カップの中の海
あれ、コーヒーをいれてくれたんですか? どうもありがとう。
うん、砂糖もミルクもなしでいいです。ブラックコーヒーが好きな子供というのも、変わっているかもしれません。
あっ、今のに気がつきました? スプーンを入れてもいないのに、カップの中のコーヒーが動いたでしょう? まるで中で小さな魚でも泳いでいるみたいに。ほらまた動いた。ちゃんと見えました?
でも驚く必要はなくて、これは普段のことなんです。僕が飲むコーヒーはいつもこうなります。始まったのは2ヶ月ぐらい前のことでした。
☆
学校の遠足で博物館へ行ったのですが、展示品の潜水艦が突然話しかけてきたときには、とても驚きました。でもその声は僕一人にしか聞こえないようでした。引率の先生も同級生たちも何も気がつかないで、おしゃべりをしたり他の展示品を眺めたりしています。
話しかけてきたのは旧日本海軍のイ700という潜水艦で、スクールバスぐらいの大きさしかない小型のものだけれど、スクリューやセイル、魚雷発射口もあって、ちゃんと潜水艦の格好をしています。緑色に塗られ、ピカピカに磨かれて、船体は少し誇らしそうです。
「何だって?」僕は小さな声でささやき返しました。
「私の言葉が理解できる人間というのはとても珍しいわ」潜水艦は言いました。やわらかい女の人の声で、展示室の中に大きく響いたけれど、やはり僕以外の誰の耳にも聞こえないようでした。
「何だって?」
「あなたに話があるの。明日は日曜だわ。一人でまたここに来てくださらないかしら。そうすればゆっくりお話ができるでしょう? ちょっと相談したいことがあるのよ」
「何の相談?」
潜水艦はかすかに笑いました。「明日来ればわかるわ。お願い」
僕と潜水艦の会話はこれだけでした。引率の先生が合図をし、同級生たちと一緒に、僕もぞろぞろと隣の展示室へ移動していきました。
翌日の日曜日、もちろん僕は再び博物館へ足を運んでいました。電車に乗ることに慣れていなくて、途中で少し道にも迷ったので、たどり着いたのは閉館の30分前のことでした。もう少しで入場できなくなるところだったのだけど、入ってみるとお客さんは少なく、潜水艦と落ち着いて話すことができました。相談はすぐにまとまり、僕は家に帰って準備を始めました。
といっても、難しい準備ではありませんでした。数日して、計画を実行する夜がとうとうやってきました。夕食をすませ、両親の目を盗んで、僕はそっと家を抜け出しました。駅へ急ぎます。
夜の博物館はひとけがなく、ひっそりしていました。建物と建物の間に広い中庭のようなところがあり、潜水艦はそこに展示してありました。でも屋根が作られ、雨には当たらないようになっています。鍵がかかっていてもちろん入ることはできないけれど、フェンス越しに姿を見ることはできました。歩道のわきの花壇の中に入り込んで、僕は水道を探しました。
すぐに見つけることができました。花に水をやるための長いホースがついています。ホースを伸ばしてフェンスの中に差し入れ、僕は水道の蛇口を開きました。
ホースの先から、すぐに水が流れ出しはじめます。中庭のコンクリートの床をぬらしていきます。水たまりのようになって、ゆっくりと広がっていきました。
広い場所なので、水たまりが潜水艦に達するまで少し時間がかかってしまいました。だけどとうとう、潜水艦のへさきをぬらし始めました。
この瞬間を、潜水艦は何十年も待っていたに違いありません。突然ブルブルと船体をふるわせるのが見えました。次にガリガリと大きな音がして、乗せられていたコンクリート製のしっかりした台の上から離れるのが見えました。
すでにその足元はすっかりぬれていたわけですが、ただの水にすぎないはずなのに、まるでぬるぬるした油の上にいるかのように、潜水艦がするりと数メートル前進したではありませんか。目を丸くして、僕はフェンス越しに見つめていました。
次に起こったことは、僕をもっと驚かせました。夜だということもあって、ぬれた床は真っ黒に見え、言われなければコンクリートとは気がつかないかもしれません。波一つないまっ平らな海面だと言われれば、そう信じることだってできそうです。僕の目の前で、その想像上の海の中へ、潜水艦はゆっくりと潜航を始めたのです。
船体はゆっくりと沈み、小さくなってゆきます。まわりにかすかな波が立っているのまで見えます。やがて水の上には、甲板よりも上の部分が見えているだけになりました。スクリューを動かしているのか船尾に白い泡が立ち、へさきも水をかき分け始めています。
そのうちに甲板もすっかり姿を消し、四角い塔のようなセイルが残るだけになりました。そのセイルもゆっくりと水面下に消えてゆきます。とうとう最後はパイプのような形の潜望鏡が残るだけになり、それも姿を消してしまうと後にはもう何もなく、ただぬれたコンクリートの床が残っているだけでした。
長い間僕は、水道の栓を閉めることすら思いつけないまま、突っ立っているしかありませんでした。だけどはっとわれに返って水を止め、最終電車がなくなる前に駅へ行き、家に帰りつくことができました。両親はすでに寝ていて、何も気づかれることはありませんでした。
こうやって、潜水艦は自由の身になることができたわけでした。してあげたことに対してお礼をしてほしいとは、僕は特に思いませんでした。ぬれた真っ黒なコンクリートの中へ潜水艦が沈んでゆくところなど、普通なら一生に一度も見ることのないシーンだったからです。
でも潜水艦は潜水艦なりに恩義を感じているようで、ときどき僕の顔を見に来るようになりました。だけどいくら不思議な力のある船でも、僕の目の前に自由自在に姿を現すことはできないようです。それにふさわしい都合のよいものが手近にないことには。
それはもちろん水気を含んでいて、表面は夜の海面と同じように真っ暗でないといけません。そういう場所であれば、潜水艦が浮上することはできなくても、潜望鏡の先端を突き出して、僕の顔を見ることぐらいはできます。
ほら来た。もう一度僕のコーヒーカップを見てごらんなさい。潜望鏡の先が出てきたでしょ? もう高さ30センチぐらいある。見ていると高くなって、いつも50センチぐらいにはなります。てっぺんにレンズがあって、僕をじっと見つめているでしょう?
あのレンズの向こうに誰がいるのかは知らないけれど、きっと僕に恋をしているのだと思います。
(終)
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