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理想のヒモ生活 作者:渡辺 恒彦

二年目

47/93

第二章2【肉食竜の爪痕】

 その日の夜。

 いつも通り、夕食と入浴を済ませた善治郎とアウラは、リビングルームのソファーの上で、夫婦水入らずの時間を過ごしていた。

 ただし、二人の位置関係は、『隣同士』ではなく、『向かいあわせ』である。

 隣り合って座るときは、くつろいだ話をするとき。向かいあって座るときは、少し真面目な話をするとき。この一年の間に、いつの間にか、そうした不文律ができている。

 そのため、アウラが自分の正面に腰を下ろした時点で、会話の方向性を察した善治郎は、氷を入れたウィスキーグラスにはまだ口を付けず、テーブルのコースターの上へ置く。

 どうやら、その判断は間違っていなかったらしく、薄い夜着姿のアウラは、その湯上がりの寛いだ服装には似合わない、真面目な面持ちで話し始める。

「ゼンジロウ、少しよいか? このような時に無粋な話題ですまぬが、そなたの耳にも入れておきたい情報でな。今日の『昼食会』での話なのだが……」

 六つのLEDスタンドライトが明るく照らし出すソファーから、少し身を乗り出すようにして、ブルーストライプのパジャマ姿の善治郎は、妻の言葉に耳を傾けるのだった。






「ええと、よく分からないけど、そんなに珍しいことなわけ? 『シャロワ王家』の王族が、国外に出てくるのって?」

 一通り、アウラの説明を聞き終えた善治郎は、まず真っ先にそう疑問の声を上げる。

『シャロワ王家』の王子と王女が、この国に来るかも知れない。

 それが大事であることは分かるのだが、それにしてもアウラの驚きは少々大げさなものに見える。
 現に、同じシャロワ・ジルベール双王国のもう一つの王族であるジルベール法王家のイザベッラ王女が、正式訪問を果たしたのは去年のことだ。

 それに、善治郎とアウラの結婚式は、迅速を余儀なくされたため、国内貴族と外交官クラスの国外貴族しか参加しなかったが、通常王の結婚式となると、他国の直系王族が多数顔を見せるのが一般的だと、家庭教師のオクタビアから教えられた記憶がある。

 善治郎の疑問に、アウラは小さく笑みを浮かべると、一つ頷き、答える。

「ああ、『王族』の訪問はさほど珍しいことではない。珍しいのは、単純に『シャロワ王家』の訪問だ。シャロワ・ジルベール双王国は王家が二つあるからな。国外訪問は原則『ジルベール法王家』の担当なのだ。

 あの国も伊達に二つの王家を並立させたまま、数百年も続いてきたわけではないからな。その辺りの役割分担は、かなりしっかりしているぞ。

 無論、両家の境界線上の権力機構も多数有るし、そこでは両王家の権益の綱引きが影でおこなわれているらしい、とは聞くがな」

 アウラの説明に、善治郎は「なるほど」と頷いた。

「そんな内向きの王家が、わざわざこの国に来るっていうのは、やっぱりなにか明確な目的があるんだよね?」

 聞くまでもないとは思いつつそう尋ねる善治郎に、アウラは案の定、首肯する。

「ああ。おそらく、彼等の目的はそなたの『ビー玉』だろうな。実はあの後も、双王国からはイザベッラ王女を通して、残りの『ビー玉』の買い取りについて、匂わせる書状が来ているのだ。

 やはり、『付与魔法』を使うに当たって、『ビー玉』が大きな力になるという推測はかなりの確度で当たっていたと見るべきだろう」

「うーん、そうか。あのビー玉がねえ……」

 一袋数百円で買ってきたおもちゃのガラス玉が、こちらの世界では国家間の政治バランスを揺るがしかねない劇物であった、と言われても、正直実感のわかない善治郎である。

「まあ、その辺りの取引についてはアウラに任せるよ。俺には事後報告の形で良いから、好きにやって。あ、そういえば、彼等の目的が『俺の血筋』って可能性はないのかな? 最初は随分執着していたよね?」

