Episode5「蒼夜の斬舞」
よく晴れた夜だった。
太陽はとうに西の彼方へと去り、空には深遠なる蒼が広がっている。空気は昼間よりも幾分冷えて澄み渡り、透けた空の向こうには月と星がくっきりと浮かび上がっている。
煌びやかに輝く幾千もの星々。一際強く輝く月はそれらを圧倒し、女王のように夜空に君臨していた。
視線を落として眼下に目をやると、そこにはもう一つの星空があった。
道路を蠢くヘッドライトの双眸。揺らめくネオンの灯火。窓から漏れる電灯の煌き。それらが集まり連なって、無機質で享楽的な星空を大地の上に描いている。
人々の営みの輝き。眠りを忘れた現代の都。その中心に聳え立つ一際高いビルの上に、“彼”はいた。
大学生くらいの精悍な顔立ちの若者だった。
背が高く、しなやかな筋肉に覆われた肉体がスポーツ選手を思わせる。だがその油断の無い目つきを見れば、人々はスポーツ選手よりも練熟した武芸者を連想することだろう。
彼は鷹のように鋭い目で、煌びやかな街を見下ろしていた。
夜空の下でもがくように輝く文明の光。しかし偉大なる発明の力を以ってしても、完全に闇を克服することは出来ない。
例えばビルの陰、河川敷、廃工場。
行き届かない光は蟠る闇をより深め、時に邪悪を引き寄せる。
「……出た」
自動車のエンジン音、駅のアナウンス、人の話し声。そこに悲鳴が混じるのを聞きつけて、彼は立ち上がった。
吹き付ける冷たいビル風が、吐き気を催すような邪悪の気配を孕んでいる。
「あっちか」
気配の方角に見当を付けると、彼は屋上の淵から踏み出して、夜の街に飛び込んだ。
重力の縛鎖に引かれての自由落下。
五十階、四十五階、四十階。切り裂かれた空気が耳元で奇声を上げ、視界の端を流れるビルの外壁が加速していく。
やがて向かいのビルの屋上の高さまで下ると、彼は流れていく外壁を蹴って、落下のベクトルを強引に捻じ曲げた。
夜の空を真横に駆けて、屋上に着地する。そのまま屋上を突っ切って、反対側の淵から隣のビルへと飛び、垂直の外壁を駆け上る。
それは人の身では到底為しえない、人間離れした疾走だった。
ビルの外壁を蹴り、あるいは屋上と屋上の境目を飛び越え、時に壁を駆け上がり、彼は夜空を駆けていく。
彼がただの人ではなく、“人でないモノ”の血を引く者だからこそできる芸当だった。
猛スピードで眼下を流れていく街の景色。
頭上を駆ける彼に目を向ける者は滅多に居らず、たとえ視界に収めたとしても、その雷電のような疾走を捉えることなどできはしない。
ただ星々と月だけが、彼の姿を捉え続けていた。追いかけても掴めない、逃げ出しても逃げ切れない。どこへ行こうとも蒼く煌く夜空だけが、彼を見守っていた。
◆
それは圧倒的な存在だった。
三メートルを越える巨躯は鎧のような筋肉に覆われ、二の腕は人間の胴回りに匹敵するほどに太い。そして何よりも迫力を放っているのは、頭部に生えた天を衝くような二本の角。
これらの特徴を併せ持つ異形。それはまさに御伽噺に出てくる“悪鬼”そのものであった。
「あ……あ……」
少年は口をパクパクと動かしながら立ち竦む。怯えた瞳が、足元に広がる赤い池を映している。
血と肉片の池。それはかつて彼の仲間だったものの残骸。
いつも通り楽しい夜のはずだった。いつもと変わらず、溜り場にしている資材置き場に集まっていただけだった。
しかしそんな彼の日常が壊れるのは一瞬だった。何処からともなく現れた悪鬼が腕を一振りしただけで、仲間たちの身体は粉々に打ち砕かれた。
少年が今生きているのは、たまたま仲間から離れた位置にいたからだった。ただ運が良かっただけで少年には何の力も無い。だから逃げることも立ち向かうこともできず、悪鬼に見下ろされたまま立ち竦むことしかできなかった。
少しでも動いてしまえば、次の瞬間にはミンチにされる。本能がそう警鐘を鳴らしていた。
「ぐるる……」
唸り声を上げながら、悪鬼は一歩前に踏み出す。泥混じりの血が撥ねて、少年の身体を汚す。巨大な影が少年に覆う。
堂々と聳え立つ鋼鉄のような肉体。悪鬼は巨木のような腕を、力を溜めるようにゆっくりと振り上げた。
「そこまでだ」
突然若者の声が割り込み、悪鬼は腕を振り上げたまま動きを止める。その直後、轟音と衝撃が資材置き場を震わせた。
