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理想のヒモ生活 作者:渡辺 恒彦

二年目

78/94

幕間5【決戦前夜】

 その日の夕刻近く。塩の街道では、援軍と合流を果たしたプジョル将軍率いる群竜討伐部隊が、作戦の次段階へと移行していた。

 工兵達が街道脇の一角を削って設けた平らな大地には、土魔法で作られた仮の兵舎が多数並んでいる。「籠城の構え」と呼ぶのは流石に少々大袈裟だが、じっくりと腰を落ち着けて作戦に取り組む、というプジョル将軍の意図が簡単に見て取れる風景である。

 森から吹き抜ける風と、土壁による日陰のおかげで、野営地は昼間でもさほど熱は籠もらない。

 整地された草地の上に軍用のシートを広げ、その上であぐらをかいた兵士達は、カードのような物を手に簡単なゲームを楽しんでいる。もちろん、そうして遊んでいる兵士達は休憩中で、それ以外の兵士達は完全武装で野営地周辺を固め、群竜の奇襲に備えている。

 そんな弛緩と緊張の二重構造を絶妙なバランスで維持している野営地で、プジョル将軍は帰還したばかりの斥候から報告を受けていた。

「なるほど。群竜そのものの影は見えず、しかし、糞その他、群竜がいる形跡はあり、か」

 土魔法で作られた椅子の上に薄っぺらいクッションを置いただけの簡素な席に座り、報告を聞いていた巨漢の将軍はそう言って口元をゆがめる。

「はっ、糞の状態や木の幹に刻まれた爪痕を見た猟師の言葉では、群竜が近くに潜んでいることは間違いないそうです。最低でも糞は半日以内のものだそうです」

「半日以内か」

 プジョル将軍は、一つ頷くと視線を机の上の地図に落とす。大きな竜皮紙に記されているのは、塩の街道周辺の地形である。もちろん、測量法が未熟なため、現代人が想像する地図とはまるで別物だ。

 等高線も正式な縮尺もない、地図と呼ぶにはいささか頼りない代物だが、そこには後から書き加えたと思しき、いくつもの文字や矢印が書き込まれている。

「今回貴様が向かったのはこの地点で間違いないか? 念のため、『シャシン』で確認するぞ」

「は、承知いたしました」

 将軍の言葉を受けた若い斥候兵が腰に下げている頑丈そうなポーチからそっと取り出したのは、『デジタルカメラ』である。

 援軍の中に混ざっていた善治郎の騎士ナタリオ・マルドナドが持ってきた代物だ。もちろん、一通りの扱い方は騎士ナタリオからプジョル将軍に伝えられている。

 善治郎が「群竜の吠え声を録音できれば、誘導に使えるかも知れない」という思惑で提供した品だが、デジタルカメラの能力を一通り知らされたプジョル将軍は、善治郎の提案とは全く異なる形で、利用価値を見出したのである。

「ご確認下さい」

 斥候が差し出すデジタルカメラを受け取ったプジョル将軍は、まだ明らかにたどたどしい手つきで操作すると、背面のディスプレイにここ数日の間に撮影した画像を映し出す。

「ふむ、間違いないようだな。この地点から街道と垂直に森に進んだわけか」

 その画像には、塩の街道から横の密林へと足を踏み入れる斥候部隊の姿が映し出されている。街道脇の木の幹に刻まれている傷は、南大陸西方語の文字だ。街道から森への偵察は、複数箇所に別れて行っているため、後で混乱しないようにこうして分かりやすい印を残しているのである。

 もちろん、地図の対応する地点にも同じ文字が記されている。「A地点」「B地点」と書いてあるような物だ。

「はい、その次のシャシンが森に入ってしばし進んだ地点です。可能な限り直進したつもりですが、猟師は若干北に寄っていたと言っております」

「ふむ、ではおおよそこのあたりか」

 密集する樹木のせいで画像全体が薄暗いが、その左側に人の腰ぐらいまである大きな岩が写っているのが見える。恐らく、斥候はこの岩を分かりやすい目印とするためにここを映してきたのだろう。

