What can I do
彼女と、初めて彼女と出会ったときのことは今でも良く覚えている。
桜舞い散る入学式。そして初めて入った高校の教室。私の隣の、窓際の席に、クラスメートとなる少女が座る。
その少女を見て最初に思った事は、ああ、なんて綺麗な娘なんだろうと。
外からはざざざあと言う風が吹いて、桜吹雪が舞う。そして、ひらりひらりと舞い散る桜の花びら。開いた窓から入ってきた花びらが、几帳面にも纏められた彼女のポニーテールにふわりと付く。
外から差し込む春の光に照らされた窓際の彼女は、幻想的なまでに美しかった。
何日も経って、それなりに友達も出来たけど意外なほど退屈で平凡な日常。期待していた「中学時代との違い」なんて言う物はどこにも無くて、退屈な授業中、気づけば、私はいつも隣の綺麗な彼女の顔を見ていた。
綺麗な顔。能面のように表情を変えることは無く、また、整いすぎていると言う意味でもまるでお面をかぶっているような彼女。
数日経って、彼女を見て、観察していて気づいた事があった。彼女は誰に話し掛けられても、相槌を打つ意外は口一つ開かず、表情一つ変えなかった。
そんな彼女の横顔を見ていた私は、ふと思ったのだ。
彼女は、一体どんな顔で、どんな声で笑うのだろうと。
ああ、思えば、そう。
キッカケは、こんなにも単純な事。
幕間1
「もう良いっ、もう良いよッ!」
そう言ってユリちゃんを宥める為に抱きつく。力の強いユリちゃんを抑えるのは大変だけど必死で抑える。
だってコレだけ私の事を思ってくれたユリちゃんに対して私ができることっていったらコレぐらいなんだから。
「もう良いからっ!」
そう言って抱きしめる。
そう。もう良いんだよ。私が悪かったから!
ショックを受けなかったと言ったら嘘になる。
ユリちゃんが非人道的な事に関わっていたって事もだけど、何よりも人を殺した事があるって言う事がショックだった。
やはりどんな理由があったにせよ人が人を殺すと言うのは絶対にやってはいけない事だ。
殺人と言う行為だけは許せない、そう思ってきた。
でも……。
「いや、私は、私は人殺しなんだ。光に近づいて良いような人間じゃないんだっ!」
こんなユリちゃんを放っておけるわけが無い。今ユリちゃんの手を離したら、きっとその手を掴む事はもう二度と出来なくなってしまう。
そんな不安に突き動かされて、ただただ、ひたすら抱きしめる。今必要なのは、きっと言葉じゃ無い。彼女を繋ぎ止めておける力だ。
そうして、ひたすらに思いが伝わる事を願って強く強く抱きしめる。
「ひ、光……わ、私は……」
「わかってる、良いから。大丈夫だから」
「光……許して、くれるのか……?」
「私には、ユリちゃんを裁いたり許したりする権利は無いよ」
「でも、私は光にさえ……」
「解かってるよ。でもね、聞いて、ユリちゃん」
そうして泣き濡れたユリちゃんの顔をつかんで目と目を合わせる。
ユリちゃんは私のことをこれだけ思ってくれるんだから、私もそれに答えるために、精一杯、私の気持ちを伝えなくちゃ。
そして、彼女の目を見つめて話す。
涙に濡れた彼女の顔は、恐らく普通の女生徒と違ってそれほど化粧もしていないのだろう。涙に濡れて、歪んだ表情をしてもなお綺麗だった。
「私には、一般的な倫理観しか無いし、ユリちゃんがどういう状況だったの正確にはわからないし、勿論ユリちゃんを許す権利も力も無い」
「ひ、光……」
「でもね、私は思うんだ。勿論、何が遭ったのかは、私はきっと欠片しか理解できて無い。でも、思ったから」
「う……な、なにを」
「きっとね、それは、ユリちゃんは悪くない。そのときユリちゃんが誰かを守るために「ソレ」をしたんだとしたら、きっとそれは仕方がなかった事なんだよ」
「光……」
「大丈夫、ユリちゃんは悪くない。私は、信じてる」
「ひっ、光、ぅ、ぅ、う、うっううわああああぁあぁぁんっ!」
泣き出したユリちゃんを胸に抱きしめる。熱い涙が制服の胸を濡らすけど、今離す訳には行かない。
「ひっ、ひっ、ひかっ、りっ、うっ、ぐっ、うぐっ、あ、ありっ、ありがとうっ、光っ!」
「大丈夫だから、信じてるから、ね?」
泣きやむ事の無いユリちゃんをただただ抱きしめる。
まるで、その涙は生まれてからの閉まっていた栓が取れたような、そんなまるで憑き物が落ちたかのような泣きっぷりっだった。
そもそももっと早く気づいておくべきだったんだ。私と話しているときにユリちゃんがいつも笑顔だから、つい失念して、安心して、不用意に生活してしまっていた。
そう、彼女はいつも笑顔だった。私と話している時は。
じゃあ、私がユリちゃんを見つけて話しかける時、その話しかけるまでにユリちゃんはどんな顔をしていたか?
いや、大体ユリちゃんが私や先生以外と親しく話している事があっただろうか?