気が付けば鬼の姿は無く、代わりに背の高い若者が立っていた。彼の背中越しに、資材の山が崩れて土煙が上がっているのが見えた。
「今のうちに逃げろ」
「え?」
「行け!」
「あ、あいっ!!」
若者の強い口調に圧されて、少年は半ば慌てて逃げ出した。足を縺れさせて何度も転びながらも、助かりたい一身に突き動かされて資材置き場を出て行く。
少年の背中が敷地の外に出たのを見送った彼は、土煙を上げる資材の山に目を戻した。不意を打ってのとび蹴りで吹っ飛ばした悪鬼が、崩れた瓦礫の中から起き上がろうとしていた。
目を落すと、足元には血と肉片の海が広がっている。
人でありながら、人の姿で死ぬことを許されなかった哀れな者たちの骸たち。その理不尽を許容してはいけない。
「ずいぶん好き勝手やってくれたな」
低い声で言いながら、彼は僅かに開いた右手を真横に突き出し、目を閉じた。
「開錠」
吐き出される言霊。それは世界を変貌させる異界の条理。
虚空より蒼い光が生じ、寄り集まって右手の中に剣の形を成していく。
瞼の下から現れた瞳に宿る炎。蒼い完全燃焼の炎のような、静かに熱く燃える怒りと闘志。
「彼らに理不尽な死を与え、尊厳を奪ったお前を、俺は許さない」
蒼い光が実体化し両刃の長剣が現れる。
それは剣先から柄頭に到る全てが、一塊の金属で作られた無骨な剣。簡素な装いが鉄器時代を連想させる、古代の剣だった。
「ネオ・ローゼンクロイツ、第二位、蒼剣士・龍海高志郎。お前を斬り滅ぼす者の名だ。畏れと共に、その魂に刻み込め!」
名乗りに呼応するように、胸元で銀色が光る。
細い鎖に吊るされたシルバーリング。それには十字の中心に薔薇を重ねた薔薇十字が刻まれている。
高志郎は剣を構え、血の池の上を悪鬼へと駆けた。
夜空を染める月光に似た蒼い光が、高志郎の身体より滲み出て刃を包み込む。
「オオォォォッーーーーー……!!」
迫る高志郎を迎え撃たんと、悪鬼は拳を振り上げた。しかしその時には、高志郎は既に自分の間合いに入っていた。
「遅い」
蒼い刃ががら空きだった悪鬼の胴を斬り裂く。
「グ……!」
傷を受けた衝撃に、悪鬼は低く呻いて仰け反った。
しかしそれも一瞬。悪鬼はお返しとばかりに、振り上げたままだった拳を打ち下ろしてくる。
ただの一撃で人間をミンチに変える破壊の拳が迫る。
しかし高志郎はそれを避けようともせず、それどころか向かい来る拳に剣を合わせた。
「ぎっ!」
資材置き場に悲鳴が木霊する。
しかしそれはミンチになった高志郎のものではない。腕を縦に裂かれた悪鬼のものだった。
「終わりだ」
高志郎は気迫と共に、目にも止まらぬ速さで剣を縦横に疾らせた。
二分割、四分割、八分割、十六分割、三十二分割、六十四分割、百二十八、二百五十六、五百十二、千二十四、二千四十八、四千九十六――――――。
蒼い閃光のような斬撃が、悪鬼の身体を細かに斬り刻む。
やがて断片が幾つになったか数え切れなくなった頃、高志郎は腰を捻って大きく剣を振りかぶった。
「大禍津之剣よ!」
呼びかけに応えて、古代の剣が一際蒼く輝く。
剣を振り抜くと、刃から生じた蒼い光の奔流が、細切れの悪鬼を飲み込んだ。
閃光。その後に続く轟音と衝撃。
蒼い光が天を貫く様は、まるで落雷が逆向きに落ちたかのように見えた。
やがて光が収まった後に残ったのは、涼やかな夜の風と陰惨な血の池。光に飲まれた悪鬼は塵も残っていなかった。
「閉錠」
役目を終えた剣が蒼い光となって消失した。
武器を納めた高志郎は、小さくため息を付いて周囲に目をやった。
惨劇と戦いによって、血の池と瓦礫の山が連なる夜の資材置き場。それはまるでこの世に地獄を再現したかのようなおぞましい光景だった。
しかし高志郎は知っている。この光景こそが世界の真実の姿であることを。
科学文明によって人間が有史以来最高の力を手に入れた二十一世紀。しかし、古代より存在し続ける人外の化け物たちの脅威は、今も人知れず牙を剥き続けている。
だから人と人外の混血であり、対抗する力を持つ高志郎たちが脅威を滅する。それが高志郎たち混血の使命であり、存在意義であった。
「次いくか」
使命を果たし続ける者に、休んでいる暇は無い。
携帯で仲間に連絡をつけて後始末を任せると、高志郎は資材置き場を立ち去る。
頭上には変わらず輝き続ける月と星。その蒼い光だけが、次の戦場へと向かう彼を見送っていた。 |