「次のシャシンが、群竜の物と思しき糞を発見した地点です。時間にして昼を少し過ぎた頃に発見いたしました。方角はそのまま直進したつもりですが、こちらも猟師は途中でさらに北に寄ったと言っておりました」

「なるほど、となると、おおよそこのあたりか。で、群竜共はここから半日以内の範囲にいるというのだな?」

「はい。猟師が「糞の乾き具合や、木の幹に刻まれた爪痕の新しさから見て、これは半日以内に為された物だ」と断言しております」

「うむ」

 巨漢の将軍は重々しく一つ頷くと、竜骨筆を手に取り、地図に情報を書き加えていく。よく見るとそうした書き込みは、今書いたそれだけではない。

 地図のあちこちに矢印が引かれ、「群竜跡、半日以内」だの、「群竜、形跡無し」だのという注意書きが、書き込んだときの日付と共に記されている。

「ふむ、これでおおよその位置が掴めたな。恐らく群竜共の巣穴はこのあたりだ」

 プジョル将軍は確信を感じさせる声でそう呟くと、右手に持った竜骨筆で地図の一角をグルリと楕円で囲む。

 援軍が合流してから今日まで、プジョル将軍が取っていた方針は『綿密な現地調査』であった。

 群竜が襲撃部隊を五十匹に厳選しているのであれば、どこかに群れの本隊が潜む「本拠地」があるはず、と言う理屈である。

 本来群竜は、遊牧民のように群れごと縄張りの中を巡回して動く生き物のため、補足が難しいのだが、本隊と襲撃部隊に別れて行動しているのであれば、本隊は一カ所に留まっている可能性が高い。

 無線や携帯電話を持っているわけではないのだ。襲撃部隊だけでなく本隊まで常時動き回っていては、合流がきわめて難しくなる。いかに群竜の鼻や耳が優れているとはいっても、匂いや互いの吠え声を頼りに合流するのは、あまりに非効率的である。

 もし、予想が外れていたとしても、数が多い上に牝や卵からかえったばかりの子供を多数抱えている本隊の方が圧倒的に動きが鈍いことは間違いない。

 そうした事情によりプジョル将軍は、本隊の居場所を探ることを最優先に進めていたのである。本隊の居場所を特定するには、襲撃部隊の行動半径を調べればよい。襲撃部隊は、自らの腹を満たした後、残った獲物を本隊に届ける。そう仮定すれば、襲撃部隊の行動範囲の中心付近に本隊の巣穴があるはずだ。

 その仮定に基づき、何度も密林に偵察部隊を送り続けた努力が結実し、今プジョル将軍の眼前に地図という形で姿を現している。

「本隊の場所が分かれば、あとは準備を万全に整えて襲撃をかけるだけだ。いや、一つ懸念が残るが……これは、専門家の意見を仰ぐべきか」

 顎に手を当てた将軍がなにやら呟いているがが、明らかにそれは独り言であったため、前に立つ斥候兵はただ黙って将軍の考えが固まるのを待つ。

 程なくして結論を出したプジョル将軍は視線を上げると、きっぱりとした口調で宣言する。

「作戦の最終段階に入る。部隊長以上を仮本部集めろ。ああ、あとチャビエル卿には猟師も同行させるよう、伝えておけ」

「はっ、了解いたしました!」

 若い斥候兵は、軽く音がするくらいに勢いよく右拳を左胸に当てて、敬礼するのだった。





 斥候が去った後、プジョル将軍は無言のまま今自分が書き込んだ大きな地図と、その隣で異彩を放つ『デジタルカメラ』を見やり、ニヤリと口元を笑みの形にゆがめる。

「ふん、ゼンジロウ様も随分と面白い物をお持ちだ。こいつは、今後の戦略を大幅に変える可能性を秘めているぞ」

 そう言って将軍は、その太い人差し指でデジタルカメラを突く。

 今回は、未知の密林の探査という状況のため、デジタルカメラによる写真撮影は、「斥候部隊の情報が鮮明な映像で伝わる」という程度のせいかでしかなかったが、これが相手が人間の戦争であれば、時として絶大な効力を発揮する。

