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理想のヒモ生活 作者:渡辺 恒彦

一年目

40/94

第八章3【密約締結】

 翌日の昼下がり。

 昼食を済ませた善治郎は、王宮の廊下をアウラと並んで歩いていた。

 底に滑り止め用の鈍竜の革を張った布靴を履いているはずなのだが、なんだかさっきから、スポンジの上を歩いているように、足元がフワフワしておぼつかない。
 身重の妻に手を貸すという名目で、隣を歩くアウラと手をつないでいる善治郎だが、むしろそのつないでいる手の感触のおかげで、なんとか平静を保っていられるのが現状だ。
 夫の心理状況を理解しているのだろう。アウラは定期的にギュッと握りあわせた手に力を込めて、こちらを励ましてくれる。ありがたい反面、少し情けない。

(とはいえ、この状況で緊張するなって言うほうが無茶だよな。ここまで緊張するのは、始めて先輩に、「今回の契約はお前が主導しろ」って言われた時以来だ)

 あの時に比べると、任されている仕事は微々たるものだが、その仕事に掛かっているものが段違いに大きい。

 許されることならば、この場で大きく深呼吸をして、緊張を和らげたいところだ。
 この場にいるのが、自分とアウラだけならば、間違いなくそうしていただろう。だが、言うまでもなく、この場にいるのは善治郎とアウラだけではない。
 いくら王宮内部とはいえ、女王と王配がそろっているのだ。
 隣り合って歩く善治郎とアウラの前に四人、後ろに四人。合計八人の兵士が、前後を固めている。
 兵士達の武装は、白い革鎧と、装飾の多い短槍という、どちらかというと儀礼用の色合いが強い代物だが、革鎧の防御力も、短槍の切れ味も本物である。
 槍の穂先の輝きが目に入った善治郎は、ゾクリと背筋を震わせる。

 護衛の為とは分かっていても、人を殺せる道具を持った人間に、前後を固められるというのは、落ち着かないものだ。

(まあ、これでも俺とアウラの立場を考えれば、滅茶苦茶少ない護衛なんだろうけどさ)

 この様な王宮の奥まった場所ではなく、善治郎が『外』で活動するようになれば、最低でもこの十倍の護衛を引き連れることになるはずだ。
 善治郎がそんなことを考えている間に、前を歩く兵士達が一つの扉の前でその足を止めた。
 短槍を垂直に持って直立不動の体勢をとった兵士達が両わきを固めた扉の前で、善治郎とアウラも足を止める。

 この扉の向こうで、シャロワ・ジルベール双王国の使者が待っている。

「…………」

 自然と善治郎は、隣に立つアウラの方を向いた。視線があった瞬間、小さく頷いた妻に、同じく小さく頷き返した善治郎は、つい自分の手で扉を開けようとする衝動を抑え、左右に控える兵士達に短く告げる。

「開けよ」

「はっ!」

 善治郎の命を受け、一人の兵士が扉をゆっくりと引き開く。

 周囲に気づかれないように、細く深呼吸をした善治郎は、意識的にゆっくりとした足取りで、その扉を潜っていった。





「お初にお目に掛かります、ゼンジロウ様。私は、シャロワ・ジルベール双王国の騎士、モレノ・ミリテッロと申します。ゼンジロウ様のご尊顔を拝する機会を得て、恐悦至極に存じます」

 テーブルの向こうで畏まって頭を下げる中年の男に、善治郎は椅子の上で鷹揚に頷き、短く言葉を返す。

「善治郎だ。カープァ王国国王、アウラ陛下の夫である」

 対外的に名乗るとき、善治郎は必ずこううう言い方をしている。一人の王族としてではなく、女王アウラの伴侶として、自分はここにいる。その意思表示だ。

 そんな善治郎の意図を知ってか知らずか、対面に座る双王国の外交官は、畏まった表情で「ははあ」と再度頭を下げる。

「さて、婿殿の紹介も終わったところで、本題に入るとするか。あまり、時間もないことだしな」

 と、最初の口火を切ったのは、善治郎の隣に座っているアウラだった。
 大きな腹が邪魔にならないよう、椅子の背もたれに身体を預けたままの少々だらしない姿勢だが、そんな体勢からでもアウラの言葉には、一方的に命令することになれた人間特有の強い圧力が感じられる。

