竜神の淵・天女の淵(4/7)PDFで表示縦書き表示RDF


竜神の淵・天女の淵
作:あずみまつゆき





「山菜を摘んでくる」
 家の者にはそう伝えて、平五郎は山に入った。夜半をすぎたところである。
 午前二時。《独鈷(とこ)(ふち)》の夜はまだ明けておらず、水辺にみえはいなかった。
 ひんやりした花崗岩に身を横たえた。懐中電灯を消すと、木々の枝葉の隙間から月の光がもれて、幾条かの白い筋をつくった。
 寒い。平五郎は目を閉じた。少し眠ろうと思った。
「あの女なら、もうじきここに来る」
 平五郎はぎょっとして身をおこした。不意の声だった。
 見ると、清水のわきだす巨岩に老人が鎮座している。みえが《竜神さま》と呼んでいた老人である。
 平五郎は岩の上に片膝をつき、油断のない姿勢で相手を見すえた。
(さっきまでは、確かにいなかった)
 この静かな夜に、気配なく近くまで寄られたことが不気味だった。
 月は老人の背後から照りつけている。こちらからは逆光だが、むこうからは平五郎のひきつった口元まで見てとれるだろう。
 平五郎は手もとの懐中電灯を入れて老人にむけた。これで《見る・見られる》の関係は逆転する。
「このへんでは見ないじいさんだな。だれだ?」
 誰何(すいか)したあと、懐中電灯をすばやく八方にむけ、ほかに人がいないことを確かめた。
 老人は峻厳なおももちをくずすことなく、こちらをまっすぐに見おろしていた。やがてきしるような声でこたえた。
「何者でもない。この山にすんでいる」
「みえに竜神とかなんとか、呼ばれていたな」
「あの女が勝手に呼んでいるだけだ」
「じゃあ、名前は?」
「名前はない」
 平五郎はしばらく黙った。
(ふざけたじじいだ)
 名前を聞いたところで、何にもならないことは分かっている。
(山に住んでいる? ありえない。この山中で老人がひとり、冬を越せるはずはない)
 修験者(しゅげんじゃ)なのかもしれないと、平五郎は思った。それなら、竜神などと呼ばれていることも納得できる。どこかの乞食坊主がこの淵で修行をしているのではないか。
(岩から引きずりおろして尋問しようか)
 一瞬、そんな思いがよぎった。しかしその気にはならなかった。
 自分とみえとの交合(こうごう)を見まもった老人である。竜神などとは思っていないが、得体の知れない(おそ)れのような感覚を平五郎もいだいている。事実、このような夜中に突然現れたのだ。
 それにみえがもうすぐここに来るとすれば、彼女が(あが)めたてまつっているこの老人を乱暴にあつかうのは気がひけた。
 なんにせよ、みえが平五郎を源太と勘違いしているのは、この老人の《導き》のおかげなのである。
 大きなの謎のひとつは、その点だった。
「どうしておれが源太の《代わり》なんだ? あんた、おれが誰だか知ってるのか」
 老人の口元が奇妙にゆがんだ。
「おまえは源太を殺した」
 はっきりとした声で、こう言った。平五郎の脳裏を冷たいものが走った。
 老人は続けた。
「源太の代わりと言ったのは、あの女がそれをもとめていたからだ。おまえのほうは、あの女が何者か知っているのか」
 平五郎はうなずいた。
 野田頭源太の妻だった女だ。離縁されてから気が狂い、老母のもとで村人に春を売って生活している女。
「女の求めているものも、おまえと同じ。おまえたちは、似合いだ」
「なんだと」
 老人は口のはしをにいとひらいて、いやらしく笑った。電灯の黄色い光に照らされ、白目がぎらぎら輝いた。
 高山の夜は初夏であっても(こご)えるように寒い。老人を冷静に分析しようとする心が、いつしか恐怖と狼狽に染まっていた。
 疑問が最初の一点にもどった。さきほどと同じ問いであることに、平五郎は気づいていない。
「みえはあんたを竜神と呼んでいた。なぜだ」
「勝手にそう呼んだのだ。あとは女に聞くがいい」
 そのとき、下生えを踏みしめるかすかな音が耳に伝わってきた。
「源太さんかい?」
 みえは現れるなり、平五郎にかけよった。着古したモンペ姿。家事の中途でフラリと出てきたのにちがいない。
 割れた巨石からわきだす水が、ほそい音をたてて淵に流れこむ。水面は森の闇を吸いこんで、黒く底光っている。
 みえの目に《竜神さま》は映ったのだろうか。まっすぐ平五郎に抱きつくと、やわらかな腕を首に巻きつけた。
「このまえは、どうしたの。いきなり行ってしまうんだもの」
 悩ましい声を漏らした。からみながら、たがいの衣服をはぎとっていく。夜気が素肌を刺した。
「すまない、みえ。ゆるしてくれ」
「ゆるすもなにも、ないよう。もう、どこにも行かないで」
 平五郎が懐中電灯のスイッチを落とす。老人の笑いは逆光のかげに消えた。
 二人は身を重ねた。
 鳥の朝啼(あさな)きがはじまる夜明けまではまだ間があった。







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