挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
理想のヒモ生活 作者:渡辺 恒彦

二年目

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

42/94

プロローグ【二年目の始まり】

 カープァ王国女王アウラが、第一子を無事出産したちょうど一ヶ月(二十九日)後の夜。王都カープァは、夜闇を打ち消す炎と、賑やかな喧騒に満ちていた。

 大通りの交差点や公園では大きな篝火が焚かれ、夜の街のあちこちには、松明を持った従者を引き連れた見回り兵士が巡回している。

 繁華街に目を向ければ、大多数の飲食店も店内で複数の油皿に火を灯し、夜の臨時営業に勤しんでいるのが見える。
 油の値が張る上に、火事の危険も大きい深夜の営業は、通常ほとんどの店舗が行わない物なのだが、今日ばかりは例外だ。

 カープァ王国民の大半が待ち望んでいた吉報。王家の第一男子誕生を祝う、記念すべき夜なのだから。





「アウラ陛下の健康を祝って!」

「カルロス殿下のご生誕に!」

「カープァ王国の未来に!」

「「「乾杯ッ!」」」

 夜の酒場に歓声と、酒の入った木のジョッキをぶつけ合う音が響き渡る。
 酒場の灯りは、四隅にある油皿の火だけなのだが、この場の空気はその薄明かりを『明るい』と錯覚させるほどのものがある。

 今夜は王子誕生を祝う祭りの夜だ。実際に生まれたのは一月前だが、医術が未発達なこの世界では、王族といえども子供が無事に育つ保証はない。そのため、慣習として生誕祭は、実際の誕生日より一カ月後に行うようになっている。

 そして、今夜はその一ヶ月後。王都は不夜城と化す。

 もっとも、この場にいる酔客たちの場合、王子の誕生を祝っているのも間違いはないのだろうが、大半はもっと単純に、『ただ酒』と『ただ飯』に浮かれているというのが実体である。

 そう、この夜を彩る光熱費と飲食費は、原則全て王室持ちだ。

 篝火用の薪と油を手配し、飲食店には事前に銀貨を贈与し、火事や喧嘩が起こらないよう、巡回の兵士を手配する。
 戦災復興中の王室に取っては、決して軽くない負担だが、こうした人気取りを軽んじるわけにはいかない。それに、こうした大盤振る舞いには、副次的な効果として、王都の経済が一時的に活性化することも期待できる。

 いかに王室が『ただ酒』『ただ飯』を振る舞うとは言っても、それは安い果実酒と、大鍋で纏めて作られた、安いスープに限られる。
 それらの酒や飯でも、酔っぱらうことは出来るし、腹も膨れるが、酒が回って気が大きくなれば、多少自腹を切ってでも、もっと美味い酒や美味い飯についつい手を伸ばしてしまう者も出てくる。
 結果、各飲食店は王家からの振る舞い金を除外しても、大幅な黒字を記録することとなる。

「それにしても、ここ最近はめでたい事が続くな。戦争は勝ったし、アウラ陛下はご成婚された。そして、一年後には王子誕生とは、できすぎだぜ」

 店内の椅子に足を広げて腰を下ろしていた三十前後のがっちりとした筋肉質な男は、大きな声でそう言って、カラになったジョッキを勢いよくテーブルに下ろした。木製のジョッキが木製のテーブルにぶつかり、カツンと心地よい音を立てる。

「なに、それまでは長年戦続きで、大変だったんだ。溜まっていた『良いこと』がまとめて来たんだろうよ」

 そう答えたのは、向かいに座る男である。正面に座る男と比べると幾分細身だが、よく見るとその身体は労働で鍛えられた、引き締まったモノである事が分かる。恐らく二人とも、王都で働く肉体労働者なのだろう。

 細身の男は、大きな木の匙で熱々のスープをすくい、口へと運ぶ。

 スープの具は調理用バナナのぶつ切りや安物の葉野菜に、申し訳程度廃竜の肉(年老いて労働力とならなくなった走竜や鈍竜の肉)が入っている程度だが、塩とスパイスで強く味が付けられているため、熱いうちに食べれば十分に美味い。
 塩、スパイス、そして黒砂糖。いずれも、カープァ王国では、特別高値の付く代物ではない。
 暑い最中、スパイスの利いたスープを啜って汗をかき、汗を掻いた分水を飲む。カープァ王国では一般的な酷暑の乗り越え方である。

