ジャンル:恋愛もどき
K's BLUE
少年、いや背の低い青年が水の上に浮いていた。
別に水難事故とかそういうもんじゃない。
どうもあれは彼の趣味というか日課のようなものなのだ。
日がな一日中、私たちは退屈で、安っぽくもかけがえのない生活を営んでる。
というのに、私が見るかぎり彼はいつも水の上をプカプカと漂っている。
教室の窓から見える、プール上の彼は実に気持ちよさそうだ。
彼は水の上に浮かんだまま居眠りをしてたから、おそらく気持ちいいんだろう。
さて、私は彼が誰かを知らない。
どうやら同い年に見えるがウチの生徒ではないようだ。
ウチの生徒ではないのに誰も通報なんてしようとしない。
おそらく、もうこれが日常風景になってしまったのだろう。彼がプールに浮かんでいるのが普通なのだろう。
授業がつまらないので名前も知らない彼の観察日記をつけてみることにした。
だけど一週間でやめた。
彼は毎日同じようにプールの上に浮いているだけなのだ。それ以外は何もしていない。
飽きっぽい私でなくても七日続けて同じことをノートに書き続けるのは苦痛というものだ。
非現実で、それでいて退屈そうに見える彼の生活は私には不思議なものに見えて仕方がない。
だから、私は彼に並々ならぬ興味を持ってはいる。
しかし、積極的に接触を持つつもりはない。
それはみんな同じようである。目の前の非現実なんてものは見ようとしても見えないようになっているようだ。
しかし、心のどこかで彼と話してみたいとも思っている。
これが複雑なオトメゴコロというものなのだろうか。
ある日の帰り道、近所の川に彼が浮いていた。
道行く散歩のオジさん、オバさん、若者たちは見向きもしない。
現代人にとって彼ぐらいの小さな刺激では物足りないのだろうか。
私もいつものように彼の方をちらりと一瞥してそのまま先に行こうとした。
しかし、突然なんだか奇妙な音が聞こえてきてどうもそれが耳についた。
そしてその音は鳴り止む気配はない。
彼の方を見てみる。
やっぱり案の定、謎の音の原因は彼のようだ。
これは彼のお腹の音だろう。
どうやらお腹が空いているようだ。
そのまま通り過ぎるのも何だか申し訳ない気がして、私は鞄から昼食の残りのチョココロネを取り出して川岸に近付く。
「おーい、君」
そう彼に呼び掛けると彼は私に気づいたようで、私がいる岸まで泳いできた。
私がパンを差し出すと、嬉しそうに手を伸ばしてそれを掴む。
川から上がる様子もなく、彼はそのまま水上に浮いたままでコロネに齧りついた。
美味しそうにチョココロネを頬張りながら、水から出ようとしない彼を私は微笑ましく見つめる。
「美味しいかい?」
私の質問は彼には全く届いてないようで、私のことなど気にする様子もなく夢中でコロネを食べている。
観察日記は三日坊主で終わってしまった私だがよくよく彼を見てみると意外な発見がある。
彼は全体的に青いのだ。
その髪は光の加減で瞳と同じ美しいダークブルーの輝きを放ち、その白い肌を透けて見える静脈は優美ささえも感じさせる。
ああ、綺麗。
私は今までこんな美しさに触れたことがあっただろうか。
今まで私が惹きつけられていた彼の魅力というのは、この全てを包み込む青さなのだろう。
海の青さとも空の青さとも異なるその青さに私の心は奪われていったのだ。
だけどそんな美しい彼が私に振り向くことはないだろう。
彼と私は住む世界が違う。
彼には触れられない、触れてはならない。
初めて間近で彼を見て、そう思わずにはいられなかった。
そう、これは叶わぬ恋なのだ、決して触れてはいけない恋なのだ。
「一体君は誰なんだい、私をここまで奮わせる君は」
私は彼に届くことがないと分かりながらもため息混じりに呟いた。
見ると彼はもうチョココロネを食べ終えていて、私の方を向くと目眩がするくらい綺麗な笑顔でニコリと微笑んだ。
「ありがとう」
彼の口から出た言葉に一瞬驚いて、驚きが止まる間も与えられないまま私の唇に何かが触れた。
チョコレートの甘い香りが口の中に広がった。
冷たい唇の感触はすぐに暖かくなって、時間が止まった。
私は静かに目を閉じた。
チョコレートより甘い何かが私の胸の奥から湧き上がってきた。
それとは対照的に、乾いた心の歪みに暖かい水が流れ込んで、ゆっくりと奥の方に染み込んでいく。
小さな襞と襞の隙間にもじわじわと染みてきて、暗く黒い何かが奥の方から押し出される。
私は今、青に染まってる。
心が、体が潤されていくのをはっきりと感じた。
私はゆっくりと目を開けた。
目を開けると彼は川の中に立っていた、私は岸辺でしゃがんでいた。
さっきまでの感動は夢だったのだろうか。
夢のような世界が終わりを告げた、そうだと思った。
別れの時が来たのだ。
現実へと私は引き戻されていく。
彼と別れたくない、夢ならば覚めないでほしい。
私の両目からは涙が溢れだしていた。
そんな私を見て彼は岸の上の私に手を伸ばした。
彼の手がやさしく私の目元を拭う。
「さよなら、……」
そう言うと彼の姿は消えた。
その言葉の最後、彼は何か口を動かしたけど残念ながらその声は私には届かなかった。
彼が拭ってくれた目元がまた少し濡れてきた。
「はるこー、何してんのー」
後ろの方から私の名前を呼ぶ夏樹の声が聞こえる。
どうやら私は現実に戻ってきたようだ。
もう彼はいない。
そして彼は私以外の誰にも見えなかったのだ、そう、初めから。
私にしか見えない彼の最後の言葉が音となって私に届くことはなかった。
だけど、あの時、彼が何と言っていたかははっきりとわかる。
「ううん、なんでもない」
涙を拭って、私は同級生の方へ駆け寄る。
背後の川の向こうではもう夕日が掛っていた。
彼の面影を追いながら山の青い影を見つめる。
その青さは夏樹には分からない、道行くオジさん、オバさんにも分からない。
私にだけ分かる彼の青い幻影。
さよなら、私にしか見えない私の好きな人。
そして、またいつか。
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