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星が見つけたパルプ

作者: くる ひなた

遊森謡子様企画の『武器っちょ企画カムバック』に参加させていただきました。



 書道半紙、百枚入り。

 普段はたいした重さにも感じないだろうが、アルバイトで疲れた肩にはいやに堪える。

 束になるとずっしり重いくせに、一枚一枚の紙はそれぞれ薄くてふにゃふにゃしているので袋の中で位置が定まらず、まったく持ちにくいったらない。

 美夜子(みやこ)はそんな半紙への文句を頭の中でつらつら並べ立てながら、真っ暗な帰り道を歩いていた。

 今年大学に進んだばかりの彼女には、年の離れた妹がいる。

 小学校三年生に進級した妹は、今年から毛筆の授業が始まるのだ。

 その初日が明日らしいのだが、書道用の半紙を用意するのを忘れていたことに、夜になってやっと気づいたらしい。

 しかし、家の近所の文房具店やスーパーはすでに閉店している時間。

 困った母は、アルバイトから帰る途中の長女にSOSを送ったのだ。

 幸い、駅前にある小さな文房具店に間一髪で滑り込めた。

 店主がもうレジを締めて店先のシャッターも閉めようとしていたところだったので、レシートも出なければ手提げのビニールにも入れてもらえなかった。

 しかも無愛想な店主に急き立てられてろくに吟味もさせてもらえず、「高級」と銘打たれたお値段高めを押し付けられたが、とにかく半紙は手に入れた。

 これで妹が廊下に立たされることはなくなったと、美夜子はほっとした。

 今年の妹の担任は厳しいと評判の年配の教師で、とくに忘れ物をするとひどく怒るらしいのだ。

 妹がガミガミと怒られてべそをかいている姿を想像しただけで、胃がキリキリと痛む。

 そんなシスコン気味の美夜子は、薄いビニールに包まれた高級書道半紙をしっかりと抱え直し帰路を急いだ。


「あっ……」


 その時、頭上に広がる真っ黒な夜空に、すっと光が横切った。

 流れ星だろうか。

 美夜子は思わず足を止め、じっと夜空を見つめた。

 もう一つくらい流れないかと期待したのだ。

 

「おっ、やったっ……!」


 するとそんな彼女の期待に応えるように、さきほどよりも明るい光の筋が、しゅっと夜空に走った。

 願い事を三回唱えるような余裕はなかったが、流れ星を見れただけでも何だか得した気分。

 美夜子はにっこりと夜空に向かって微笑むと、さて今度こそ帰ろうと一歩足を踏み出した。


 ところが。


 そんな彼女の足元の地面が、突然抜けた。

 

 



「――もうし」


 そう声をかけ、遠慮がちに肩を揺する者がいた。

 暗闇に沈んでいた美夜子の意識は一気に浮上し、ゆっくりと瞼が持ち上がる。

 と、目の前にあったのは、先ほど夜空に瞬いた星のような青白い輝き。

 それと――貯金箱の投入口!?


「っ、ぎゃあっ……!!」


 驚いて目を見開いた美夜子の口から、反射的に悲鳴が飛び出した。

 青白い輝きは人間の虹彩であり、貯金箱の投入口のような黒い部分は瞳孔であった。


 ――ベシン!


