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感情屋

作者: 俺痣斑

宣伝文章につき、あしからず。

あるところに大きなビルが一棟建っていた。

ビルのてっぺんには「感情屋」とあった。

すなわち「感情屋」という会社がビルに入っているのだろう。

ある日、一人の若い男がビルの一階の自動ドアをくぐった。

ドアをくぐるとそこはロビーで、正面には受け付けがあった。

「すみません、今、急いで手に入れたい感情があるんです」

男が言った。

「わかりました。至急手配いたします」

受け付け嬢は慣れた手つきで内線電話を各所に繋ぎ、男の便宜を図った。

「……はい……至急です……はい……繋いでみます……」

待つこと一分半、男はまだかまだかと身を震わせている。

「空きがありました。311号室です。エレベーターで三階に上がっていただいて、左の通路を突き当たりまで行っていただければ」

受け付け嬢の説明を最後まで聞くことなく、男はエレベーターの前まで走り、上へ向かうボタンを連打した。

幸いエレベーターのドアはすぐに開いた。

エレベーターの中、焦らせられるように身を震わせている男の姿がビルの警備ルームのモニターに映った。

音声によって三階に到着したことが伝えられると、男はエレベーターのドアをこじ開けて左へと走った。

通路の突き当たりまで走った。

近くの個室の部屋番を男のぎらぎらした眼が舐めるように見た。

307号室。その隣は308号室。

再び男は駆けた。

目的の場所にはすぐについた。

ドアノブを荒々しく回し、若い男は311号室に駆け込む。

まるで何かから逃れるように。

部屋の中には初老の男が一人、目を細めて座っていた。

私服の若い男とは相対的にスーツ姿でネクタイを首もとまできっちりと絞めている初老の男は、若い男を見るなり、

「注文は?」

と尋ねた。

「『愛しい』をください。愛情セット一つ」

「承知しました」

初老の男はそれだけを聞き届け、部屋の奥、もう一つの部屋へと去っていった。

『どうぞ、お座りください』

初老の男の声が若い男の居る部屋にスピーカー越しに響く。

先ほどまで初老の男が鎮座していた椅子に、若い男は貧乏揺すりをしながら座った。

30秒くらい待たされた頃、再びスピーカーから初老の男の声が響いた。

『――それでは、参ります』

次の瞬間、奥の部屋では初老の男が赤くて丸いスイッチを押した。

手前の部屋では、若い男に変化が起きていた。

荒々しかった呼吸も、両脚の貧乏揺すりも次第に収まり、その表情は幸せの絶頂のようににんまりとした笑顔になった。

そして同時にしとしとと涙が若い男の両目からしたたり落ちた。

実は若い男は数刻前、失恋していたのであった。

それもこれも彼女の二股が原因であり、向こうの男もそのことに関しては彼女を咎めた。

だがこの若い男は気がつけば蚊帳の外にされ、彼女からの謝罪も何もなく、一年間の交際の結末はあやふやに別れさせられるという、ある意味真正面から告白される別れ話よりもつらい物となったのだった。

この若い男も決して億劫なところがあるわけではなく、彼女の二股の相手の容貌やファッションセンス、いわゆるルックスや風体と言った側面において、この若い男は完敗を喫したことを自覚していて、そのことがなんとなく彼の後ろ髪を引くのだった。

彼女への覚めない愛は確かにあるにも関わらず、それを蔑ろにした彼女と明らかに自分よりも上物な向こうの男の存在が、彼を欲求不満に陥れていた。

さらに自らの愛に対して一種のプライドを持ち合わせていた彼にとって、欲求不満などは卑しい感情の類であり、見返りを求める愛など不純だと決め込むに至ったまで良いが、そこから先は延々と自己嫌悪に呑み込まれていくのみであった。

彼の愛は狂わされ、また自ら狂いはじめ、かつて釈迦が言ったが如く愛とは根源的に執着であることを自覚しないまま、純粋な恋慕の心は自己嫌悪と執着心に引き裂かれ、彼は絶望への一途を辿っていた。

しかし辿りついた先は絶望ではなく、感情屋だった。

いつでもどこでも安値で感情を売ることを商売道具としたこの会社は、顧客のニーズに添えることを徹底し近年このご時世では類い希な成長を遂げている企業である。

ここまで業績を伸ばしたのも研究開発の積み重ねの産物であり、その努力の結晶とも言えるのが感情指数反芻装置(EQAD)である。

個室型まで小型化されたこの装置は人間の感情の元を左右する感情指数を式に興し、演算、再演算を繰り返すことで特定の感情の発生経路を見いだし、それを微弱な電気信号で送り返してやることで、結果的に人間の感情を訳もなく発生させている。

