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竜神の淵・天女の淵
作:あずみまつゆき





 逢引はそれからも、四、五日に一度の頻度で続いた。
 男に結婚の話はない。もっと若いころ、ひそかに逢瀬をかさねた女もいたが、その女がよその村に嫁いでしまってひさしい。二四の独り者だった。
 平五郎が夜中に家をぬけ出し、山奥に消えていくことを知っているのは家の者だけである。ときおり自分に向けられるいぶかしげなまなざしを感じたが、平五郎は気づかぬふりをしてやりすごした。
 山に入るときにはいつも「山菜採り」と言い、実際、きのこやぜんまいをいくらか摘んで帰った。沢で魚を釣りあげることもあった。嘘の言いわけとしては拙劣すぎるということくらい百も承知だったが、どうでもよかった。
 みえの態度ははじめのときから変わりなかった。平五郎のことを源太と呼び、三年の夫婦生活でつちかったものなのか、甘くなれなれしい態度で平五郎の分厚い胸にもたれてくる。
 ただ、言葉のはしばしから明らかになる事実もあった。みえと源太は離縁してからも、ひそかにこの淵で定期的に逢い、身体をかさねていたのだ。
 事件のなかで、最後まで明らかにされなかった謎がひとつあった。なぜ源太は淵の周辺をひとりで歩いていたのかという点である。
 裁判が平五郎に有利に進んだ一因でもある。その秘密が明らかとなった。源太はみえと会うために淵へ来ていたのだ。
 おそらく二人の離縁を決めたのは源太の家の者で、当の源太はみえを愛しつづけていたのだろう。
「源太さん、今日はおにぎりがあるよ」
 月光の下、屈託(くったく)のないのっぺりした白い笑顔を平五郎に向けた。
(男に体を売って生計の足しにしているというが、どのくらい客をとっているのだろうか?)
 平五郎は最近、そんなことが気になりだしている。
「竜神さまにも、ほら。お食べになってください」
 米だけの握り飯を老人の座る巨石のすみに置く。この老人もいつも同じ場所にいて、平五郎とみえの営みを飽きもせずにじっと見守っている。
 はじめのうちは気になっていた平五郎だが、老人が害をなさないとわかると、しだいに何も感じなくなっていった。どこかの(ほう)けた老人か修験僧(しゅげんそう)でなければ、みえの言うとおり山の神なのかもしれないと、いささか投げやりに思い始めてもいる。
 山に入り、女を抱く。それも、自分が死なせた男の妻だった女と。浮いた話のない平五郎にとって、性の充足は近頃の宙に浮いたような生活の慰めになる。
 しかし、みえとの関係はそれだけではない。
 源太は死んだとき、独身であった。みえと離縁してから再婚しなかったのである。三年子供ができないというだけで、一度親族に迎えた女を放り出すような一族なら、新しい妻をどこぞから準備していたにちがいない。源太はおそらく、その女との結婚をかたくなに拒んだのだ。
 みえと復縁するため、親を説得しようとしたかもしれない。しかし願いはかなわぬまま、源太は命を失った。
 いま、平五郎は源太の《代わり》として山に入り、源太と呼ばれ、源太として愛されている。
 愛されるたびに、罪の重さを思い知らされる。
(源太を死なせた罪に対する、これが罰なのではないか)
 平五郎はこんなふうに考えはじめていた。
 六月も終わりに近い。平五郎はいつものように、淵のへりの岩に身を横たえ、みえを待っていた。から梅雨の夜空には星が光っている。
 ぼろをまとった老人はあいかわらず、巨石の上に鎮座していた。
「なあ、《竜神》さんよ」
 平五郎はハイライトの煙をゆっくり吐きながら言った。
 返事をしない老人に、平五郎は続けた。
「おれたちのこと、どう思ってる」
「どう、とは、どういうことだ」
 老人は問いを返した。
「おかしいとは思わないのか? おれとみえがこんなふうになっていることが」
 一呼吸おいてから、老人はゆっくりと答えた。
「おまえたちは、たがいを必要としている」
「みえにおれは必要なのか」
「あの女にとって、おまえはたった一つの光明だ」
 聞くまでもない。よくよく了解していた。平五郎がほんとうにききたかったのは、それとは逆のことだ。
「おれにとっても、みえは必要なのか」
 自問のつもりで、口にしてみた。源太として愛されることが、平五郎にとって罰以上の何かだろうか。
「みえがおまえを必要としているよりも、おまえはみえを必要としている。おまえがいちばん必要としているものを、あの女はもっているからだ」
 平五郎はタバコを口にくわえたまま老人を見た。逆光のため表情は読みとれない。
(このじじい、てきとうなことを言っている)
 老人の言葉を頭から追い出そうとして、口をすぼめて強く煙を吐きだした。
「認めたくはないだろう。だがおまえがここに来るのは、ただ女を抱きたいからではあるまい」
 ジュッ、と音がした。平五郎がタバコを淵に放りこんで消したのである。
 起きあがり、あぐらをかいた。
「みえの何が、おれに必要なんだ。言ってみろ」
「……」
「なんだと?」
 茂みを分け入るガサガサという音が問答をたち切ったので、老人の一言を平五郎は聞きとりそこねた。
「みえか。待ったぞ」
 平五郎は立ち上がり、ふり返った。瞬間、(ひらめ)く白刃が目に飛び込んできて、平五郎はからくも身をかわした。
 みえは勢いを止められず、淵のなかに足を踏みいれて転倒し、全身ずぶぬれになった。立ちあがり向きなおったみえは出刃包丁を両手にしっかとにぎり、男に相対した。
 平五郎はブナの幹を背に立ち、目を見ひらいた。
 長い黒髪から淵の水がとめどなくしたたり、そのしずくのひとつひとつが銀光を照りかえした。まるで親の仇のように、こちらをにらみすえている。平五郎はすべてを理解した。
 親ではない、夫の仇なのだ。
「よくも源太さんを! 源太さんを返せ」
 どこで、どうやって知ったのか。それとも正気に戻ったのか。わからない。
 やみくもな女の突進をかわすことは容易だったが、平五郎はおそろしかった。
(おれはここで、みえに刺し殺されるべきだ)
 心の一隅(いちぐう)に、こんな思いがわだかまっている。いつか、この思いに敗れる日がきそうな気がする。それがなにより怖かった。
 平五郎は山を下りた。
「人殺し! 源太さんを返せ」
 みえの甲高い怒声が背中を追いかけてくる。
 どこまでも追いかけてくるので妙だと思ったら、いつのまにか、みえの声は幻聴になっていた。







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