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殺し屋シリーズ

殺し屋さん、聞いて下さい

作者: 梨鳥 



挿絵(By みてみん)

Have a nice trip!

 美容院へ行った。

 だって、白髪が目立っていたから。

 ツンとする薬品の匂いを我慢しながら眺めた婦人誌に、素敵なワンピースが載っていた。

 私の「一月分の生活費」と決めている額と同じだった。

 でも、もう私は欲しい物を迷わない、と心に決めていたから、美容院が終わると婦人誌のナビ通りオールド・ボンド・ストリートへ足を向けたの。

 入った事の無い高級ショップの店員さんは、婦人誌を手にして「これを」とおどおど言う私にもにこやかに接してくれて、同じデザインのサイズを探してくれた。生憎サイズが無くたって、私を馬鹿にしたりせず、別の店舗に問い合わせてくれて……。

 私は買い物をとても楽しんだ。

 ドレス、バック、靴、アクセサリー、キラキラ光るストッキング。

 それから、まだそれが似合った頃に憧れたある物を探してようやく見つけると、「これを下さい」とドキドキして言った。

 その一声を上げるのに私は二十年もかけてしまった。

 やってみれば、拍子抜けもイイところよ。

 でも、ようやく私に必要になった。とっても嬉しい。


 ハンサムだという殺し屋さんに、少しでも綺麗に見えますように……。


 ねぇ、少しだけでいいから、私の話を聞いてくださるかしら?

 世界に無視されっぱなしの私の話を。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 ある気候の良い春先に、僕は高級列車の旅に招待された。

 昼前からロンドンの主要駅を発って、イギリスの大地を横断しながら列車内でディナーをし、また帰って来るというものだった。

 話は、行きつけの同業者だらけのバーで、たまに顔を合わせるキャリーという女が持って来た。


「誘ってるの?」

「誘ってるの」

「君の事、そういう風に好きじゃ無い」


 キャリーは美人だし、それが武器だけれど。

 狭い列車内で長時間一緒に居られる程、僕にとって気を許せる相手じゃなかった。


「イヤね、一緒に乗るのは私じゃないわ」

「……なに? 仕事?」

「そ」

「そこに目標ターゲットがいるのか?」

「みたいね」

「『みたいね?』」


 聞き返すと、キャリーはオフショルダーから覗く艶めかしい真っ白な肩を僕の肩に寄せる。恋人同士が親密に囁き合うみたいに。この店では、そんな必要なんて無いのに。


「まず、筋道立てるから、聞いて。短いから」


 キャリーはスマートフォンを取り出しながら、僕の肩に頭をもたせた。

 髪から良い匂いがして、僕は満更でも無い気持ちを隠しながら小さく頷く。

 店の良く躾けられたバーテンが、いつの間にか正面から消えて別の客の相手をしていた。

 キャリーはスマートフォンをオンにすると、すいすい指を動かしながら、僕にある女の写真画像を見せて「依頼主」と囁いた。

 画面には赤毛に近い金褐色の髪の女が写っている。

 キャリーはどうやら隠し撮りをしたのだろう。女はこの店の出入り口に続く昇り階段へ向かう途中で呼び止められて振り返った、という態で僕の方を見ていた。

 振り返った姿勢なのでほぼ後姿になるが、上品そうな黒いワンピースの肩に、グレーのストールをかけて小さなバックを腕に引っ掛けたその女は、お世辞にもスタイルが良いとは言えない。ワンピースの腰はムチムチしているし、尻はだらしなく大きい。若干垂れているに違いない。足はキャリーの二本分はあるんじゃないだろうか、と僕は思った。

 それに、壁に掛かった絵の位置と彼女の顔の位置からするに、背も低い。

 顔もボンヤリした顔だ。


「どうやって調べたか知らないけど、昨夜この店に来たの」

「君を尋ねて?」


 キャリーは肩を竦める。


「多分、一か八かって感じで声を掛けて来たみたい」


 貴女、殺し屋さんですか。


 そんな風に、おずおずと声を掛けて来たんだと言う。

 キャリーに話しかけたのは、女性だから、という安心感からか。

 とんでもない。キャリーは前記したが美人だけど、中身は男より怖いのに。僕は黙ってそう思った。


「それから、私に五十万ポンドの小切手を見せたの」

「五十万ポンド?」

「そうよ。これで話を聞いて欲しいって」

「五万ポンドじゃなく?」

「いいから聞いて。なんなら、五万ポンドあげましょうか?」

「……それで、エクスプレスの旅に誘われたのか」


 キャリーは頷いて、スマートフォンの画像を変える。

 すいとスライドされ現れた画像の中には、レトロで高級そうな列車と、搭乗口にクラシカルスタイルのキャビンスチュワードが笑顔で立っている。


「素敵でしょ?」


 そう言いながら、キャリーはすいすい画像を変えて行く。

 中世ヨーロッパの貴族たちが好みそうな、豪奢な車内の内装に、高級そうなソファ、真っ白な食器が美しくセッティングされたテーブル、輝くワイングラス、真っ暗な窓際に灯るムード満点のランプ。


