『ザ・ラスト・オブ・アス』(TLOU)語り
完全ネタバレ、最後までクリアしたことを前提に語りたい。ていうか語らせろ。
ある日2chを見ていると、『ジョエルが悪』だとかいうまたしてもとんでもない話が持ち上がっていてビックリした。何かひとつの物事を善悪に分けて考えたがる傾向は主に「体は大人、頭脳は子供」みたいな精神年齢の低い人間によく見られるパターンだ。『ワンダと巨像』にも同じような感想が見受けられることから、これは日本の教育システムに何らかの欠陥でもあるのだろうかと疑いたくなる。ていうかこいつらの脳みそに何らかの欠陥があるに違いない。今頃クリッカー化してないか心配だ。
それはさておき、TLOUは素晴らしいストーリーだった。発売前の各社レビューでもそう語られていたが、どうにも社交辞令か宣伝にしか見えなかった。しかし、それも実際にプレイしてみれば各種レビューは誇張ではなくまさに真実だったことが分かった。全く珍しいことだ。ノストラダムスの予言よろしく、こういうのは事前に騒ぎ立てるだけ、という風に相場が決まっている。ゲーム業界を盛り上げるためにはやむを得ないのだろうが、あまりに持ち上げすぎて肩すかし、を何度もやられると、そのうち宣伝を見ていても「実際はどうなっているんだ?」とか考えたりするようになって逆に疑うから、やめて欲しい。
さて、TLOUのストーリーのキモと言えばラストだろう。最初は「あれ、これで終わり?」と思ったものだが、すぐに「むしろここで終わったのは最善」と思うようになり、納得できた。てっきり町に戻るまでにまた感染者との戦闘があるのかと思っていたので、そこら辺は少し肩すかしだったが、物語的にはあれで十分よかった。ちょっと唐突に終わった感があるが、プレイヤー個々に様々な解釈の余地と余韻を残して終わる、いいエンディングだった。何かこの終わり方を見て『ノーカントリー』を思い出した。あれも唐突に終わるが、それゆえに何か「その先の物語」をかき立てるようになっている。そしてTLOUはテーマ的に同じマッカッシー作品の『ザ・ロード』にも似ているが、テーマへの追及力は完全にTLOUが上回った。あまり詳しく言うとネタバレになるから言わないが、『ザ・ロード』はラストが完全にご都合主義に流れてしまっている。元々『ザ・ロード』は、マッカッシーが「崩壊した世界で子供が取り残されたら」という着想から書き始めたものらしい。マッカーシーは60歳を超えて初めて父親になった。そんな息子が孫のようにかわいいのだろう、作品中にも自らの息子に対する愛情は随所に感じられたが、最後はその愛ゆえにとんでもないご都合主義展開を繰り広げてしまっている。私もそれまで泣く準備すらしていたのだが、完全に興ざめとなってしまった。ただし、それを差し引いても『ザ・ロード』自体は素晴らしい作品になっているので、ぜひ読んでみることをお勧めする。
さて、TLOUのラストについてだった。ジョエルはFFの病院からエリーを救出して脱走。その際、“プレイヤーの意思”によって医者と看護婦二人を殺している。このシーン、医師は絶対に殺さないといけないが、看護婦は殺す必要はない。しかし結局ほとんどのプレイヤーが看護婦も殺したのではなかろうか? 私もちゃんと二人とも殺した。自分の場合は「始末して確実なる安心にしておく」ディオの心境で殺したが、だいたい似たようなものだろうと思う。厳しい戦闘を経てようやくたどり着いただけに、「ここでもしものことがあったら」と考えると、やむを得ない選択であった。基本的にTLOUはほとんど一本道のゲームだが、ここら辺はうまいことやったな、と思った。きっと医師たちはエリーの承諾を得て、ワクチンを作るためという大義のためにエリーの脳を取り出す手術を行おうとしたのだろう。世界を救うことができるかもしれない――きっとその前には、何回も綿密な予行演習を積み重ねていたはずだ。それがいきなり出てきたアラフィフのオッサン。何が何やら分からぬ間に殺される医師。きっとその場の誰も、これが現実のことだと信じられなかっただろう。殺される医師を見て、部屋の隅にへたりこんで怯える看護婦たち。