 ふと思いついたように、そう疑問の声を上げる善治郎に、アウラはあごに右手を当ててしばし考えた後、首を横に振って答える。

「……いや、ないとは言い切れぬが、その可能性は低いであろうな。確かに来訪を匂わせているボナ王女は、未婚の若い王族なのだから、そなたを誘惑できればそれに越したことはない、ぐらいのことは考えているかもしれんが、いくら何でもこちらの王宮で、そうそう露骨なマネはしでかすまい。

 それを警戒するのは、むしろ、『向こうの王宮』だな。そなたは、いずれ『瞬間移動』の魔法を会得して、双王国へ行くつもりなのだろう? 例え魔力の余裕があっても、流石に『無断で日帰り』はできぬぞ。まず間違いなく、向こうの王宮で盛大に『歓待』を受けるはずだ。

 シャロワ王家がまだそなたの血筋、もしくは身柄を諦めていないとすれば、主戦場はそこであろうよ」

 そう言って、少し凄味のある笑みを浮かべる妻の表情に、善治郎は思わず背筋を震わせた。

「ああ、そうか。確かに、俺が向こうの国に行くってことは、そういうことになる、のか」

 考えて見れば、当たり前である。

 技術的には『瞬間移動』の魔法で、双王国首都に居を構える、カープァ王国の外交官屋敷に直接跳ぶことはできるだろうが、向こうの王宮に無断で往復することが許されるはずもない。

 アウラの言うとおり、向こうの意向に沿った『歓待』を拒否することはできないだろう。

(まずい、ちょっと、簡単に考えすぎていたかも)

 まだ、遠い将来のこととはいえ、自分の見通しの甘さを自覚した善治郎は、反省するようにソファーの上で、少し項垂れる。

 だが、だからといって、『瞬間移動』の魔法を覚えて、双王国首都へ移動できるようになっておく、という当初の目的を揺るがすわけにはいかない。

 将来的に、アウラが第二子、第三子を出産するのは、半ば決定事項なのだ。

 第一子――カルロス・善吉の時のような、何もできずにただアウラの体力と幸運に任せるしかない状態で、次の出産を迎えるのは、絶対にゴメンである。

 いざという時、善治郎が双王国首都を『瞬間移動』で往復できるようになっていれば、『治癒魔法』の使い手である『ジルベール法王家』の人間を、即座に招くことができるのだ。

