三
女はもちろん、天女ではなかった。
野田頭源太のもと妻である。一七で嫁いだが、三年たっても子供ができなかったため離縁され、家にもどった。
みえの実家は戦中まで小作農で、いまは農地改革で手に入れた猫の額ほどの土地を耕して生きている。父は数年前に死に、腰のまがった母がひとり残っていた。
不妊で離縁された女に、ふたたび嫁ぐさきはなかった。老母との心細い生計をおぎなうため、村の若い男に操を売っている。
このような黙認の娼婦はS村に何人かいて、ふつうは近隣の集落にも知られている。平五郎が知らなかったのは、みえが川東の女だからである。
山をおりて数日後、狩り仲間で事情通の実吉にみえという名をそれとなくたずねてみると、こうした答えがすらすら返ってきた。
実吉は事件のおりの狩猟チームの一員である。平五郎が源太に発砲したとき、メンバーは全員少し離れた別の場所にいた。銃声を聞きつけ、最初に駆けつけたのは実吉である。気の昂ぶった平五郎をなだめ、いっしょに源太を崖下からひきあげたが、そのときすでに源太は虫の息だった。
猫背の小男だが、目はしがきき、面倒見もよいので、坂濠での人望は厚い。平五郎とは幼少のころからうまが合い、大柄で無骨な平五郎の相方をよくつとめている。平五郎は十代のころ、無口で不器用な性格がもとで、よく集落内外の同世代と衝突した。殴り合いの喧嘩もよくあることだったが、この実吉が裏からうまく手を回して、ことを円満におさめることも少なくなかった。
「それで、その女がどうした?」
実吉はけげんそうに質問をかえした。
「いや」
平五郎は言葉をにごした。相手が親友であっても、先日のできごとを話すつもりはない。
実吉はしばし首をかしげて平五郎をみつめていたが、やがてひとり納得がいったようにうなずき、似合わない優しい笑みをむけた。
「言いたくないなら、いい。だが」
真顔になり、平五郎の瞳の奥を見すえる。
「去年のことは、もう忘れろ。あれは事故だ。おまえは悪くねえ。坂濠のもんはみんなわかってる」
死なせた男の別れた妻を気にかける平五郎の心中に同情をよせている。しかし平五郎はあいまいな視線で流した。
「おまえは、みえを見たことはあるのか」
平五郎はたずねた。実吉はとんでもないというように首をふった。
「川東になんか、おいそれと立ち入れるもんじゃねえ」
「そうだな」
川をはさんでとなりあう坂濠と川東だが、おたがいの出入りはほとんどない。むやみに立ち入ろうものなら、袋叩きにされてしまう。源太が死んでからこのかた、川東の若者たちはますます血の気が多くなっている。
実吉は話題を変えた。
「そんなことより平五郎、この間の話だがな」
「ああ、青年団の」
「どうだ? やってくれないか」
「おれの話なんか、誰が聞きたがるもんか」
「みんなが聞きたがってる。年寄り衆もみんなだ」
青年団の次の集会で、平五郎の演説を聞きたいという声があがっていた。実吉が平五郎をたずねているのもこちらが本題である。平五郎はここ一月、返事を先のばしにしていた。
「おれは執行猶予中だ。犯罪者なんだ。そんなやつがみんなのまえでえらそうに話すなんて、おかしいだろう」
できることなら演説などしたくはない。それが平五郎の本音である。
実吉はしばらくうつむいて沈黙したが、表情を曇らせてこう切り出した。
「弘と庄三が、東京に行くと言いだしてる」
「そうか。みんな都会に出たいんだな」
平五郎はうつむいて返事をした。
「呑気なこと言うな。なんとか引き止めないといかんだろう」
「なぜだ?」
平五郎の素朴な問いに、実吉は困り果てた顔でため息をついた。
「おまえは変わった。前なら何も言わなくても、二人を止めにはいっていた」
終戦から一〇年あまり。特需景気から高度成長、世の中は急速な変貌を遂げている。
しかし成長しているのは都市であり、農村ではなかった。鉄道の通らないこの山間の村は、肥大をつづける都市に食いつぶされようとしている。
「いま、若いやつが村を出てしまったら、県との戦いがますます不利になる。それくらい、おまえにもわかるだろう」
平五郎は無表情でうなずいた。
坂濠は県の行政と対立していた。争点は多目的ダムの建設。計画が実行されれば、集落の大部分がダム湖の底に沈む。青年団の集会で平五郎が求められている演説の内容も、ダム建設反対にかける村人の士気を鼓舞するためのものだ。
実吉は熱っぽく続けた。
「人を減らすわけにはいかない。事件からこっち、おまえは坂濠の若者衆から尊敬されてる。おまえから言ってやれば、弘も庄三も考えを変えるにちがいないんだ」
「だが、俺が演説したなんて川東に知れたら」
「知れたら、なんだっていうんだ?」
実吉の声色が変わった。
「湖に沈むのは川東もおなじだ。県の行政を相手にするなら、川東も味方に」
平五郎の主張は、実吉の怒気をはらんだ言葉にさえぎられた。
「川東と組むなんて、どうしたらそんなこと思いつく? よりにもよって、おまえが」
「だが」
「もういい。講演のこと、またゆっくり考えてみてくれ」
実吉は立ちあがり、出ていった。
平五郎はため息をついて、土間の勝手口をうつろにながめた。
すりきれた畳にあぐらをかく。ここは平五郎の家である。
兄が二人、姉が一人。それに弟が二人。平五郎は名のとおり五男で、それ以外にも二人の兄がいたが、流行り病ですでにこの世にいない。
次兄は大阪の工場で働いている。姉は坂濠の男に嫁いだ。祖父母はもういない。
村がダムに沈めば、一族でどこかへ移住しなければならない。行政は補償金を出すといっているから、県内に畑を買うこともできるかもしれないが、おそらく次兄のいる大阪や名古屋のような都会に出ることになる。
生まれてこのかた村を出たことのない両親には、考えられないことだろう。畑をついだ兄夫婦や、村の男に嫁いだ姉にしても、同じことだ。
村がなくなるとなれば、意識したことのなかった郷土愛ももたげてくる。平五郎とて、心中穏やかなわけはない。
ダムの話がもちあがった二年まえには、平五郎は集落の若い衆の先陣をきっていた。長老格と話し合い、反対運動の中心で働いてきた。
実吉の言葉を借りれば、いまの平五郎はまるで抜け殻である。
(執行猶予の期間がすぎたら、いっそ村をでようか)
こんなことを漠然と考えてさえいた。平五郎も土地を継承する立場にはない。どこかへ婿養子に出るのでもない限り、いずれは生活のすべを考えなければならない。
しかし村を出て、それで何になるだろう。平五郎は前科者である。この村でなら赦されても、大きな街でこの前歴がどれほどの重みをもつかということくらいは知っているつもりだ。
ダムができれば、畑も消える。いずれにせよ、ここにはいられない。坂濠も川東もなくなる。
平五郎の前科だけを残して、すべてが水底に沈む。
それは怖いようでいて、さっぱりするような気もする。
ここ一年、ろくに働かなくなった平五郎を、家の者は遠巻きに見守っている。坂濠の若者の尊敬を集めていたとしても、人生を大きく狂わせたことに違いはない。
平五郎をとりまくまなざしは温かいが、戸惑いと不安を含んでもいる。
日が暮れようとしていた。平五郎は夕食をとり、いつもより早く寝床についた。 |