普通、こんな人間を殺そうとは誰も思わないだろう。怯える人間を嬲り殺すゲームとしては『ポスタル』が有名だが、これはそんなゲームではない。一人の少女をただ守るだけのゲームだ。もちろんその過程で凄惨な戦いを経てきたが、戦う相手は理性失くした感染者か、敵となる人間だけである。
今、目の前に怯えている看護婦は、明らかに敵ではない。もはや戦意はないことは明白だ。でも殺してしまう。
この瞬間、プレイヤーは完全に現代人としての倫理観を捨てて、ジョエルの生きる倫理観を選択したからだと思う。ゲームの中だけとはいえ、倫理観を変えさせてしまうゲームというのは恐ろしい。プレイヤー=ジョエル=恐怖の対象にしてしまった。「一番怖いのは人間」というのはよく聞く話だが、「一番怖いのは主人公」なんていうホラーはどの創作ジャンルでもほとんど聞いたことがない。『シックス・センス』的な大転換を、倫理観を通してやり遂げたと思う。
ストーリーを作った人間は中々のやり手と言える。『北斗の拳』も『バイオレンスジャック』も善悪の区別はあった。明確に主人公たちが善だった。もちろん、これらの作品はそれゆえにいい作品でもあるのだが、TLOUはそこらへんを曖昧にしてプレイヤーに問いかけてくる風に持って行った。
さて、ラストの話題と言えば一番よく出てくるのがエリーのラストのセリフ「誓ってよ」だろうか。それに対してジョエルが「ああ、誓うよ」と返し、エリーが軽く頷いて(ように見える)、ここで唐突に暗転してエンディングを迎える。
まず、ここまでの経緯を抜粋する。まずはファイアフライの部隊を突破してエリーを救出して、エレベーターで下に降りたところからのムービー。
m(銃を向けて)「その子は救えない。ここから連れ出したって死ぬのよ。クリッカーに襲われてバラバラにされるか、その前にレイプされて殺される」
j「お前が決めることじゃない」
m「エリーも望んでる……分かってるでしょ? ねえ、今からでも……正しいことをして。エリーは苦しまないから」
~~場面変わって、ジョエルが車を運転している。エリー、目覚める。
え「……何よ、このかっこ……」
j「寝てろ、薬が効いてるんだ」
え「何があったの?」
j「ファイアフライは見つけた。お前以外にも、たくさん集まってた。免疫を持つやつらが、何十人も――お前がいなくても平気だ。それに奴ら、治療法の開発をやめた。今は帰り道だ。」
エリー、寝返りをうって、寝る?
j「(ささやき声で)すまない……」
~~ジョエルの回想
マーリーンの腹部?を隠し持っていた銃で撃つ。エリーを車の後部座席に寝かせる。
重傷のマーリーンに歩み寄るジョエル。
m「待って! う……撃たないで……お願い……」
j「また追ってくるだろ?」
ジョエル、マーリーンの頭を撃ち抜く。
それから、最後のエンディングのムービー。このムービーの前には、プレイヤーはエリーを操作してジョエルの背中を追いかけることになる。その時の会話も、ジョエルがサラのことを(よく山へ連れて行ったよ。もし生きてたらきっといい友達になれただろうな、というセリフ)話したりと、以前よりは打ち解けたように見える。そして段差を乗り越えたところからの、最後のムービー。
え「待って。――ボストンで――噛まれた時だけど……一人じゃなかったの。私の親友もいて、一緒に噛まれた。途方に暮れてたら、その子が言ったんだ――待ってればいいじゃない? どうせ、最後はみんなおかしくなっちゃうんだからって。あたしはまだ待ってるの」
j「エリー……」
え「ライリーって子だった。あの子がまず死んで――それからテス、それにサム」
j「どれもお前のせいじゃない」
え「そういうことじゃないの」
j「俺はな、生きるためにずっと戦ってきた。お前も、何があっても――戦う目的を見つけなきゃダメなんだ。こんなこと、聞きたくないっていうのは分かってる――だが――