発生させることが出来る感情は多岐に渡る。

『愛しい』『嬉しい』『楽しい』と言った正の方向性の感情から『悲しい』『恐怖』『憂鬱』と言った負の方向性の感情まで、何の切っ掛けもなく発生させることができるのだ。

恋をしていなくても『愛せる』し、とても楽しいときにでもすぐに『憂鬱』になれたりもする。

音楽や映画、読書の余韻。

性行為やサディズム、マゾヒズムの高揚。

旅行や祭り、結婚式への懐古。

紛争やテロ、大量殺戮への羞悪。

挙げれば切りがない感情のバリエーション。

感情屋はそのすべての疑似体験を顧客に提供することを商売とした。

嗚呼、この若い男は自分自身に裏切られ、やりようのない苦しみや憎しみに耐えきれず、いつしか広告で見かけた「感情屋」の三文字を思い出し、半ば自暴自棄になりながら「愛しい」を買ったのだ。

愛の苦しみと憎しみを浄化するために、「愛しい」気持ちに身を沈める。

やり場の無かった葛藤さえも「愛しさ」に包まれれば、まるで嘘だったかのように薄れていく。

最高まで高められた彼の愛は、友愛や慈悲、博愛や兼愛すらも内包し、その強いストレスが彼の目に温水のような涙を滲ませる。

それらすべてが偽物だと彼自身の賢明な部分は理解しているが、彼を彼たらしめる深層の部分では愛に枯れ、荒れた不毛地のような心を潤さずにはいられないのだ。

その根幹が愛でなくとも、人間は元来から渇きに追われることで前に進み得た生き物だったから、向上心とか知識欲とかもひっくるめて、それは当然のことだった。

この部屋から出て、何か状況が好転しているはずもない。

もし愛に破れた弾みで彼が自らの命を絶つようなことをしたとすれば、彼の周囲の人、もちろん彼のかつての彼女も含めて彼を知っている人は皆悲しむだろう。

しかしたとえ、それがどれだけ深い悲しみだったとしても、人間全員が彼の死を悲しむわけでもなく、世界は彼が居なくなっても一見何も変わっていないかのように見える。

だがしかし、世界は変わっているのだ。

仮定だが、彼がいなくなったという点で、世界は確かに変わったのだ。

いなくなるだけでも人間は世界を変えられるのだ。まして生きている人間なら尚更だ。

感情屋は人間の救済を目的としているのではない。その慰めを目的としているのではない。また、世界の変革を目的としているのではない。

ただ、在り続けることを目的としているのだ。

感情という千差万別、十人十色な代物を扱うには、企業として高みを目指す志は不要であり、必要な事と言えば一度世間に「感情屋」として知られたからには、時代のうねりに添いながら変幻自在に存在し続けることだ。

それも、最後の最後、世間から忘れられるまで。

だから「感情屋」には毎日たくさんの客が入り、新聞やテレビには毎日「感情屋」の批判が載る。

時に人は、朝日や虹、夕日や星空、月や四季折々の景勝といった場面において、前触れなく大きな感情が舞い起こることがある。

「感情屋」の最大の理念は、そのようなところにある。

そのことを彼は知る由もないが、「感情屋」が無かったとしたら今ごろ彼はどこで何をしていただろうか。

答えはないが、世界から愛が一つ消えていたことは確かだろう。

遠い昔、誰かが言った。

『人間とは個々に離れ小島のように在るのではなく、人類全体で大きな一つの大陸なのだ。その岸が波に削られたのなら、それは人類全体の大きな損出だ。教会の鐘の音が誰のために鳴っているのか。そのような問いは愚問である。何故ならそれは、人類全体、つまりはあなたのためにも鳴っているのだから』

赤ん坊の感情は「快」か「不快」

世界には『腹減った』と『死ね』が溢れている。

感情屋は余計なことをしない。

今、自らが破綻することを予知できた若い男が、自らを救うことができたように、物は使いよう、逆境の際の選択、すべては人間次第なのだ。

時と世界は巻き戻らない。

信念と共に進んでも悲劇は起こるときは起こる。

どんな悲劇も起きてしまった以上、過去として定着する。

その上で罪や自己嫌悪がのし掛かってきて、言い訳やぬか喜びに入り浸ったとしても、突きつけられる現実は変わらない。

それをどう捉えるかも感情の保ちよう。

失敗しても良い。

その後、必ず誰かが手を引いてくれるから。

ただし君が手を振り払ったとき、真の意味で君は独りになるだろう。


「感情屋」は年中無休24時間営業。

あなたが望む感情を、あなたが望むときに――。


若い男がビルの一階の自動ドアをくぐった。

彼はもう大丈夫だろう。

すべては心の保ちようだ。

「またのご来店をお待ちしております」

おそらく、彼の来店は二度とない。










感情に負けるな。

感情と生きろ。

またのご愛読をお待ちしております。

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