「ランチとディナーが付いてるんですって」


「お食事メニュー一覧(例)」ページを青黒く染めた尖った爪の先で指差して、僕に見せる。

 キャリーは、心なしかワクワクしている。乙女心をくすぐるんだそうだ。


「……それで?」

「これに一緒に乗って、ディナーの後である人物を殺して欲しいって。ターゲットは同乗するから、ディナーの後に教えるって言っていたわ」

「……で、僕がエクスプレスに乗るのかい? 何故?」

「デートはオトコとしたいみたいね」


 来てくれるのは、出来れば、優しそうな男性がいいの。お知り合いにいないでしょうか。


 彼女はそう言ったんだそうな。


「私、ちょっとからかってルックスは? って聞いたの」

「キャリー……」

「だって、あんまり『慣れて』いなさそうだったから。素敵な人が良いって、モジモジして言ったわ! チビでブスでオバサンのクセに!」


 吹き出しながら、片手でグラスを持って、彼女は黄金色の酒を口に含んだ。

 そうして、またブフッ! と吹き出す。

 僕は若くて美人のこういう所が嫌いだ。


「貴方なら、おあつらえ向きじゃない?」


 ハンサムよ、ルドルフ。そう言って、キャリーが僕の脇腹をつついた。


「五十万ポンドが仲介料?」

「そのつもりじゃないかしら」

「成功報酬は?」

「四千万ポンド」

「四千万ポンド?」


 バカげてる。


「……相手は一体?」

「言わないのよ。ヤッてくれる人にだけ教えるって」

「金額がデカ過ぎる。怖いな」

「私は幸運で怖い」

「悪運かも」

「どっちにしろ、貴方が駄目なら他を当たる」

「……否、やる」


 僕は欲が無い訳じゃない。

 それに、この女に会ってみたいと思った。

 この平凡そうな女に、四千万ポンドかけて殺したいと思わせた人物にも興味がある。

 本当に払えるのかどうか怪しいものだが、まぁスカを喰っても当たりを逃がすより良い。


「やるのね?」

「ああ」

「じゃあ、この仕事を二千万ポンドで売ってあげる」


 僕は肩を竦めた。


「じゃあ、二千万ポンドで君の命を売ってやろう」

「……まぁルドルフ」

「冗談だよ。一千九百五十万ポンドで売ってやるよ」

「……」

「どうせ、僕が出向いたら君には「仲介成立」の金がまた入る仕組みに持って行ったんだろ? 幾ら入るんだ? 五十万ポンド?」


 チッ、とキャリーが舌打ちしたが、予想はしていたのだろう。

 あっけらかんとした様子で質問に答えずに、僕の前に置かれたチーズを摘まんで舌の上に置いた。

 金で命をやり取りしてしまう奴等にとっては、仲間だって例外なく獲物なのだ。

 そして、彼女は僕なら「多少は」大丈夫だと思って話を持ち掛けて来たのだろう。

 それにしてもナメ過ぎだ。

 僕をその気にさせるだけで「仲介成立料」と百万ポンド手に入れば、十分だろう。


 そうさ。大丈夫さキャリー。君の見立て通り、僕は優しいのかも知れないから。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 女は、エクスプレスに乗って直ぐに接触して来なかった。

 僕はビクトリア駅のレセプションで、既に彼女を見つけていた。

 僕は、彼女がチラリと僕を見て直ぐに目を逸らしたのを見て、自分から声を掛けるのを止めた。

 無理に近寄って行ったら、「キャッ」と逃げてしまいそうな、そう、そんな感じだった。

「キャッ」なんて言って列車に乗る前に逃げられたら、仕事がパーになって困る。

 それに、ランチとディナーは同席の予定なのだ。急ぐ必要も無い。

 さて、列車に乗り込むと、マホガニーの内装も、トルコ絨毯の床も、豪奢な調度もほとんど無視して僕は与えられたコンパートメントから動かなかった。

 コンパートメントはあまり物事に期待しない僕の予想通り狭かった。

 それでも好きな奴は好きなんだろう。備え付けられた洗面台やら寝台ソファに夢中になるんだろうか。

 生憎、僕は興味が無かったからソファに寝転がって少ない午前をやり過ごした。

 ランチの時間が来ると、僕は洒落めかした食堂車の一席に案内され、車窓から降り注ぐ日の光にピカピカ輝く食器を前に座った。

 車内が案外揺れるので、並べられたワイングラスの足はどっしりとしているにも関わらず、倒れないかと少し落ち着かない。

 食堂車の客はまばらだった。

 食堂車は二両あったが、一両ずつに二、三組しかいなかった。

 観光客で溢れていると思っていたし、それが依頼主の狙いだとばかり思っていたが、どうも違うようだった。

 僕は席の並びが気になった。

 客同士、とても上手い具合に離れているのだった。

 でも、それはエクスプレス側の配慮、とも思える。高級を謳っているのだから、その位の気くらい使うだろう。

 他の客のランチが始まった。

 僕は、「お連れ様がいらっしゃるまでもうしばらくお待ちください」とオアズケを喰らって、仕方無く待った。

 窓の外は田園風景が広がっている。とても、退屈だった。

 何だか恋人にデートをすっぽかされるんじゃないか、という気分になった時、僕はキャリーに仕事を持ちかけられた時から、依頼主の女に少なからず興味を持っている事に気が付いた。


 馬鹿げてる。


 僕はそう思って、料理や食堂車の装飾、「スチュワードと自分」を写真に収める客を眺めた。

 ブログやフェイスブックにあげるんだろう。僕は写り込まない様に、気を付けた。

 スチュワードには先回りして言付けた。

 広くは無い車内で、大柄な割にすいすいと良く動くスチュワードが、心得たとばかりに他の客に寄り、「撮りましょう」と申し出て、僕にレンズが向かない様に写真撮影をして回り、終始、僕の要求も、他の客の欲求も同時に満たしてくれた。

 彼の給金が、グッと高いと良いと僕は心から思う。

 それから大分遅れてドア係が動く気配がしたので、僕はガラス戸のドアの方をサッと見た。ガラスの向こうで、中年の女がドア係に遠慮がちに微笑んでいる。

 チラリとこちらを見たので、僕が小さく会釈すると、少し顔を緊張させた。

 ドアが開くと、何か観念した様に僕を見詰めながら席まで歩いて来た。

 キャリーの見せてくれた写真通り、中年に良くあるふっくらした体形で、背が小さい。

 グレー地に薄いオレンジの花柄模様のワンピースから覗く二の腕は、ムチムチに肉が付いて弛んでいる。足はやはりキャリーの二本分はある。そして、内股気味だ。

 手を引いてくれる大人がいないと泣いてしまいそうな、そんな子供みたいな顔をしていたので、僕は立ち上がり、彼女へゆっくり歩み寄って手を差し出した。

 何となく、そうしなければいけないような、そんな気がしたのだった。

 彼女は驚いた様に僕を見上げ、まごまごした後僕の差し出した手にそっと手を乗せた。ふっくらして小さい手だった。

 微かに震えていた様な、気のせいの様な。

 僕は迷子の女の子を家に帰してやったなんて経験は無いが、今の気分は正しくそれだった。

 彼女と僕は向かい合って座り、グラスにワインがそそがれたのを機にようやく挨拶を交わした。


「初めまして」

「は、はじめまして、ルドルフ? …さん」


 僕は「そうです、ルドルフで合っています」と言う風に頷いて見せた。

 彼女は僕を、……こう言うと自惚れに聴こえるかも知れないが、僕に憧れる様な目で見た。


「お名前を聞いても?」

「マーガレット、です」

「マーガレットさん。よろしく」


 僕がワイングラスの足に手を添え目で促すと、マーガレットは慌ててワイングラスを持って、ちょっと掲げた。僕もそれに習ってグラスを上へ掲げ、二人で唇をワインで湿らせる。