「まあ、確かにな。あのしんどい戦争の後だ。少しは、良いことが続いても罰は当たらねぇか」

 がたいの良い男は、細身の男の言葉にそう同意を示した。二人とも年の頃は三十代の中盤くらい。よく見るとどちらも、服のはしから除かせる腕や胸元には、刀傷や矢傷らしきものがうっすらと浮かんでいる。先の大戦では、兵士として戦場の泥を舐めた経験があるのだろう。

 そう考えれば、この男達の言葉に、実感が籠もっているのも当然だ。

「そういうことだな。だが、せっかくの振る舞い酒と振る舞い飯なら、昼間からいただきたかったモノだな。半日分、損した気分だ。まあ、こうして夜闇の中での飯も風情はあるけどよ」

 そう言って木のスープ皿に匙を戻した細身の男に、がたいの酔い男が吹き出すように笑い返す。

「はっ! 『風情』とか抜かす面からよ、お前が。まあ、言いたいことは分かるが、子供ってのは授かり物だ。時期を選んで生まれてきてはくれねぇよ」

 通常、王子誕生の祝祭は丸一日行われるものなのだが、生憎今は一年でももっとも暑い時期だ。最高気温四十五度を超える酷暑は、生命活動を脅かす。
 そんな体温より十度以上高い気温の中、街を挙げて飲んで騒げば失神者と死者が続出することになる。酷暑が続くこの時期の日中は、出来るだけ屋内でじっとして体力の消耗をさけ、どうしても外を出歩く必要があるときは、白いフード付き外套で身体を一切直射日光にさらさないようにしなければならない。

 外套は主に、厚手の綿織物が用いられる。麻のような通気性の良い生地が涼しく感じられるのは、気温が体温より低い次元までだ。どれだけ風が服を吹き抜けても、吹き抜ける風が体温より高いのであれば、風が吹けば吹くだけ暑くなるだけだ。

 そう言う意味では、この酒場で歓声を上げている男達が皆、袖無しのシャツと薄手のズボン姿でいられるというのは、やはり夜は『涼しい』ということなのだろう。
 とはいえ、それは昼間の殺人的な酷暑と比べた場合の相対的な評価であり、夜も暑いことは間違いない。

 暑いスープを食べ終えた細身の男は、服の襟元をバサバサとやっていたが、その程度で涼しくなるほど、熱帯夜はかわいげのあるモノではない。

「これは、たまらんな。おい、水をまくぞ。いいか?」

 たまりかねた細身の男は、椅子の上で身体をひねると、後ろの壁に立てかけてあった木のひしゃくを手に取り、酒場中に響き渡る大声でそう言う。

「おう、まけまけ!」

「そうだ、流石に暑い!」

「誰も反対する奴はいねえよ!」

 男の声を受け、酒場で騒いでいた酔客達は、一斉に了承の意を伝えてきた。

「よし、来た」

 店内の客達の同意を得た男は、椅子から立ち上がると長柄の大きなひしゃくを手に持ち、酒場の隅に設置されている、細長い木製の水槽へと歩み寄る。

 店内に水を湛えた水槽を設置して置くのは、この辺りで客商売をやっている店舗ならば、まずどこでもやっているサービスだ。
 こうして店内に水を湛えているだけで多少は室温が下がるし、今男がやろうとしているように、その水を店内の床に打てば、その気化熱で随分と涼が取れる。
 無論、一時的に店内の石畳のへこみに水たまりが生まれ、客の靴やズボンの裾に飛沫は掛かったりもするだろうが、そんなことを気にするような繊細な人間は、ここにはない。
 真夜中でも三十五度を超える高温の前には、その程度の水などあっという間に乾いてしまう。

 それどころか、客の一人が男に言う。

「ああ、まどろっこしいな。いっそ、降らせろ!」

 降らせろ。

 ようは、ちまちま足元にまいていないで、もっと豪快に自分たちの頭上に水をぶちまけろ、と言っているのだ。
 床に水をまいて涼を取るくらいならばともかく、店内で直接頭から水をぶちまけるようなマネは、カープァ王国でも少々品のない行為だ。しかし、ここは場末の酒場。その乱暴な提案は、拍手喝采を持って受け入れられる。

