし。」
「一回ということですので、さっそくメンタルケアに移りたいと思います。あなたは、今まで、人を騙したり裏切ったりしたことはありますか?」
「えー、なんすか、それ?なんか自分のこと悪い人間みたいに思ってます?参ったなぁ。騙したりしたことがないって言えば嘘になるけど、どちらかと言うと誠実なほうだと自分は思ってるんすよ。」
「ええ、人の性格というのは、表情から読み取れるものですから。では、こちらは笑顔の実です。そして、笑顔になりたい日の朝、鏡を見て、『周りのすべての人を騙せても、自分自身は裏切れない。』と言って、笑顔の実を口に含んでください。それだけです。うまくいくことをお祈りしています。」
一回で一万円。決して安くないが、うまくいけば……。
「いらっしゃい!待ってたよ。最近会いに来てくれないから、忘れられちゃったのかと思って、毎晩枕を濡らしてたよ。」
「もー、カー君ったら。そうやってお店に来る女の子みんなに言ってるんでしょ?」
「そんなことないよ。神に誓ってもいい!俺は、ともちゃんしか見えないの。」
「またまた。今度は何が欲しいの?ねえ、とりあえず、ドンペリ一本持ってきて。」
よし、高級シャンパン一本もらった!
「ねえ、ともちゃん。俺、どっか変わった?」
「えー、いつも通りのイケメンだよ。お口もうまいしね。あっ、いつもより笑顔が輝いてるかも。」
「でしょ?だって俺、ともちゃんに釣り合う男になるために、毎日笑顔のトレーニングしてるんだもん。」
こういう甘い言葉に、女は弱いはずだ。
「そんなこと言ったら、本気になっちゃうじゃん。そういえば、カー君、この間、欲しいものがあるって言ってたよね?」
「うん、今の仕事でお金を貯めて、将来的に手に入れられればいいなって思ってるんだけど、かなり高いものだから、二、三年はかかるかな。」
「でも、カー君のお店での指名数から考えたら、お給料、かなりもらってるでしょ?そんなカー君でも簡単に買えないものって?」
狙い通り、俺の欲しいものに興味津々だ。
「車……なんだよね。中学の頃、雑誌で見て一目惚れ。でも、かっこいいだけあって、やっぱ高いんだよ。だから、コツコツ貯めてがんばるしかないんだ。」
「車か。それっていくらぐらいのもの?」
おお、値段まで聞いてきた。いけるかも。
「ズバリ五百万。ね、高いっしょ?」
「うん、まあ安くはないわよね。でも、カー君、欲しくてしょうがないんでしょ?五百万円なら、作れない額ではないし。」
よし、あと一押しだ。
「そうなんだ。絶対に手に入れるって決めてるんだよ。だから、俺は今、がんばるだけ。ともちゃん、見ててね。」
とびっきりの笑顔付きの決めゼリフだ。今のは、あの笑顔の実だっけ?あれの効果も十分に出てるだろ。
(ズドーン)
大きな衝撃音が聞こえた。その音によって、カー君ことカイトは、魂でも抜けたかのような表情になった。
「カー君、どうしたの?ねえ、カー君。大丈夫?」
「は?っていうか、お前みたいなやつ、俺の中でATMっていう扱いだし。お前だって、ホストクラブ来てるくらいだから、俺たちの話が営業トークってことぐらいはわかってるだろ?」
「え?カー君、何言ってるの?いつも私は特別って言ってくれてたでしょ?」
「ははは。マジで信じてたの?おめでたいね。家に帰って、ゆっくり鏡でも見たほうがいいんじゃない?とりあえずさ、俺、今、お前と話す気分じゃないし、帰ってくれる?」
「なっ、なに?信じられない。ちょっと、店長呼んで!」
この有名なホストクラブの中でも、最近人気が出始めていたカイト。整った顔。甘い言葉。カイト目当てに、毎日多くのお客さんが訪れていた。しかし、様子が変だ。いつもの甘い言葉は影をひそめ、本心がむき出しになってしまっている。
「お客様、この店の店長をしております田中です。うちのカイトがご無礼をはたらいたようで、申し訳ございません。ほら、カイト、お前も頭を下げろ!」
「いやいや、店長。俺は本当のことを言っただけで、何も悪いこと言ってないし。」
「もういいわよ。こんな店、二度と来ないし、名誉棄損で訴えてやるから。」
カイトも、まずい状況なのはわかっているはずだ。判断できないほどお酒も飲んでいない。それなのに、まだ悪態をついている。一人のお客さんを失ったという単純な結果ではおさまりそうにない。現代はインターネット時代。口コミ、悪評はあっという間に広がっていく。しかも、本当に裁判を起こされたら、この店の死活問題にかかわるかもしれない。