 前菜が運ばれて来て、僕たちのランチが始まった。

 本来なら、僕のランチはこれで終了だ。

 これは僕にとってランチと言う名の、顔合わせ以外のなにものでも無かった。

 ターゲットはディナーの後に教えられるそうだ、とキャリーから聞いている。

 ディナー前に立ち寄る駅で乗り込んで来るのか、それとも、こだわりのある時間なのか。

 何にせよ、僕は言われた通りの人物を的にするだけだ。

 では、ディナーの後でまた、と言いたいところだが、それは少し目立つ。

 他の客たちは「待ちぼうけする若い男」を視線の端に気にしていたし、「現れたマドンナ」に若干の失望感を漂わせていた。


(僕だって、若くて飛び切りの美人が扉の向こうから焦らして現れた方が嬉しいさ)


 とにかく、ロマンチックなエクスプレスの旅に夢中になっているとは言え、ほんの少しだけの興味を僕達に注いでいる彼らに、更に注目されるのは望まない事だった。


「このままご一緒してもよろしいですか」

「え? は、はい……? そのつもりでしたが」

「……そうですか」


「そのつもりでした」? 僕が殺し屋だと解って言っているんだろうか?

 殺し屋とランチなんて、したがる女がいるとは思えない。


「あの、ルドルフさん……」

「はい」

「これ、美味しそうですね」


 彼女はそう言って、前菜の小さくこんもり盛られたサラダに飾られた蒸した小エビを銀のフォークでちょんと突いて見せた。

 途端に葉野菜の小山からコロンと小エビが転がり落ちて、マーガレットは「あ、あ」と小さく慌てて、赤くなった。僕にはどうして赤くなるのか解らなかったが、


「……そうですか。エビ好きですか」


 とだけ答えた。

 マーガレットは、ご主人様に相手をして貰えた犬の様に、パッと笑って「はい」と答えた。

 否、ご主人様は貴女なんだが……。


「ル、ルドルフさんは、何がお好きですか?」

「……僕は肉なら何でも好きです」

「あ、あ、ディナーのメインは鹿肉だそうです」

「もうご存知でしたか」

「楽しみで、先に教えて頂いちゃいました」

「そうですか」


 それから、僕はこの内気そうなマーガレットにある悪戯心を芽生えさせた。

 ランチとディナーを共にするのだし、構ってやろう、と。

 職業柄そんな事は絶対にしないのだが、マーガレットがあまりにも無防備で、害が無さそうに見えたから。

 そして、あまりにも……。


「ランチのメインは肉か魚か、選べましたね?」

「え、ええ。はい。私は……」

「おっと、言ってはいけませんよ。当てっこしましょう」


 マーガレットのハシバミ色の瞳が輝いた。


「お肉がお好きなんですよね? 鴨のグリル!」


 僕は眉を上げて、「ファイナルアンサー?」と聞くと、マーガレットは口に手を当て「ふふふ」と笑って何度も小さく頷いた。


「僕はどうしようかな……マーガレットさんは……キングサーモンのソテー」


 マーガレットは小エビのサラダをつついて「ふふふ」と笑った。

「当たりですか」「違いますか」などと探る態を見せつつ、僕はマーガレットを笑わせた。

 マーガレットは緊張がほぐれて来たのか、はにかんだ笑顔を僕に見せる。

 メインが来ると、わくわくと身を乗り出して運ばれて来た皿の中身を覗く始末だった。

 二人共キングサーモンのソテーだった。

 皮がこんがり焼けた身の上にマスタード色のバターソースが掛かっていて、良い匂いが辺りを満たす。

 マーガレットは、少しがっかりした顔をした。


「僕の勝ちですね」

「お肉がお好きって言ってらしたのに……」

「魚の肉も好きです。肉ならなんでも、好きなんですよ」

「まぁ」


 恨めし気に見て来る彼女に微笑んで、僕は魚にナイフを入れた。

 身がほろほろ崩れて、ソースが絡む。


「美味そうだ。いただきましょう。……うん、美味い」


 頬張る僕をクスリと笑い、マーガレットも魚を小鳥の餌の様に小さく切り分け口に運ぶ。


「美味しいですね。とっても良い匂いだし……でも、お腹が減っていない時に別の車内からここへ来たらきっと、堪らないでしょうね」

「ああ、魚臭いって思うでしょうね」

「お腹次第で良い香りに思ったり、イヤに思ったり、我儘ですね。人間は……」

「う~ん、そうですね……はい」


 感想を出し辛くて、僕は車窓の外へ目を逸らす。

 相変わらず、田舎の中をガタゴトと突っ切っていて、大地が日の光にキラキラ光っている。

 視界の端で僕をジッと見詰めるマーガレットの視線に、僕は気付かないフリをした。


「お話をしてもいいですか」

「ええ、どうぞ」

「私は、マーガレットという名です」

「……はい」

「もうかれこれ二十年くらい昔に、ロンドンの隅っこで、カフェのウェイトレスをしていました。両親も頼る人もいなかったので、一生懸命働いて生きていました。笑顔で精いっぱい気持ちの良いサービスを心掛けて、お客様が帰られた後に担当テーブルの隅に置かれたチップを楽しみにする、そんな生活です」