 美夜子は、片手にしっかりと掴んでいたらしい書道半紙の束で、目の前の顔を思いっきり殴りつけた。

 あまりの至近距離に人がいて驚いたからというのもあるが、何よりその人間らしからぬ異様な瞳――特に横長の瞳孔がひどく不気味だったのだ。


「――だ、旦那様っ!」


 美夜子に横っ面をぶたれた相手の身体が横に傾くと、その後ろから慌てて走ってくる者がいた。

 それを見て、彼女はまた驚きの声を上げる。


「う、えっ……!?」


 なんとそれは、二足歩行するヤギだった。

 白い毛に覆われたにゅっと長い顔と、頭の上から二本の立派な角が伸びた、ヤギだったのだ。

 それが何故か燕尾服のような上品な衣服を纏い、「旦那様、旦那様!」と叫んで、こちらに駆け寄ってくるではないか。

 美夜子は地面に横になっていた身体を起こし、呆然とその“ヤギ人間”を眺めていた。


「――素晴らしい!」


 そんな美夜子の耳に、突然高揚した声が届いた。

 かと思ったら、彼女に殴りつけられた人物が傾いていた身体を元に戻し、さらにはガバッと覆いかぶさってきた。

 美夜子は再び悲鳴を上げそうになったが、代わりに息を呑んだ。

 相手の顔を見てしまったからだ。


「ふわんと柔らかくしなやかな感触。大きな音がした割りには、さほど痛くもない」


 そう穏やかな声で語るのは、白銅色の髪と薄水色の瞳の、とにかく綺麗な顔をした男だった。

 幸いその白い頬に、書道半紙でぶっ叩かれた際の痕はついていない。

 男は、美夜子が一瞬見蕩れたほどのお綺麗な顔をうっとりと緩めて続けた。


「ほのかに香ったのは(こうぞ)でしょうか。ああ……なんと、素晴らしい」


 コウゾとは何ぞやと美夜子は思ったが、どうやら半紙に使われている原料の一つらしい。

 男が“香る”と言ったとおり、先ほど彼をぶっ叩いた衝撃でそうなったのか、半紙を包む薄いビニール袋の口が少し破けて開いていた。

 その半紙に、男の震える手がそっと伸びてくる。

 彼も後ろに立ち尽くすヤギ人間同様、西洋の貴族のような豪華な衣服を身に着けていた。

 繊細なフリルのついた袖口から覗く手は、美夜子のそれよりずっと大きく白い。

 彼女は妹のための半紙を奪われてなるものかと、ぎゅっとそれを胸に抱いて男を睨みつけた。

 すると、彼ははっと我に返り、形の良い眉を申し訳なさそうに下げた。


「これは、失礼しました。あまりに素晴らしい(パルプ)に出会えた興奮に、つい我を忘れてしまうところでした」


 男はそう言うと、恭しく美夜子の手を引いて立たせた。

 美夜子はそこでようやく、自分のいる場所を見回した。

 突然、足元の地面がなくなってどこかに落下したのは憶えている。

 しかし、開きっぱなしのマンホールから下水道に落下した、というわけではなさそうだ。

 そもそもこの場所は、どうにも地下には見えないのだ。

 上を見上げれば、先ほど美夜子が流れ星を見つけたのと変わらない夜空が広がっている。

 足元は土がならされただけの広い道で、両側には背の高い木がびっしりと立ち並ぶ。

 森か林を通っている道だと思われたが、やはり美夜子の家に続く道とは似ても似つかない。


「ここ……どこ……。どうなってるの……」


 彼女は呆然とそう呟くしかなかった。

 

「――失礼、レディ」


 書道半紙を胸に抱いて立ち尽くす美夜子に、男が遠慮がち声をかけてきた。

 男は随分と背は高いものの身体つきは華奢で、顔のつくりはどちらかというと中性的。

 虫も殺せないような、至極温和な顔つきをしている。

 こういう人を“草食系男子”というのかなと思いつつ、美夜子はまじまじと相手を眺めてみた。

 先ほどは彼の人間っぽくない瞳に驚いたが、今は灯りに背を向けているせいか、その瞳孔は丸く広がって違和感がなくなった。

 改めて見ると、彼の背後には大きな二頭引きの馬車が止まっていて、扉を開け放った車内からもれる灯りがこちらを照らしてくれている。

 男を「旦那様」と呼んだヤギ人間は、彼が無傷で立ち上がったことに安心したのか、その馬車の前に立って控えていた。


「我々は旅の途中でございまして、今宵はこの先の街に泊まろうと馬車を急がせておりました。そんなおり、車窓から星の流れるのが見え……それに心を奪われておりましたらば、なんとあなた様が空から降っていらしたのです」