 例えば、敵国に繋がる街道を丘などの高所から撮影する。例えば、敵国の要人の顔写真を取る。例えば、砦や王城などの外形を全方位から写真で写し取る等々。

 もちろん、街道、砦、そして城の情報は各国の軍事機密である。許可を得ていない者が城や砦の近くで絵筆を持てば、その場で斬り殺されるのが当たり前だし、なにも持っていなくても長時間砦の前で足を止めていれば、それだけで見張りの兵士に目をつけられる。

 しかし、「デジタルカメラ」による写真撮影ならば、文字通り一瞬だ。デジタルカメラの存在自体しらないこの世界の兵士ならば、訝しむ間もないうちに写真撮影は終わるだろう。


 そうした未来の想像に、一瞬目を細めたプジョル将軍であったがそこは歴戦の将軍らしく、すぐさま思考を都合の良い未来から、現実の現状へと戻す。

「劇的とまでは言えぬにしても、今回の作戦でも十分な成果を上げているな」

 目の前に広がる大地図に書き込まれた詳細な情報。その功績の大半は、地元の猟師を中心とした斥候部隊の働きによる物だが、デジタルカメラの存在が無ければここまで素早く詳細な情報を集められなかったことも間違いない。

 例えば、目印となる岩や樹木の特徴を口頭で伝えるのと、写真という視覚情報として共有するのでは、齟齬の発生する確率が格段に変わる。情報の共有が円滑に進めば、その分偵察も早く進む。
 さらに、偵察部隊に猟師がいない場合でもデジカメがあれば、爪痕や糞を写真に撮って後日猟師に確認してもらうことも出来る。
 そしてなにより、一番大きいのは、写真に撮ることで、情報収集が現場に限らず、安全な後方で再確認できると言うことだ。

 森の専門家である猟師や、専門の訓練を受けている斥候と言えども人の子である。いつ、物陰から竜種や毒蛇が現れるか分からない密林の奥で、十全な観察眼を発揮できるわけではない。見落としは絶対にある。

 安全な後方で落ち着いて写真で確認すれば、その見落としを拾うことも出来る。もちろん、現地に足を運ぶのと、後日写真を見るのでは情報量は格段に減るのだが、見落としを拾う機会が後であるというだけで十分に大きい。

 実際そうした利点の積み重ねが、この地図に書かれた詳細な情報として実っている。

「あとは詰めの問題だな。群竜共の本隊と頭。一度で両方を潰すことが出来れば最適なのだが」

 部隊長達が集まるまでの待ち時間を、将軍は今後の作戦について熟考しつつ、静かに過ごすのだった。






 ◇◆◇◆◇◆◇◆





 翌日。

プジョルギジェン率いる群竜討伐隊は、本格的な活動を開始していた。もちろん、これまでの活動が本格的ではなかった、と言う意味ではない。準備段階が終わり、最終的な詰めの段階に入ったという意味である。

 工兵などの非戦闘員とその護衛を除く全ての兵士が『塩の街道』に広がり、密林に踏み込むそのときを待つ。
 開けた街道にはまぶしい日差しが差し込み、兵士達を強く照らしているが、日頃は鬱陶しいだけの日差しも今は少しばかり心強い。これから、直射日光もろくに差し込まない薄暗い密林に踏入り、そこで群竜と一戦交えるのだ。日差しの存在が、なにか「人の領域」を示す境界線に見える。