え「誓ってよ! ファイアフライについてさっき言ってたことは本当だって誓って」
j「――誓うよ」
え「………分かった」
どうだろうか。クリアしてすでに分かっているつもりでも、改めて思い返すとかなり深い、いろんな意味にとれる話だと再認識させられるのではないだろうか。
マーリーンの言うことは、一見してもっともだと思える。確かに、大人でもクリッカーに噛まれて死ぬだろうし、エリーを助けたところでこの先いつまで生きられるのか、というのははなはだ疑問だ。エンディングではカットされているが、それこそ町にたどり着く前にクリッカーが出てきて襲われるかもしれない。町に着いたところで、平和に暮らせるとも限らない。人間同士の抗争で命を落とす危険もある。マーリーンはまさしくそこを突いてきたのだ。
それに対する「お前が決めることじゃない」というセリフ。確かに正論だが、このセリフを穿った見方をすると、逆に「決めるのは俺なんだよ!」という意味にも取れる。
ここで本当に重要なのはエリーの意思だが、そこらへんで二人は互いに食い違った主張をしているだけに終始しているように感じる。マーリーンはエリーを犠牲にしてもワクチンを作って、人類を救済すべきという考えだ。多分、それは犠牲者の数という観点から考えると圧倒的に正しいことだろう。ただし、エリーの脳みそを取り出したから、絶対にワクチンが作れるとは限らないだろう。この崩壊した世界の技術は崩壊前の技術より劣るであろうし、そもそもワクチンを生成できたところでそれが正義のために使われるのだろうか? 思い出してほしいのが、冒頭の感染が広まるなか、サラを連れて逃走する場面だ。最後にサラはどうなったのか? そう、人間の兵士に殺された。ジョエルにとってクリッカーは脅威かもしれないが、恐怖ではないのだろう。最も信用できないのは人間であり、だからある意味クリッカーより怖い。途中でビルも言っていた。「感染者どもは鍵を持ってねえからな」。つまり、習性を理解して対処できる感染者より、人間の方がよほど恐ろしい、という考えだ。これらの経緯から考えるに、ジョエルはFFがワクチンを作れるかどうかより、「お前たちがワクチンを作ったところでどうなるんだ?」と考えていたのかもしれない。そもそも他人の言葉など、はなから信用する気もない。弟と仲たがいしたらしいが、その後の生活を見るに、弟のほうはもっと社交的で他人を信用する感じだ。仲たがいというよりは、ジョエルが人を遠ざけるようになったから、自然と互いに離れていった、という感じではなかろうか。
そして、このゲームの中では感染者の位置づけが徐々に変化していく。
最初は拳銃しかないから、クリッカー一体でも倒すのに一苦労する。クリッカーを拳銃で倒そうとすると5,6発くらい撃ちこむ必要がある。音にも敏感で、ステルスでも最低速度で近づかないと察知される。もちろん、掴まれれば一撃死が待っている。そんな強敵のクリッカーも、まずはビルのところでショットガンを入手してから一気に対処が楽になる。ほとんど一撃でクリッカーを始末できるので、立場的にはクリッカーを上回ることになる。クラフト武器も新しいものが登場するから、ビル以降は感染者の強さは相対的に弱体化する。それに合わせるようにしてブローターも登場。しかし、クラフト武器と、何より知能という最強の武器を持った人間のほうが圧倒的に有利なのは間違いない。極め付きは終盤に出てくる火炎放射器。これが感染者を相手にして、もはや反則級の強さを誇る。気分はまさに世紀末、「汚物ども、消毒してやるぜー!」とプレイヤーは喜び勇んで感染者に向かっていくようになる。
それに比べて人間は一番手ごわい。カバーしながら射撃してくる相手には、こちらも容易に近づくことはできない。撃ちかえすしかないが、数の力で制圧されるとそれも難しい。となると最終兵器クラフトアイテムを使用するか、息を殺してステルスしながらゆっくりと数を減らしていくしかない。恐怖の対象は確実に感染者→人間へシフトしていくように、ゲーム全体でデザインされている。