 他の客のランチが終わり初め、紅茶や珈琲の香りが漂い始めていた。

 とても優雅な香りで、彼女の口から流れ出した話と全然そぐわなかった。

 僕は車窓から見える風景から、マーガレットの方に顔の向きを変えた。

 マーガレットは、途端に僕から視線を逸らせ、料理を味わうのに忙しいフリをして、それでもゆっくり確かめる様な、味わう様な調子で話し続けた。


「毎晩……クタクタで帰りました。帰り道にバーガーの露店があったのだけれど、私はいつも『美味しそう』って思いながらも通り過ぎていました。……生活はギリギリだったので。それに、憧れていた靴があったの……赤い、ハイヒールで……似合わないとはわかっていたんですけれどね? でも、いつかって。だから、頑張ろうって……可笑しいですよね。お星さまみたいに思っていたんですよ。若いって良いわ……。

 ある日、ヘマをしてお客様のお膝に飲み物を零してしまいました。でも違うの。ウェイトレス仲間に後ろから押されたんです。そのの名前は忘れてしまったけれど、された意地悪は覚えてるわ……」

「それで、客は怒りましたか」

「ええ。ガミガミ怒鳴られて、私そりゃあもう必死で頭を下げました。チップも勿論ナシです。私はその夜クタクタの悲しい気持ちで、家に帰りました。途中、バーガーの露店の前をいつもの様に通り過ぎようとして……」


(クタクタで、こんな気持ちのまま帰りたくないわ。今日つまらなかった分の、埋め合わせをしよう)


 そう思ったんだそうだ。

 辛かった分の埋め合わせを、自分で埋めるしかないマーガレット。

 バーガーすらヒョイと買うのを躊躇う様な、生活に臆病な彼女の二十年前。


「バーガーを買ってみたの。パテを、三枚も挟んだヤツです」


 思い出すだけでワクワクした体験だったのだろうか、マーガレットの顔がほころびて輝いた。

 三枚もよ、こんななの。そう言って、人差し指と親指で、如何に分厚いバーガーだったかを説明する彼女に微笑んで、僕は先を促した。


「それで、美味かったですか?」


 マーガレットは、肩を竦めた。


「覚えていないの」


 僕は肩すかしに遭って、「え」と声を上げる。


「お釣りを貰ったんです。一ポンド玉の筈だった」

「……?」

「でも、忙しそうな店員がポンと私の手のひらに乗せたのは、少し大きかったんです」


 ギュッと押し付けられる様にして返されたコインの大きさが、予想と違った。

 それは彼女からしたら、少しドキリとする瞬間だったのかも知れない。


「私、……私、どうしてなのかしら? 思わずサッと露店から離れたの」

「……」

「い、いつもはそんな事ないんですよ? でも、サッと、足が動いたんです……」


 僕は頷いて、皿の上の最後の一かけを口に運んだ。

 美味かった。良いじゃないか、貴女に良い事があった。


「それから、露店の見えない所まで歩いて、手のひらの中を覗いたの」


 二ポンド玉だったんだそうだ。


「私、空を見上げたんです。夜空を。星がちょっと出ていて、綺麗だったわ……。それで、どうしたと思います?」

「さぁ、返しに行った?」


 マーガレットは恥じ入る様に小さく首を振った。


「次の日に、宝くじを買ったの」


 僕は「おや」と思い、瞬きをして彼女を見た。

 彼女は初めて悪戯そうに笑って、肩を竦めて見せた。


「一枚、二ポンド」

「ああ……はい」

「私、多いお釣りを返さなかった事を、ちょっとだけ『やってやった』って思ったんです。私だって、悪いコト出来るんだゾッて」


 だから残して置きたくて。でも、ずっと残るのはイヤで……。


「それで、ちょっとした期間だけ部屋の隅に置いて眺め、時期が来たら『ハズレ』なんて言って捨ててしまえる宝くじを買ったんです」


 ちょっとした『ワル』の称号のつもりだったんだろう。クジ性質タチも、気持ちに似合ってる。

 罪悪感が出て来る頃には捨ててしまえる、そんなちょっと便利な称号。

 僕はマーガレットの話の結末が見えて来た。

 何故なら、僕には彼女の後ろに常に四千万ポンドが見えるから。


「当たったんですね。それも、高額で」


 マーガレットは頷いた。


「一億百三十万三千五百ポンド当たりました」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 チョコレート・ソースが優美な曲線を描いてかかっているムースが運ばれて、暫く会話が途絶えた。なにやら金色の小さな飴細工が飾られているそれに、マーガレットが夢中になったのだ。


「綺麗ね。素敵ね」としきりに褒める声に頷きながら、僕はそれがあまりにも甘いので、縁に添えられたベリーを間に挟まなければ食べ続ける事が出来なかった。

 マーガレットの口には合ったのか、彼女はぺろりと平らげてしまうと紅茶を飲んで、チョコレート・ソースで汚れた空の皿に称賛する様な眼差しを向けている。


「貴女は大金持ちってワケですね」


 僕は話を元に戻したくて仕方が無かった。

 単純に好奇心が勝っていたが、いよいよ仕事の話になって来たと思ったのだった。

 マーガレットは「ふふふ」と微笑むと、唇を歪めた。

 口の端に、皺がくっきりと日の光で炙り出されている。


「まず、赤いハイヒール?」


 マーガレットはチラリと笑って僕を見た。


「ええ」


 僕も微笑んだ。マーガレットが、星を手に入れたのだから。


「でも、買いませんでした」

「何故?」

「要らなくなってしまって……」

「? で、次は何を?」

「ルドルフさん、私、それ程欲しいものが元々そんなに無かったんですよ。そうね……宗教関係の人やボランティアの人にちやほやされたけれど、少し、何となく、どうなるか試してみたくてお金を出すのを止めた途端に、そっぽを向かれました。……私、善人ではないみたい。大きな金額を払ったのはそれくらいです。……あ、おだてられてマンションを買ったわ。でも広い家に一人は寂しくて……今は田舎の小さな一軒家です」