いや、それ以前に、そもそも始めて出会ったころのユリちゃんはどんな人間だったか。
それらのことを総合して考えればユリちゃんにとって自分がどんな存在だったかはおのずから解かった筈だ。
つまりは今回の件については、解かるはずだった事を分かれなかった私の責任も多分にある。
それに対する罪滅ぼしだと考えれば、自分の考え方を納得させるなんて宗旨替えですむならは安い物だと思う。
まあそれになにより、これだけの純粋で大きな好意を向けられて嬉しく無い人間は居ない。
ならば、それに答えるのも、当然の事だろうし、好意には出来るだけ応えるのが筋って物だ。
でも実はそんなご大層な事はことは建前で、本音はというと私もユリちゃんの事を大好きだから、許したいと思ってしまった。
だって、ほら。
私とユリちゃんは、その、友達、なんだし。
幕間2
「美しい友情……ね」
そうして泣き続ける武田さんとそれを抱きしめる片山さんが居る。
その絵は何処から見てもこの上ない友情なのだろう。
まさに友情。今このまま二人を銅像にして美術館に飾ったとしたら題名は間違いなく「美しい友情」だろうし、百科事典に美しい友情という欄があれば間違いなく説明する絵の第一候補は目の前のこの図だろう。
それぐらいに二人の友情は普通の人が経験できないような「美しい友情」だと思う。
ちょうどあの赤毛の男が言っていたように
まさか自分があんな頭のいかれたような男の言葉に同意する日が来るとは。
「ん……でも」
そう、確か、最上君も同じことを言っていた気がする。
と言うことは、私の意見は最上君の意見と一致してるわけで、そこにあのジャンキーのような赤毛の男の事は一ミリたりとも関係しないわけだ。
うん。それならば悪く無い気もする。
まあ、関係ないことを考え居られるのもここら辺だろう。時間も有限なのだから。
というか、そろそろこの仲間はずれ的な空気がしんどくなったんだけど。
「二人とも、そろそろ良いかしら?」
「あ……せん、せい……?」」
「そ、そう言えば先生が居たんですね」
「く、二人とも、教師を無視とはいい度胸ね。で、二人はそれでオッケーかも知れないんだけれど、私の方としては……」
「先生、その、ユリちゃんのことは、これ以上責めないで……」
「あ、ええ。別にその気は無いわよ。誰かを守るためだったらそう言うこともあるわよ。武田さん、アナタの行為は別に恥ずべき事では無いと思うわよ。心配しないでも大丈夫よ」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
うん、教師としてもそれは言い切れる。
「でもね、私が心配しているのはその事じゃないのよ。私が心配してるのはあなた自身のことよ。武田さん」
「私自身の……?」
幕間3
武田由里香side
「ええ、そうやってたとえ秘密を守りながらも、誰かのために戦うのは立派な事よ。でも、アナタは一体何いつまでそんなことを続けるつもりなの?」
「いつまでってそれは……」
「だって、あなたは、望んで今の立場に居るわけじゃないんでしょ?」
「それは……そうですけど」
「なんで、望んでいないのにそれをあなたがやるの?」
「それは……父様に言われたから、それにコレは、誰かがやらなきゃいけないことで」
「ふぅん、そう。でも、アナタはそれでいいの? そんなに苦しそうで、それでもそんなことを続けるつもりなの?」
「だって、だって……誰かがやらなくちゃ、だから私が、だから、なんで、なんで……」
なんで、そんなことを言うんですか先生。
正直、今ここでそんなことを問われたら挫けてしまいそうに……。
と、先生が今まで厳しそうに私を見ていた視線を和らげて言った。
「まぁ、いいか。私がここで言ってどうなる事でも無いし、詮無き事ね。でも、コレはあなたが決める事なんだからね。武田さん」
「は、はい」
「はぁ、まあいいわ。それで、なんか空気ぶった切るみたいで申し訳ないんだけど、そっちの事情も一段落したし。最上君の事に話を戻していいかしら?」
「あ、はい。もう、大丈夫です。取り乱してすみませんでした」
「いいのよ。それで、一つ疑問なんだけど、さっきの話から推察すると、最上君も研究所で人体実験によって生まれた能力者で、脱走者かなんかなの?」
「いいえ、違います。そもそも脱走者には戸籍がありませんから学校になんかは通えませんよ」
「それじゃあ、あなたみたいに脱走者に対するハンターみたいな役割なの?」
「いえ、違います」
「へ? じゃあ、何なの?」
「それが、その、私にもよく解からないんです。ただ、一つ解かっているのは零児は極めてイレギュラー的な存在なんです」
「? どういうこと?」
「研究所の方では、赤毛の男が逃げた事は把握していますし、奴がこの辺りに潜伏している事は報告が来ていました。でも零児のことは研究所の方も把握してませんし、最上零児なんて名前の能力者は作っていないという事だそうです」
「でも、それじゃあおかしいじゃない。能力者は研究所でなくては作れないんでしょ?」
「ええ。でも、今の零児は覚えていないと思うんですが、前に零児と能力について話した事があるんですけど、その時に零児は自分の事を生まれついての能力者だと言ってたんです」
「へ? でも、そんな訳無いんじゃ……」
「ええ。でも零児にしてもあの宗全とか言う男にしても、研究所で作られたとは思えないところがあるんです。具体的に言うと、この二人はあまりにも能力が強力すぎるんです」
「どう言う事?」
「今の技術で作れる能力者としての限界点は恐らく私や、あと、あの赤毛の男辺りです。それ以上に強力な力は脳だけでなく身体さえ破壊してしまいますから。でも、零児にしても、宗全とか言う男にしても、私たちを遥かに上回る能力を持っています。つまり、あんな能力者は普通では存在できるわけが無いんです」
それにもし、仮になんかの間違いで出来てしまったとしてもそんな強力な能力者が自我を保てる訳が無い。