「そうだ、ぶちまけろ!」

「このままじゃ暑くてかなわん!」

「まてまて、料理に蓋をするまで待て!」

 手際よくテーブルの上のスープ皿や薄焼きパンの入れ物に蓋をする辺り、どうやらこうして水を『降らせる』のは、日常化しているようだ。
その証拠に、カウンターの奥で大鍋を見張っている店主も、その褐色の顔に皺を寄せて苦笑いを浮かべるだけで、制止しようとするそぶりも見せない。

 それどころか、

「油皿にはかからないように気をつけてくれよ」

 と言う言葉で、許可を与える。

 その言葉を受け、男は「分かった」と大笑し、ひしゃくの先を四角いすいそうに差し込んだ。そして、

「いいな、行くぞっ、せーのっ!」

 右手一本で、弧を描くように水の入ったひしゃくを振りまわし、夜の酒場に雨を降らせる。
 空中を飛び散る水滴が、四隅に立てかけられている油皿の炎に照らされ、キラキラと輝く。

「うおっ、冷てっ!」

「ひゃあ、生き返るわ」

「けちけちすんな、もっとだ、もっと!」

 酔客達が口々に勝手な事を言う。

「ああ、うるせえな、ちょっと待ってろ」

 男はひしゃくですくった水を、自分の頭にかけて自らも涼を取ると、続いて矢継ぎ早に何度も何度も、ひしゃくを振りまわし、店内に水を降らす。

「ふー、気持ちいい! 女王陛下、万歳!」

「おう、カルロス殿下万歳!」

「カープァ王国万歳!」

 水浴びで気持ちよくなった酔客達は、また景気よく万歳の声を上げる。

「あとついでに、ええと、あれ? 何て言った? ……ああ、とにかく、アウラ陛下の婿さんも万歳だ!」

 どうやら、女王アウラの婿である『善治郎』の知名度は、酒で思考力の濁った場末の庶民達には、その名前がとっさに思い出せないくらい、極めて低いものでしかないようだった。





 ◇◆◇◆◇◆◇◆





 夜が明ければ、朝がくる。
 炎と酒で彩られた祭りの夜も、朝日と共に終わりを告げる。
 灼熱の太陽が地平線から顔を出せば、そこからはいつもの日常だ。
 特に今は、一年の中でも一番暑い時期。朝日が登って辺りが明るくなっているのに、まだ気温は本格的に上昇していないこの時間帯は、貴重である。
 白々と夜が明けてきた王都の町並みでは、人々が早速活発に動き出している。
 この時期は、熱射病を避けるため、昼のもっとも気温が上がる頃合いは、屋内で昼寝をして体力の消耗を避ける習慣がある。そのため、朝、夕のうちに出来るだけの事をやっておかないと、時間が足りなくなる。

 慌ただしくも、活発に動き始める王都の朝。そんな王都のど真ん中に位置するのに、唯一その喧噪と無縁の後宮の一室で、善治郎は今日も何時もと変わらないゆったりとした朝を迎えていた。





 異国情緒漂うクラシックな家具と、日本製の多量生産品の電化製品が混在する、一見するとまとまりのない一室で、善治郎は大きく伸びをする。
 窓を閉ざす木戸の隙間から差し込む朝日だけが光源の室内は、もう朝だというのに、薄暗いを通り越して暗い。

「ふう……くぅ……!」

 灰色のTシャツと、ツータックの白い麻のズボンという部屋着姿の善治郎は、両腕を上に伸ばし、グルグルと頭を回しながら、リビングルームの窓を開け放つ。

 精密な彫刻の施された窓を開けば、入って来るのは朝日とは思えないくらいの強い陽光と、蒸し暑い外気だ。

「うわっ!?」

 差し込む強い光と流れ込む攻撃的な熱気に、窓を開けた善治郎は思わず顔を背ける。暗闇に慣れた目に、眩しい朝日が目に沁みるが、それ以上に強烈なのがその熱気だ。

「すごいな、これ。暑いとか気持ち悪いとか言う前に、生命の危機を感じる」

 暑すぎるその空気は、まるで酸素濃度が低いかのように、思い切り深呼吸をしてもなお「息苦しい」と感じてしまう。
 善治郎が日頃暮らしている、このリビングルームと隣のベッドルームは、毎日毎晩氷と扇風機で涼をとり続けている。いくらリビングルームが広く、日本の住宅ほどの機密性がないとはいっても、毎日氷を設置していれば、部屋全体が外気とは隔絶した快適な室温を保つようになる。