「はっ、承知しました」

 丁寧な言葉と共に再度頭を下げる外交官に、アウラは最近丸みがちょっと気になっている自分の顎に手をやり、

「うむ。では、表向きの用件と、本当の用件。どちらから、片を付けるのだ?」

 と問い返す。

「はっ、それでは簡単にすむ、表向きの用件から先に片付けさせて戴きます。両陛下が依頼されておりました、『指輪』が届きました」

 女王の言葉に、中年の外交官はそういって、紫色の厚い布でくるんだ指輪を二つ、テーブルの上にのせた。

 金の台座にブリリアントカットのダイヤが三つ、連なって飾られているペアリング。
 見間違えるはずもない。それは、善治郎が地球で購入した、二人の結婚指輪だ。
 普通の『目』では、どこも変わっていないように見えるが、魔力視認能力に目覚めた今の善治郎には、指輪から立ち上る魔力の光が見える。

 自分やアウラの身体から立ち上ってる魔力光と比べれば微々たるものだが、生き物ではないただの物体が魔力を纏っているのを見たのは始めてだ。

 魔道具化を頼んだ結婚指輪の受け渡し。それが今日、善治郎とアウラが揃って、双王国の外交官と会談の場を設けた『表向き』の用件である。日頃、『アウラの代役』という形でしか後宮から出て来ない善治郎が、周囲に訝しがられることなく、アウラとこの場に顔を出すには、こうした表向きの理由が必要だったのだ。

 興味深げに指輪を見ている善治郎に、外交官はすらすらと指輪の魔道具としての効果を説明する。

「アウラ陛下の指輪には、『発火』の魔法が、ゼンジロウ様の指輪には『水作製』の魔法が込められております。発火は『フランチェスコ王子』、水作製は『マルガリータ姫』の手による逸品です」

 その言葉に、反応を示したのは、アウラだ。

「ほう、フランチェスコ殿下とマルガリータ姫の手を煩わせたとは、恐縮の限りだ。後で謝礼文をしたためるので、両殿下にお渡ししてくれ」

 フランチェスコ王子とマルガリータ王女。どちらも、シャロワ王家直系の中でも、特に名高い『付与魔法』の使い手である。裏の外交でもめている相手だからといって、依頼された魔道具作製の手を抜くほど、馬鹿ではなかったらしい。

「はっ、責任を持ってお届けいたします」

 外交官のその言葉を持って、表向きの用件である、指輪の受け渡しは完了した。
 ここからが、本番である。

「それでは、時間もおしておりますし、本題に入りたいと思います。こちらが、この度の『条約』の正式文章となります。今一度目を通して、納得して戴ければ、この場でサインをお願いします」

 そう言って外交官は薄緑色の竜皮紙を、テーブルの上に広げたのだった。




 密約文章とはいえ、流石に正式の書面は、驚くほど上等な紙を使っている。かなり白に近い薄緑色の紙面に、黒い文字が書かれている。
 この世界の文字については、中学一年生の英語並みの読解力しかない善治郎だが、その善治郎でも、この竜皮紙の文字が非常に整ったものであることが分かる。

