さいど•えふぇくと
きっと、私は限界だったんだと思う。
何の限界かって……つまり、人生の、だ。
特に、何か、とてつもなく悪いことがあったわけではなかった。
でも、何も、とてつもなく良いこともあったわけではなかった。
そんな人生が続いて続いて、徐々に徐々に、すり減り続けた私の何かがその日、底をついた。
それだけのことだ。
駅前の喫茶店。奥の二人がけのテーブル席で、一人。
平日の昼間に、若い女が一人。どう思われているだろう。どう思われていてもいい。
午後一時になった。もう二時間も、何もしていない。
目の前には、空になったアイスコーヒー。
こんなものだ。
ストローで吸っているうちは、あとどれくらいかなんてわからない。減っている感覚もない。でも突然に、ずずっとみっともない音を立ててしまってから気づくのだ。もう残っていないことに。
そんなものだ。
まだまだ? それとも、そろそろ? あるいは、とっくに?
世界はもう、私に興味を失っている。
そんなことは、わかってる。
「わかってる」
……えっ?
ドキリ。不意の声。……みればなんのことはない、斜め前のボックス席で、男の人が誰かと話している声だった。私とは関係ない会話が聞こえただけ。相手の姿は見えないし声も聞こえなかったから、彼が何を「わかってる」のかはわからなかった。
ただ、いい声だな、とそう思った。また聞きたくなる声だった。自然、耳を澄ませてしまう私。
「僕にはわかってるよ」
彼は再び、いい声でそう言った。彼は、笑顔だった。本当に朗らかな笑顔。その目は自信に満ちあふれていて、目を見ているとこちらまで自信がみなぎってくるみたい。
「僕たち友達だろ」
そして優しく、促すようにそう続けた。たった三言で、もう私は彼の虜になってしまっていた。私は目を閉じて彼をまぶたの裏に映しだし、私の目の前で私に言ってくれているのだったら、という妄想をしてみる。ああ、なんて素敵な。彼は本当に、心からの親友だと思ってそう言ってくれている。
彼はそして……少し声のトーンを落としてこう言った。
「……本当はまだ、諦めてないんだろ?」
思わず私はびくりと肩を震わせる。ああ、ああ。彼は、わかっているのだ。見抜いているのだ。私が心のどこかで捨てきれずにいた、その思いを。どうして諦めたふりなんかしていたんだろう。
「希望はあるって思ってるんだろ?」
……ある。……あるよ! 私は危うく叫びそうになる。慌てて言い聞かせる。私が言われてる訳じゃない。でも、心は踊り出さずにはいられなかった。ああ、そうなのだ。私はまだ、枯れてなんかいない。……本当はまだ何も満足してない!
「そうだよ!」
彼の言葉が私を後押ししてくれる。まぶたの裏側の彼の応援が、誰かを元気づけようとしているらしいその言葉が、他ならぬ私を勇気づけていた。いや、これはもしかして本当に……この私に向けた言葉なのでは? 神様が彼の口を通して私を励ましてくれているのでは? とさえ思う。
「間違いないよ!」
……そうだ。間違いない。これは私へのエールなんだ。いいんだ、そう考えても、いいんだ。私はだんだん身体の緊張が解け、代わりに不思議な高揚感に包まれるのを感じていた。彼の声の不思議な力が、私の中にくすぶっていた何かに火をつけた。
「だから、君も頑張ってみようよ!」
私は大きく頷いた。頑張る。頑張ってみる。今まで、やろうと思っていたけれどできなかったことがたくさんあった。いつも遠慮し、尻込みし、チャンスを見逃してきた。でも、もう、きっと、いいはずだ。やってみよう、何でも、好きな事を。私の人生。私の思うとおりに生きて、いったい何が問題だというのだ。
「まったく問題ないよ!」
その通り。まったく問題ない! 私は身震いしていた。私にも来たのだ。ついに、人生を自分の意志のままに生きる時が。自分を活かす時が。そうなんだ。そうに違いないんだ。
「そう思うよ!」
ありがとう。彼にそう言ってもらえるだけで、もう私はどこにだって行ける。何だってやれる。何にだってなれる!
「応援してるよ!」
……!