 開け放った窓から容赦なく入り込む熱気に顔をしかめた善治郎は、一秒でも早く窓を閉めるために、素早く用事を済ませようと道具を持って来る。

 善治郎がリビングルームの隅から持ってきたのは、デジタル式の置き時計、シャープペンシル、デジタルカメラの三つだ。

「よし、ちょうど良い頃だな」

 善治郎は、四角い置き時計を窓枠の上にのせると、その文字盤表示を見て、小さく頷く。
 その後、善治郎は窓の縦枠が横枠の上に落とす影に目をやり、右手にシャープペンシルを持ったままじっくりとその時を待つ。

 7:00

 置き時計の文字盤がその時刻を表示した瞬間、善治郎は窓枠の影のラインにそってシャープペンシルで線を引いた。

 そしてすかさず、その様をデジカメに写し取る。デジカメ特有のボタンを押してから一拍をおいてシャッターが降りたとき、デジカメの内部時計は7時00分09秒を示していた。

 これが、最近になって善治郎が思いついた朝の日課である。

「うーん、やっぱり少しずつずれてるなあ。問題は、俺の知識じゃこのズレの原因が、『一日が二十四時間ぴったりじゃない』せいか、『一日ごとに日の出日の入りの時刻が変わる』せいなのか、判断が付かない点だよなぁ」

 デジカメの画像を見て善治郎がそうこぼす。この日課を始めてまだ数日だが、毎日同じ時間に同じ影の線を印しているはずなのに、その線は毎日少しずつ横にずれてきている。

 異世界に転移してきてから二年目。アウラに子を産ませるという最大の役割を果たした善治郎は、少しずつこの世界に興味の目を向けるだけの余裕が生まれてきている。これもその一環である。

「まあ、どちらにせよ、地球から持ち込んだ時計が調整なしで、一年後の今も使えてるんだから、一日がほぼ二十四時間なのは間違いないんだけどな」

 善治郎はそう、独り言を呟く。

 そうでなければ、とっくにこちらに持ちこんだ時計は役に立たなくなっているはずだ。例え、一日の長さが一分しか違わなかったとしても、三百六十五日が経過すれば、そのズレは三百六十五分になる。三百六十五分、分かりやすく言えば約六時間である。

 時計が六時間もずれていれば、いかに目安となるものが日の出日の入りのような漠然としたモノしか無くても、絶対に気づく。つまり、元の世界とこの世界の一日の長さの違いは、あったとしても約一年過ごした善治郎が気づくことが出来ない程度のごく短いモノでしかないという推測が成り立つ。しかし、

「ちょうど一年後に影の位置を計れば、日付による誤差を省いた一日の誤差を測定出来るんだろうけど……問題は、一年が三百六十五日である保証すらないって事だよなあ」

 善治郎は、もう一度溜息を漏らした。

 この世界の暦は一月が二十九日の月が六ヶ月、三十日の月が六ヶ月の合計十二ヶ月で回っている。つまり、一年は三百五十四日だ。しかし、それでは明かなずれが生じるため、数年に一度閏月を加え、十三ヶ月の年を造る事で調整しているらしい。

 善治郎が大ざっぱに計算したところでは、この世界の一年もおおよそ三百六十五日になっているように感じられる。

「なんとか、この世界が地球と同じ二十四時間、三百六十五日だという確信が持てれば、少しは役に立つ提言も出来るんだけどなぁ」

 無論、すでに王国民に浸透している現在の暦を、自分の我が儘で変更させるつもりはない。
 ただ、ある程度正確な太陽暦の暦を造る事が出来れば、色々役に立つことも間違いない。
 数年に一度、閏月の入る今の暦では、年によって三十日近いズレが生じるのだ。

 去年の四月一日が、今年の五月一日になると考えれば、この暦に『季節』を計るという役割を期待することがどれほど無意味か、理解できるだろう。少なくとも、種まきや治水工事の時期を定める指標とするには、甚だしく不適切である。

 おかげで、現在カープァ王国で種まきや収穫の時期は、農夫達の経験と勘が全てとなっている。

「まあ、ベテラン農夫の経験則に、蓄積したデータによる推測が勝るには、何十年も時間が必要だろうけどね。この世界、温度計もないし」

 それでも、正しい暦の作製と、それに付随する年間天気データの蓄積は、将来的には何かの役には立つはずだ。
 そう自分に言い聞かせ、窓を閉めた善治郎が六つのLEDスタンドライトのスイッチを入れ、室内を人口の白色光で明るく照らし出した、ちょうどその時だった。