 差し出された条約文章を前にして、口を開いたのはアウラだった。

「あいにくだが、婿殿はまだ私達が使用している文字が読めぬ。全文を読み上げてくれ」

「ああ、そうでしたな。失礼しました。では、僭越ながら」

 そう断ると、外交官は、善治郎とアウラの前に差し出した竜皮紙の項目を一つずつ指さしながら、読み上げていく。

「では、始めます。

1・ゼンジロウ・カープァ【甲】は、以後アウラ・カープァ【乙】以外の人間とは、子をなさない。

2・双王国は、【乙】の直系には、一切干渉しない。

3・カープァ王国が1を破り、【甲】が【乙】以外の人間と子をなした場合、双王国はその子【丙】の血統魔法適正を調べる権利を……」


 全力で無表情を取り繕いながら、聞き逃しがないように耳に神経を集中させている善治郎であるが、今のところ聞こえてくる文面におかしな所はない。


 読み上げる外交官の声に、小さな変化が見えたのは、最後の部分だった。

「……則として、金貨三千枚を支払うこと」

 善治郎が昨晩、アウラに読み上げてもらった文面ではここで終わりだ。しかし、一項ずつ指さして読み上げていた外交官が指し示す竜皮紙には、まだその下に文章がある。

 外交官は、ほんの少しの沈黙の後、頬肉をピクリと痙攣させてその下の項目を指さし、読み上げる。

「追加項目。2と3が将来矛盾をきたした場合、2が優先される。……以上です」

 それは昨晩、善治郎がアウラに提言した項目だった。
 2項と3項の矛盾。簡単に言ってしまえば、将来アウラと善治郎の直系と、善治郎と側室の傍系の子孫同時が婚姻関係になった場合、その子に双王国が干渉する権利があるのか? という問題である。

 2項に乗っ取れば、その子は直系であるアウラの血筋なのだから、双王国には干渉する権利がないことになる。しかし、3項を見れば、その子は協約違反で産まれた側室の血筋なのだから、双王国には干渉する権利があることになる。

 善治郎達の子供の代には関係のない話だろうが、早ければ孫の代、遅くてもその次の代ぐらいには現実味がでてくる話だ。

 驚いた善治郎が横目でアウラを見ると、アウラは小さく笑い、僅かに頷き返す。

 昨晩、色々と密約文の穴を指摘した善治郎であるが、今日の調印が予定通り行われると聞いて、自分の意見は取り入れられなかったのだとかってに早合点していた。

(午前中の内に、事前交渉でこの項目を足させたのか。……かなわないなあ。うちの嫁さん)

 改めて嫁の行動力に惚れ直した善治郎であるが、アウラも内心似たような思いを抱いていた。

 常識的に考えれば、2項が3項に優先すると考えるのが普通だ。しかし、昨晩善治郎が懸念したように、明文化されていなければ強弁も出来る話ではある。
 現在のように、両国の力関係がほとんど対等な間は、双王国もそんな強弁はしないだろうが、将来のことは分からない。考えたくはないが、もし将来、カープァ王国の国力が、双王国のそれに大きく劣るような時代が来れば、3項を盾に直系王族に干渉してくる未来もありえる。

 大げさな言い方をすれば、将来カープァ王国を襲う禍根を、善治郎の提案が事前に摘み取ったとも言える。


 この善治郎の功績は、恐らく未来永劫表には出ないだろうが、だからこそ自分だけはしっかりと覚えておこう。

「ふむ。問題ないようだな。では、私からいこう」

 アウラは、インク壺に浸した竜骨筆で密約文章の下に自らの名を印しながら、内心そう誓うのだった。






 ◇◆◇◆◇◆◇◆






 無事、密約文章に署名を終えた善治郎とアウラが後宮に戻ってきたのは、夕刻過ぎのことだった。

 後宮のリビングルームに戻った善治郎とアウラは、早速正装を脱ぎ捨てると、ゆったりとした部屋着に着替える。

 マタニティドレスというより、ネグリジェに近い薄手のドレスだけを身につけたアウラは、大きなお腹を持て余すようにすぐさま、ソファーにその身を落とした。

「ふう……」

 身体をソファーに埋めたアウラの口から、大きな溜息が漏れる。
 流石のアウラも、今日は疲れた。午前中に条約文の最終調整をすませ、午後に調印。
 体格に恵まれている上に、戦士としての訓練も積んでいるアウラの体力は、一般的な女とは一線を画する物があるのだが、それでも身重の身体で、国の行く末を左右するような密約の調整と調印を行うのは、多大な負担だったのだろう。

「お疲れ様、アウラ。はい、紅茶」

 それが分かっている善治郎は、ティーパックの紅茶を入れて、大仕事を終えた妻を労う。
 自分とアウラ、二人分の紅茶を入れた善治郎は、黒砂糖の入った小さな木壺と、スライスしたライムの様な果物を乗せた木皿と一緒に、白磁製のティーカップをソファーの前のテーブルに置く。

