六
山の風が夏の暑気をはらんできた。
《独鈷ノ淵》からほど近い谷にぽっかりと口をあけている洞穴を、平五郎はのぞき見た。子供のころ、実吉ら遊び仲間と連れそって、ここで夜を明かしたことがある。
新しい人間の足跡が出入りしている。穴のまえには焚き火の燃えさし。
平五郎は身をかがめ、一歩を踏みいれた。
ぼろぎれのようになった毛布は、どこから調達したものだろう。すえた匂いのするこの洞穴は《竜神》のねぐらにちがいない。
岩肌にかこまれた二畳ほどの空間は、昼間でも日のささない暗がりである。奥は平たい花崗岩が棚のようなかたちで一段あがっていて、その上に木綿の衣服が丁寧に折りたたまれていた。軍服だった。
上着の裏地に名前が刺繍されている。曽根桃吉、階級は兵長。
平五郎は軍服の上着だけを右脇にかかえて穴ぐらを出た。《竜神》の正体をあばいた喜びはなかった。
桃吉の名を口にしても、老人はさして狼狽するようすはなかった。
あいかわらず岩上に結跏趺坐して平五郎を見おろしている。ひからびた腕を静かにさしだし、上着を返すよう求めてきた。平五郎は一瞬戸惑ったが、言われるままにした。
真昼の淵にウグイスのさえずりが響いてくる。
「戦争は一〇年以上前に終わっている」
確認するように平五郎は言った。
「おまえの殺しは、もう終わったとでもいうのか。わしの戦争はまだ終わってはおらん」
桃吉は平五郎をおだやかに見つめてこう返した。桃吉は問わずがたりをはじめた。
「慶良間に配属されたのは終戦間近のことだった。沖縄はつぎつぎに占領されていった。
徹底抗戦のため離島の住民を組織するよう命令された。ある離島に上陸したとき、わしは海岸で小艇の見張りをすることになった。
わしは死ぬのだと思った。海辺で一人になった。気がついたら、ひとりで小艇に乗り島を抜けだしていた」
平五郎は戦時中、兵役につくには若すぎた。戦後の反戦教育の洗礼を受けた最初の世代なので、軍隊のことはよく知らない。老人は続けた。
「不思議なことに、追っ手はかからなかった。ずっとあとで知ったことだが、慶良間はそれからすぐに陥落し、脱走兵ひとりにかかずらわっている暇はなかったのだ。
わしは食糧もなく、水もないまま海をさまよった。
どれほど海の上にいたのかはおぼえていない。たどりついたのは無人島だった。わしはそこで何ヶ月ものあいだ、ひとりで暮らした。
わしは自分の犯した罪について、ずっと考えていた。仲間を捨てて逃げ、生き恥をさらしている自分を見つめた。何度も自決しようと思ったが、できなかった。自決などで赦される罪ではないように思えたのだ。
島を出た。日本人につかまって軍法会議で処刑されるか、アメリカ兵と遭遇して玉砕するか。このどちらかでしか、罪はぬぐえないと思った。
流れついたのは鹿児島沖の小島だった。そこでわしは、戦争がすでに終わったことを知らされた。わしを銃殺する日本軍も、わしと戦う敵兵も、なくなっていた」
老人はうつむいて深く息をついた。
「軍籍では、わしは戦死ということになっていることだろう。わしという人間は根こそぎ消し去られてしまったのだ。だがわしはここにおる。おかした罪も、わしと一緒にずっとある」
顔をあげた桃吉は平五郎に微笑みかけた。平五郎は身震いした。
「三年まえまで、東京で物乞いをしていた。山に入ったのは一昨年からだ。冬のあいだは街へおりる。
わしは償えぬ罪をつぐなうためだけに生きているのだ。おまえと同じようにな」
「おれと、同じように?」
平五郎はおうむ返しにたずねた。
さっきから気にかかっていた。この老人はまるで、平五郎がまるで旧知の友でもあるかのように、気さくに、うちとけて話をする。
「どうしておまえがここに来たのか、よくわかるぞ。わしの弱みをにぎって、させたいことがあるのだろう」
老人の細い目が平五郎を刺した。そのとおりだった。
桃吉は見ぬいていた。みえが竜神とあおぐこの老人を使って、みえの心をもういちど、平五郎にそわせようとしていることを。
「明日の朝にここへ来るがいい。みえも来るはずだ。
村でとった客が、たまたまおまえの映った写真を持っていたらしい。源太を殺した男だと教えられたそうだ。