 プジョル将軍は、全兵士の視線を一身に浴びてもたじろぐ気配も見せず、平静そのものの態度で口を開く。

「各部隊、定期的な人数確認を怠るな。はぐれそうになった者は遠慮せずに声を上げろ。一時的な減速よりも本格的な遭難の方が遙かに問題だ。そもそも慣れない密林での集団行動なのだから、どれだけ気をつけても遅れる者は絶対に出る。それは力量の問題でも、やる気の問題でも無い。運、不運の問題だ。不運なだけの者の責任を問うようなばかなまねは絶対にせん。分かったか」

「はいっ!」

 出立直前、プジョル将軍の言葉に、完全武装で整列している兵士一同はそろって肯定の返事を返す。完全武装とは言っても、流石に密林戦で騎乗は出来ないため、竜弓騎兵団を始め、全ての騎兵は騎竜をキャンプ地に残している。

 これまでの偵察で、ある程度下草を刈ったり、遮る蔦を絶ったりして進入路は整えているものの、流石に走竜で乗り入れられるほどの隙間はない。所詮は「獣道よりは多少まし」な程度の道と呼ぶのもおこがましい代物である。

「行軍開始」

 低くよく通る将軍の声を合図に、全軍はガサリと下草を踏み分け、密林へと足を踏み入れるのだった。




 群竜の本拠地を目指す最終作戦。

 それは、当たり前と言えば当たり前だが、一日では終わらない。これまでの偵察で割り出した群竜の本拠地の位置は、偵察部隊がある程度密林に踏みいった地点から、群竜の足でも半日ほどのところにあるのだ。

 人間の軍隊が、その距離を一日で踏破できるはずもない。結論として、群竜討伐部隊はどうしても密林の中で一夜を明かさなければならない。もちろん、事前に斥候部隊が、ある程度開けている平らな地形に目星をつけているのだが、それでも所詮は密林の中だ。間違っても野宿に適した環境ではない。

 人の領域に近い塩の街道周辺とは違い、密林の奥では下手に土魔法で地形を整えたりしたら、他の竜種を刺激することになりかねない。密林の奥には群竜などより恐ろしい凶暴な竜種も存在する。そう言う意味では、火を焚くのも危険が大きい。

 野生の竜種が火を恐れるというのは一面事実であるが、好奇心の強い竜種を引き寄せることもままあるからだ。とはいえ、完全な暗闇では、それこそ夜行性の竜種の良い餌食である。兵士達は周囲の草木に燃え広がらないように注意を払い、小さなたき火を灯し、交代で火の番をする。


 火の番意外の兵士達は明日のために少しでも体を休めなければならない。とはいえ、ろくに火も使えないため食べ物は携帯用の乾し肉と砂糖塊のみ。水場もないから割り当てられる飲み水も僅かだ。しかも狭くてデコボコとした草むらに、薄っぺらな防水シートを敷いてそこで寝っ転がるしかない。もちろん、いつどこから竜種の襲撃があるか分からないから、武器も手放せない。

 ガジール辺境伯軍の若き指揮官、チャビエル・ガジールも他の兵士達と同様に、薄いシートの上に寝転んでいた。

「…………」

 密林の木々が空を覆い隠すため、ここでは月明かりも星明かりも差し込まない。チャビエルは現代日本人とは比較にならないくらいに夜目が利くが、そのチャビエルの視力を持ってしても、まぶたを開けているのと閉じているのの違いが分からないほどに闇が深い。

 少し首を曲げれば向こうに見える小さなたき火の明かりだけが、闇の中に輝くたった一つの彩りだ。

「……ふう」

 胸に抱く短槍を落としてしまったら、もう二度と拾えないかも知れない。そんな思いに刈られたチャビエルは、両手で固く短槍を握りしめる。
 チャビエルの懸念はあながち考えすぎとも言い切れない。自分の手も顔の近くまで近づけて初めて輪郭が見えてくるほどの真っ暗闇だ。万が一、槍を地面に落としてしまえば、手探りでそれを拾うのは相当な苦労を強いられるだろう。