 男は、「いやはや、お怪我がなくてよかった」と言って微笑んだ。

 突然地面が抜けて、かと思ったら全然違う場所の空中に繋がったなんて、そんな非現実的な話をいきなり信じられるはずがない。

 しかし、美夜子に落下の記憶がある以上、この男に受け止めてもらったからこそ、自分は今無傷で立っていられるのではないかとの思いもある。


「た、助けてくださって、ありがとうございます。それと……さっきは、打ってごめんなさい」


 ひょろりとしたこの男の腕に、はたして本当に空から降ってきた自分を受け止めるほどのパワーがあったのだろうか。

 そんな疑問は拭えないまでも、美夜子はひとまず礼を言った。

 続けて、介抱してくれていたらしい彼をいきなりぶっ飛ばしてしまったことも謝っておく。

 すると男は、「いいえ、よいのですよ」と優しい面に苦笑を浮かべた。


 男は、シェーブルと名乗った。

 王家に次ぐ大貴族の次男坊で、先頃父親が亡くなって膨大な遺産を分配されたばかりだとか。

 馬車の前に控えているヤギ人間は、彼の執事なのだという。

 王家とか大貴族とか執事とか、いったいどこの世界の話だと胸ぐらを掴んで問い質したかったが、美夜子はそれをスルーした。

 後に続いたシェーブルの言葉の方が、よっぽど彼女の心を乱したからだ。

 

「一生遊んで暮らせる財はあるものの、退屈な毎日に飽き飽きし、私は最高のパルプを求めて旅に出たのです」


 つまり、美夜子は道楽の旅の途中で拾われたらしい。

 何とも羨ましく憎たらしいと、彼女は顔を俯かせて地面を睨みつけた。

 美夜子の父は妹が生まれてすぐの頃に亡くなったが、母が身を粉にして働いてを大学まで行かせてくれた。

 美夜子は少しでも母の負担を減らそうと、せめて自分の学費を稼ぐため、友達と遊ぶ時間も惜しんでアルバイトをかけもちする日々。

 卒業後は給料のいい会社に就職して、働き詰めだった母を少しでも楽にさせてやりたいし、何より妹の今後の進学のために資金を貯めたかった。

 それを、辛いとか嫌だとか思ったことはない。

 だが、シェーブルのように何不自由ない日々を退屈と称する者を見ると、さすがに世の不公平さに腹も立った。





 ――ザザザッ……



 突然、暗い茂みの中から何かが飛び出してきた。

 人間――ヤギ人間達だ。

 ただし、小柄で老齢のシェーブルの執事とは違い、屈強そうな身体にボロボロの衣服をまとっており、どうにも柄のいい連中には見えない。

 金持ちの馬車の後を付けて人気の無い場所に差しかかってから襲う、夜盗の類いであろう。

 後に美夜子が聞いた話では、この国の一般人の多くは、執事やこの夜盗達のようなヤギ頭をしているらしい。

 そんな彼らも、乳をとるために家畜としてのヤギも飼っているのだとか。

 

「――おい、ご貴族様よ。馬車と金目のものを置いてとっとと行きな。そうすれば、命までは取りゃあしねぇ」


 頭らしき一際大きな身体をしたヤギ人間がそう言った。

 夜盗達の手にはそれぞれ抜き身の剣が握られていて、その切っ先はすべて美夜子やシェーブル達に向けられている。

 そんなものを向けられた経験のない美夜子は、もちろん恐怖で固まった。

 

