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越後の虎 作者:立道智之

四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒

年明け天正6年(1578年)正月、謙信は関東出陣の大号令を出した。
動員可能な全戦力を持って関東に出ることにしたのである。
10万の戦力を動員し、今回はあの本庄繁長も久々に動員されることになった。
越後の守りを空にしても出る大規模な作戦であった。
都でも年明け早々謙信が大動員令を出しているとの噂でもちきりであった。
表向きは関東攻略であったがやはり上洛軍ではないのかと噂され、織田信長を神経質にさせていた。

謙信は正月、自分の誕生日に色々な事を思い出していた。
自分にとって、今日まであっと言う間であったが既に49歳になろうとし、人生50年の一歩手前まで来ていた。

普通の姫の生活から訳も分からず武将として引きずりだされて、兄に代わり越後を治め、人の助けに応じて信州、関東を駆け巡り、たくさんの人が自分を支え、去って行き、今、また自分も頼られてここにいる不思議な現実である。

「人生四十九年・・」
謙信はつぶやいた。
「一睡の夢・・一期の栄華・・一盃の酒・・」
謙信は思わず静かに一句詠んだ。

「私の長かったような人生もすべて昨夜の夢のようにあっという間だった・・栄光も一瞬・・一杯の酒のようなものだ・・人生は本当にあっと言う間だった・・」
謙信は春日山城のふもとに広がる日本海を眺めながら静かに呟いた。

また謙信はこれを祝ってではなかったが2月になると都から絵師を呼んで肖像画を書かせた。
この絵は大変不思議な絵であった。
約1ヶ月後の3月9日にこの絵は完成する。

そしてこの絵が完成した時、謙信の元には景勝や樋口兼続、お舟が呼ばれていた。

この日は謙信が毎月襲われる腹痛の時期に当たる期間で、あまり体調が良くなかったが謙信が彼らを呼んだのは絵の披露だけではなく、今後のことを少し話そうかと考えていたからである。

絵を見た時、謙信以外の3人は明らかに驚きの表情を浮かべた。

「え・・これが・・ですか・・?」
兼続が思わずすっとんきょうな声を出してしまった。
そこには雲の上に浮かぶ独鈷とその下に赤い木盃が描かれていたのである。
人物らしきものは全く書かれていなかったのである。
しかし
「・・なるほどね・・」
お舟はすぐに分かったようで
「・・隠し言葉ですね・・」
と悪戯っぽい顔で言った。
謙信もにこりと笑うとうなずいた。
「・・阿虎様は確かに酒好きだが・・そういう意味ですか?」
兼続はまだわからないようで、正直に言った。
「いや・・そこまで考えてなかったな・・参ったな・・でも良いかもしれない・・」
謙信が逆に笑ってしまった。
「全く・・修行が足りないなぁ・・」
お舟が兼続を見ながら少し呆れ気味に言った。
「杯や盃は女子おなごの隠し言葉でしょ・・」
お舟の兼続が咎める様に言った。
「へぇ・・」
兼続は知らなかったと言わんばかりに素で言った。
「・・俺も知らなかった・・ふうん・・」
景勝も遠慮気味に小声で言った。
謙信は越後の将来を背負う期待の3人の若者の会話をにこやかに聞いていた。
「この盃すなわち我が後影なり・・」
謙信はにこやかに言った。
「なんで普通に書かせなかったので・・?」
兼続はまだ少し納得いかない感じだったが
「洒落でしょ・・洒落!まったく・・」
お舟が再度呆れ気味に言った。
「・・ところで・・」
景勝が間に入るように言った。
「大事なお話とは・・」
景勝が兼続とお舟の話を終わらせようと入ってきた。

「うん・・」
謙信は少し額の汗をふいた。
「阿虎様・・大丈夫ですか・・?」
お舟が心配そうに言った。
謙信は毎月10日前後のこの時期はいつも体調が優れなかったがここ最近は年のせいか、以前よりも体調が優れないのが自分でもわかる程であった。
「大丈夫・・心配かけてすまない・・」
謙信は言った。
額の汗を拭きながら謙信は軽くお腹を押さえた。

