唯神論
「おじちゃん、わたしのおっぱい知らない?」
虫かごの中に、カブトムシがいる。干からびて、粉をふいていた。古代の化石のような死骸だ。
六畳の部屋に、段ボールや雑誌がところ狭しと散乱している。虫かごはその中に埋もれていた。古くなって赤く焼けた写真が、くしゃくしゃになって屑籠の中に放ってあった。
「おじちゃん、わたしのおっぱい知らない?」
さっちゃんは、みかん箱につまづいた。さっちゃんはサルエルパンツを履いている小さな女の子だ。さっきから大声で誰かを呼んでいる。
次の間も似たような有様、放置されて久しい。腐臭が漂ってきそうだった。
一人の男が、万年床に肘をついて寝ていた。黄ばんだシャツに、ももひき。年齢はそれなりだとと思われる。彼の視線の先にほこりのたまったブラウン管テレビがあるが、電源は入っていない。
「お前のおっぱいなんて知らねえよ!」
男は呂律の回らない口調で怒鳴り散らした。傍らには、一升瓶が置いてある。
さっちゃんは、口をへの字に曲げて、薄暗い家屋を移動する。
廊下をずるずる羽化の近い蝉のように、日の光を目指す。
白い光が引き戸から漏れている。さっちゃんは、走ろうとして自分の裾をふんずけ転んだ。
玄関には、男物の靴がたくさん置いてあった。履きつぶしたわけではなく、少し履いただけでげた箱につっこんであった。
さっちゃんは、その中からマジックテープ付きの小さい靴を履くと、元気よく外に飛び出した。
「あちー・・・・・・」
溶けそうなほど辛い直射日光に、さっちゃん怯む。
さっちゃんは平屋を振り向き、どうして自分はここで捜し物をしていたのか不思議に思ったが、いずれにしろ捜し物はここになかったので、別の場所に足を向けることに決めた。
長屋の前に軽トラックが止まっている。経年劣化のため赤さびが浮いている。車の中に下卑たピンナップのようなものがあったが、さっちゃんは背が低いので気づかず通り過ぎた。
道路に出ると、低い軒並みの続く陰気な場所だった。赤いポストが近くにあったので、さっちゃんは覗いてみたが収穫はなかった。
ランドセルを背負った集団下校の列の後ろに、さっちゃんはついていった。
子供たちは、みんなきらきらしている。学校であったことを話していた。さっちゃんも首を伸ばして食らいつくように聞いている。
四辻につくと、バイバイした。
さっちゃんは山の方に足を向けた。樹木の陰になって少し歩くのも楽になった。
「おっぱいないなあ」
さっちゃんは手近な地面を手で、掘り返してみた。固い石がごろごろしている。適当に積んでから、山を登る
小さいさっちゃんでも時間をかけずに登ることができるほど、山は控えめな造作をしていた。途中で古ぼけた祠のようなものを発見した。
そこには、さっちゃんくらいの年の小さい男の子がいた。坊主頭で真っ黒く日焼けしている。
さっちゃんは人見知りなので、男の子におっぱいのことを聞くのをためらってしまった。
「お前、見ない顔だな」
男の子はぶっきらぼうな調子で、立ちはだかる。
「あ・・・・・・」
色を失うさっちゃん。男の子はさっちゃんのズボンに目を留めた。
「お前、足短いな」
「サルエルパンツだもん」
さっちゃんはサルエルパンツを説明した。
男の子は訳知り顔で頷いた。サルエルパンツを知らなかったとさっちゃんに知られたくないのだ。
「俺、かくれんぼしてるんだ。鬼なんだけど、皆全然見つからない」
「そーなんだ。わたしは、おっぱい探してるんだ」
男の子の顔は青黒くなり、こめかみの辺りが痙攣した。
「・・・・・・そういうこと言うと、人さらいにあうぞ」
「人さらい?」
男の子は祠の所に歩いていった。祠には小さなお地蔵さんとぬいぐるみが置いてあった。
「昔、ここいらで女の子が誘拐されたんだって」
男の子は内股をこすりあわせ、震えている。聞き取れないほどの小声になっていた。
「そ、それでな、その女の子は・・・・・・、あれ?」
さっちゃんは、そこにいなかった。慟哭するような強風が枝をしならせた。
山を下りたさっちゃんは、元の平屋に帰ってきた。平屋の前には、喪服を着た妙齢の女性がいた。白い日傘をさして、じっと平屋に目を注いでいる。
「あら、おかえり」