「オルワ、レディを馬車の中へ」

「かしこまりました、旦那様」


 と、シェーブルが盗賊の頭と向かいあったまま、そう執事に命じた。

 執事オルワは言われた通り美夜子を馬車の中へと促し、扉を閉めた。

 さらに、どこからともなく長い剣を取り出すと、それを恭しく主人に差し出した。


「ちょ、ちょっと……?」


 美夜子は驚いて、馬車の扉についた窓から身を乗り出した。

 その前に立ち塞がるように、シェーブルが夜盗達と対峙する。

 相手は、十数人の屈強な男達。

 対して、こちらはたったの三人で、剣を持っているのはシェーブルただ一人。

 それでなくても、か弱い乙女の美夜子と老齢の執事オルワは戦力外だし、見るからに草食系のシェーブルの細腕一本で連中をどうにかできるわけがない。


「に、逃げましょうよ。ほら、命までは取らないって言ってるし……」


 美夜子は必死にそう訴えるが、顔だけ振り返ったシェーブルはにっこり微笑んで首を横に振った。


「あなたの持つそのパルプまで盗られてしまいます」

「そ、それは……」

「暴力をもって他人の所有物を奪うことは、公序良俗に反する行為です。それを許すことは、私の秩序に反します」

「ち、秩序って……」


 戸惑う彼女ににこりと微笑んだまま、シェーブルは華美な上着を脱いだ。

 そしてそれを馬車の脇に控える執事オルワに手渡すと、すっと鞘から剣を引き抜いて言った。



「私は、私の秩序を乱す者を、許しません――」



 それから、しばし。

 馬車の外では、美夜子が目と耳を塞ぎたくなる光景が繰り広げられた。

 キンキンと、金属が打ち合う音が聞こえたのは一瞬で、後は悲鳴と何かが地面に倒れる音ばかり。

 暗闇の中、時々ブシュッと何かが飛び散り、土の地面に黒い水たまりがいくつもできた。

 美夜子は、馬車の中で膝を抱えて震えていた。

 とてもじゃないが、窓から顔を出してシェーブルを応援する勇気もないし、そもそも彼にはそんなものは必要ないだろう。


 虫も殺せぬ草食系男子に見えた道楽お貴族様は、躊躇なく夜盗を切り刻む最強剣士だったのだ。


「さきほどは、肝を冷やしましたぞ、お嬢様」


 相変わらず馬車の側に控え、涼しい顔をして主人が繰り広げる惨劇を見守っていた執事が、そう声をかけてきた。

 悲鳴が少し遠のいたのは、シェーブルの最強っぷりに恐れをなした夜盗達が逃げ惑っているからだろうか。

 しかし、シェーブルに彼らを逃がすつもりはないらしい。


「親切にも見ず知らずのあなた様を救った旦那様を、いきなり張り倒したのですからね。旦那様は恩を仇で返されることが大嫌いでいらっしゃいます。本来なら、切り捨てられていてもおかしくなかったのですよ?」

「そ、そんな……」


 執事オルワの言葉に、美夜子はますます青くなった。

 とにかく、自分の身に何が起こったのか分からないし、どこに来てしまったのかもどうやったら家に帰れるのかも分からない。

 優しい顔をしたシェーブルの本性を知ってしまって恐ろしいし、じっと品定めをするように自分を見ているオルワの瞳も気味が悪い。

 灯りの中の美夜子に向けられるヤギの瞳孔は、最初彼女を驚かせたシェーブルのそれと同じく横長だ。

 ヤギやヒツジなどに見られる特徴的な瞳孔は、明るい場所で細まっても水平の広い範囲を見渡すことができ、周囲の動きを広い視野で察知することが可能。

 そんなオルワの瞳が、扉とは反対側の窓から美夜子に伸びる腕を捉えたのは、シェーブルが夜盗の頭を地に這いつくばらせたのと同時だった。


「――くそぉ! 女、来い!」

「う、わっ……!?」


 シェーブルの鬼神っぷりに恐れをなした夜盗の生き残りが、彼女を人質に取って逃げおおせようとでも思ったのか。

 べったりと血のついた手が、物凄い力で二の腕を掴んだ。

 悲鳴に気づいたらしいシェーブルがこちらに駆け戻ってくるのが見え、夜盗は慌てて窓から美夜子を引っ張った。


「――は、離してようっ……!」


 美夜子はとにかく恐ろしくて、掴まれていない方の腕を振り回して、夜盗から逃れようとした。

 すると……


 ――ベチン!


 手に持っていた書道半紙の束が、痛快な音を立てて夜盗の頬を打った。

 分厚い見た目に反して柔らかいそれの威力がたいしたことがないのは、シェーブルで証明済みだ。

 だが直後、美夜子のビンタの何十倍もの衝撃が、夜盗の頬に見舞われた。


 ――ガッ……!!