「だから、やはりあの二人は研究所で作られた訳じゃないとしか言えないんです」
そう、だから零児はきっと、自身の言っていた通り生まれながらの能力者。
そしてその謎を解くヒントは原典と言う言葉と、よく聞き取れなかったあの廊下での対話、きっとそこにあるんだろう。
「でも武田さん。それなら、例えばさ、最上君はその研究所の能力とは何の関係も無い本当に世界中でよくテレビに出たりなんかしてる、そう言った一般的な意味での「超能力者」なんじゃない?」
あ、先生はまだ納得いって無いんだ。うん、確かにそれは考えられる可能性。でもそれは……。
「はい。その筋も考えました。確かに能力者は力を使うと欲望に引きずられやすくなるという特性があるんですが、零児にはそれが外から見て取れません。だから悩んだ時期もあったんですが、でも今は確信しています。零児は研究所で作られる能力者と間違いなく同種の「能力者」です」
「何でそう言い切れるの?」
「それは、零児には能力者が能力を使ったときに現れる特徴が完全に現れているからです」
「そんな物があるの?」
「はい。少し零児の元に行って見ましょう」
そうして皆で零児のもとへ移動する。
血塗れの学生服を着たまま倒れている零児は汗ばんだ肌でしんどそうに、でも規則正しく呼吸している。
大きく動く胸にやや苦しげな表情。
正直、悩ましい姿だ。
「さて、今零児は、本当に能力者としてもこんな事をするのは規格外でありえないぐらいの事ですが、自分の能力で体の損傷を直しています。まあそれも驚きなんですけど……」
そうして零児を指差して言う。
「つまり、今現在進行形で、零児は能力を使っているんです」
「ふーん」
あ、反応が薄い。すでに零児に魅入られたか。ここまで来るとまるで呪いだ。
「今の零児見て……どう思います?」
「その、何て言うか、凄く、色っぽいわ」
「そうでしょう。何て言うか、悩ましすぎてこう精神の根本に潜む雌の部分を刺激されるというか、そう言う感じしませんか?」
「ええ、そうね……って何言わせるのよ!」
あ、ちょっと先生面白い。
「まあ、つまりはそう言うことです。それこそが能力者の特性です」
「へ、どう言う事?」
「実は、能力者が能力を使っているときにはその能力の強さに応じた量のフェロモンに似た物質が分泌される事が確認されているんです。そして零児は今確認されてる中でも最強クラスの能力者です。コレだけの能力を使った結果として今、零児はこの空間を侵食するほどのむせ返るような色気を放っているわけです」
「そ、そうなんだ」
「ええ、この一帯はもう零児の空気になっているので、正直酔いそうになります」
「そうね」
「はい」
そう、思えば初めて零児と竹刀を合わせた時から異常だった。
あの時零児はやはり能力を使っていた。
だからその後、零児と顔が近づいた時、整ってはいるが特別な美形とまでは言えないその顔に妙にときめいてしまったんだ。
初めてのことだから慌ててしまったけど、早い話があの時私は零児の能力に当てられていたわけだ。
変だと思った、逢ったばかりの男にトキメクなんて事がありえるはずは無いと思ったんだ。
理由がわかって少し安心。
う、でも、なんだか、今も吸っているこの空気は危ない。あまり長く吸うと、何だか離れられなくなりそうで……。
「あ、そう言えば……」
「どうしたんですか、先生?」
「あの時はだから……」
「なにがですか?」
「あ、いや、ちょっとね。以前怪我した最上君を家に運び込んだことがあったんだけどね。その時に怪我してたのが次の日には怪我が何故か消えてたのよ。その時も能力を使っていたのね。道理で最上君を見てると妙にムラムラしてきて焦ったの覚えてるもん。ホント手を出さないようにするのに必死だったわ」
「よく一晩耐え切れましたね。先生」
「ええ、コレでも教師ですから」
「流石ですね」
「ええ」
「ところで、いつまでこうやって零児を見ているつもりなんですか?」
「武田さんこそ」
「う、そう言えば」
拙い、私ともあろうものが、魅入られてしまったのだろうか。
能力者同士には、能力に対する抵抗があるはずなんだけど、空気に対しては抵抗できないんだろうか。
そんなどーでもいい事を考えながらついつい零児を見てしまう。
その、血に染まった学生服。整った顔、血に濡れた肌に浮かぶ玉のような汗。苦しげな表情。安定して動く胸。
そして何よりむせ返るほどの色気。
その全てが視線を釘づけにする要素を持っている。目を離すことができない。
「ま、まあいいじゃないですか先生、まだ零児も気絶してるんだし」
「ええ、そうよね。見ているだけだもんね。手を出してるわけじゃないんだから教師としても全然オッケーよね」
「ええ、問題無しです」
「そうね」
「……」
「……」
そうして気絶している男をひたすら見つめると言う異常な時間が静かに過ぎる。
誰も微動だにしない世界。仕方が無い。私たちはもう魅入られてしまったんだから。
じゅるり
「って、冷静にしてる場合じゃないぞ私、何トリップしてるんだ! あと誰、今ヨダレすすったの!?」
「ごめん、ユリちゃん。私」
「ひ、光っ!?」
「だって、最上君見てたら確かに凄い色気で、あまりに美味しそうでついヨダレ出ちゃった」
「ちょっとそこの女子高生! 美味しそうって、なんてことを言う。そんなの光のキャラじゃない!」
「だってぇ……」
「ええ、片山さん、気持ちは解かるわ。この最上君の姿見てると正直……濡れるわね」
「だ、ダメです先生、そんなこと言っちゃ! エッチなのはいけないと思います!」
「あら、武田さん、そんなこと言うの? ねぇ、素直にならない?」
「な、何を……」
「ちょっとだけなら、手を出しても良いと思わない?」
「だ、ダメですよ先生!」
「えーっ、私は賛成だなー」
「ひ、光っ、ダメダメダメ!」
大体光はそんなキャラじゃない!