 そのためならば、多少のリスクは許容範囲内である。

 改めて、今後の身の振り方について覚悟を決めた善治郎は、ソファーの上で座り直し、アウラの双眼を正面から見据える。

「分かった。その時がきたら、最大限に注意を払って、絶対に絡め取られないように気をつける」

「そうか」

 夫の答えに、女王は優しい目で短い返答を返した。

 その返答は、前提として「『瞬間移動』の魔法を習得次第、双王国へ行く」という計画を変更するつもりは微塵もない、という思考の上に成り立っている。

 その思考の根底にあるのが、自分に対する情愛といたわりであることを理解しているアウラは、夫の未来を心配しつつも、つい口元がほころんでしまう。

「分かった。まだ、しばらくは先のことであろうが、その時が来たらよろしく頼む」

 アウラは、笑顔を隠さずに、静かな声で夫にそう告げた。





「ところで、話は戻すけど、そのシャロワ王家の王子様と王女様は、いつ頃こっちに来るんだろう?」

 少し場の空気が緩んだ中、氷が溶けて薄まったウィスキーを、銀のスプーンでかき混ぜた善治郎は、その青い薩摩切り子のグラスに口を付ける。

 同型の赤い薩摩切り子グラスに入ったブランデーで喉を湿らせたアウラは、背中をソファーの背もたれに預け、少し首をかげた後、答える。

「さて、どうであろうな。今はまだ『非公式の噂話』の段階だ。今すぐという可能性はないとは思うが、なにせ、前例がない話だからな。正直、向こうの動きが読み切れぬ」

「んー、そうか。それじゃ、今から身構えていてもしょうがないかな。あ、ちなみにその二人はどんな人なの? アウラは、知ってる?」

 善治郎の問いに、アウラは首を横に振る。

「いや、先ほども言ったとおり、シャロワ王家はあまり対外的に出て来ないからな。他の王族と比べると、非常に情報が少ない。

 分かっているのは、生まれと年齢。あとは、当てにもならぬような大ざっぱな噂だけだ」

 アウラはそう言うと、まだ中身の残ってる赤い切り子グラスをテーブルの上のコースターに戻した。

「どんな噂?」と短く問いかける夫の問いに答えるように、アウラはソファーの背もたれに背中を預け、腹の上で軽く手を組んだ体勢で、言葉を続ける。

「そうだな。まず、年齢はそれぞれ、フランチェスコ王子が二十四、ボナ王女が十六だったはずだ。フランチェスコ王子は王家の直系で、現王の孫、それも次期王ほぼ確実と言われている、第一王子の正嫡だ」

 予想以上の血統の良さに、善治郎は驚きに目を見開く。

「それって、次々代の国王ってこと?」

 アウラの説明を素直に読みとればそうなる。この世界の王位継承は、長子相続が絶対というわけではないが、その傾向が強いことは確かである。

 だが、そんな善治郎の問いに、アウラは首を横に振る。

「いや、違う。少なくとも現時点で、フランチェスコ王子はまだ、正式な王位継承権を得ていない」

 その答えに、善治郎は先ほど以上の驚きを発した。

「えっ!? でも、だって、その人二十四歳でしょ? それって普通、あり得るの?」

「ありえぬな。普通はまず、ありえぬ。正当な血筋に生まれながら、『血統魔法』を発動できないがために、王族と認められないという例は存在するが、フランチェスコ王子は、現シャロワ王家の中でも、五指に入る『付与魔法』の使い手として、知られている」

 きっぱりと言い切るアウラの言葉に、善治郎は胡散臭いものを感じずにはいられない。

 現王の正嫡筋の孫であり、すでに二十四という年齢に達し、『血統魔法』は問題なく使えるのに、なぜか『王位継承権』は持たない。

 血筋、年齢、能力に問題が無いのに、王位継承権が与えられていないとなると、単純に考えれば『人格』に問題があるとしか思えない。

「……なんだか、その話を聞いただけで、気が重くなってきたな、その人と会うの」

「同感だ」

 眉をしかめて吐き出す善治郎の感想に、アウラは小さく頷いて同意を示した。

「とはいえ、長年の沈黙を破って、わざわざ我が国に派遣するくらいなのだから、国際問題を起こさない程度の常識と良識はあるのだろう……と期待する」

 そう言って小さく肩をすくめたアウラは、気を取り直して、もう一人の王族の説明を始める。

「もう一人の来訪者であるボナ王女。こちらは、フランチェスコ王子とは、ほぼ正反対の生まれだな。ボナ王女の両親は、王族ではない。王家の血を引く古参貴族の家に生まれた、『血統魔法』継承者だ。たしか、王位継承権は二十五位か六位だったかな? ほとんど末席に近い、王族だな」

「へー、王族の生まれじゃなくても、『血統魔法』さえ使えれば、王族と認められるんだ」

 ちょっと感心したような声を上げる善治郎に、アウラは小さく頷き、答える。

「ああ。その辺りは国によって異なるのだが、双王国の法ではそうなっている。まあ、実際には、直系ではない王族では、辛うじて血統魔法が使える、といった程度だから、王位継承問題に絡んでくる例はまずないがな。事実上、『血統魔法』の使い手以外の価値は見いだされておらん。