 コンコンと入り口のドアをノックする音が広いリビングルームに響き渡る。

「はい、どうぞ」

 入室を許可する善治郎の言葉に、ドアが開かれる。その向こうに立っていたのは、善治郎の予想通りの人物だ。

「おはよう、ゼンジロウ」

 小さな赤子を宝物のように、しっかりとその豊かな胸元に抱いた大柄な美女が、後ろに二人の侍女を従え、微笑んでいる。

「おはよう、アウラ」

 善治郎は、同質の笑顔で答え、我が子を抱く妻を部屋へと招き入れた。





 ◇◆◇◆◇◆◇◆





「失礼します。この位置でよろしいでしょうか?」

 この一年ですっかり手慣れた侍女が、冷蔵庫の金だらいから大きな氷を取りだし、善治郎達が座るソファーの横にそえる。後ろで回る扇風機がちょうど良い角度でソファーに座る善治郎に冷風を届けてくれる。

 向かいのソファーに座るアウラには、その余波しか届いてないが、今はそれでよい。アウラの胸には、生後一ヶ月の赤子が抱かれているのだ。赤子の柔肌に、直接冷風を吹き付けるのは、あまり良くない。

「うむ。ご苦労だったな。下がって良い」

「はい、失礼します」

 視線を胸に抱いた赤子に落としたままそう言う女王の言葉を受け、氷と扇風機を設置した二人の侍女は、ペコリと小さく頭を下げた後、退室していった。
 バタンと音を立てて、ドアが閉まったリビングルームには、一組の男女と一人の赤子だけが残される。

 我が子を抱く母と、その母を見守る夫。世間一般ではありふれた構図だが、善治郎達の場合はそうではない。

「普段ならもう朝議が始まってる時間だと思うけど、今日はどうしたの?」

 侍女が退室したリビングルームで、善治郎は対面に座る妻にそう問いかける。
 カープァ王国でも特に暑さが厳しいこの時期は、王宮でも身の安全の為、昼に長時間の休息を取る。その遅れを少しでも取り戻すため、今時分の朝議は早めに始まるのだ。

 善治郎の言うとおり、今はすでに、アウラがこうしてゆっくりしていられる時間ではない。

 だが、アウラは両腕で抱く我が子をゆらしながら、

「ああ、今日の朝議の議題はガジール辺境伯の議題だからな。肝心のガジール辺境伯の到着が遅れているので、朝議の開始が延びたのだ」

 そう、嬉しそうに言葉を返す。

「あ、そうなんだ。それは良かった。って言って良いのかな?」

「あまり良くはないだろうな。議題が解決したわけではなくて、後ろにずれ込んだだけなのだから、むしろ困った事態だ。だが、せっかく生まれた空き時間だ。有効活用しなければ損だろう、なあ、カルロス?」

 アウラはそう言って、腕の中の我が子の顔をのぞき込む。

「あー、あー!」

 生後一ヶ月の赤子――カルロスは母親の顔を見上げ、楽しげに笑う。
 生まれたての頃善治郎が『貧相な猿みたいだ』と思った面影はどこへやら、母と乳母の乳を吸い、すくすくと育った幼い王子は、ほっぺたも、ベビー服の袖から覗かせる手も、プクプクと丸みを帯びており、思わず突きたくなるような、愛くるしさにあふれている。

 艶やかな焦げ茶色の巻き毛。大きなクリクリと動く、黒い双眼。褐色と黄色の中間のような肌。親の欲目を抜きにして、これ以上愛くるしい生き物は地上に存在しないのではないか? 善治郎は本気でそう思っているが、わざわざ「親の欲目抜きで」と断る辺り、これ以上ないくらいに欲目が入りまくっている事実に、当人だけが全く気づいていない。

「カルロス~? ほれ、ベロベロ……バア!」

「ああ? キャッキャッ!」

 向かいのソファーから、おどけてベロベロバーをする父の顔を見た乳児は、一瞬キョトンとした後、楽しげに甲高い笑い声を上げる。

 息子の反応に気をよくしたのか、善治郎はその後、何度も何度も繰り返す。

「おっ、笑った。面白いか? ほれ、ベロベロ……バア! ベーロベロベロベロ、バアア!」

「キャッキャ、キャッキャ!」

 赤子は楽しげに笑い続けるが、苦笑混じりに文句を付けたのは、赤子を胸に抱く母親だ。

「ゼンジロウ。カルロスを笑わせたいのは分かるが、あまりそう『変顔』を連発しないでくれ。子の母としてはともかく、そなたの妻としては少々切ない気持ちになってくる」

「む……むう」

 一瞬、「今更格好付ける間柄か」と反論したくなった善治郎であるが、立場を逆にして考えればアウラの言いたいことも少し分かる。
 いくら、二つの世界を跨るもっとも愛らしい生命体――カルロスを笑わせるためであっても、愛妻に唇をビロビロ震わせたり、鼻とあご先を舐める勢いで舌をレロレロされたりしたら、確かに善治郎もやめてくれ、と要求するだろう。