「ええーいいじゃない。こんなふうに無防備に誘ってる最上君が悪いんだし、少し摘まんじゃいましょうよ」
「うわっ、先生が親父になった。ダメです先生!」
しかし二人はすでに、まるで酔っ払いのように赤い頬とポーッとした表情と、焦点の合って無い目でこちらを見ている。
ええぃ、零児の空気に当てられたか。
ダメだこいつら。早く何とかしないと……。
「冷静になってください。倫理的に考えてそんなことダメに……」
「そんな事言ってないで……ほら、武田さんももう一度、最上君を見てみなさいよ」
「零児を……」
そうして無理やり顔を掴まれて零児のほうを向かされる。
整った顔。特別な美形ではないが非常に好ましい。
血と汗に濡れた肌。とても綺麗だ。
血が付きベト付いた髪はいつものサラサラした感じとは違い固まっていて、コレはこれでいい。
規則的に動く胸、バランスよく引き締まった魅力的な身体、苦しげな表情を浮かべる好ましい顔。
むせ返る程のフェロモンの香気に包まれたこの空気の中心に居る零児。
この身体を好きなように出来るのならばどんなにか……。
そうして気がつけば私は零児の服に手を伸ばしていた……。
って、何やってるんだ私は!
そして、その私の所業をニヤニヤと見つめる女子高生と女教師。
拙い……。
「おや〜、おやおや〜武田さん、その手は何かな〜?」
「こ、コレはですね、コレはですよ。アレですよ。零児も苦しそうだから学生服とカッターシャツのボタンを緩めてあげようとですね」
「ふ〜ん、じゃあ早くすれば? 第二ボタンぐらいまでで止められるのなら」
「う、うん、やります、や、やりますよ?」
落ち着け私。ただボタンを外すだけだ。第二ボタンまでだけ外すだけだ。何も難しくない。
違うか? 違わない。よし。
そうして零児の制服に手をかける。気づけば息がハァハァと荒くなっている。
なんてこと、一つずつボタンを外していくと言う行為がこんなに淫靡で、こんなに興奮するだなんて。
って、違う。コレは違う。普通男女逆だ。何で私がハァハァしなくちゃなんないんだ!
そうして学生服の第二ボタンまで、危なく第三ボタンまで手が伸びそうになった瞬間に……。
「ん、うぅん……。あ、たけだ……か」
零児と目が合った。
1
目覚めろという声が聞こえたんだ。
目覚めよと呼ぶ声あり、というコラールがある。
ああ、そうだ、もう目覚めろ。能力と睡眠による短期の肉体修復は終わった。
完治には時間がかかるがとりあえずこれで活動には支障は無い。
だから早く目覚めろ。もう睡眠は十分なはずだ。だから目覚めろ。
いや、マジで。そろそろ目覚めないと拙いんだよ。主に俺の貞操が。
汚泥の底からサルベージされるような感覚。徐々に闇は薄くなり意識が覚醒する。
目がなかなか開かない。目やにか何かで固まっているのだろうか。いや、血か。
そうしてベト付いた目蓋を開く。徐々にクリアになって行こうとするぼやけた視界。
そしてそのピントが合ったときに目の前に居た者とは……。
「ん、うぅん……。あ、たけだ……か」
そう、何故かまっかな顔をして俺の制服に手をかけている武田の姿だった。
「あ、あああ……零児、起きて……?」
「ああ、おはよう。武田」
と、何故か武田は俺から手を放し脅えたような顔で慌てて後ろに下がった。
うん、それはもうズゾゾゾゾゾーとでも音がしそうなくらいの凄い勢いで。
「いや、コレは、コレは違うんだぁっ! 零児、コレは違うんだぞ!?」
「はてな、なにがさ?」
「いや、そのだな、コレは、そう、零児がしんどそうにしてたから少し学生服の首元を緩めてやっていただけなんだぞ? そうだ、うん、他意はない!」
「ん、何のこと……って、ああ、これか」
そうして胸元を見ると学生服の第二ボタンまで開けてある。
まあ、いいか、ついでに面倒だから学生服のボタンを全て空けて前をはだけてから離す。
「ああ、ボタン空けといてくれたんだな。ありがとな。お前、良い奴だな」
「あ、ああ、いや、なんでもないぞこんな事。ちょっとした親切心だからな。……ぅぅぅ、罪悪感が」
「ん、なんか言ったか?」
「あっ、いやっ、なんでも無いぞなんでも無い。気にするな零児」
「ふーん」
「チッ、惜しい」
む、今なんか舌打ちと共に先生の声が聞こえたような気が。
そして音の方を見ると涼しい顔で先生と片山さんが立っていた。
「先生、今舌打ちしませんでしたか?」
「ん、何のこと? 私は何もして無いけど」
「え? でも確かに……」
「幻聴でも聞いたんじゃないかしら?」
「そ、そうですかね」
まあいいか、先生がそう言うならば多分気のせいだったんだろう。