「ああ、すまないな」

 アウラは、早速善治郎が入れてくれた紅茶に、黒砂糖と果物の輪切りを入れて、口へと運ぶ。何時もより多めに入れた砂糖の甘みと果実の酸味が、心身の疲れを癒してくれる。

 日頃は、アウラの隣に座ることが多い善治郎であるが、今日は向かい会って話したいことがあるのか、テーブルを挟んで向かいのソファーに腰を下ろす。

「取り合えず、双王国に関するゴタゴタは、これで一段落付いたと思って良いのかな?」

 そう話を切り出した善治郎に、アウラはティーカップをテーブルに戻し、一つ頷いた。

「ああ。少なくとも、そなたが側室を迎えるような事態にならない限りは、双王国は何も言ってこないはずだ」

 そう言うアウラに、善治郎は少し渋い顔をしてみせる。

「ああ、密約文章見た時からそうじゃないかな、とは思ったけど。俺の側室問題って、まだくすぶっているわけ?」

 せっかく、恥ずかしいのを我慢して、夜会で「俺はアウラに夢中です」とアピールしてきたのに、その捨て身の努力が無駄になっただろうか。

 脱力ぎみの善治郎に、アウラは首を横に振ると、

「いや、そちらも現時点では小康状態だ。そなたの活動が利いたようでな。積極的に側室を売り込もうとする奴はなりを潜めているな。今は、この子の乳母に誰を送りこむかで争っている」

 大きなお腹を愛おしそうに撫で、そう言った。

「それなら」

 勢い込んで何かを言いかける善治郎に、アウラはもう一度首を横に振る。

「いや、確かに通常であれば、私との間に、子の三,四人も作れば、後はどうとでもなっただろう。だが、知っての通り、現在この国には王族が私とそなたしかいない。
 大国で、この状態は極めて異常だ。具体的に例を挙げれば、双王国のシャロワ王家は、二十三人、ジルベール王国は十九人の王族を抱えている」

 この世界では王族イコール血統魔法の使い手である。王族が少ないと言うことは、それだけで国力の低下を意味する。王族の数を増やす必要があるという貴族達の意見には、アウラも心情的にはともかく、理屈としては全面的に賛成なのだ。

「ええと、それは……俺とアウラで頑張る、とか?」

「私を殺す気か? 政務を取り仕切っている私に、何人の子を産ませる気だ?」

「俺の世界では、その昔、女大公として戦乱期の大国の政務を取り仕切りながら、夫との間に十五人だか十六人だかの子を産んだ、女帝と呼ばれた女の人がいたけど」

「……その御仁は本当に人間か? 古代竜族の血でも混ざっていたのではないか?」

 アウラは眉の間に皺を寄せて、胡散臭い話を聞いたと言わんばかりに首を傾げる。
 さすがの女王アウラにも、オーストリア女大公マリア・テレジアの逸話は、リアリティを感じられない話に聞こえたようだ。

「いや、そんなことはないはずだけど。多分純粋な人間、なんじゃないかな?」

 ヨーロッパ史の知識など、高校の世界史で止まっている善治郎にそれ以上詳しい説明が出来るはずもなく、話はそこで途切れた。

「…………」

「…………」

 なにか良い話題はないかと考える善治郎は、ふと、ズボンのポケットに入っている指輪の事を思い出す。

「あ、そうだ。ねえ、アウラ。左手出してもらえる?」

 あからさまな話題そらしであったが、善治郎がこの側室問題に関してだけは、心底嫌がっている事を知っているアウラは、あえてその下手な話題逸らしに乗る。

「む? ああ、それならば、そっちのそなたの指輪をまず私に渡してくれ。どうせなら、もう一度『あれ』をやりたい」

 そう、ふわりと笑い、アウラは手の平を上に向けて右手を出す。

「うん、分かった」

 善治郎は、自分用の結婚指輪をアウラの右手の平にのせ、対面のソファーから立ち上がり、アウラの前まで歩み寄る。

「あ、アウラはそのままでいいよ」

 自分も立とうとするアウラを手で制し、ソファーに腰を掛けたアウラの前で膝を付いた善治郎は、アウラの左手を掴み、その薬指に指輪を填めようとする。

「そこは無理だ。今は指がむくんでいるからな。小指にしてくれ」

「あ、うん、ゴメン」

 妊娠中のアウラの手は、全体的にむくみ、普段より一回り厚みが増している。本当は左の薬指にピッタリのはずの指輪が、今はどうやっても入りそうにない。
 少々格好は着かないが、妻の小指に結婚指輪を填めようと身体を前に倒した善治郎の耳に、アウラのささやき声が届く。