「タロウ社長ですか?お疲れ様です、カズヨです。先日いらっしゃったお客様、バーテンダーとおっしゃっていたのですが、実はホストでした。それだけではなく、笑顔になりたい理由にも虚偽が認められました。はい、そうです、契約内容との相違がありました。ご来店された段階で、実は少し怪しかったんです。ですから私も注意を促すような呪文をお教えしたのですが、ダメでした。今回は、今後二度と自分自身を裏切らないように『本音が止まらない』刑にしましたので、ご報告申し上げます。」
その後カイトは、当然のことながらクビを言い渡された。お金目当てで女性の気持ちをもてあそんだ代償は、あまりにも大きかった。職を失った上に、周りにいた人々もカイトの口の悪さに辟易して離れていった。本音が止まらないという状態では、次の仕事を探すのも難しいだろう。実家の両親とは元々折り合いが悪いので、地元に戻ることもできない。この先、カイトはどのように生きていくのか。すべては自業自得だ。
零、周りの人との輪を作るために
私の名前はカズヨ。どこにでもいるような普通の大学生だ。大学へは片道二十分、歩いて通学している。家から真っ直ぐ続く商店街を抜けると、大学は目の前だ。
私は昔から人見知りが激しく、新たな環境に入っていくことが大の苦手だった。必要以上のことは話もしない。口数も少なく、周りから見たら、暗い人間だろう。去年成人式を迎え、今年は就職活動も始まる。このままでは私は、常に周りにビクビクして、自分の殻に閉じこもった人生を送ることになってしまう。変わるなら今。これがラストチャンスだろう。インターネットで色々と調べて、勇気を出して無料の自己啓発セミナーにも参加してみた。でも何かが違った。私の求めているものではなかった。
ある日の大学からの帰り道のことだった。商店街の角にある古いビルを見ていた。信号待ちで、時間を持て余していたのだ。その雑居ビルには、飲食店や雑貨屋、会社関係の事務所などがたくさん入っていた。その中に気になる名前を見つけた。「笑み屋」だ。看板には、「あなたに幸せな人生を」と書いてあった。少し興味が湧いたが、ちょうど信号が青になったので、人々の流れに合わせて歩き始めた。その日の夜、ふと「笑み屋」のことを思い出し、ネットで調べてみた。一応、ホームページのようなものは存在したが、詳しいことは書かれていない。ただ、「自然な笑顔を取り戻すことで、あなたの人生は大きく変わります」、「あなたに幸せな人生を」それだけだった。悪徳商法、詐欺グループ、カルト教団、様々な憶測が頭の中を駆け巡ったが、もし書かれていることが本当ならば、これぞ正に私の探し求めていたものだろう。新たな自分に生まれ変わるために、心を決めた。
「いらっしゃいませ。笑み屋へようこそ。私は当店の店主、タロウです。どうぞおかけください。」
「あっ、あのー。」
初対面の人を前にして、何を話せばいいのかわからない。とりあえず、言われた通りに座った。
「笑み屋って名前からして怪しいですよね?このお店、実は祖父のものだったんです。祖父は、人の気持ちがわかるという特異な能力の持ち主でした。その力を活かして、悩みのある人の心に寄り添い、悩みを笑顔に変えるということをやってきたんです。私は、小さいころから祖父と生活をともにしてまして。学校が終わるとそのままお店に来て、ずっと部屋の隅、あの机で勉強したり、本を読んだりしていたんです。そんな時間が永遠に続くと思っていました、真剣に。でも、ずっと一緒だった祖父と別れる時がやってきてしまったんです。祖父は亡くなる間際に、お前になら笑み屋を任せられるという言葉を残してくれました。だから私は、祖父の始めた笑み屋を守りたいという一心で、心理学の勉強や、対人行動に関する研究などをして、カウンセラーの資格を取りました。ただ、私が笑み屋を続けていく上での一番の武器は、祖父と一緒に過ごした時間です。その時間の中で、受け継いだものや自然に伝わってきたもの、教えてもらったことがたくさんあると信じています。あっ、長々とすみません。まあ、こんな感じです。いかがですか?もし、少しでも怪しいと思ったら、無理にお引止めはしませんので、このまま帰っていただいても大丈夫ですよ。」
話し方が柔らかくて、穏やかな表情をしているタロウさんは、私に少しだけ安心感を与えてくれた。自分から色々とペラペラ話すのは無理だが、聞かれたことなら答えられそうだ。