と、さっきまで黙っていた片山さんが口を開いた。
「ところでさ、身体の方はもういいの?」
「ああ、もう多分……」
そう言って軽く身体を動かしてストレッチをしてみる。
異常は……ほぼ無しだな。
「おう、まだ痛みが引いたわけじゃないが大体の活動には支障ないぜ」
「そ、そうなんだ。凄いんだね。それってさ、さっきユリちゃんから聞いたんだけど、それって最上君が持ってる「能力」とか言うので治したんでしょ?」
「あ、武田、言っちゃったのか……」
「あ、零児……すまない。零児の事なのに勝手に話してしまって。でもっ」
「ああ、解かってるって。この状況じゃ俺たちには当然のごとく説明責任があるしな。本当の事を話さないと説明にもならんだろう。まあ、本音を言えば知られたくはなかったが。仕方ないさ」
ホント、俺が能力者だということを知っているのは今までは今の両親と姉さんだけだったからな。
一応カテゴリーでいう「他人」と言うことになっている人に知られたのは初めてだから、正直ショックじゃないといえば嘘になるが。
ちなみに隆貴には話しているが、奴が馬鹿だったことと、後一つ、奴のトンでもない体質のせいで正確に伝わらなかったせいで奴はまだ俺が能力者だということを理解していない。
まあその話はどうでもいいか。
「その、零児。ゆ、許してくれるのか?」
「ん、あぁ、武田か。許すも何も、仕方ねぇじゃん。お前は最善の行動をしたと思うよ」
「そうか、そう言ってくれると助かる」
「いいって。気にするな。それよりも……」
そこまで言って先生と片山さんのほうへ振り返る。
そう、俺が異能であるということを知られるという事は、つまりは、一つの覚悟を決めるという事だ。
それはと言うと……。
「二人とも、俺がどういう能力者であるかは武田から聞いたんだよな」
「うん」
「ええ」
「それじゃあ正直に答えて欲しいんだけど、二人とも、俺のことが怖いか?」
「へ?」
「ど、どうして?」
「どうしても何も、解かっていると思うが、俺は今日学校に来た狂った二人組みたいなのと同種の人間なんだよ。その気になれば一瞬で何十人と言う人間を殺す事も可能だし、その気になれば今ここに居る三人を皆殺しにする事だって可能だ」
少しキツく、しかし真実である事を話す。そう、元来能力者とはそう言った存在だ。
「でも、そ、そんなこと考えてるわけじゃないんでしょ?」
「ああ、そんなことは思うはずが無いさ。少なくとも今現在ではな。でも、俺にはそれが可能な力がある。つまり俺って言う存在はははいつでも人を殺せる猛獣か、あるいは、いつでも人を殺せるように銃を構えているような、そんな状態な人間なんだよ。人って言う生き物は結構繊細だ。正直近くにいつでも自分を殺せる存在が居るって言う状態は落ち着かないだろ?」
と、二人は冷たい目でこちらを睨んできた。
そして先生が口を開く。
「ふーん、そう言うこと言うんだ最上君は。じゃあ、もしも私たちが最上君が近くに居るようじゃいつ殺されるか解からなくて落ち着かないから怖くて嫌だって言ったらどうするつもりなの?」
「ああ、その時は大人しく消えるさ。二人の前には二度と姿を現さない。巻き込んだのはこっちだし、責任は取るさ。約束は守る」
「へー、ずいぶんつまらない事言う人なのね、最上君って」
「どういう意味だよ。はぐらかさないで正直に言ってくれ。言葉に従うから」
そう、正直に言ってもらえないと困る。
二人とはここの所一緒に過ごす時間も長くて、そしてその時間はとても楽しくて、俺にとっては先生をそう言うのは少し変な気がするけれど、でも二人とも掛け替えの無い友達だと思ってしまったんだ。
そう思った人間に遭う度に脅えられてしまったとしたら、きっと俺はそれに耐えられない。
ならば、そうなる前に別れてしまった方が、ずっと楽だ。
だから、言った。
そして返事を待つ。
二人は相変わらず無言のまま冷たい目でこちらを睨んでくる。
そして、誰も口を開かずに、無音のまま緊迫した時間だけが過ぎる。
と、突然先生は組んでいた手をといて頭に当ててふーと大きくため息を吐いた。
「ど、どうするんです先生、って言うかなんですかそのため息は!」
「ちょっとね、最上君の馬鹿さ加減に呆れて頭痛がしてきただけだから」
「な、なんでさ!」
「いやね、最上君はテストの点を見るたびに馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけどまさかここまでだったとはね……」
何それ良く解かんないけどすっげえムカつく!