 少なくとも「敵襲!」という報告を聞いてから慌てて探すようでは、絶対に間に合うまい。

「…………」

 明日のことを考えれば、眠らなければならない。それが分かっていても、ここで眠るのは相当な胆力か、『慣れ』が必要だ。

「クソッ……!」

 酷暑期は過ぎたとは言っても十分暖かいはずなのに、震えの止まらないチャビエルは、つい悪態を漏らす。

 まだまだ若輩者の自覚はあっても、曲がりなりにも成人した戦士の自負もあるチャビエルにとって、自分が『恐怖に震えている』と認めるのは屈辱なのだろう。群竜の一匹や二匹、得意の弓矢はもちろん槍での近接戦でも仕留めたことのあるチャビエルだが、それは昼間の街道のような人の領域での話だ。夜の密林という竜種のテリトリー内で襲撃を警戒するのは全く勝手が違う。

 恐怖と無力感、そして自己嫌悪の思いと闘っている若き指揮官に声をかけたのは、熟練の騎士であった。

「チャビエル様、眠れませんか?」

 騎士ジョゼップの落ち着いた声に、一瞬ビクリと体を震わせたチャビエルは、声のした方に顔を向け、言葉を返す。

「ジョゼップか、お前は見えているのか?」

 声から騎士ジョゼップだと判断は出来たのもの、その輪郭すら見えないチャビエルは枕にしていた木の根から上体をもたげ、そう驚きの声を上げる。

「見えている、とまでは言えませんが、チャビエル様のおおよその輪郭ぐらいは視認できております。チャビエル様は今体を持ち上げましたね?」

「ああ、その通りだ。凄いな、それは訓練によるものか、それとも生来のものか?」

 素直に感嘆の言葉を上げる若い指揮官に、歴戦の騎士は暗闇の向こうで小さな笑みを浮かべると、

「まあ、どちらかというと訓練ですかね。個人差はありますが。コツとしては遠くのたき火を背負って地面に落ちる自分の影を見つけるんです。そうして自分の影の輪郭が見えるようになったら、もう少し遠くの闇に目を向ける。そこに物陰を見出したらさらに奥。そうやっていくうちに、徐々に夜目が深くなっていきます」

「なるほど」

 そう言って早速実行しようとするチャビエルを、騎士ジョゼップは苦笑しつつたしなめる。

「チャビエル様。今のチャビエル様に必要なのは夜目を身につけることではなく、一刻も早く目を瞑り、眠りにつくことですな」

「……そうだな」

 チャビエルはばつが悪そうにそう自らの過ちを認める。

「分かった。寝る」

 チャビエルは再び上体を倒し、薄いシートを敷いた木の根の上に頭をのせる。
 いつの間にか体の震えは収まり、短槍を握る手も少し緩めるだけの余裕が生まれている自分に気付いたチャビエルは、驚くと同時にまた小さな劣等感を抱く。

 震えが治まった理由、余裕が生まれたわけ、それは近くに騎士ジョゼップの存在を感じ取れるからに他ならない。

「分かってはいたことだが、私は本当にまだ未熟なのだな……」

 そんな自分の緊張状態を見抜き、さりげなくフォローするために近づいて談笑につきあってくれた熟練の騎士に、若い指揮官は改めて尊敬の念を抱くのだった。



 
 ◇◆◇◆◇◆◇◆




 群竜討伐部隊が密林の中で眠れぬ一夜を過ごしている頃、王都の後宮では善治郎と女王アウラが六つのLEDフロワスタンドライトに照らし出される明るいリビングルームで仲良くテレビを見ていた。

 テレビに映っているのは、善治郎が社会人時代に録りためた『時代劇』である。

 わざわざ時代劇のDVDを引っ張り出したのは、アウラが「和服を一着作ってみようかと思う」と言い出したからだ。

「見える? 大体和服ってのはこんな感じ。女物は結構色彩豊かで綺麗でしょ? 資料が必要ならパソコンでプリントアウトするよ。確か、動画から静止画を抽出するフリーソフトがパソコンに入っていたはずだから」