 鈍い音がして、馬車の中に上半身を乗り入れていたヤギ人間が吹っ飛んだ。

 それをなしたのは、乗降扉を開けて飛び込んできたシェーブルだった。

 彼は、利き手に握っていた血塗れの剣を馬車の床にダンッと突き刺すと、ぐるりと美夜子の方に向き直った叫んだ。

 

「――ずるいです!」

「……は?」

「あんな秩序を乱す悪人にいい思いをさせてやるなんて、ずるいです! 私のことも、そのパルプでぶってください!」

「え、えええっ……!?」


 返り血を浴びた凄惨な姿のまま、シェーブルは怯えて座席で縮こまる美夜子に迫った。

 彼女の前に膝をつき、「ほら、ここにお願いします」と頬を差し出す。

 しかし、先ほどの彼の鬼神っぷりと執事オルワの話を知って、その頬を遠慮なく張り倒すような勇気は美夜子にはない。

 だからと言って、断り続けて彼の機嫌を損ねるのも恐ろしい。

 しばし恐怖の間で葛藤した美夜子は、やがておそるおそるシェーブルの頬に半紙の束を押し当てた。


「はあ……なんという柔らかさ、なんという弾力。この周りを覆っている透明な物体が口惜しい……」

「……」


 ついさきほど、たった一人で十数人のならず者を切り刻んだとは思えない温和な顔で、シェーブルがうっとりと呟く。

 さりげなく膝に頭を乗せてきたので、美夜子は結局またぶっ叩いてしまったが、彼が血塗れの剣先を向けてくることはなかった。

 それどころか、「もっと、もっと」と強請って膝に擦り寄ってくるものだから、手に負えない。

 仕方なく、美夜子はまた半紙の束をシェーブルの頬にピタピタ押し当てながら、自分なら諭吉さんの顔が印刷された札の束で頬を打ってもらいたいと、詮無いことを考えてため息をついた。