 僕は何となくそれぞれの光景とマーガレットの心情が目に浮かぶ様で、薄く微笑み返した。


「……はぁ……旅行とかは? お好きなんでしょう?」


 マーガレットは寂しげに微笑んだ。


「一人でなんて……」

「失礼ですが……友達や恋人は?」

「友人はいましたよ。でも、当たり前の様に『次はどこどこへ行きたい』『誰々も誘っていいかしら?』って言われ出してから私と旅行がしたいのか、タダで旅行がしたいのか、解らなくなってしまったの……」

「それは……寂しい考え方の様な気がします」

「ええ、ええそうですね。どうしてそんな事思ってしまったのかしら」


 それは、貴女が臆病だったからだ、と僕は思った。

 自分にどれだけ自信が無かったんだろうと、僕はまだ若い頃のマーガレットを想像した。

 一生懸命微笑んで、心の中は終始オドオドしていたのだろう、と僕は思った。

 タタン、タタン、と車両が揺れている。

 カーブに入ったのか、強く揺れて、マーガレットは慌ててティーカップを両手で守る様に包んだ。そんなカップ、割ってしまったところで幾らだって買えるだろうに。


「結構、揺れますね」

「ええ」


 私ね、とマーガレットが囁いた。車輪の音に掻き消えてしまう様な小さな声で。


「宝くじの事、当たって直ぐに誰にも言わなかったんです。周りに知れると破滅するって言うでしょう? だから。でも、当選が判った午後から、ウェイトレスの仕事が変だった」

「変だった? まぁ、そりゃあ多少頭が変になるかもですが……」

「そうね、頭が変になっていました。私は威張り屋の店長より偉い、ここにいるお客様よりも偉い、ましてや、意地悪なウェイトレス仲間なんかより、ずっとずっと偉い……ズボンを汚してしまったお客様が来店されてね、『今日は零すなよ』って私に嫌味を言いました。でも、『貴方のズボンなんか、何枚でも買い替えてやれる』って思った。テーブルの隅に置かれたチップが、……ゴミクズに見えた……」


 午後からも頑張れよ! 

 ―――その労いの声が聴こえなくなった。

 こっち、手伝うわ。

 ―――思いやりの声も、どうでも良かった。

 ありがとう。気が利くね。

 ―――笑顔を返すのが、億劫になった。マーガレットはサービスする必要がもう無かった。

 そして、チップ。

 ―――手に入れた一億百三十万三千五百分の一にも満たない……。


 タタン、タタン。

 車輪の音が、少しだけ変わって聞こえて来て、僕は「さっきの様に聞きたい」となんとなく思った。


「可笑しいですよね。一億ポンドですよ? 全てが手に入る筈じゃありません?」


 全ての色が、無くなった様でした。と、マーガレットは言った。

 僕は彼女の欲しかった赤いハイヒールを思い描いた。

 憧れの星が、色を失くすのはどんな気分だったろう。

 僕には解る気がした。

 僕は、パターンこそ違えど何度かそんな経験をした事がある。


 いつか会ってみたいと思っていた男が、既に死んでいた時。

 熱く焦がれて手に入れた女なのに、抱いた途端に何故か冷めてしまった時。

 家を出て行った母親の行方が何年かしてわかり、胸を高鳴らせてコッソリ会いに行った十代の終わり。

 クリスマスのツリーが輝く温かい光の中で、小さな子供を抱き上げる母の姿と母にそっと寄り添った知らない男。幸せそうな母の微笑み。降り積もる、雪。それらを身体を冷やして眺めていた時。


「楽しい事は、無かったですか」

「無かったですね。私みたいなのに当たってはいけなかったんですよ。……もっと、楽しみ方を知っている人や、そうしようと思いつく人でなければいけなかったんです」

「……どうしてそうしようとしなかったのです?」

「しましたよ。そして、ずっと考えていました。そうして思いついたら、二十年経っていました。なので、お金は全然減っていないんですよ。額が額ですから」

「……この旅?」


 マーガレットが微笑んだ。どこか、叱られる前の子供が取り繕う様な、そんな微笑みだった。

 それから、膝のナプキンを丁寧に畳み、テーブルに置いた。


「また、ディナーで」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 僕は与えられたコンパートメントの寝台に寝転がり、ぼんやりと揺れる天井を眺めた。

 この寝台急行は、至る所全てに中世の美しさを纏っている。天井の壁紙も電飾も抜かりなかった。

 僕は呼吸を一切していない様な素っ気ないものが好きだ。ありとあらゆるもの全てが、そうだと良いと思っている。モノトーンとか、コンクリ打ちっぱなしの壁とか、そうゆうのだ。

 だから、年月すら味方にして煌めくこの空間の装飾が僕を落ち着かない気分にさせる。


 彼女が殺したい人物は誰なのだろう?


 あんなに多くを求めず、臆病で、引っ込み思案なマーガレット。殺意が計れない。

 否しかし、彼女が今までそうしなかっただけで、彼女はほぼ何でも叶えられる存在だ。

 殺しの動機には実に下らないものがたくさんある。

 僕の中でトップは「隣の犬が煩いので、飼い主ごと殺して欲しい」というものだった。

 確かに煩い犬だった。僕が引き金を引くまで吼えまくっていたっけ。

 キャリーのトップは「浮気した男を殺して」だった。報酬はとても安く相場から程遠かったが、キャリーは嬉々として依頼を受けて楽しんでいた。

 僕達は審判なんてしない。「殺してくれ」と金さえ詰まれれば殺す。

 僕は目を閉じる。

 頭の中が騒めく。普段ではありえない事だ。僕は戸惑う。あまりにブンブン騒がしいので。

 マーガレットはどうして僕に身の上話をしたのだろう。

 金を持っている証明をしたかったのだろうか?

 それとも、ただ気詰まりで?