そのストレートな言葉が、私の心の最後の鍵を外した。頬を何かが……伝った。
ああ、そうか。
応援してもらいたかったんだ、私は。
ありがとう。
ありがとう。
心の中で何度もつぶやく。いや、もう声が出てたかもしれない。……ううん、出てたんだと思う。私は何度も、ありがとうと小さな声で呟いていたと思う。
「どういたしまして」
その私の感謝の言葉に、彼はそう答えてくれた。私はもう涙で前がぐしゃぐしゃで、何も見えなくなっていた。
生きてて良かった。本当に、生きてて良かった。心からそう思えた。報われた。私の今までの人生が、報われたのだ。今日、限界を迎えた私を、また立ち直らせてくれた彼。
目を開く。妄想ではない現実の彼が、そこにはいた……のだが私にはもう見えなくなっていた。あふれる涙が視界を覆い隠す。
せめてもの感謝を彼に言葉で表したかったけれど声が出なくなっていて、それでも何かできないかと考えて、そして急に席を立った私は彼の席に近づいて机上の勘定書を掴むとレジへ突進した。店員を急かして、自分のと一緒に彼のテーブルの分も払った。いくらなのかなんて見もせず一万円札を出しておつりをもらい、何か言いたげな店員から逃げるように店を走り出る。
店を出てから、自分の行動に思わず顔が火照った。何やってるんだ私。もう少しマシな……どうして、せめて一言お礼を言うくらいできなかったのか。
「あはは!」
その時かすかに背後から彼の朗らかな笑い声が聞こえた気がした。
良かった。笑って……くれたんだ。
それで十分。
私は顔をあげ、胸を張った。空を見る。涙をぬぐう。
うん。
私はもう、大丈夫。
もう二度と落ち込んだりしない。ずっと前を向いて歩いていける。
だって彼が、応援してくれたんだもの。
私は笑った。
*
注文していたコーヒーがやっと来た。
いつもの喫茶店。俺はよく、外回りのついでに仕事をサボってここで時間を潰している。店内にはまばらに客がいた。隣のボックス席には大学生くらいのカップル。俺の正面、少し離れた席に、疲れた顔をした二十代半ばくらいの女が一人で座っていた。さっきからずっと、空になったアイスコーヒーのグラスを見つめているのがちょっと気にかかる。
俺がコーヒーを飲みながら携帯をいじっていると、隣のボックス席のカップルの会話が耳に入ってきた。聞くつもりはなかったのだが、男のほうの声がやけにでかいのだ。
「わかってる」
「……え?」
「僕にはわかってるよ」
「何が? 何がわかってるって言うのよ?」
「僕たち友達だろ」
「……なっ……。あ、あた、当たり前じゃない……。そうよ私達はただの友達で……」
「……本当はまだ、諦めてないんだろ?」
「……!!」
「希望はあるって思ってるんだろ?」
「……え……ええ。そうよ……ごめん、思ってる。諦め悪いね、私。君に一度……フラれたのにね」
「そうだよ!」
「……はっきり言わないでよ……。わかってるよ。ただの友達に戻ってって自分で言っておきながら、ちっとも諦めてないもんね。私がしつこいだけだもんね」
「間違いないよ!」
「そっかぁ……あはは。本当に望み、無いんだぁ……。そうだよね、こないだ言ってたもんね。他に好きな子がいるって。その子にアプローチ頑張ってるって」
「だから、君も頑張ってみようよ!」
「そ…………そうね。私も他の男に目を向けろって話よね……。ねえ、でも君は、私が他の男の人と仲良くしてても平気なの?」
「まったく問題ないよ!」
「うわ……。あ、どうしよう泣きそう……ごめん、泣かない。そうだよね。やっぱり……もう会わないようにしたほうがいいの……かな」
「そう思うよ!」
「……わかった……もう会わない。他の男の人に目を向けるよう……努力するよ……」
「応援してるよ!」
「え、応援……。あ……ありがと。あはは、ありがとう。そこまでキッパリ言われると逆に気持ちいいよ」
「どういたしまして」
「……あは、あは、あははは」
何やら気まずい感じになってきた隣の会話を聞くにしのびなくなり、俺は店を出ることにした。
そして上着の内ポケットに手を入れて気がつく。
まずい。
財布がない。
……会社に忘れてきたのだ。
同僚に電話して持ってきてもらうか。いや、サボっていたのがバレる。
……どうしよう。
ガタン。
その時だった。突然の音に、俺は前を見た。
真向かいの席でずっと俯いて目を閉じていたアイスコーヒーの女が、突然立ち上がった音だった。
ぎょっとして俺の動きが止まる。
女は、隣のカップルの彼女のほうよりもずっと、ボロボロに泣いていた。
一体、何があった。
どこを見ているのか焦点の定まらない目で、ふらふらと転ぶような足取りで、女はいきなり俺のテーブルの上にあった勘定書を掴みとり、店の出口の方向へ駆けていった。
何が起こったのかすぐには頭がついていかず、待て、と俺が反応できた時にはもう女は会計を済ませて外に出ていってしまった後だった。
あまりのことに、俺は口を開けたままレジの方を向いて立ち尽くしていた。
「あはは!」
呆然とする俺の耳に、カップルの男の笑い声が一際大きく響いた。振り向くと、カップルは二人とも笑っていた。満面の笑顔の男と、笑いながら……涙を流している彼女。
俺は席に座る。
なんだかわからない。……なんだかわからないが、とにかく助かった。
思いがけずタダになったコーヒーの残りを、一気に飲み干し、俺は笑った。