 そう言って隣に座る妻の顔をのぞき見る善治郎の顔には、分かりやすいくらいの期待と喜びの色が滲んでいる。

「うむ。本格的に一着作るとなれば、そうするのが無難だろうな。王室付きの仕立屋ならば他言無用を言い渡せば、写真を見せても問題は広がらない。しかし良いのか? 確か、『プリンターのインク』とやらがもう最後の一組だと言っていただろう?」

 ソファーの肘置きに右肘を置き、頬杖をついた寛いだ体勢でそう問いかける女王に、善治郎は全く意に介さない笑顔で答える。

「大丈夫。そもそも、使わなくてもインクカートリッジには寿命があるから大事に取っておく意味はあんまりないから。それに、プリントアウトできないと困るような物も今のところないし」

 万が一、インクを使い切った後にプリントアウトの必要に刈られたときは、こちらの世界のインクなどをカートリッジに詰め替えて、白黒印刷だけでも試そうと善治郎は考えている。

 もちろん、そんなことをすれば、プリンターに不具合が生じる可能性の方が高いことは承知の上だ。だから、アウラに頼んでいざというときは『時間遡行』の魔法で元に戻してもらえるタイミングを見計らって行うつもりだ。

『時間遡行』の魔法でインクカードリッジが中身ごと元に戻れば最高なのだが、あいにくそこまで使い勝手の良い魔法ではないらしい。

 一口かじった果物や、焼け落ちた竜皮紙の燃え滓に『時間遡行』の魔法をかけても失われた部分は戻らないとアウラが言っていたので、恐らく使用したインクカードリッジの中身が戻る可能性も低いだろう。

 その反面、半分近く金メッキのはげた装飾品や、摩耗して研ぎ直した刀剣などは、『時間遡行』の魔法で新品の状態に戻るという。正直、善治郎の頭では法則が全く読み解けない。まあ、『魔法』というファンタジーの極みである現象に、厳密な法則性を求めるのがそもそも間違っているのかも知れない。

「ふむ、では正面、側面、背面を一枚ずつプリントアウトしてもらうか。それだけあれば王室付きの仕立屋ならば、それなりの物を仕上げてくれるであろう。見本とするのは……うむ、やはりこの女の服が良さそうだな」

 そう言って、アウラが指さすのはドラマのメインヒロインである。役柄があまり豊かではない旗本の娘という設定のためさほど華美ではないが、メインヒロインという立場上、人目を引きやすい明るい色柄の着物を着ている。

「オッケー、これね。それじゃ、できるだけ分かりやすい画像をプリントアウトしておくよ」

「宜しく頼む。しかし、服だけではなく髪型も随分特徴的なのだな。流石にそこまでは真似できぬが……」

 そもそもカープァ王国の文化では、首筋を見せるような結い方は若い未婚女性の髪型である。アウラの歳と立場でアップにするのはかなり常識外れの部類に入る。もちろん、後宮のような他人の目の届かない空間ならば、多少の常識外れは問題とならないのだが、それでもアウラとしては気恥ずかしい。
 例えてみれば、二十代の半ばを過ぎた既婚女性が、夫の気を引くために『セーラー服』や『体操着』を着るようなものだろうか。

 少し眉をしかめるアウラに、善治郎は苦笑を返す。

「ああ、日本髪か。流石にそれは難しいだろうね。俺も日本髪の結い方なんて全く分からないし、そこまでこらなくても良いんじゃないかな。俺はむしろ結い上げた髪型より、下ろしてる方が好きだよ」