途中で出てくるディヴィットもそれを助長しているだろう。ディヴィットとの一騎打ちの場面で“惨殺”されたプレイヤーは多いだろう。私もその一人だ。ディヴィットは殺したものの、あの人食い集団は今なお残っているわけで、ちょっとした恐怖だ。
途中の黒人兄弟、サムとライアンもインパクト大。明るかった黒人野郎が、まさかの自殺で呆然とした。そしてあれはまさしくジョエルの最後すらも暗示していたのではなかろうか。エリーが死んだとき、ジョエルだって同じ行動を取ってもおかしくない。
マーリーンは言う。「今からでも、正しいことをして」と。ジョエルも犠牲者の数を考えれば、理性ではエリーを“殺して”ワクチンを取り出すのが“正しい”とは分かっていかもしれない。しかし、ジョエルはここに来るまでにすでに何人ものFF兵士を殺してしまっている。「今さら正しいことをしても」という開き直りもあったかもしれない。それに今からワクチンを開発したところで、それが何になるというのだろう? 人間の醜さをこれでもかと見せつけられて、感染の危険が去ったからと言ってまた“元の生活”に戻れるというのだろうか。どちらにしても、サラは帰ってこない。そしてサラの“代用品”のエリーも帰ってこない。ひょっとすると、ジョエルはワクチンなどどうでもいい、という心境ではなく、むしろワクチンなどない方がいい、という心境だったのかもしれない。ワクチンが開発されてジョエルに残されるのは何もない。そりゃ、ワクチンで感染の危険が減れば、それだけ人々は団結しやすくなるだろう。冒頭のような感染者を炙り出して処刑するようなこともなくなるはずだ。それでもいくつかのいがみ合いは残るだろうが、ワクチンで安全が確保されれば社会にも秩序は徐々に戻ってくる。ひょっとしたらある程度和気あいあいとした社会で暮らしていけるのかもしれない。でもそこには自分の愛する人もいないし、20年の失った時がのしかかってくるだけだ。
ジョエルはエリーを愛していた。それが実の娘の代用品であったとしても、愛がないという人はいないだろう。だからエリーに見え見えな嘘をついて寝かしつけた後、小さな声で「すまない」と弁解したのだろう。もっと言うと、マーリーンはエリーにとって、「気のいいおばさん」だった。序盤でマーリーンからエリーを託されて、ほどなくしてエリーはマーリーンとある程度親しいことが会話に出てくるからだ。
エリーはジョエルに出会う前の段階から、すでにマーリーンとの話し合いの末に自分の命と引き換えにワクチンを作ることに合意していたのではないだろうか。というかそうでないと話がおかしい。エリーをワクチンにするために、ジョエルに研究所までエリーを運ばせたのだから。
まとめると、エリーは自らの命と引き換えにワクチンを作るために、研究所へ向かおうとしていた。しかし、本来研究所まで護衛するはずのマーリーンは負傷していた。そこで代打としてジョエルが選ばれた。途中でテスを失うも、そのまま研究所へ向かってゆく二人。その過程で、ジョエルはエリーに実の娘のように感情移入してゆく。そして最後の真相を明かされる。ジョエルとしてはたまったものではない。エリーを守るために連れてきたのであって、殺すためではない。ここらへん、ジョジョの第五部、トリッシュをボスのところに連れて行ったブチャラティの心境が一番近いのかもしれない。ただし、ことはトリッシュの場合のように単純ではない。エリーはおそらくだが、自分が死んでもワクチンを作ることに合意していた。それはエンディングでも述べられているように、死んだ親友のためでもあるし、それはジョエルとの旅で次々と感染が原因で死んでゆく者たちを見て逆に確固たる決意になっていったのではないだろうか。「私の命に代えてでも、感染を止めて見せる」、数々の犠牲者を防ぐことができるなら、本望だったろう。そしてその防げる犠牲の中には確実にジョエルも入っていたはずだ。エリーは人類のため“だけ”に身を捧げたわけではない。死んだ親友のためでもあるし、何よりジョエルのためでもあった。