さっちゃんの気配に気づくと、色白の女性が振り返る。顔はどちらかといとふくよかで、笑うと目が埋まってしまう。
「おばちゃん、わたしのおっぱい知らない?」
おばちゃんと呼ばれるには、女性はあまりに若かった。だが、さっちゃんから見たら大人の人は皆同じようなものだから関係ない。
「知ってるわよ、はいどうぞ」
女性は自分の胸に手を当ててから、さっちゃんの胸に手厚く押し当てた。
その時、さっちゃんの体は車に跳ねられたように、飛び上がり、地面に叩きつけられた。さっちゃんの目には、廻る青空の映像が焼き付いた。
「ありがとう、おばちゃん。おっぱい見つかった」
さっちゃんは起きあがると、平屋の敷地を軽やかに後にした。赤いポストを曲がり、陽炎の中に消えた。
女性はさっちゃんの背を見送ると、平屋に足を踏み入れた。
「せ、せん、先生、助けてくれ」
股引で寝ていた男が廊下を這って、女性の足下にすがった。男の目は異様に大きく見開かれていた。口の中に歯がほとんど残っておらず、歯茎だけが動いている有様は不気味であった。
女性は慈母のような笑みを浮かべ、男に寄り添う。
「さっちゃんは、帰りました。もう心配いりませんよ」
男に手を貸し、居間に連れていくと布団をすぐ被ってしまった。
「毎日この時間なんだ。何とかしてくれ・・・・・・」
女性は部屋のゴミを手早く片づけ端座し、針の止まった壁掛け時計を見上げた。
「丁度、下校時刻ですね。さっちゃんが亡くなったのは、こんな陽気の日だったのでしょうか」
男ががくがくと震える。
「ご安心ください。警察に突き出したりはしません」
「ありがとう、ありがとう・・・・・・、これは謝礼だから」
男は布団から手を出し、女性の手にくしゃくしゃの紙切れを握らせた。
紙切れは、十五年前の新聞の切り抜きであった。
幸ちゃん行方不明という見出しを皮切りに、一人の少女の人生の幕切れがコンパクトに纏められている。
下校途中に行方不明になった幸ちゃんが、近くの山で遺体で発見された。幸ちゃんの胸は切り裂かれ・・・・・・
女性が勢いよく手を叩いた。
「さあ、元気を出してください。いつまでもふせっていては、健康にさわります。こう見えて私料理が得意なんです。お任せくださいな」
女性が立ち上がると、節くれ立った男の手が足を掴んできた。
「れ、冷蔵庫は駄目だ・・・・・・」
「わがままはよくありませんよ。ちゃあんと食べないと」
包み込むような女性の物言いに、男は声にならないうめきを立て、手を離した。
女性は台所に行き、緑色の小型冷蔵庫を開けた。サランラップのついた大皿だけが唯一の内蔵物であった。
「×××さん、出かける前に私が用意した料理食べていないんですか? 駄目ですよ・・・・・・」
女性は手際よくちゃぶ台の上のゴミをどけると、大皿をどすんと載せた。
「豚肉の塩漬け。おいしいですよ。たくさんありますから、全部食べてもらわないと、ね?」
男は布団の中で嘔吐を繰り返していた。仕舞には吐くものがなくなって、痙攣だけを機械的に繰り返していた。
「×××さん? ×××さん? 大丈夫ですか? 苦しいですね。大変ですね」
女性は懇ろに男を背をさすった。
この女性は、高名な霊媒士であり、さっちゃんの両親からの以来を受け、ここにいる。
この男は、さっちゃん誘拐遺棄致死の犯人だ。完全にクロだったが物証に乏しく、その上科学捜査も未熟な時代だった。警察は男を逮捕できず、さっちゃんの両親は怨嗟に震えた。ならば法で裁けないならと、女性に依頼をした。男を断罪するために、手段は選べなかったのだ。
女性は当初さっちゃんの魂を呼んで、男に悔い改めさせるつもりだった。
ところが、さっちゃんは自分が何故死んだのか理解できないようだった。なくしたものを探して歩き回っては、この平屋に戻ってくる。最期の時間をやり直すように。
そうなると、 女性の役割は男が少しでも長生きするようにはからうことだけだった。
「先生、先生、助けて、助けて」
「祈りましょう神様に。きっと見ていてくださいます」
女性は、シミだらけの天井を見上げた。
神様は見ている。男の神様となったさっちゃんは明日も明後日も、その先も男を見つめ続けるだろう。
(了)