 国内の立場は、相当弱いはずだ」

「なるほど。こう言っちゃ悪いけど、掛け値なしの『名ばかり王女様』ってことか」

「まあ、そんなところだな。だからこそ、厄介だ。あちらの意図が透けて見える」

 そう言うアウラに意味深な視線を向けられた善治郎は、妻の言いたいことを悟り、歯切れの悪い言葉を発する。

「ああ……そうか、なるほど。つまり、ひょっとして、それって、やっぱりまだ、俺のことを諦めていない、ってこと、かな?」

「まあ、先ほども言った通り、こっちの王宮でそう馬鹿げた攻勢には出ないとは思うがな。早めにそなたと顔をつないでおいて、交友を深めて置きたい、くらいのことは考えていそうだな。恐らく『駄目で元々』くらいの軽い気持ちなのではないか?」

 アウラは、そう言って小さく肩をすくめた。

「うわあ……。結構、面倒くさいことになりそうだなぁ……」

 善治郎は、漏れそうになる溜息を一緒に飲む込むようにして、グラスの中身を一気にあおった。





 ◇◆◇◆◇◆◇◆





 数日後の昼。チャビエル・ガジール率いるガジール辺境伯領領主軍、総勢百名は、『塩の街道』を北に大き進んだある地点で、野営をはっていた。

 密林を走る『塩の街道』の左右は、原則びっしりと木々が生い茂り、百人規模の軍勢が纏めてキャンプを張ることができるようなスペースは、自然には存在しないのだが、『塩の街道』は曲がりなりにも、大国カープァ王国の国道である。

 一定の区間ごとに、大人数がキャンプを張ることができるように、木々を切り倒した広い空間が設けられている。

 そんな人工的に築かれた、森の中の小さな草原くさはらに、兵士達の声が乱雑に響く。

「おい、日よけの壁がたりねぇぞ! 誰か、『土壁作製』の魔法使える奴!」

「調理始めるぞ! 『発火』使える奴、誰でもいいからちょっと手ぇ、かしてくれ!」

「水くみ、終了しました! 『水質浄化』お願いします!」

 野営の準備として目を引くのは、やはり『魔法』の存在だろう。

『魔法使い』と呼べるほどに、数多くの魔法を会得しているものは少なくとも、日常的に便利な魔法を何か一つだけ習得している人間は、平民にもそれなりの割合で存在する。

 そうした魔法を習得している人間は、このような野営時に重宝される。
 逆に、いざ戦闘が始まってしまうと、魔法の出番はほぼなくなる。なにせ、魔法の発動に求められるのは、『正しい発音』『正しい魔力量』、そして『正しい認識』なのだ。

『正しい発音』と『正しい魔力量』はともかくとして、戦闘中に『正しい認識』を保つというのは、非常に難易度が高い。

 宮廷魔法使いのような、極一握りのエリートで始めて、戦場の後方から、攻撃魔法を飛ばすことができる程度であり、槍を振るいながら魔法を使うようなマネは、原則不可能である。

 そのため、軍隊における魔法の出番は、もっぱらこうした非戦闘時に比重が傾く。





『土壁作製』の魔法で立てた四方の壁の上に、白い布の天幕を被せて作られた仮の本営の中、数時間ぶりに走竜の背から降りたチャビエル・ガジールは、小さな木製の折りたたみ椅子に腰を下ろし、しきりに首をグルグルと回していた。

「ッ、クウゥ……!」

 長時間の騎乗体勢ですっかり固まった身体のコリをほぐしたチャビエルは、痛みの伴う心地よさに顔をしかめて声を上げる。

 仮にも辺境伯の直系男子として、幼少の頃から騎乗訓練を受けているチャビエルが、今更数時間程度の騎乗で身体がこるはずはないのだが、現実はその訓練の成果を裏切っている。

 やはり、部下達の目を気にしすぎて、必要以上に身体に力が入っていたのだろう。

 現在、天幕の中には、チャビエル自身と、気心の知れた若い従者しかいない。部下達の目を気にせずともよいと言うだけで、今のチャビエルにとってはかけがえのない貴重な時間である。

