恋文
彼は死に場所を探していました。まだ30歳と若いのですが、すでに自殺することに決めていたのです。ただその実行方法と場所が問題で、まだ決めることができないでいるのでした。
職をやめ、アパートを引き払い、家具も何もかもみな処分した後で、貯金をすべておろし、彼は電車に乗りました。
行くあてがあったわけではありません。ふさわしい死に場所を求めてのことでした。
富士の樹海へ行ってみましたが、着いたのが午後遅くだったこともあって、樹海の中は暗く、木の幹や枝がぐねぐねした怪物の触手のように思えて、とても足を踏み入れる気にはなりませんでした。樹海の入口に2時間以上たたずみ、結局バスに乗ってまた町へ戻ってきてしまいました。
自殺する人が多いことで知られた海岸の崖の上にも行ってみましたが、やはり実行できませんでした。遠足なのか小学生の群れがいて、いま自分が目の前で海に飛び込んだら、この子たちの遠足を台無しにしてしまうと思えたのです。
そばの自動販売機で飲み物を買い、飲みながら彼は子供たちを眺めていました。その中の一人の女の子が目につきました。生まれつきわずかに栗色がかった髪を伸ばし、愛らしいリボンで留めています。彼はふと、従姉妹のマリ子のことを思い出しました。
マリ子は同い年で、近所に住んでいて彼とも仲が良かったのですが、10歳のときに病気にかかり、死んでしまったのです。それ以来もちろん会っていないわけだし、この時まで思い出すこともなかったのでした。でも遠足に来ていたリボンの女の子は、マリ子のことを思い出させるほどよく似ていたのです。
マリ子とよく二人で遊んだり、ピクニックに出かけたりしたことを彼は思い出しました。
彼は突然、マリ子に会いたいと思いはじめました。でもそれは不可能なことです。マリ子は20年も前に死んでいるのです。
自分も死ねばマリ子に会うことができるとは、彼は思いませんでした。死後の世界など信じてはいなかったからです。
何年も忘れていた古い記憶が、彼の心の中に突然よみがえってきました。
小学3年ぐらいのとき、マリ子と二人で町の中をぶらついたことがあったのです。といっても子供のことだからせいぜい2、3時間のことで、二人でキップを買い、路面電車に乗って猫坂の町の中を一めぐりしたのでした。とても楽しい経験だった記憶があります。
マリ子は白いワンピースを着て、あの女の子と同じように髪をリボンで留めていました。きれいな赤い靴をはいていたことも思い出しました。
「猫坂へ行ってみよう」と彼は思いつきました。子供のころ住んでいた町であり、人生の最後に立ち寄る場所としてふさわしい気がしたのです。それに何よりもマリ子との思い出があります。
猫坂の人々は古いものをいつまでも大切にし、なかなか捨ててしまわないので、あの町を今でも路面電車が走っていることを彼は知っていました。古い電車がまだ現役で働いているそうでした。行けば、マリ子とともに見たのと同じ風景を目にすることができるでしょう。
彼はさっそく駅へ行き、キップを買いました。
翌日の昼前には、彼は猫坂の駅前に立っていました。町の様子はもちろんだいぶ変わってはいますが、それでも古めかしい建物を所々見つけることができます。きっと20年前にも建っていたことでしょう。
彼がはっと息をのんだのは、駅前に路面電車が停車していたからでした。とても古めかしい型で、ドアを開けて乗客を待っています。あの古さなら、車内の床やイスも木でできているに違いありません。マリ子と一緒に乗ったのもあんな電車でした。
もちろん彼はすぐに乗り込みました。ニスを塗られた木材の甘ったるいような匂いが、すぐに彼を包み込んでくれました。すいていたので、彼はすみっこに腰かけました。電車が動き始めました。
電車の揺れに身をまかせながら、彼は再びマリ子のことを考えていました。そして、20年前にこの車内で起こったことを不意に思い出したのです。
いかにもおしとやかそうな見かけにも関わらず、マリ子は少しませた女の子だったのかもしれません。何を書き込むためなのか知りませんが、いつも小さな手帳と鉛筆を手にしていました。
その手帳のページを、彼は一度もみせてもらったことがありませんでした。「だめ」と言って、いつもマリ子は彼の目から隠したのです。
20年前にも、この車内でマリ子はその手帳を手にしていました。そして鉛筆を取り出し、いつものように何かを書き込み始めたのです。
気にもとめず、彼は窓の外を眺めていました。だけどビリッという音が聞こえたので振り返ると、マリ子が手帳のページを一枚破り取ったところだったのです。彼は見つめましたが、マリ子は何も言わずに首を横に振るばかりです。ちぎり取ったページを、マリ子は小さく折りたたみ始めました。すぐに紙は、10円玉ぐらいの大きさになりました。
マリ子はそれを、電車のイスと壁の間の狭い隙間にそっと差し込んだのです。古い電車だからガタがきていて、そんな隙間なんかいくらでもあります。その中へ押し込まれ、紙はすぐに見えなくなってしまいました。
なぜそんなことをしたのか、その紙には何が書いてあるのか、彼は質問してみることはしませんでした。そして20年がたち、彼は今この電車の中にいるわけでした。
自分でも気がつかないうちに、彼は手近な壁の隙間をのぞき込み始めていました。何かを期待してのことではありませんでした。でもあることを発見し、彼はもう少しで息が止まってしまうところでした。その隙間の奥の暗がりに、彼は小さな白いものを見つけていたのです。白い紙を小さく折りたたんだものに違いありません。
苦労して、彼はそれを引っ張り出すことに成功しました。すいた車内だったからよかったのですが、もし混雑していたら、「この人は何をしているのだろう」と他の乗客たちが不審に思ったかもしれません。
彼は紙を取り出し、手のひらに乗せました。後は広げて確かめるだけです。
もちろん彼はそうしました。間違いなくマリ子の手で書かれたものでした。子供っぽい文字と文章だからというだけではなく、文末にはきちんと署名までされていたからです。マリ子から彼にむけて書かれた手紙、いえラブレターでした。
それに何が書かれていたのか、詳しいことは述べないでおきます。ただ彼がその後自殺するのをやめ、アパートを借り、新しい職を手に入れたということだけは書き添えておきましょう。
(終)
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