「話を逸らさないでくださいよ先生! 大体テストの点関係無いじゃないですか!」
「あるわよ。最上君が馬鹿だって話なんだから」
「だからなんですそれ! 大体なんで俺が馬鹿だってことになるんですかっ!」
「だってねぇ、まず自分が馬鹿だってことに気づいて無いし、はぁー」
うわ何そのため息!
「そんな事言ってないでちゃんと説明してくださいよっ!」
「はぁ、それじゃあ仕方ないわね。お馬鹿な最上君のために先生が説明してあげるわ」
「ぐっ……わかりました、早く説明してくださいよ」
「ふふ、いいわよ。まずね、あなたが言ってる自分にはいつでも人を殺せる力があるって言ってる事、それは確かに事実よ。貴方は普通の人間は絶対使えない稀有な力を持っているわ。でもね、力の有無なんて重要じゃないのよ。人間なんて脆い物。実際はそんなご大層な能力なんて使わなくても滑って転んで頭打っただけで死んだりするし、或いは鈍器やバールのような物で頭を殴ったりすれば、力が無い人間でも人を殺すのは可能よ。ね、片山さん?」
「そうですね。私が良く見る二時間物のサスペンスドラマでも大抵犯人は非力な女性であることが多いですもん。そして最後は何故か崖だし」
う、片山さん普段何見てるんだよ。
「ま、まあ、崖は関係ないけどそう言うこと。つまり、どんな力の弱い人間でも明確な殺意と目的を持ってすれば誰かを殺すなんてことは容易い事なのよ。まぁ、多くの場合はその後捕まるかどうかが重要になってしまうんだけれど、でもね、捕まるかどうかは被害者本人には関係の無いことだし、重要なのは自分が死ぬかどうかでしょ? そして実際問題として本人が目的と殺意を持って捨て身になりさえすれば大抵の人間を殺す事なんて難しく無いわ」
「それはそうですけど、でもっ!」
「デモもストも無いわ。つまりはそう言うこと。だからね、どんな力を弱い人間でも私たちに対して殺意を持っている人間が居たとしたらそれは回避することが困難なほどに危険な事だし、その逆にいくら貴方が強力な能力者でも、そこに私たちに対する悪意が無い限り何の危険も無い訳。わかる?」
「そ、それは、言ってる事はわかりますよ。でも、二人はそれで良いんですか?」
「馬鹿ねぇ。いいに決まってるじゃない、ねぇ、片山さん?」
「はい、それはもう全然平気ですよ。最初は最上君の言った事の馬鹿さ加減についついイラッと来ちゃいましたけどね」
くっ、二人で俺を馬鹿馬鹿言いやがって……。
「それにね……」
と、突然そう言いながら先生が手を伸ばして俺の頬を撫でてきた。
「な、なな何です……」
「ふふ、最上君は私の可愛い生徒じゃない。確かに教師暦は短いけど、でも私も列記とした教師よ。そして教師は生徒を信用する物……」
そのまま頬をなで続けられるも何故か動けない。
「大丈夫よ……信じてるから。ね」
「そうだよ。私を助けてくれた最上君を、私は信じる」
おお、片山さんか。すこしびっくり。でも……。
「本当に、本当に良いの?」
ああ、これは……
「ふふ。勿論よ、そう言ってるでしょ?」
「うん、大丈夫だから」
本当に……
「あ、ぁぁ、ありがとう。二人とも、ありがとう」
嬉しい事だ。
だから心からお礼を言った。今きっと俺の頬は少し赤い。でも、それくらい嬉しい。
信じてもらえるという事は、それだけでとっても素晴らしい事なんだ。
だから、俺もその信頼に応えないと……。
「う、ぅぅぅ、今度は私が仲間外れか。何だこの疎外感は……」
あ、今何か聞こえたような。
「ええぃ、話は纏まったか。取りあえず大事な話があるんだ聞いてくれ」
うおっ、武田か。びっくり。
「ちっ、武田さん、このタイミングで牽制とは……やるわね!」
「邪推はやめてください先生。私は光だけ一筋、浮気はしません」
なんのこっちゃ。
「ってそんなことはどうでも良いんだ! 零児、話がある」
「うい、なんだい?」
「取りあえず今後の行動を決めたいんだが、どうすればいいと思う?」
「うーん、そうだな。取りあえず先生と片山さんは部外者だし一般人だ。きっとあの二人も気にしていないし、家に帰って今後も普通に生活をしていいと思うんだが……由里香、君の意見を聞こうッッッ!!!」
「ううむ、まあ……そうだな。やや楽観的過ぎる気もするが奴らもそれほど暇でも無いだろうし大丈夫じゃないかと思う。問題は……」
「ああ、問題は俺たちだな。まず俺とお前の素性は完全に割れてると考えていいだろう。今逢ったら勝ち目は無い」
「ううむ、そうだな」
まあ、宗全には今どころか未来永劫勝てる気がしないんだが……。
「そうなると逢わないように生活しなければならない。家も割れてるだろうからダメ。学校に通うのも今日みたいな可能性があるからNGか。学校は休学だ。と、なると残された方法は……」
「方法は……?」