「なんだ、何も言ってくれないのか? あの晩言ってくれた言葉。あれが聞けると思って期待したのだが」

 その言葉に善治郎は、ピクリと動きを止めた。

 あの晩、というのは善治郎とアウラが始めて身体を重ねた夜のことだ。昼に結婚式を済ませ、夜に初夜を済ませた後、寝室で善治郎はアウラにこの指輪を贈ったのである。
 本来ならば、結婚式で神父が問いかけるはずの『誓いの言葉』を、自らの口から紡いで。

「ゼンジロウ……?」

「……はあ、もう」

 クッと左手を握り、指輪を填められないようにする妻の態度に、これはこちらが妥協するしかないと悟った善治郎は、大きく深呼吸をして、恥じらいを一時的に吐き出した後、精一杯厳かな声で言う。

「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、貴女を愛し、貴女を敬い、貴女を慰め、貴女を助け、この命ある限り、真心を尽くすことを誓い、その証として、この指輪を贈ります」

「…………」

 アウラは無言のまま、口元をほころばせ、左手を開く。
 アウラの小指に、三連ダイヤの飾られた肉厚なイエローゴールドの指輪が填められる。
 続いてアウラが、小さな声で言う。

「ゼンジロウ、立ってくれ」

「え?」

「立ってくれ」

「う、うん」

 ソファーの前で膝を付き、アウラを見上げていた善治郎は、よく分からないまま、その場で立ち上がる。

 今度は、アウラが善治郎を見上げる体勢になる。

 アウラは、自分の前に立つ夫の左手をソッと取ると、誓いの言葉を返す。

「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、貴方を愛し、貴方を敬い、貴方を慰め、貴方を助け、この命ある限り、真心を尽くすことを誓い、その証として、この指輪を贈ります」

 そう言って、善治郎の左の薬指に、自分の小指にはまっている指輪とペアの指輪を填める。

「アウラ……」

 見下ろす善治郎。見上げるアウラ。

 初夜の晩、この指輪をもらったときには、アウラは誓いの言葉を返さなかった。善治郎は始めて知る風習に驚いて、返せなかったと思っていたようだが、事実は違う。返せなかったのではなく、返さなかったのだ。

 言葉など、ただの形式上の物だとは分かっているのだが、それでも女王としての立場が、一人の男に「この命ある限り、真心を尽くす」ことを許さなかった。
 誠意ある対応は心がけていた。愛情を育む心づもりはあった。夫の願いも可能な限り受け入れるつもりではあった。だが、優先順位はあくまで、国の次、王家の次でしかなかった。

 いざというとき、善治郎の存在が王国に取ってマイナスになると判断したときは、切り捨てることになる。その覚悟を持った上での結婚だったはずなのだ。だが、

(もう、無理だな。少なくともゼンジロウが今のゼンジロウのままでいてくれる限り、私はこの人を切り捨てることはできぬ)

 アウラは、自らの心をそう悟る。無論、善治郎が地位や権力におぼれ、まるで違う人格になってしまえば話は別だが、そうでない限り「冷徹な正しい判断」は下せないと確信できる。

 善治郎の薬指に指輪を填めたアウラは、前に立つ夫を迎え入れるように、そっと両手を上に上げる。
 意図を悟った善治郎は、ソファーの上に座る妻に上から覆い被さるように、そっと身体を倒していく。

「……ン」

「……ンン」

 静かに重なり合う、二人の唇。

 誓いの口づけと呼ぶには少々長すぎる時間、二人の抱擁は続いたのだった。
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