謙信は今日、絵の披露だけでなく今後の話を3人にしようと考えていたのである。
謙信は景勝と上杉景虎が不仲の件にも気を揉んでいた。
景虎は既に景勝の妹と結婚し子供までもうけており、孫は仙桃院や謙信に溺愛されていた。
そのため越後内でも謙信の正式な後継者は景虎になるのではないかとの噂が密かに流れていたのである。
北条家との兼ね合いもあり、景虎が後継者になり、北条を丸め込むのが、謙信が目指す関東制覇の夢にも叶い理想であった。

一方景勝はまだ結婚もしていなかった。元来無口であったが家臣との付き合いも景虎と違い円滑とは言い難かった。
しかし景勝は姉、仙桃院の子で越後の大勢力、上田長尾の直系の子であった。
北条の息子の景虎には軍役を果たさず景勝に軍役を果たしていたのは、謙信は暗に景勝を後継者として見ていたからである。

しかしこの軍役が誤解を生んでいるのも事実であった。
軍役の無い景虎が上位、ある景勝が下位と見なされる事もあったのである。

謙信は今後の大計画を考えていた。
謙信は関東に出た後、北条氏政を味方につけてその勢いで、東海道から一気に上洛作戦を信玄のように行おうと密かに考えていたのである。

氏政を味方にする決定打は今回動員する10万の大軍と景虎であった。
景虎を関東管領にすれば氏政、北条氏も自分に逆らう理由などなかった。
関東管領は名義だけの官位であったが北条家を納得させるのには充分であった。
謙信は強大な信長を単独で破るのは無理で、上洛するためには北条の力は必須であることを悟っていた。

一方、景勝、上田長尾には引き続き越後本国や軍の最高指揮官として実権を任せて、しいては景虎以上の官位を義昭にお願いしようと考えていたのである。
信長をもし破り、上洛できたら細川家の管領職を引き継がせてもらおうと考えていたのである。景勝を管領職にすれば上杉家内や北条、関東、東国が丸く治まると考えたのである。
もちろん管領職も完全に実質的には何の権威もなかったが景勝、景虎の関係をはっきりさせるには最適であった。管領職を得られるかどうかは昔、都で足利義輝にお願いしたように少し強引にお願いしようと考えたのである。
もちろん、謙信が若い頃、信長登場以前の時代に権力を振るったあの三好長慶も義輝の時には管領になっていないのであるが。

謙信は額の汗を拭いながら今日話そうと考えていることをめぐらせていた。

「今日は少し・・上杉の将来について良い話をしようかと思ってな・・」
謙信はにこやかに言った。
「・・ほう・・」
景勝も少し思わず意外そうな顔をしてしまった。
「景勝、兼続にはこれまでいろいろと気苦労をかけたからな・・」
景勝と兼続は謙信の言葉に思わず顔を見合わせてしまった。

「ちょっと失礼・・」
謙信は本題に入る前に厠に行くため立ち上がった。
そしてしばらく歩いた後ふらふらとよろめき、静かに倒れこんだのである。
「叔母上!」
「阿虎様!」
景勝と兼続、お舟の三人が慌てて謙信の元に駆け寄った。
景勝が謙信を抱きかかえると
「・・私は毘沙門天の使いだ・・大丈夫だ・・死にはしない・・関東出兵を・・」
謙信は弱々しい声でつぶやき、にこりと笑うと静かに目を閉じ、力なく景勝の膝の上で崩れた。

そして謙信は二度と目を開けることはなかった。
天正6年(1578年)3月13日 不慮の虫気で49年の生涯を閉じたのである。

謙信の思いがけない急死によって越後は揺れていた。
後継者は誰かである。
景勝か景虎かはそれは謙信が遺言を残さなかったので誰にも分からなかった。
しかし、葬儀の式で兼続やお舟、仙桃院は景勝の腹の底からの滲み出るような言葉を聞いたような気がしたのである。
景勝は景虎夫婦を睨みつけながら
「・・謙信の後を継ぐのは北条の景虎でも誰でもない・・この俺なんだよ・・!」
小さな声で言ったように聞こえたのである。