「潜伏か、逃避行だな。由里香、君の意見を聞こうッッッ!!!」
「さっきから気になってるんだが何だその言い回しは。変だぞ。取りあえず……零児は能力を隠すことが出来るんだよな」
「ああ、その間はこちらからも敵の位置を探れないがな。でもこれでもハッカータイプだ。能力を開けば敵の位置はかなり遠くからでも正確にわかるぞ。でも俺は基本的に能力を隠して生活してるけどな。まあ、結果としては潜伏でも逃避でもどちらでもOKだ。まあ安全策を取れば逃避行だな」
「私は……能力の感知が嗅覚と言う頼りない物頼りだから、あまり感知はうまく無いんだ」
「へぇ、そうなんだ。嗅覚とは珍しいなそれ」
「まあな、私以外では例が無いらしいし。それは良いんだが、その上私は基本的に能力を隠すことは出来ない。だからきっと強力なハッカータイプの宗全との位置の探りあいになったら私が感知する前に場所を特定されてしまうだろう。以上のことから、私は……潜伏は無理だ。リスクが大きすぎる」
「そうだな。じゃ結局二人とも逃避行か」
「そうなるな」
「ふーん。それじゃあさ、一緒に来るか?」
「へ、私が?」
「おう、二人で逃避行って、一人より楽しそうだろ?」
「わ、私が、零児と、二人で……」
「おう、だって一人で居るより二人の方が戦力も多いし安全だろ?」
「そう、だな。それなら……」
「「ちょっと待ったーーッ!」」
「うおっ!」
「びっくり!」
「先生高校生の異性二人で逃避行なんていうのはちょっと許せないかなーむしろ教育的指導をしなくちゃなーとか少し考えちゃうよ!」
「そうだよユリちゃん。学校休学は仕方ないにしても、二人で逃避行は少し早いんじゃないかなーそれは普通不倫サラリーマンの辿る道だよー」
なんちゅう例えだいそれ。
「それにね、最上君。高校生二人で逃避行なんて簡単に言うけど、お金もかかるのよ。どうするつもりなのよ?」
「あ、金ですか? 金なら一億くらいあるんで大丈夫だと……」
「へ……嘘でしょ?」
「はい、嘘です。本当は三億です」
「へ…………」
「冗談です、マジに取んないでください。でもまあ、金に対しては心配ないんですけど」
「そ、そうなんだ。なんか、よく、わからないけど、あは、あはは……」
まあ、本当はいくら在るんだろうな。
最上の宗家が代々の仕事で稼いだ報酬の金塊をほんの一部だが現金化しただけで一生遊んで暮らせる金が入ったからな。
全部でいくらあるかは想像が付かん
しかしそれだけの金がありながら普通の暮らしをしてるのは学生は慎ましくあるべきだからだー。
「でも、お金の心配が無いにしても、そのなんか、他に、ねぇ、片山さん」
「そ、そうだよ。無理に逃避しないで、例えば二人で協力して敵をやっつけて警察に突き出すとかじゃダメなの?」
「それは無理」
「光、それは無理だ」
「あ、やっぱり……あの黒い人そんなに強いんだ」
「ああ、無茶苦茶だ」
そう言いながら武田は首の辺りをさすった。首にははっきりと手形が付いていた。
あれは……俺が意識を失ってる間に宗全にやられたのか。
「でも、隙を狙ったりすればさ……」
「そいつは無理だなぁ。奴に隙なんて無い。精神干渉でこちらの動きを重くしながら自分は肉体を強化しながら戦う事だってできるんだぞ? バケモンだよアレは」
「そうだな、私が戦ったときに感じた事は、とにかく動きに無駄が無いって事だ。あんな動きに私は対応できない」
「確かにそうだ。実は奴は精神干渉能力は超強力だが、肉体強化は後付だけあって純粋なスピードは武田ほどでも無いし、俺の一番速く動けるときほどでもない。しかし奴の使う物部の体術が厄介だ。動きが読めない。気がつけば吹き飛ばされている。勝つ方法があるとすれば一人が注意を引いている間にもう一人が能力の届かない遠距離からの狙撃する。それくらいしかないな」
そう、奴が父さんに使った方法。
しかし奴に狙撃が成功するところがイメージできない。戦っている最中の様な激しい動きの人間に当てれる腕のスナイパーなんてそうそう居るものでもないだろうし。
「まあ、今の俺たちじゃ無理って事だ」
「それじゃあ、やっぱり二人で逃げるの?」
「ああ、武田がOKくれればそうなるな。二人は危険だし、もう帰った方がいい」
「でも、でもっ、ねぇ、先生」
「う、そうだ、ご両親にはなんて説明をするのよっ!」
「私の方は親の命令で能力者になったので大抵のことは大丈夫だと思います」
「俺の今の親は、まあ理解ある(能力について知ってる)両親だし大丈夫かな」
「う、うぅ……」
「そ、そんな、二人に会えなくなるなんて……」
「死に別れじゃない。いつか会えるさ。で、どうする武田。出来るだけ出発は速い方が……」
と、その時。
この空間に場違いな電子音が響き渡った。
2
ピピピピピッ、ピピピピピッ!