これも途中のチャプターで表現されている。暴徒に襲われて、水たまりの中に頭を押し付けられたシーン。そこで颯爽とエリーが助けに入って、ジョエルはなんとか一命をとりとめるのだが、このときにジョエルが自分を救ってくれたエリーを、逆にたしなめる場面がある。エリーはそれに対して「命を助けたんだから、ちょっとは感謝してもいいんじゃないの?!」というようなことを言い返す。ちょっとだけ二人の雰囲気が悪くなるが、すぐに協力して(スナイパーライフルのシーン)続く暴徒の集団を切り抜けることに成功する。そのことでジョエルはエリーがただ単に保護される存在から、互いに協力し合えるパートナーとして、徐々にだが認めるようになる。ただ、それ以降も完全に子供扱いが止まったわけではない。ダムのシーンでは弟のところに置いて行かれることに対して、エリーは馬を盗んで脱走という手段で明確に反抗する。盗んだバイクで走り出すどころの騒ぎではない。それから結局は和解することになる。ジョエルもエリーも、お互いに失いたくないパートナーであると互いに再認識する。
最もそれが顕著になるのが冬のシーンだ。
ここでは操作キャラがエリーに切り替わる。予想外の展開にちょっととまどいつつも、プレイヤーは今度はジョエルを助けるエリーの立場でゲームを進めていくことになる。
そこで登場するのが通称ロリコンことディヴィットだ。ディヴィットは本当にロリコンなのだろうか? 彼らの兵士たちは「またペットにするんだろうよ」と言っていたことからそうであると言えるが、あくまで噂話程度なので当てにはできない。それにディヴィットも最初はエリーの戦闘能力を買いたい、という風に近づいてきた。これもだってそういうセールストーク、近づくための口実と捉えることができるし、だから結局誰も信用できないのだ。ただ一個だけ明らかな事実は、彼らが人肉食(日本語版では規制されていたが、北米版では人肉を切り分けるシーンがあった)を行っていた、ということだ。人肉の備蓄もあることから、やむにやまれず、というよりかは、計画的に行って食していた、とみるべきだろう。つまり鬼畜に輪をかけた鬼畜、ということだ。
この冬の季節を超えたとき、エリーはジョエルと完全に同格になった、と考えるのは間違いだろうか。以前は蛍を見つけてはしゃぐエリーを冷たい目であしらっていたジョエルが、エリーと一緒にキリンを見ているとき、和んだプレイヤーも多いはずだ。ちなみにキリンはライフルで撃っても倒せない。それができたらまさしく「酷いよ、ジョエル!」なのだが。
長くなってしまったが、ここでようやくあのラストシーンへと話がつながる。
ラストのエリー救出を、冬場の延長として捉えると、最後の「分かった」は、ジョエルの嘘を見抜いたうえであえて受け入れて、これから二人で生きていく、という意味に取れる。
最初は私もそう思っていた。ところが、ラストの会話を見てみると、会話がかみ合ってないのが分かる。それは今まで述べてきたように、二人の根本的な目的が違っていたからだ。エリーは自分が死ぬことでジョエルを(感染から)守ろうとした。それに対して、ジョエルはあくまでエリーの「命」を守ろうとした。
マーリーンの「エリーが望んでいたこと」という言葉も、結局疑いだしたらキリがない。これはワクチンを作って世界の主導権を握りたいマーリーンが嘘を言っているのだ、と言われれば、それに対する明確な反証はできない。だが、私はこのマーリーンの言葉は本当だと思う。エリーは自分の命と引き換えにワクチンを作ることを望んでいたし、そうやってジョエルの命を救いたかった。脱走したときに「私だって、あんたを失いたくない!」と言っていたから、これは十分あり得る話だと思う。