 親しき仲にも礼儀あり。

 今は家族でも、元は他人である『夫婦』という関係を、長期にわたって円満に継続させるのに、忘れてはならない格言だ。

 渋々ながらも『変顔』をやめてくれた夫に、女王は我が子に向けるのとは異なる親愛の笑みを向けると、少しからかうような口調で言う。

「それに、その呼び方もどうにかならぬか? この子の名は『カルロス』だけではないのだ。『もう一つの名』を正しい発音で呼んでやれるのはそなただけなのだから、そなたはそちらの名で呼んでやるべきなのではないかな?」

 妻の言葉に、善治郎は少し虚を突かれた表情を浮かべ、頷く。

「あー、うん、そうだね」

 確かに、この子にはもう一つの名前がある。善治郎が付けた、日本風の名前だ。『カルロス』という名前と比べると世間の認知度は段違いに低いが、だからこそ善治郎は積極的にその名を呼んでやるべきだろう。その名も、この子の一部であることは間違いないのだから。

「……善吉」

 大きく息を吸い込んだ善治郎は、胸一杯の空気を少しだけ吐き出すように、小さな声でその名前を呼ぶ。

 善吉。

 それが、色々と考えた結果、善治郎が我が子に送ったもう一つの名前だ。

 分かりやすく、自分の名前の文字を一つ混ぜると言うことで、最初は善彦よしひこや、善人よしとといった比較的無難な名前を提案した善治郎であったが、『表意文字』という文化を知らないアウラ達カープァ王国人に、ゼンヨシが同じ字であると説明するのはかなり難しい。

 結局、善治郎が我が子に送る名は、善吉ぜんきちになった。

『カルロス・善吉・カープァ』。それがこの赤子、カープァ王国第一王子の正式名称だ。

 カルロスと言う名は、カープァ王国では比較的良くある名前である。歴代王冠を被った者だけでも過去二人、王にならなかった王族を含めれば、家系図に残っている範囲だけでも十人近い同名の者がいるため、その二つの名前を縮めて『カルロ・ゼン』殿下と呼んでいる者もいる。

 ひょっとすると将来、彼が玉座に着いた際には『カルロ・ゼン』王と呼ばれるようになるかも知れない。もっとも、一般庶民にはもっぱら『カルロス殿下』で通じているので、単に『カルロス三世』と呼ばれる可能性も十分にあるが。

 そうしているうちに、小さな王子様は突然、さっきまでの笑顔を一転、むずがるように泣き出す。

「ふぁ……ふぁ……ふぇええ……」

「あれ、どうしたのかな? 善吉? カルロス? カルロ? どうしたのかな?」

 心配そうにソファーから腰を浮かせて声を掛ける善治郎に、我が子を抱く妻は、

「いや、大丈夫だ、ゼンジロウ。この泣き方は、オッパイの時間だな」

 そう、動揺することなく答える。

「あ、そうなんだ」

 妻の言葉に、ホッと安堵の息を漏らした善治郎は、ふと気づいたような口調で問いかける。

「あれ? でも、よく分かったね、アウラ。ひょっとして、泣き方で、オッパイなのか、おしめなのか区別してる?」

 夫の問いに、女王はこくりと頷き、

「ああ。この間、カサンドラに習った。もっとも彼女のように、うんちとおしっこの違いまで泣き声で区別出来たりはしないがな」

 日頃、我が子の世話を一任している、乳母の名前を口にした。
 赤子の世話というのは、女王の激務と兼任することは不可能な大仕事である。なにせ、赤子は一日中、周りの迷惑などお構いなしに、乳をほしがり、大小をだれ流し、その欲求が満たされないと泣きわめく。女王の責務を果たしつつ、赤子を自分の手で育てたりすれば、タフなアウラでも五日でダウンすることは疑いない。