うう、この何の特徴も無い着メロは俺のだな。
急の事に静かになる皆を尻目に携帯を見る。着信しているのは知らない番号だった。
取りあえず出る事にすると……。
「おお最上零児。まだ生きているのか」
最も聞きたくない低い声が聞こえてきた。
「この声っ、宗全!」
俺の宗全という言葉に反応し皆が驚いた顔でこちらを見る。
が、それどころではない。
「おお、良く解かったな。耳はいいのか最上零児」
「うるせえ、俺をフルネームで呼ぶのはお前ぐらいなんだよ!」
こいつの声は癇に障る。こいつの声を聞いてるとイライラする。
ダメだ、冷静になれ。どんな状況で、なぜ俺に電話をかけたかを考えろ。
「ふむ、そうか。なかなかの洞察力だ」
「うるせえ、おめえに褒められても塵ほども嬉しくねぇよ」
「おお、随分威勢が良いな。失血死しなかった所かもう回復しているとは、相変わらず生き汚い。化け物だなお前は」
「お前がいうな」
「しかしまあ無事で何よりだ」
「チッ、何処までも頭に来る奴だぜ。で、何の用だよ」
「ふむ、話があるのでな。今夜八時。耳ヶ崎第三埠頭に来い。貨物船とかは無い埠頭だ。警備も無いしお前ならばすぐに侵入できるだろう」
「は、頭おかしいんじゃねーの? 行くわけねーだろ、ヴォケが。死にたくねーんだよ。俺はな」
だめだ、感情が抑えられない。冷静に、なれない。
「そうか。だがこれは頼んで居るわけではない。命令しているのだ。大人しく来い。時間は守れ」
「は、ハハハハ。お前面白いジョーク言うのな。俺がお前の命令なんか聞くわけねーじゃん。いっぺん脳を洗濯して貰って考え直せよ。このクソドブ野郎が!」
「ふ、随分と口が悪いのだな貴様は」
「うるせえよ。この余裕ぶっこき野郎が。うぜえんだよ。俺は忙しいから切るぜ。もうかけてくるな」
「ほう、私は切ってもいいのだがな……」
「じゃあ切るぜ。死ね」
「ふむ……最上鏡子、二十歳、か」
「…………っ!」
瞬間、血液が逆流した。
「誕生日、七月十三日。血液型、B型。星之山大学3年経済学部所属か」
「き、貴様……鏡子姉さんに……」
そんなはずは、そんなはずは無い……。
「今日の服装はかなりローライズのジーンズに上はシャツの上に薄い青のカーディガンを羽織っているな」
「おい、鏡子姉さんに何したんだよ……答えろよ!」
でも、この状況は、そうとしか思えないで……。
「ふむ、下着は黒のレースだったそうだ」
その瞬間、頭の中で何かが切れる音がした。
「答えろって言ってるんだろうがこのクソ変態中年親父がッ!!」
「怒るな。少し強引に同行願っただけだ。あと下着を見たのは赤毛の奴だ。私は聞いただけで、見ては居ない」
「うるせぇふざけやがってっ! 殺してやるっ、絶対殺してやるッッ!!」
許せない。許せない許せない許せない許せない許せないッッ!!
身内に手を出した奴は何人たりとも生かしておけないっ!
「ほう、私を殺すというか。相変わらずできない事を言うのだな最上零児」
「黙れっ、楽に死ねると思うな貴様っ!」
「安心しろ。眠っているだけだ。まだ手は出してない。だから言っただろう。さっきのは命令だと」
「グッ、キサマッ!」
「ふむ、時間通りに来なければ、最上鏡子がどうなるかは……解かっているな?」
「グッ、ぐぐぐぐぎぎぎぎぎぃっっ! 解かった。解かったぜ。八時か、八時に耳ヶ崎第三埠頭に行けばいのかっ!」
「ああ」
「クソッ。行ってやるよ、行けばいいんだろっ!」
「そうだ」
「テメェ、首を洗って待ってやがれっ!」
「随分と古い言い回しを使うのだな。最上零児」
「黙れ。地獄に落ちろ、物部宗全!」
そこまで言って叩き付けるように通話停止のボタンを切る。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
気がつけば息が荒い。許せない。
身内に手を出した。俺の身内に手を出したっ!
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
許せない、万死を持って償わせてやる。
「ハァ、ハァ、はぁ、はぁ」
乱れた息を、何とか戻す。と……。
「零児……」
武田が心配そうな、そしてどこか悲しそうな顔をして俺を覗き込んできた。
「ハッ、はぁ、はぁ。ふぅ……。武田、すまない。逃避行は無しだ」
「そうか」
少し落ち着けた身体で、何とか話す。
口の中で血の味がする。歯をかみ締めすぎて口の中で出血したのか。
「すまないな。話だけになってしまって」
「ああ、それは良いんだが、やはり行くのか。零児」
「ああ、行く。行って……」
ポケットに手を突っ込む。
ポケットの中では折りたたみのナイフが固い感触を持って、俺にその存在感を示している。
「行って、今夜、決着を着ける!」
そう言って、倉庫の窓の外を見た。
窓の外は、血のように紅い夕暮れが広がっていた。
もう、夜が、近い。
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