「あっ、いえ。このまま……。」
「はい、わかりました。ありがとうございます。では、まずは基本的なこと、当店のシステムなどを説明いたしますね。」
タロウさんは続けて、笑み屋が何をするお店なのか、そのシステム、料金体系、様々なことを丁寧に説明してくれた。
「何かご不明な点はありますか?」
「いえ。」
「わかりました。では、次にこのアンケートにご記入いただけますか?」
タロウさんから手渡されたその紙には、氏名、年齢などの基本情報のほかに、悩んでいること、笑顔になりたい目的などといった質問が並んでいた。私が時間をかけてゆっくりと書いている間、タロウさんは私に話しかけたりはせず、ただ待っていてくれた。時々席を外して、飲み物を入れに行ったり、窓の外を眺めたりしていた。ずっと正面に座っていられたら、私にとっては大きなプレッシャーとなる。タロウさんの席を外すタイミングなどが絶妙で、初めて来た場所にしては珍しく、私にとって居心地のいい空間だった。
「お待たせしました。終わりました。」
私は書き終えたばかりの紙を、タロウさんに渡した。タロウさんはそれを、うなずきながら丁寧に読んでくれた。そして、それに基づいて色々と話を聞かれた。聞かれたと言っても、無理やり話すように仕向けられたというよりは、私の中にすでに答えが出ているようなことを、ゆっくりと引き出してくれたような感じだ。今まで、こうやって初対面の人と一対一で長時間話したことはない。笑み屋のもつパワーなのか、一種のマインドコントロールなのか、原因はよくわからないが、私にとっては、現状を打破する大きな一歩となった。
それからは二日に一度、笑み屋へ通った。私が闘っている相手は、二十年以上変えることができなかった性格だ。タロウさんも、まずは精神面から三か月コースで焦らず一緒に変わっていきましょうと言ってくれた。目に見えて変化があったわけじゃないが、少しだけ、人がたくさんいるところへ行くのが怖くなくなった。そして、周りが知らない人ばかりでも平常心が保てるようになった。
一か月が経った。
「タロウさん、聞いてください。私、できたんです。」
自分が勢いよく話しているのが、自分でもわかった。
「あっ、カズヨさん。なんだか今日はパワーがありますね。どうしたんですか?」
「今日、大学で私の好きなアニメのキャラクターの人形をカバンにつけてる女の子がいたんです。で、思わず、話しかけちゃいました。そんな行動をとった自分にびっくりですよ。」
今までどんなことがあろうと、見ず知らずの人に自分から話しかけたことはなかった。お店の人に対しても少し躊躇するほどだった。そんな私が、大好きなアニメのキャラクターという共通点があったとは言え、これは本当にすごいことだ。
「少しずつ、本当のカズヨさんが出てきていますね。いい調子ですよ。一か月前に比べて、表情もとても柔らかくなりましたよ。」
そういってもらえると、たとえそれがお世辞だとしても嬉しかった。何でもそうだが、変化が目で見えれば、それは更なるモチベーションにつながる。
「ありがとうございます。でもまだ、一回成功しただけなので。」
「二十年間できなかったことが、一回できたんですよ。今日は何か好きなデザートでも買って、思いっきり自分をほめてあげてくださいね。」
帰りに近くのケーキ屋でチーズケーキを買った。
二か月が経過した。
「タロウさん、聞いてください。すごいことが起きたんです。」
「カズヨさん、こんにちは。最近、毎回すごいことが起きてますね。どうしたんですか?」
タロウさんはいつもの優しい笑顔だ。
「私、いまさらなんですが、ボランティアサークルに入ったんです。そのサークルは、本当にやる気のある人だけを求めていて、面接があるんです。先週面接を受けたんですけど、さっき電話で入部を許可しますって。もちろんボランティアなんて今までしたことなかったですし、自分が面接というもので良い評価を得られたことにびっくりですよ。」
「じゃあ、これから、もっともっとびっくりすることが起きると思いますよ。カズヨさんの本来の姿がようやく目を覚ましたんですから。今後、色々な変化が起きるかもしれませんが、あわてなくて大丈夫です。カズヨさんにはカズヨさんのペースがありますから、自分のリズムで一歩ずつ進んで行ってくださいね。」
確かに、いきなりあれこれ欲張りになると、頑張りすぎてショートしてしまうかもしれない。
三か月が過ぎた。