 彼女の話に出て来たのは……


 意地悪な同僚・威張り屋の店長・釣りを間違えた間抜けなバーガーショップの店員・ズボンを汚された客・タダで旅行を楽しんだ(と疑われた)友人だか恋人……。


 僕は、彼女の背を押したという意地悪な同僚を思い描く。

 垢ぬけない(と予想)、どこか人の機嫌を取る様なマーガレットに、見ていてイライラしたんだろう。それに、マーガレットはどことなく暗い。

 彼女の様な人は、明るい場になんとかこびりついている人間にとって、目障りになりうる。

「自分はこうじゃない」と安心していたいのに、その人がたまに褒められたり光を浴びると、途端に不安になって貶めたくなるのだろう。

 きっとマーガレットは背を押される前に、真面目さを評価されるなり、感謝されて多めのチップを貰ったに違いない……。


「された意地悪は忘れてないわ」


 マーガレットの言葉を思い返し、僕は顎を掻いた。

 なんだかつまらない。僕はそう思った。

 では、威張り屋の店長?

 否しかし、あまり濃く話に登場しなかった……マーガレットに労いの言葉をかけるくらいだ。威張りではなく、仕事を頑張っていただけなのかも知れない。

 真面目で扱いやすく、精いっぱい客の機嫌をとるマーガレットに、好感すら抱いていたかも知れない。

 でも解らないな……大人しい彼女に、セクハラでもしていたのかも知れない。

 こういう理由なら、マーガレットが僕にその話を伏せてもおかしくない。

 しかし、彼女の人生の転機となったバーガーの露店店員も捨てておけない。

 僕はこの店員説が一番におう(・・・)

 それから、ズボン男。彼女をガミガミ叱った。

 彼女は「貴方のズボンくらい何本だって」と、今まで持っていなかった牙が心に生えるのを自覚した。

 それから恋人だか友人たち……。

 彼らは……。

 ……。

 ……。


 僕は考え続けた。考え続けたというよりは、思い巡らせていた、の方が近い。

 ……馬鹿げてるだろ?

 ディナーには判るのに。


「貴女殺し屋ですか?」とドギマギしてキャリーに尋ねたマーガレット。

 気の強いキャリーに「アンタ誰?」と目尻を釣り上げられたに違いなかった。

 その時マーガレットは、すみません、と小さく謝ったんじゃないだろうか。

 それでも勇気を出して、自分なりに考えた金額を……。

 ああマーガレット、ぶっ飛んでた。

 テレビや映画の観過ぎか、あるいは見なさ過ぎだ、マーガレット。

 なんて平凡なんだ、貴女は。

 僕はそう思って唇を歪める。


 そうしながら、威張り屋の店長、間抜けなつり銭店員、ズボン男……と僕は次々彼らの視線から彼女を眺め、仮定を立てて、いつの間にかマーガレットの人生のレールの一部を行ったり来たりし、ガタンゴトンと楽しみ、味わっていたんだ。


 ◆


 ディナーの時間がノロノロとやって来て、僕はダークスーツに合わせたシャツに袖を通していた。

 ガントレットボタンに(僕はいつもそうなのだが)苦戦していると、コンコンとコンパートメントのドアがノックされた。

 なんだもう少しなのに、と不機嫌にドアを開ける。

 スチュワードがメニュー表でも届けに来たかと思ったら、マーガレットだった。

 深いターコイズ色のつやつやしたカクテルドレスを着ている。

 マーガレットの様な体形も、美しく見える様に計算されているであろうそのドレスは、彼女にとても似合っていた。弛んだ二の腕はボレロのレース袖で隠され、緩んだウエストも女性独特の魅惑的なカーブを描いて見える。少しだけスリットの入った長いスカートの裾のお蔭で、太い足が隠れてスタイルが良く見えた。

 化粧も控えめながら、気合が入っている。

 頬紅は重ね過ぎている様に思った。やたらつやつやと色づいていたので。


「万端ですね」

「あ、あ、すみません……。もうお支度済んでいるかなと……」

「……まだ時間じゃないでしょう。なにか?」

「も、もしよろしかったら、一緒にデッキへと……」

「デッキ? もう外は暗いし、髪のセットが乱れますよ」


 マーガレットは髪を綺麗に編み込みのアップスタイルにして、右サイドだけ真珠が五つか六つ縦に並んだ髪飾りを付けていた。真珠と真珠の間には小さなスワロフスキーがキラキラ輝いている。


「すみません……お気が進まないなら、一人で行きますから……」


 マーガレットはしゅんとしてそそくさとドアを閉めようとした。

 僕は何故か思わず閉まるドアを手で止めた。


「……いえ、ちょっと待っていて下さい」


 パッとマーガレットの表情が明るくなる。

 貴女、前世は犬でしたか? と聞きそうになるのを押えて、僕は再びガントレットボタンと格闘した。新品のシャツは、剣ボロのボタン穴が固くてイライラする。

 ジャケットを着てしまうのだしそのままにしてやろうか、と思っていると、マーガレットがおずおずと言った。


「ボタン、よろしければお手伝いしましょうか?」

「……頼みます」


 そっと慎重にマーガレットは僕の腕に手を伸ばし、ボタンを通す。

 馬鹿みたいに早く済んで、僕は内心何かに舌打ちした。

 こんな簡単な事が出来ないなんて。そう、思われたら厭だった。

 ジャケットを着こんでしまうと、マーガレットが眩しそうに僕を眺めた。

 悪い気はしなかった。

 僕は微笑んで彼女を促した。


「行きましょう」

「ええ……はい」


 艶めく赤茶色の廊下は広く無い。僕とマーガレットは縦に並んで歩いた。

 僕は誰であろうと後ろに人が立つのが厭なので、マーガレットが前、僕が後ろ。

 僕はマーガレットのふくよかな首筋を眺める。

 真珠のネックレスの留め金が、プラチナらしく暖色系の電光に煌めいていた。


 ◆


 デッキに出ると、春先の風が渦巻いていた。ごうごうと、風と共に列車の走る音が生で耳に押し寄せる。

 たちまちマーガレットの髪が乱れ、スカートがひらめいた。

 赤いハイヒールの色が僕の視界に飛び込んで来た。


「風が凄いわ!」

「戻りましょう」


 僕達は慌ててデッキから退散し、急いで扉を閉めた。

 入り込んで来た最後の風が吹き抜けて行った後、マーガレットは何故か笑い出し、腹を抱えた。


「ああ、おかしい。もっとロマンチックかと思ったのに」

「大丈夫ですか?」


 マーガレットはデッキの扉に背をもたせ、笑い続けながら頷いた。


「ダメですね。ダメなんです。何か、素敵な事をしようとするといつも……」


 ちっとも素敵じゃないって気付いてしまうんですよ。と、マーガレットは尻すぼみ気味に呟いて、僕を見上げた。言葉とは裏腹に目がキラキラと輝いている。オドオドとしながら迷子の表情で食堂車へ現れた女じゃないみたいだった。