この数日後、謙信の葬儀の最中に越後国内は景勝、景虎陣営に別れて内戦を始めるのである。

謙信はその49年の人生において大きな過ちを犯すことはなかったと言われる。
しかし、あえて言えば後継者を決めることなく逝去したことである。

謙信は不思議なことに死後、火葬も埋葬もされなかった。
そして甲冑を着せられ漆付けの巨大な甕に収められ、春日山城内に安置されたと言う。
なぜ火葬も埋葬もされず、甕に入れられ城内に安置されたのか定かではない。
謙信が埋葬されたのは越後から会津へ景勝が転封された極めて短い一年程度の期間だけである。
そして景勝が会津から米沢へ転封の時に再度掘り出されるのである。



謙信死後、それから約20年後、慶長6年(1602年)、景勝、直江(樋口)兼続、お舟、仙桃院は出羽(山形県)の米沢城である物の到着を待っていた。偶然ではあるが謙信が死んだときと同じようになぜか座っていた。

四人の元に従者が訪れた。
四人は外に出ると会津からやって来た甕が到着したばかりであった。
千坂景親が会津から昔の謙信の親衛隊長らしく同伴してきた。
甕の周囲には本庄繁長、水原親憲、前田慶次と謙信時代を知る重臣たちが勢揃いであった。

景勝たちも草履を脱ぐと甕の前で膝まずいた。
「阿虎様・・!申し訳ございません・・!」
兼続が真っ先に大声でひれ伏せた。
しばらく間をおいて
「叔母上・・」
景勝も珍しく少し目に涙を溜めながら言った。
「貴方の目指した関東ははるか遠く・・越後も春日山城も今はこの山のはるか向こうです・・
武田・・北条も滅び・・上杉もここ、米沢で小さな大名になりました・・
しかし私は上杉を守るため・・精一杯やったつもりです・・戦の世は終わり・・貴方が求めた静かな時代を迎えようとしています・・
そして・・貴方には・・上杉を守るため・・今後は・・叔父上になって頂きます・・この無礼・・お許しください・・そしてこれからも我等をお守りください・・」
景勝たちは甕に深々と礼をした。

謙信の死後、上杉家は景勝と兼続、景虎陣営に別れて無毛な戦いで消耗し、景勝と兼続の勝利に終わるも、その後も織田信長の猛攻撃を受けて、上杉家は滅亡の危機を迎えるのである。そして信長が謙信の急死に助けられたように、景勝と兼続も信長の本能寺での思いがけない横死に助けられ危機を乗り切るのである。
信長の死後、景勝と兼続はその跡目争いで台頭してきた羽柴秀吉、後の豊臣秀吉の配下に入り、秀吉が天下を獲ると豊臣政権の五大老まで昇り詰め、新しい転封地、会津を中心とした100万石の大大名になるのである。
が、秀吉死後、その後の権力を巡り、豊臣政権の継続を目論む石田三成と新政権を目論む五大老筆頭の徳川家康の衝突が避けられなくなると、景勝と兼続は石田三成に味方し、家康と対決する道を選ぶのである。慶長4年(1600年)三成と家康はついに美濃の関ヶ原で軍事衝突するも、景勝と兼続が味方する三成率いる西軍は家康率いる東軍に敗北したのである。
三成は処刑され、三成及び西軍に味方した武将にも家康により厳しい対処がされ、上杉家も取り潰しは本庄繁長や千坂景親、家康重臣の本多正信の取り成しもあってなんとか免れたものの、会津から米沢へ転封、100万石の大大名から30万石の小大名に転落したのである。さらに家康は新たに大名を取り締まるために作った、武家諸法度で女子の相続を認めないことにしたため上杉家の置かれた立場は家康に逆らい、景勝が謙信の実子ではないという現実から苦しいものであった。
上杉は女子である謙信の代で終わっていると言う言い掛かりを付けられ、改易されることを恐れたのである。
そのため、上杉家を守るため謙信は人生70戦2敗のみと言う伝説の男性の猛将として語り継がれていくことになるのである。

謙信が眠る甕は江戸時代は米沢城で安置され祭られ、今は米沢城から少し離れた上杉廟に祭られ、境内の中央で歴代藩主たちと杉の木に囲まれ静かに眠っている。

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