「カズヨさん、いらっしゃい。あれ、今日は少し元気がないですね。どうしたんですか?」
「今日はお願いしたいことがあるんです。この三か月で、私の性格は大きく変わることができました。これもすべて、笑み屋とタロウさんのおかげです。極度の人見知りだった私が、多くのことを自発的に行動できるようになったのも、周りの目を気にしてビクビクしなくなったのも、すべてです。これ以上望むのは、欲張りだということはわかっています。でも、あと三か月、コースを延長したいんです。それは、表情をより自然なものにしたいからです。次の三か月は、スマイルトレーニング中心でやっていただきたいと勝手に思っているんですが……。お願いします。」
私の図々しいお願いに、タロウさんは少しだけ困惑したような表情を見せた。
「やっぱり、無理なお願いですよね?」
その言葉にタロウさんは微笑んだ。
「断る理由なんて、一つも見つかりません。もちろんOKです。ただ、交換条件というか、こちらもお願いがあるんですが……。」
「なんですか?」
「実は最近、少し手が足りないんです。事務的なパソコン入力や、問い合わせ対応などのお手伝いをしていただけないかと……。」
「えっ?アルバイトっていうことですか?」
「はい。でも、カズヨさんもそんなにお暇じゃないですよね。」
すごく嬉しかった。アルバイトをお願いされるということは、最低限の接客はできると認めてもらったということだからだ。
「ありがとうございます。人生初めてのアルバイトなので、うまくできるかどうかはわかりませんが、是非やらせてください。」
次の日から、大学の授業がない時に、笑み屋でアルバイトを始めた。私の定位置は、幼い頃のタロウさんが愛用していた部屋の隅にある机だった。笑み屋の一員となった私は、以前にも増して笑顔の重要性を感じ、より深く考えるようになった。そして、救いを求めていらっしゃるお客様に対して、どのような表情で対応するのがよいかを模索した。まぶしすぎる笑顔だと圧迫感を与えてしまうし、冷静な表情だと緊張感を与えてしまうだろう。ちょうどよい、心地よい笑顔にたどり着けるまで、多くの時間を要した。
初めて笑み屋を訪れてから半年が経った。
「カズヨさん、もうケアもトレーニングも何も必要ないですよ。今のカズヨさんの笑顔は、自然すぎるくらいに自然です。ですから、お客様としてこちらにいらっしゃるのは、今日を最後にしましょう。引き続き、笑み屋を支えるスタッフとして、よろしくお願いします。」
「この半年間、タロウさんには本当にお世話になりました。自分で、新しい世界に足を踏み入れられるようになったのは、本当に大きな収穫でした。あとは、気持ちに余裕が生まれたことで、自然に表情がほぐれ、笑顔でいられるようにもなりました。これからは少しでも恩返しできるように、がんばりますのでよろしくお願いします。」
「ではカズヨさん、今からはうちの専属スタッフという身分ですので、一つだけ種明かしをします。」
やはり何か、魔術のようなものを使っていたのか。
「笑顔の実、あれ、ただのキャンディーなんですよ。口に入れることでの体や心へのプラス効果は、ありません。でも、その行為自体が、心に安心感と信頼感を生むんです。そして、少しずつ自分に自信が持てるようになるという仕掛けだったんです。騙していたような形になってしまい、ごめんなさい。」
そんなことは私にとって、どうでもいいことだった。結果として、私に自然な笑顔が身についたこと、これだけで十分だったからだ。笑み屋からも、タロウさんからも多くのことを教えてもらい、多くの贈り物をもらった。次は私の番だ。
終
何かをもらった人間は、次はそれを他の人に与える側に回る。受け取ったものを次の人に還元し、今度はその人が、また違う人に同じことをする。連鎖反応が起こるのだ。受け取るばかりという都合のいい話は存在しない。もらった時は他の人と分け合い、自身に不足があるときは、周りから補ってもらう。それが人間社会の根底をなす。もし誰かがこの連鎖を断ち切り、ストップさせたら、流れは止まり、バランスが崩れる。バランスが崩れると、そこには怒りや妬みという負の感情が生み出されてしまい、それがトラブルの種になってしまうのだ。
みんなが他を思う気持ちを大切にし、時には他の心に寄り添って人の輪を広げていけば、この世は必ずスマイルとハッピーであふれるだろう。そんな世の中が実現するよう、カズヨは今日も笑み屋で悩める人々の心と向き合っている。