 もっとも、三人の子を持つカサンドラに言わせると、カルロスの世話は驚くほど楽なのだという。
 それは、別段カルロスが特別手の掛からない良い子だという意味ではない。全ては善治郎が地球から持ち込んだ、母乳冷凍用タッパーやほ乳瓶といった道具のおかげだ。

 昼間に乳房から絞った母乳も、冷凍保存しておけば一日ぐらいは問題なく飲める。そうして、取っておいた母乳を人肌に溶かし、ほ乳瓶で飲ませてやることにより、乳母は夜中でも赤子が泣けば、絶対目を醒まし、授乳しなければならない、という立場から解放されるのである。

 疲れているとき、どうしようもなく眠いときは、侍女の誰かが乳母の代わりにほ乳瓶で乳を与えればよい。
 幸い、カルロスの吸う力は問題が無いようで、乳母の乳房でもアウラの乳房でも、ほ乳瓶からでも問題なく、乳を吸ってくれる。

「と言うわけでオッパイだ。ゼンジロウ、私はこの通り手が塞がっている。悪いが後ろに回ってドレスの結び目をほどいてくれ」

「了解」

 妻の言葉を受けて、善治郎は素早くアウラが座るソファーの裏側へ回り込む。氷扇風機の冷風から外れたので、生暖かい空気が肌に気持ち悪いが、今はそんなことを気にしている時ではない。

 一刻も早く我が子の腹を満たしてやるべく、善治郎はソファーに座る妻の後ろに立つと、赤い長髪をアップに纏めている妻の肩に手をやった。
 アウラが今着ているのは、両肩の上で前と後ろの布を結んで止める、赤いノースリーブドレスだ。

「アウラ、ちょっと首を横に倒して」

「ん、これでよいか?」

 素直にコトンと首を右に曲げたアウラの左肩に、善治郎は後ろから手を伸ばし、その上の結び目をほどいた。
 日頃はもっとしっかり結んであるのだが、今は簡単に蝶々結びにしてあるだけだ。恐らく最初から、ここで乳をやることになると想定していたのだろう。

 ハラリとドレスの片側が落ち、アウラの大きな乳房が片方、露わになる。

「ありがとう。ほら、カルロス、おっぱいだ」

 片乳房を露わにした女王は、早速その大きな乳房に我が子の顔を近づけてやった。

「ふぇええ……ふぁあ? だあ……」

 赤子の反応は劇的だった。
 母の乳房に顔を寄せた赤ん坊は、すぐにその頂に吸い付き、全力で朝食を取る。

「ん……ンンン……ン……」

「フフ、吸ってる吸ってる。本当に、お前は元気が良いな」

 妊娠したことにより、以前よりさらに一回り大きくなった乳房に吸い付く我が子を、アウラはしっかりと抱きしめたまま、心底愛おしげに見下ろす。

「よかった。お腹が減ってたんだな」

 カルロスが落ち着いたのを確認したところで善治郎も、向かいのソファーに座り直す。

「んん、むう、ん、んん……」

「…………」

「…………」

 一生懸命乳を飲む赤子と、赤子を抱く母親。そして、その母と子を少し離れた所から見守る父親。
 父も母も、いつの間にか無言のまま、ただ優しげな視線を我が子に注ぐ。

「ほら、いっぱい飲めよ。今日、お前に乳をやる暇は今ぐらいしかないからな」

 思わず、アウラの口からそんな言葉が漏れる。母である前に、女王であるアウラに、自らの乳を我が子に与えられる機会は少ない。

「……けふっ」

 穏やかで暖かな時間は、赤子がアウラの乳房から口を離すまで続いた。

「ん、どうした。もういいのか?」

 念のため、アウラがもう一度カルロスの口元に乳房を近づけるが、赤子はクッと顔を横に向ける。どうやら、もうお腹いっぱいのようだ。

 口元によだれとミルクを垂らした我が子を見て、善治郎も穏やかな笑みが止まらない。だが、そんな善治郎の穏やかな表情も、アウラの次の言葉で一変する。

「お腹いっぱい飲んだか? そうか、お腹いっぱいか。じゃあ、残りはパパの分だな」

「パパ飲まないよ!? 善吉の前で、人聞きの悪い冗談はやめてよね、ママ!」

 おねむの赤子をゆする母親の前で、必死の形相の善治郎は、断固とした抗議の声を上げるのだった。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