そう考えると、ラストのセリフもちょっとした意味が浮かび上がってくる。いきなりなぜ「いつかみんなおかしくなって死ぬ」などという哲学的なことを言い出したのか。「私だって待っている」というのは、一体何を待っているのだろうか。ただ単に噛まれた人間はおかしくなって死ぬのか、それとも人間全体を指して「結局はみんなおかしくなって死ぬ」と言っているのか。サムは分かるが、テスは感染者になる前に誇りを持って犠牲になったように思うが、それを「おかしくなった」と表現するあたり、ひょっとしたらテスと自分を重ね合わせていたのかもしれない。どちらにせよ、「噛まれた人間は遅いか早いかの違いだけでいつかみんな死ぬんだ」というセリフ自体が14歳のものとは思えない。同じ14歳主人公がたくさん出てくる『エヴァ』よりよほど含蓄に富んでいると言えるだろう。その含蓄とは「どうせ死ぬんだから、自分の好きなようにさせてよ。(命と引き換えにワクチン作って)アンタを守りたいんだからさ」という程度の意味だろうか。
とにかく、このセリフを聞いたジョエルは言う。
「俺はな、生きるためにずっと戦ってきた。お前も、何があっても――戦う目的を見つけなきゃダメなんだ。こんなこと、聞きたくないっていうのは分かってる――だが――
そう、あくまで生きるために戦え、と諭している。俺のためであろうと、勝手に死ぬことは許さん! というわけである。だから「聞きたくないことは俺だって分かっている」なのだろう。
まあ、説明、というか自分の思ったことは以上だ。これから「愛は自分勝手であり、愛は世界を救わない」という風にとることもできるし、「エリーはジョエルの嘘を受け入れて一緒に生きていくことにしたのだ」と受け取ることも十分可能だと思う。
このエンディングに対して、実は開発から公式見解が発表されている。それは要約すると「エリーの選択に対してジョエルが勝手にその選択を奪ったこと、それに対する不信がエリーにはある。エリーはジョエルに選択肢を奪われるのを嫌って、やがてジョエルのもとから離れて自立していくだろう」。だが、これも一見解だと思う。公式の発表は最初こそ「そうだったのか!」と目から鱗のような気分にさせられたが、このシーンだけでそこまでの結論を導き出すのはちょっと強引だと思う。確かにエリーの立場に立てば「私の死ぬのを勝手に止めやがって!」となるのだろう。しかしジョエルの立場からすれば「俺の意思を無視して死に急ぎやがって!」となるだろうし、もっと弁明を与えられるなら「いや、待てって。もしかしたら脳みそ取り出さずにワクチン取り出す方法もあるかもしれないだろ。お前、そんなに死ぬ死ぬ言うけどな、本当にFFも信頼できるのか? なんか胡散臭いし、もうちょっと慎重に考えて行動しろよ。それに、そんな大事なことなら、なんで事前にもっと俺にも話しといてくれなかったんだよ」とか言うかもしれない。これはジョエルの親心を考えれば十分言いそうだと思う。公式見解はあくまでエリー寄りで、エリーの意図をジョエルが一方的に無視したような感じだ。だが、もっとエリーも大人になれば、もっとジョエルとの信頼を深めたうえで、円満に自立することも十分あり得る話だし、何よりエリーが親になった時、ジョエルの言ったことに逆に納得する可能性もある。そしてこの世界において生きていくことにおいて、自立にせよ一緒に生きていくにせよ、それはもはや現代人の考える「自立や共生」と同じに考えていいのだろうか。ジョエルの立場からさらに考えれば、今まで娘の死を受け入れられずに生きてきたジョエルが、第二の娘を発見することによって、本当の意味で「崩壊した社会」を生きる人間になったのだと見ることもできる。だから、逆に「崩壊した社会」を「崩壊」させるワクチン作りにそもそも潜在的に反対だったのかもしれない。
公式見解は否定しないし、そもそもいちプレイヤーに公式の見解を否定などできるわけもない。ただし、いい物語も大半がそうであるように、この物語の登場人物たちも作者の意図を離れて独自の意図を持って行動している。公式で何と言おうが、もはや登場人物たちは独自の意思を持って、物語から退場してしまったのだ。そうなれば、TLOUのラストはまさにあの時、あの場所以外なかったことになる。