 天幕の一枚布では到底防ぎ切れない酷暑期の陽光も、魔法で立てられた土壁ならば完全に遮断してくれる。

 チャビエルは土壁が作る影の下で、年若い従者が用意してくれた、小さな木樽の水を頭から被った。

「……ふう」

 滴る水滴が、チャビエルの短い黒髪からポタポタと首筋を伝い、服の下へと流れ込む。

「チャビエル様、こちらを」

「ああ、ありがとう。アンドレス」

 チャビエルは折りたたみ式の椅子に腰を下ろしたまま、若い従者が差し出した手ぬぐいを受け取り、それで顔の水滴を拭う。

 この炎天下、放って置いてもこの程度の水はアッという間に乾くのだが、気持ち悪いことにはかわりない。

 チャビエルが顔と首筋の水を拭った所で、若い従者――アンドレスは、さりげなくその使用済みの手ぬぐいを受け取り、代わりにぬるい水を満たした木製のコップを差し出す。

 チャビエルが、半ば反射的に受け取ったコップの中身を一息に飲み干した、丁度その時だった。

「チャビエル様、ジョゼップです。先行偵察隊が帰還しました。早急にお耳に入れたい情報があります。入ってもよろしいでしょうか?」

 天幕の向こうから、低くて良く通る声が聞こえてくる。

「ッ、ジョゼップか? 許可する、入れ」

 チャビエルは横に控えるアンドレスに、目線で天幕内を片付けるように指示を飛ばしながら、入り口の向こうで佇む騎士に、そう声をかけた。





 土の壁と布の天井で仕切られた仮本営の中で、チャビエル・ガジールは、折りたたみ式の簡素な椅子に腰を掛けたまま、騎士ジョゼップと、先行偵察隊の責任者である、三十歳前後と思しき兵士の報告を聞いていた。

「なに!? 塩商人達の死体が見つかった、と言うのか?」

 責任者の報告を聞き終えたチャビエルは、小さな椅子から身を乗り出し、驚きの声を上げる。

「はいっ、この先の街道で、横倒れになっている複数の荷車と鈍竜の死体及び、人間の死体を発見いたしました! いずれの死体も、大幅に欠損しており、死因が肉食竜の襲撃によるものであることは、明確です!」

 その兵士は、口元に生やした無精髭を振るわせるようにして、そう大声で返答した。

 先行偵察部隊は、身の軽い歩兵数人で構成されている。塩の街道を寸断するほどの強力な肉食竜と接触すれば、撃退できる可能性は低い。だから、塩商人達の死体を発見した時点で、早急にとって返したのだと、その男はいう。