「でも、楽しいです」

「そうですか……」

「このまま、食堂車へエスコートして頂けますか?」

「……どうぞ」


 僕が腕をクの字に曲げると、マーガレットは自分から要求したクセにおずおずと僕の腕に腕をまわした。プロムで初めてエスコートされる女の子みたいに、はにかんでいる。

 小太りのオバサン相手に、そんな例えは変だしどうかしている。

 僕はそう気まずく思った。


「……狭いですね」


 僕達は寄り添って、少し位置を斜めにしながら、不器用に廊下を歩き、食堂車へ向かった。

 僕はなんだか、彼女が殺したい人物を知りたくない気持ちになっていた。

 このまま、別の場所へ連れて行きたい。そんな風に思っていた。

 一生懸命、迷子じゃないふりをする、このひとを。


 馬鹿げてる。

 馬鹿げてる。

 馬鹿げてる!


 ◆ ◆ ◆ ◆ 


 食堂車は着飾った男と女でランチの時とは少し雰囲気を変えていた。

 ランプの灯りが、暗闇を見透かす車窓を暖かく照らしている。

 特別な時間の始まりへの期待が、所々で湧き立って車体と共に揺れている。

 食器というものが、こんなにも輝くものなのだと僕は知らなかった。

 至る所から発せられる煌めきと輝きが、客たちに各々の生活を忘れさせようと誘っている。

 僕達はスチュワードに案内されて、ランチの時よりも混んでいる様に見える食堂車を突っ切り、もう一車両ある食堂車へ通された。

 そこには、テーブルセットされた席が奥に一つ。それ以外は予約席のプレートが立っている。

 マーガレットがそうしたんだ、と僕は思い、仕事の時間の訪れを自覚する。

 マーガレットなんかに。

 そう。僕は仕事中だった、と自覚させられた。

 これは恥ずべき事だった。

 席に着きながら自分の均衡を取り戻す為、食堂車内のありとあらゆる煌めきを意識から追い出した。


(ここはモノトーン。周りを囲むのは、打ちっぱなしのコンクリート)

(これから聞くのは殺しの話。憎しみ、恨み、妬み、損得勘定……)


 ―――待てよ。どうして聞かなければならない? 僕は今までそんな事聞きもせずに引き金を引いたり、動脈を裂いたりしたじゃないか。


 それから僕はふと悪寒がしたんだ。

 全く気付かない内に、僕は服従してしまっている?

 四千万ポンドに。

 そうでなければ、どうしてこんな何もかもが地味な女に心が揺れるのか、説明が立たない。

 そしてそうだとするならば、酷く、腹立たしい。そう、思った。

 これからその金額を服従させるのは僕だと言うのに。


 ◆ 


 ああ、貴方もなのね。


 私は固く冷たい表情になってしまったルドルフを見た。

 彼はドキドキする程の美青年。私はこんな素敵な見た目の男性と今まで縁が無かったから、キャリーと言う女性を羨ましく思った。

 柔らかそうな栗毛を掻き上げて整えたフォーマルな髪型も素敵だけれど、初めて私の手を取ってくれた時の、無造作に前髪を垂らしたスタイルも素敵だった。

 鉛色の瞳は戸惑っていた。

 当たり前よね。こんな、何の取り柄も無いおばさんの相手はした事が無いでしょう。だからこそ私は素敵な貴方の前で、何もかもを遠慮してしまった。

 ゲームを持ちかけてくれた時、本当に嬉しかった。

 貴方が勝つと判っていたのなら、何か賭けてあげれば良かった。貴方の喜ぶものを。

 なんて気が利かないんだろう。

 長い付き合いだけれど、本当に貴女にはイライラするわ。マーガレット!


 魅力的な殺し屋さんは、さっきまでは私を一人の人間と意識して向かい合ってくれていた。

 お金で命を買う人種だから、やっぱり普通の人とは感覚が違うって私は賭けに勝った気分だったけれど……。

 やっぱり、私が手に入れたものは、透明マントみたいにこの特殊な人からも私を見えなくさせてしまった。 

 彼のシャッターは閉まってしまった。

 二十年も、私はその音を聴いている。勇気を出して尋ねては、何度も何度も。

 彼の顔には「貴女の望みを叶えましょう」という表情を貼りつけているけれど、もう確信は出来ない。

 私の後ろに見えるお金に左右されまいとして、或いは、左右しようとして、きっとこの人の頭の中は今、とても喧しい事になっている。

 もう私の話を、ランチの時みたいな優しい瞳で聞いてくれないでしょう。

「私じゃないもの」に、警戒したり、興奮したり、妬んだり企んだりするのね……ああ、他の人達と同じに。

 そして私の言葉からたくさんの意味を選り選ぼうとして、深みに嵌ってしまう。

 私は話を聞いて欲しいだけなのに。「貴方」は私の前から煙の様に消えてしまった。

 私はその煙を呆然と見るしか出来ない。煙は掴む事が出来ない事を知っているから。

 金額を伏せれば良かった? 

