二
むかし、高名な修験者がこの地で修行をしたおり、仏具の独鈷杵を水の中にうっかり落としてしまった。すると淵の底から竜神が顔を出し、独鈷杵を返してくれた。《独鈷ノ淵》の名はこの言いつたえに由来する。
尾根が崩落するようにできた崖の下が、小広い平地になっている。ブナ林にとりかこまれたそのまんなかに、二つに割れた巨大な花崗岩がずしりとあぐらをかき、その間から地下水がこんこんと湧きでてほそく流れ落ちていた。
清水の流れる先に、小さいが深い碧の泉がある。これが《独鈷ノ淵》である。
泉は巨木の枝葉に陽光をさえぎられ、水面からたゆたう霧に薄暗くおおわれていた。
S村周辺の猟師ならだれでも、山の神が住むといわれるこの泉を知っている。しかし実際にここを訪れるものは少ない。実体をもった宗教的な聖地というよりは、狩人ひとりひとりに根づく、心の神のよりどころのような存在なのである。
平五郎がいま淵を訪れるのも、なにか目的があるというわけではない。事件の現場がたまたまここから近かったので、ふと立ち寄ろうと思ったまでである。しかしその気まぐれの深層に、山の霊がすまう聖域を血で穢したうしろめたさがまったくなかったとは言いきれない。
しげみを分け入るうち、平五郎は先客がいることを察した。
獣ではない。人間の声がきこえる。それも、女だ。
(こんな時間、こんな場所に、誰が?)
夜明けの二時間まえ、平五郎はまっ暗な山道を歩いてきた。
ブツブツとつぶやくような、うなるような声が大きくなってくる。平五郎は狩猟の習慣で気配を消すと、大樹の幹にかくれて淵のようすをうかがった。
女はまるはだかだった。泉に膝までつかり、こちらに背を向けて立っていた。
むこうに割れた巨岩がそびえている。右側の岩の上が半畳ほど平らになっていて、その上に老人が結跏趺坐し、泉の女を見おろしていた。
女は巨石の上の老人にむかって、しきりに祈りをささげている。
老人の顔に見覚えはない。ぼろきれ同然となった浴衣のようなものを身体にまきつけている。顔や手足も垢で真っ黒だった。まともな生活をしている者には思われない。
女の顔は確認できないが、すくなくとも坂濠の者ではない。衣は淵のわきにたたんで積んであるので、ここまでの山道を全裸で来たわけではないらしい。年のころは二〇代のなかばといったところ。背中から尻への肌は白く、輪郭の曲線はまるくしなやかだった。濡れた黒髪が背筋にたれている。
「りゅうじんさま、りゅうじんさま、どうか……を……ください」
両腕をあわせて老人にむけてこすりあわせ、腰を不器用にくねらせている。ひどく滑稽なおどりに見えた。
老人を『りゅうじんさま』と呼んでいる。
女がなにをどうしてくださいと言っているのかを聞きとろうとして身をのりだした拍子に、しげみをガサリとゆらしてしまった。これが狩猟なら、獲物を一頭のがしている。
老人が気づき、それから女がふりかえった。
平五郎は逃げるかとどまるか逡巡した。相手がただの女と老人ならば、なにも危険なことはない。だがこのような早朝の山奥である。妖怪や幽霊など信じてはいないが、すでに日がさしているとはいえ、目の前の光景はじゅうぶんに不気味であった。
こちらを向いた女はのっぺりした顔つきだが、どちらかといえば美人のたぐいだった。乳房や脚のあいだを隠そうともせず、猫背で平五郎を凝視した。
「りゅうじんさま、これがげんたさんか?」
女は平五郎から目をはなさず、甲高い声で背後の老人にたずねた。このあたりの訛りだった。
老人はまぶたをすがめて平五郎を見ていたが、女の言葉に合点がいったように目を見開いた。
「そうだ。あれはげんたのかわり。いのりはつうじた。ここでむかえろ」
平五郎はブナの幹から半身を乗りだし、茂みに左手をついた姿勢でかたまっていた。
(げんたのかわり?)
女の言葉が脳裏をかけめぐるうちに、女のほうは安心しきった満面の笑みで、はだかのままこちらへ歩み寄ってきた。
「げんたさん、げんたさん」
つんのめった平五郎に手をさしのべた。男はその手をとって、よわく立ち上がった。
「ひさしぶりだね」
親愛の笑みにまったく覚えはない。
平五郎が抵抗できないのは、山中で出会った女に蠱惑されただけではない。この女が自分を《げんた》と呼んでいるからだ。
げんた、源太、野田頭源太。一年まえ、平五郎が死なせた男。
女は平五郎の着ふるした狩猟衣を一枚一枚脱がせながら、一歩ずつ、淵のほとりへいざなった。
「あいたかったよう」
甘えた泣き声をもらしつつ、はだかになった男の首に巻きついた。淵のへりには、あつらえたように平らな花崗岩が横たわっている。
老人が黙して見下ろすなか、平五郎は女を抱いた。
(この女は、天女にちがいない。おれの罪を赦すために降りてきたのだ)
男はとりとめもなく、そんなことを思った。
ことが済むと、女はみえという名を告げた。
「いやだ、忘れちゃったの」
身体の下で甘えた声をだした。
女は自分のことを源太と思いこんでいる。正しくは、源太の《身代わり》か《生まれ変わり》のようなものと信じている。
気がふれていることにまちがいはない。しかし女におかしな妄信をうえつけているのは、ことの一部始終を見守っている、岩の上の老人のようだった。
老人に誰何するような余裕は、今の平五郎にはない。
ウグイスの声にふと我に返ると、男はあたりに散らかった狩猟衣をそそくさと身にとりつけ、女の呼び止める声を背中に、まっすぐ山を下りた。 |