 ここは、ヤギから進化した人間が支配する世界なのだという。

 最も進化が進んでいるのが王侯貴族で、シェーブルのように美夜子の世界の人間と変わらない姿をしている。

 ヤギ頭のままの市井の民は、まだ進化の途中にいるのだそうだ。

 元々はヤギなので、シェーブルも執事オルワも基本草食だ。

 唯一のタンパク源は、家畜として飼われているヤギのミルクらしい。


「それって、母乳飲んでるようなもんじゃないの?」


 そんな美夜子の無邪気な問いに、それは二度と口にしてはいけないと言って、シェーブルは「めっ」をした。

 どうやら、家畜のヤギとヤギ人間を同等に扱うことは、シェーブルの秩序だけではなくこの世界の人間全ての秩序を乱す行為らしい。

 そのくせ、彼らは“(パルプ)”が好きだというのだ。

 どう好きなのだと問えば、食べるのが好きなのだと返ってきて、美夜子はまた「やっぱり進化してもヤギのまんまじゃない」と言いかけた口を慌てて閉じた。 

 この世界では、書道半紙――和紙のような“(パルプ)”は、幻の高級料理に匹敵するらしい。

 もちろん、ここでも紙は広く使われているが、美夜子の世界で洋紙と和紙とに大きく分類されるように、こちらにも二種類の紙がある。

 一つは、記録用の紙。

 木材を細かく砕き、繊維状に分解させて紙の原料にするため、薬品を浸透させなければならない。

 さらには細かい繊維を安定させて強度のある紙に仕立てるため、また色を漂白するためにと、製造の過程で様々な薬品が加えられる。

 当然、こんな薬品まみれの紙は食用にはできない。

 もう一つは、和紙と同じようにして作られる紙である。

 和紙はその土地によって様々な原料が使われてきたが、主なものに(こうぞ)三椏(みつまた)雁皮(がんぴ)があり、熱湯で湯がいて繊維を抽出する。

 それらの繊維は記録用のものとは対照的に長く、互いに絡み合うことで紙に強度が出る。

 それを紙に仕立て上げる過程で使用されるのが、トロロアオイの根などの天然の素材で、これは漢方薬にも用いられるものだ。

 つまり、口にいれても支障はない。

 しかしながら、食用にするほど質の良いものは大量生産ができず、また原料となる木々も年々少なくなっていて、食用紙が市場に出回ることはほぼなくなっているらしい。

 すると今度は、記録用の薬品漬けの紙を食べて身体を壊す者が続出した。

 そうしてついに、国家は正規の食用紙以外の紙を口にすることを禁じたのであった。


 シェーブルとオルワの話を聞いた美夜子が言えることは、ここが生まれ育った世界とは別の世界なのかもしれないということだ。

 ヤギから進化したヤギ人間の国など聞いたことがない。

 美夜子は、重々しいため息をついた。

 もともと肩からかけていたカバンは、その後近くの木に引っ掛かっているのを見つけて回収した。

 中に入っていた携帯電話は健在だったが、圏外なので家族に無事を知らせることもできない。

 右も左も分からない状況で、美夜子が今頼れるのはシェーブルとオルワだけ。

 彼女はせめてものお近づきのしるしに、書道半紙をそれぞれ一枚ずつプレゼントした。

 書道半紙も安価で粗悪なものもあるが、美夜子が持っていたのは昔ながらの原料から手漉きで作り上げられた高級品。

 あの無愛想な店主に、この時ばかりは感謝した。


「なんと、素晴らしいっ……! こんな美味なパルプに出会える日が来るなんてっ!!」

「美味しゅうございますねぇ、旦那様」


 二人のヤギ人間達は、それを大喜びでむしゃむしゃと食べた。

 頭部がヤギのオルワはいい。

 だが、見た目が人間そのままのシェーブルが、美味しそうに半紙を頬張る姿は、ちょっとわけが分からない。

 “草食系男子”の意味が違う! と心の中で突っ込みながら、美夜子はそっと彼から目を逸らした。

 シェーブルは、本当は半紙の束が喉から手が出るほど欲しいようだ。

 半紙で打たれて骨抜きになるなんて、相当の紙フェチである。

 しかし、先ほど夜盗達を許さなかったように、人のものを力づくで奪う行為は彼にとって公序良俗と秩序を乱す大罪。

 よって、シェーブルが美夜子から半紙を取り上げることはない。

 ただし、自分以外の者にそれを奪われるのも我慢ならないようで、半紙の持ち主である美夜子はその半紙を愛おしむシェーブルによって守られることになりそうだ。


 この半紙の存在が、美夜子がこのわけの分からない状況で生きるための唯一の武器。


 百枚入りだった書道半紙は、ヤギの主従に二枚譲り、残りは九十八枚になった。

 半紙が全て無くなった時、シェーブルにとって美夜子は守る価値のない存在になることを、忘れてはいけない。

 その時、あっさりと放逐されるか。

 あるいは“紙”以外の繋がりで保護を続けてもらえるか。


「いや、いやいやいや、それよりも! とにかく帰らないとっ……!」


 のんきに先の心配をしている場合ではなかった。

 妹が明日学校へ持っていく毛筆セットに、この半紙が必要なのだった。

 可愛いあの子を廊下に立たせてなるものかと、我に返った姉は焦る。

 一刻も早く、帰らなくっちゃ。

 すると、美夜子の慌てっぷりを眺めていたシャーブルが、芝居がかった仕草でさっと右手を空に向かって差し出し、胸を張って言った。


「ならば、星に願いましょう。さすればきっと叶います」


 美夜子は陶酔しきった詩人を相手にしている余裕はないので、それを無視しようとした。

 しかし、彼がうっとりと続けた言葉は無視できなかった。


「私も先ほど願ったのです。“最高のパルプをもたらし賜え”、と。するとどうでしょう。そのパルプを持ったあなたが私のもとに降っていらしたではないですか!」

「――って、そもそもあんたのせいなの!?」

「ああ、星よ! 私もパルプがたくさん作られている世界に行きたいです! 彼女の世界に行きたいです!」

「あー、もう! 何でもいいから家に帰してください! お願いします! お願いします!!」


 夜空に瞬く星に向かって、二人は我武者らにそう願う。

 オルワは騒がしい二人を見守りながら、よっこらしょっと御者台に腰を下ろした。



 その時、大きな星が一つ、また流れた。





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