みえにはよく言ってある。源太を殺した悪い男の魂は、わしがこの淵の底へ沈めた。いまの平五郎には、命をおとした源太の魂が宿っているとな」
「ほんとうか」
平五郎は詰めよるようにたずねた。
「わしは去年も一昨年も、源太とみえのここでの逢引を茂みのかげからのぞき見しておったのだよ。
源太とみえの名前も、二人の話を聞いていたから知っていた。気づかれてはいなかったがな。
わしは陸軍の訓練を受けた。森で気配を殺すことにかけては、おまえたち狩人に負けん。
みえと顔を合わせたのは、今年になってこの山に登ってからのことだ。
みえはこの淵で一心に祈りをささげていた。わしをみつけて、淵の底にすむという竜神と思い込んだ。
いずれ源太のかわりが現れるだろうと言ってやると、みえは喜んでそれを信じた。
みえはちょくちょく淵に現れては、このわしに祈るようになった。信じて祈ることがみえにとっての救いならば、それを聞きとどけてやるのも情けだろう。その見返りとして、わしは若い女子の肌を見ることができるのだ。
ゆくゆくはわしに源太の魂が乗りうつったとでも言って、みえにふれてやろうと思っていたところに、おまえが現れた。
あの女はわしを神と信じてうたがっていない。みえの目には、もうおまえは平五郎ではなく源太そのものだ」
老人はほがらかに笑った。
平五郎は口を閉じた。
源太を死なせた罪を、坂濠の人々は赦した。しかし平五郎自身はどうか。自分の罪を、平五郎は赦せているだろうか。
子を授からないというだけの理由で離縁されたみえは、むしろ悲惨な被害者だ。しかしみえの心のなかではどうか。愛する夫の期待に添えなかったみえもまた、だれも裁けないからこそ、だれにも赦すことができない罪を心の奥底に背負いこんでいるのではないのか。
罪はみずから赦さぬかぎりは、罪を犯した者の心の中に、消えずに残りつづける。
この世界のだれも、平五郎のほんとうの罪を知らない。みえの心の罪を知らない。この老人をのぞいては。
桃吉はみずから赦すことができない二人の罪を、《赦せない》という事実ごと受け入れ、知ってくれている。
(おれからこの老人に、なにかしてやれることはないのか?)
平五郎はふと、そんなことを思った。
しかしそんな考えはすぐに消えた。老人はただ、自分たちのことを知ってくれているだけだ。桃吉は幸福そうに昔語りを楽しんだ。それで充分ではないのか。
老人の笑顔に、平五郎はこたえた。ひさしぶりに晴れ晴れと笑えたような気がした。
山を下りようと振りかえったとき、平五郎の脳裏にひとつ疑問がよぎった。
向きなおって訊いた。
「おれが源太を死なせたことを、どうして知っている?」
桃吉ははじめて、意外そうな顔をした。
「見ていた。気づいていなかったのか」
平五郎の顔から血の気がひいた。
「いつものように、源太がみえを待っているところに、おまえが現れた。
源太がちょっかいをかけたな。源太はおまえを追いはらって、だれにも知られずみえを迎えるつもりだったのだ。
しかしおまえは銃をむけて反抗した。源太は挑発をつづけた。おまえは撃った。
はじめから終わりまで、わしはしげみの影からみておったよ」
目のまえがくらくらした。現場を見ていた者がいる。この老人が。
「裁判ではおまえは源太をイノシシとまちがえて撃ったことになっているらしいな。
さいわい、仲間は近くにいなかった。殺した瞬間をだれも見ていない。運がよかったな」
言い終えるのを待たず、平五郎は老人の胸ぐらをつかまえて巨石から引きずりおろした。
下ばえに押さえつけ、顔面を思いきり殴りつけた。一発、二発、三発。
衰えた老人の命を奪うのに、たいした労力はかからなかった。
「あんたの罪を、消した」
立ちあがり、ぼろのような老人の死体を見おろして言った。
桃吉は自分の罪を知ってくれていた。
だが、すこし知りすぎていた。
平五郎はいちど山を下り、縄をたずさえてすぐに戻ってきた。死体を手ごろな岩といっしょに毛布に巻きつけ、深い碧の淵の底へ沈めた。
「これで桃吉はほんとうの竜神になった」
平五郎はひとりごとを言った。 |