四
「山菜を摘んでくる」
家の者にはそう伝えて、平五郎は山に入った。夜半をすぎたところである。
午前二時。《独鈷ノ淵》の夜はまだ明けておらず、水辺にみえはいなかった。
ひんやりした花崗岩に身を横たえた。懐中電灯を消すと、木々の枝葉の隙間から月の光がもれて、幾条かの白い筋をつくった。
寒い。平五郎は目を閉じた。少し眠ろうと思った。
「あの女なら、もうじきここに来る」
平五郎はぎょっとして身をおこした。不意の声だった。
見ると、清水のわきだす巨岩に老人が鎮座している。みえが《竜神さま》と呼んでいた老人である。
平五郎は岩の上に片膝をつき、油断のない姿勢で相手を見すえた。
(さっきまでは、確かにいなかった)
この静かな夜に、気配なく近くまで寄られたことが不気味だった。
月は老人の背後から照りつけている。こちらからは逆光だが、むこうからは平五郎のひきつった口元まで見てとれるだろう。
平五郎は手もとの懐中電灯を入れて老人にむけた。これで《見る・見られる》の関係は逆転する。
「このへんでは見ないじいさんだな。だれだ?」
誰何したあと、懐中電灯をすばやく八方にむけ、ほかに人がいないことを確かめた。
老人は峻厳なおももちをくずすことなく、こちらをまっすぐに見おろしていた。やがてきしるような声でこたえた。
「何者でもない。この山にすんでいる」
「みえに竜神とかなんとか、呼ばれていたな」
「あの女が勝手に呼んでいるだけだ」
「じゃあ、名前は?」
「名前はない」
平五郎はしばらく黙った。
(ふざけたじじいだ)
名前を聞いたところで、何にもならないことは分かっている。
(山に住んでいる? ありえない。この山中で老人がひとり、冬を越せるはずはない)
修験者なのかもしれないと、平五郎は思った。それなら、竜神などと呼ばれていることも納得できる。どこかの乞食坊主がこの淵で修行をしているのではないか。
(岩から引きずりおろして尋問しようか)
一瞬、そんな思いがよぎった。しかしその気にはならなかった。
自分とみえとの交合を見まもった老人である。竜神などとは思っていないが、得体の知れない畏れのような感覚を平五郎もいだいている。事実、このような夜中に突然現れたのだ。
それにみえがもうすぐここに来るとすれば、彼女が崇めたてまつっているこの老人を乱暴にあつかうのは気がひけた。
なんにせよ、みえが平五郎を源太と勘違いしているのは、この老人の《導き》のおかげなのである。
大きなの謎のひとつは、その点だった。
「どうしておれが源太の《代わり》なんだ? あんた、おれが誰だか知ってるのか」
老人の口元が奇妙にゆがんだ。
「おまえは源太を殺した」
はっきりとした声で、こう言った。平五郎の脳裏を冷たいものが走った。
老人は続けた。
「源太の代わりと言ったのは、あの女がそれをもとめていたからだ。おまえのほうは、あの女が何者か知っているのか」
平五郎はうなずいた。
野田頭源太の妻だった女だ。離縁されてから気が狂い、老母のもとで村人に春を売って生活している女。
「女の求めているものも、おまえと同じ。おまえたちは、似合いだ」
「なんだと」
老人は口のはしをにいとひらいて、いやらしく笑った。電灯の黄色い光に照らされ、白目がぎらぎら輝いた。
高山の夜は初夏であっても凍えるように寒い。老人を冷静に分析しようとする心が、いつしか恐怖と狼狽に染まっていた。
疑問が最初の一点にもどった。さきほどと同じ問いであることに、平五郎は気づいていない。
「みえはあんたを竜神と呼んでいた。なぜだ」
「勝手にそう呼んだのだ。あとは女に聞くがいい」
そのとき、下生えを踏みしめるかすかな音が耳に伝わってきた。
「源太さんかい?」
みえは現れるなり、平五郎にかけよった。着古したモンペ姿。家事の中途でフラリと出てきたのにちがいない。
割れた巨石からわきだす水が、ほそい音をたてて淵に流れこむ。水面は森の闇を吸いこんで、黒く底光っている。
みえの目に《竜神さま》は映ったのだろうか。まっすぐ平五郎に抱きつくと、やわらかな腕を首に巻きつけた。
「このまえは、どうしたの。いきなり行ってしまうんだもの」
悩ましい声を漏らした。からみながら、たがいの衣服をはぎとっていく。夜気が素肌を刺した。
「すまない、みえ。ゆるしてくれ」
「ゆるすもなにも、ないよう。もう、どこにも行かないで」
平五郎が懐中電灯のスイッチを落とす。老人の笑いは逆光のかげに消えた。
二人は身を重ねた。
鳥の朝啼きがはじまる夜明けまではまだ間があった。 |