「ほう……」

 非常に珍しく女の好みについて口を滑らせた夫の言葉を、女王は少し目を細めて意識的に頭の片隅にとどめる。

「男もそなたとは全く異なる髪型をしているな」

 とはいえ、そのことについてこの場で追求するつもりはない女王は、自然とテレビドラマの内容について話を続ける。そんな妻の小さな変化に気付かない善治郎は、風呂で洗ったばかりの自分の頭を撫でて苦笑する。

「ああ、ちょんまげね。それはもう完全に過去の遺物だね。現代では相撲取り以外でちょんまげを結っている人はいないよ。多分」

「そうか。確かに整えるのが大変そうな髪型だからな。廃れるのも無理はないか。しかし、先ほどからずっと中央に映っているこの男だけは、どちらかというとそなたに近い髪型をしているな」

 そう言ってアウラが指さすのは、このドラマの主人公である。

「ああ、その人だけは現代から江戸末期にタイムスリップした人間って設定だから、現代人の髪型なんだよ。だから、当たり前って言えば当たり前」

「ほう。人間の時間移動か。そなたの世界では時間移動が存在しているのか?」

 強い関心を寄せるアウラに、このままでは誤解が生じると感じた善治郎は少し慌てて訂正を入れる。

「いや、概念だけあるって言うか、ただの空想上のお話ね。これはドラマ、こっちの世界で言えば演劇とかに近いいわば作り物の『嘘のお話』だから。ほら、物語なんかでは、実在しない生き物や能力が出てくるでしょ? これもそんな感じ。俺の世界では、タイムスリップは空想上の現象で、実現はしていないよ」

「む、そうか」

 元々『時空魔法』という時間と空間に作用する奇跡を操る血族に生まれたアウラにとっては、「タイムスリップ」が絶対に実現不可能な荒唐無稽な代物には思えない。

 なにせ、『瞬間移動』という時間のかからない移動手段や、『異世界召喚』という世界をまたぐ移動手段、さらには『時間遡行』という限定的ながら物体の時間を操作する手段すら有しているのだ。その延長線上に人間の『時間移動』があると考えるのはそうおかしな発想ではない。

 とはいえ、この場では完全な横道の話題である。

「お、この女の服装は今までのとはまるで違うな。随分と艶やかで豪華だ。流石に布地が多すぎてカープァ王国の気候には合わぬだろうが」

「ああ、それは『花魁』といってちょっと特殊な職業の人の服装だよ。アウラなら似合うかも知れないけど、この時代でも一般的な服装じゃないね。ああ、でも髪飾りなんかは参考にすると、面白いかも」

 そのまま、善治郎が説明と一時停止を繰り返しつつ、ドラマ鑑賞が続く。

「ほう、凄いな。よく分からぬが、この『ペニシリン』という薬が作れれば、随分と役に立つのではないか? 我が国でも怪我が原因で発熱の末、死ぬ兵士は実に多いのだ。ゼンジロウ、この映像でこれだけ詳細にやり方を説明しているのだ。私達でも再現は可能ではないのか?」

「無理無理、絶対に無理! これはこの人がもの凄い医者だから出来るの。俺みたいな素人がカビの培養なんてやったら、有害なカビや微生物を大量繁殖させてパニックを起こすのが落ち。それに、薬効を調べるためにブドウ球菌も培養しているけど、こっちも下手をすれば毒性の強いブドウ球菌を異常繁殖させて死人を出すハメになりかねないよ。
 第一、注射器がないでしょ。人の血管に刺せるくらいに細くて中に液体を通せるような穴の開いた針なんて、どうやって作るの。もし、出来たとしても刺すときに失敗して空気でも入れたら患者の命に関わるし、消毒をしっかりしていなかったら注射が原因でかえって病状が悪化するよ。
 他にも……ええと、とにかく絶対に無理!」

 ガラス製造や水車の改良と違い、試行錯誤の失敗が人死にと直結する医療関係は、どう考えても善治郎の手に余る。

 積極的に異文化の良いところを吸収しようとする女王に、今回ばかりは善治郎もとりつく島もない全否定の体勢を崩さないのであった。
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