 でも、そうしたら私の今までの「ちぐはぐ(・・・・)」の説明が出来やしない。それで出来たものが私なのに。

「私」を説明するなと言うなら、どうして私は心臓を動かし続けなければいけないのでしょう。

 私は私になりたいの。


 殺し屋さん、聞いて下さい。

 そして知って。

 どうして私がこの旅を楽しみたいかを。

 どうして私がこの旅をこんなにも楽しんでいるのかを。

 最後に私、ドキドキしたいの。

 そうしたらお願い。私の心臓を止めてね。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 言い訳に聴こえるかも知れないけれど、僕はあの時、ディナーの始りと共に、そう考える様に務め、そう考えている様に見せた。

 自分にも、貴女にもだ。

 そうでなければ、僕は悲しくてやり切れなかった。

 だって、貴女は僕の目の前で輝いて見せたじゃないか。


 ―――でも。

 貴女が誤解しないでくれればいい。


 そんな、馬鹿げた事を心の端に未練ったらしく思った。


 真夜中のプラットフォームに降り立つと、僕は照明に当たり誇らしげに佇むエクスプレスなんかに目もくれず足早に立ち去り、いつものバーへ向かった。

 仕事が終わったら、キャリーに一杯奢る約束だったのだ。


 ◆


 バーでは、店の隅の席で柔らかなキャンドルライトの明かりに照らされたキャリーが微笑んで、小さく僕に向って片手を上げた。手首をヒョイと捻る様に。

 彼女は美人だ。意味も無く自信に溢れ、悠々と微笑んで僕を迎える。

 僕が向かいのソファに座ると、彼女はテーブルに身を乗り出した。

 胸元の開いたシャツから、これ見よがしにハリのある胸の谷間を覗かせていて、僕は遠慮せずにそれを眺めた。

 キャリーはそれを喜んでいるのか、楽しんでいるのか、僕を叱るでも無くニッと笑った。


「どうだった?」

「終わった」

「どんなヤツだった?」

「キャリー」

「なあに?」

「誰かが命がけで自分に会いに来たらどうする?」

「え?」

「それが救い様も無い程の理由だったら、どうする?」

「はぁ~?」

「命の輝きって見た事あるか?」


 キャリーは首を傾げ、困った様に瞬きをした。

 彼女が困るのは当然だ。だって、僕の質問は意味不明だったし、彼女も僕も命ってやつを消すのが仕事だから。


「面白い。もう一回言って」


 と、キャリーはふざける事にしたらしい。

 僕は肩を竦めて「何でも無い」と言った後、ふと彼女を見て言ってみた。


「君って美人だね」


 キャリーは燕の翼の様な鋭く濃い眉をピンと上げて、瞳を大きく見開いた。

 君を褒めたのは初めてだったけど、そんなに驚かなくても、と僕は思った。

 キャリーは苦笑いして僕に聞いた。


「誘ってるの?」

「誘ってる……かな」

「……貴方の事、そうゆう風に好きじゃ無い」


 僕はちょっと驚いてキャリーを見た。

 キャリーは「なによ」と言う風に僕を見返した。


「楽しくパーッとやろうとしたのに、詰まんない事言い出さないで」

「四千万ポンド持ってる」


 キャリーは顔を今まで見た事も無い程冷酷なものに一瞬で変えると、スッと立ち上がった。そして手に持ったグラスの中身を僕に向ってぶちまけると、


「娼婦でも買いな」


 と言って、店を出て行ってしまった。

 僕はタオルを持って来たバーテンに「ハハハ」と笑いかけた。

 参った。僕はマーガレットの欲しかったモノをいきなり頭からぶっかけられた。

 しかも、物凄く意外な人物から。

 今度会ったら、引っ掻かれても本気で口説いてみようか。そんな風に思った。

 それから、馬鹿な思い付きに自分で自分を笑いながら、マーガレットから受け取った茶封筒に手を突っ込んで小切手を引き出すと、もう一枚何か入っている事に気が付いた。

 写真だった。

 枠の中で若いウェイトレス姿の女が、所在なさげにこちらへ微笑んでいた。

 僕は苦笑いしか出来なかった。


 これをどうしろって?

 なんなんだ。気持ち悪い。

 貴女に必要だったのは、キャリーみたいなガールフレンドだよ、マーガレット。

 写真に雫が零れた。キャリーにぶっかけられたカクテルに違いなかった。


(お星さまみたいに思っていたんですよ。若いっていいわ……)


 雫は若かった頃の貴女の顔にパタリと落ちて、貴女の顔を歪ませた。

 ほらな。また貴女が正体不明になった。

 そうなると僕の心も正体不明になるんだ。止めてくれよ。

 床を拭くバーテンが邪魔で、僕はバーガーを注文した。


「バーガー?」

「バーガーだ。パテを三枚挟んだヤツな」


 バーテンは肩を竦めてカウンターの中へ消えた。

 どうせ持って来やしない。

 僕はそっと写真の中の若い女にキスをして、貴女の話をお終いにする。

 どんな話かって?


 自意識過剰なクセに臆病で、世界を無視して泣かせた自分勝手で悪い女の話さ。



不器用と不器用が不器用に触れ合うのを書いてみたかったのですが、気持ちの表現が不器用過ぎて途中から意思がくみ取れずにこっちが迷子になりました。

キャリーがいて良かったです。


ルドルフとマーガレットが腕を組んで不器用に渡った廊下。狭いですね。

狙いは不器用な密着です。

挿絵(By みてみん)


さて、色々自分をフォローさせて下さい。

ルドルフが乗り込んだエクスプレスのモデルはオリエント・エクスプレスの姉妹列車ベルモンド・ブリティッシュ・プルマンです。

しかし、日帰りはランチしかないはずです。ディナーだと一泊するはずなのですが、そうするとユーロトンネルを潜るんです。何だかトンネルはなぁ、それに一泊もいらんなぁ……と思い、無理矢理コースを作りました。すみません。

あと、ランチの肉か魚チョイスも架空です。すみません。

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[良い点] 一見すると、輝いている者と、輝いていないのに、鈍く光る者との対比が交互に突き刺さり、胸の内を暴かれていく様な気分になりました。 命の輝きは自らが消してはいけない。自らが光っている、光れる…
[良い点] 表現が本当に素敵で、(特に比喩!)あぁもう本当にこのような小説には引き込まれてしまいます……! 命、というものをテーマに、それを一貫して物語に織り混ぜるというか…… (表現が下手ですみませ…
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