 正しい判断と言えるだろう。

 その状況ならば、詳しい情報を得ることよりも、一刻も早く本隊に『この先で塩商人達が死んでいる』という漠然とした情報を確実に届けることの方が、遙かに優先順位が高い。

 折りたたみ椅子に座るチャビエルは、膝の上で無意識のうちにギュッと堅く、両拳を握る。

 ついに、実戦が始まるのだ。初陣のチャビエルが緊張を露わにするのも無理はない。

「そうか……。ならば、一刻の猶予もならんな。全軍に警戒態勢を取らせるべきか」

 若き司令官はそう言って、その小柄で華奢な身体を椅子の上でピンと伸ばす。

 そんな肩に力が入りまくった初陣の騎士に、諭すように声を掛けたのは、熟練の騎士だった。

「チャビエル様。兵達はまだ昼食の準備中です。今すぐその情報を全軍に通達しますと、若い初陣の兵達は、緊張で休息を阻害される恐れがありますが、よろしいですか?」

「むっ?」

 熟練の騎士であるジョゼップの言葉に、チャビエルは椅子から浮かせかけていた尻を再び椅子の上へ戻し、あごに手を当てて思案する。

 たしかに、「肉食竜がすぐそこまで近づいている可能性がある。十分に気をつけて休憩しろ」と言われても、慣れていない若い兵士が、それを実行するのは難しそうだ。

 しかも、悪い事にその『若い兵士』というのが、全体に占める割合は無視できないくらいに大きい。
 先の大戦を経験している古参兵は、全体の中では少数派である。

「……ジョゼップ。現状で、この休憩場所にその肉食竜達が襲い掛かってくる可能性は、どの程度あると思う?」

 若い司令官の問いに、歴戦の騎士は、ピクリと片方の眉を跳ね上げると、

「そうですな。はっきりと言い切る事は出来ませんが、その危険は相当低いでしょう。こちらは曲がりなりにも完全武装をした百人の軍勢です。この辺りの竜ならば、人の怖さは十分に知っているはずですから」

 そう、淀みない口調で答えた。

「む、そうか」

 その返答に、チャビエルは一瞬何かを決断しかけたのだが、その決意を遮るように、騎士ジョゼップは、言葉を続ける。

「ただし、あくまで確率は低いだけで、「ない」と言い切れるわけじゃ、ありません。腹を空かせた肉食竜は、何をしでかすか、分かりませんからな」

「むぅ……」

 ジョゼップの言葉に、チャビエルは一度開きかけた口を再び閉じ、また考え込む。

 ここで全軍に警報を出せば、せっかくの大休止に、心身を休めることができない人間が続出することになる。だが、警報を出さなければ、万が一の場合、無防備に肉食竜の襲撃を受ける恐れがある。

 出すべきか、出さざるべきか。

 チャビエルは、目の前に立つ熟練の騎士に「どうするべきだと思う?」と問いかけたくなる衝動をグッと堪え、黙考する。

 ジョゼップは、すでに客観的な意見を述べている。ここから判断を下すのは、指揮官である自分の仕事だ。

「…………」

 考えるチャビエルの頭の片隅で「一,二,三,四……」と数字が踊り出す。
 これは、チャビエルが指揮官教育を施した教師に、植え付けられた癖である。

 熟考が求められることが多い領主の責務とは裏腹に、戦場の指揮官の判断は拙速が巧遅に勝るケースが多い。

「現場での判断は、常に十を数えるまでに下すようにするべし。なお、敵影が見えている場での判断は、三を数えるまでに下す必要がある」

 というのが、チャビエルの軍事における教官が口を酸っぱくして叩き込んだ、教えである。

 程なくして、一つ大きく息を吐いたチャビエルは、椅子の上でピンと背筋を伸ばすと、目の前に立つ部下に命令を下す。

「わかった。警戒命令は必要ない。その情報は取り合えず、騎士と兵隊長までで止めておけ。兵士達には、通常通り、昼を終えて、英気を養わせろ。

 午後からは、襲撃現場に向かうことになる。戦闘に突入する可能性も高い。

 昼の大休止が終了したところで、全軍に先ほどの情報を通達し、午後は警戒態勢を取ったまま、行軍を開始する。以上だ」

「はっ」

「了解しました」

 指揮官の下した決定に、騎士ジョゼップと、先行偵察部隊の隊長は、敬礼をもって了承の意を示す。

 命令を下したチャビエルは、頬肉が痙攣を起こすほどに顔に力を入れて、動揺を表に出さないように努力していた。

 命令を下した次の瞬間には、もう自分の決定に対する疑念が沸き上がってくる。

 本当にこれでよいのだろうか?

 もし、この様な決定を下して、万が一昼休み中に『肉食竜』の襲撃を受けるようなことがあれば、それは間違いなく自分の失態だ。

 だが、先に情報を公開して、新兵達がろくに休息を取れなくなり、その結果、午後の行軍と戦闘に支障を来したとしても、それもやはり自分の失態だ。

 そんな経験の浅い司令官の苦悩を知ってか知らずか、騎士ジョゼップと偵察部隊の隊長は、一礼をした後、速やかに天幕から立ち去る。

「………ふう。まだ、戦場に到達してもいないというのに、俺って奴は……」

 思わず漏らした主の愚痴を、出来の良い若い従者は、きっぱりと聞こえないふりをするのだった。
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