フォーリング・ダウン
久々に映画を見た。
最近、映画マニアの友人とある用事で集まることがあって、そのときにオススメされた映画がこの 『フォーリング・ダウン』(以下FD)である。
この映画の荒筋は、ある解雇された白人中年男性が、世の中のあらゆることに怒りながら自宅へ(正確に言うと離婚した妻と娘の元へ)帰る、というシンプルな映画だ。
シンプルゆえに分かりやすいエンターテイメントになっているし、主人公の怒りの対象にはアメリカ人でなくとも誰しも共感を覚えるだろう。
最初に道路の渋滞で全く車が進まなくてイライラして、車を乗り捨てて歩いて自宅へ向かうところからこの映画は始まる。主人公の名前は明かされないが、車のナンバーから「D―フェンス」(ディーフェンス)と呼ばれることになる。
主人公の行く手には差別主義者、小売店、ハンバーガーファミレス、しつこく金をねだるホームレス、そして元妻など、いろんな障害が立ちふさがるが、その中で一番共感を覚えたのはハンバーガーファミレスだった。
みなさんも、身に覚えはないだろうか。私が随分まえにマ○ドに行ったときだった。普通に100円マ○クを頼んだのだが、まだ時間ではないので朝マ○クしかない、といわれたのだ。で、何時から普通のメニューが始まるのか聞くと、10時半からだという。時計をみたら10時25分だった。
そう、それとほぼ同じ光景がFDで再現されていたのだ。爆笑した。
それでもディーフェンスはひとしきり怒りをぶちまけたあと、なんとか平静に戻ってハンバーガーを注文する。ハンバーガーが出てきた。だが、それ写真とはまるで別人ならぬ別バーガーだった。確かに、私もマ○ドで注文して出てきたハンバーガーが、あまりに写真と違っていたのでビックリしたことがある。まず、パンがフニャフニャだ。写真ではふっくら美味しそうに焼けているが、実際にはフニャフニャでぺちゃんこだ。次にハンバーガーに挟まっている何らかの植物の葉っぱだ。写真を見るとレタスのようだが、実際に挟まっているのは黄色い葉っぱだ。一体何の葉っぱだろうか。たとえ国産でもちょっといらんぞ。肉も艶がなく死んだようになっている。結局この写真、キャバクラの写真より酷い詐欺広告だ。
それと全く同じ状況が、FDでも展開されていた。これには大半の人が共感できるのではないだろうか。
このように、FDでは「共感できるストレス」を題材にして、それに対してディーフェンスがひたすらキレてゆく、という話なのだ。
映画全体のテーマに「現代社会のストレス」が散りばめられており、それがエンターテイメントのみならず、それを超えたテーマ性として視聴者に訴えかけてくる。
特におもしろいのは、ストレスに対してひたすらキレて発散させてゆくディーフェンスに対して、そのストレスに対してひたすら耐え忍ぶ老刑事の存在だろう。この老刑事、更年期障害の妻からは口うるさく言われ、同僚からは退職前のイジメにあい、上司からも嫌われ、さらに最愛の娘も昔になくしている、という何の希望もなくストレスに耐えるだけの小市民として描かれている。この老刑事にも何か輝かしい未来が待っているわけでもない。せいぜい余生を慎ましく暮らしていくくらいしか道はないだろう。それも出来るかどうか疑問だ。映画の途中で語られていた通りなら、物価はどんどん上昇していっている。これから定年で収入もないのに、物価だけ上がり続ければ生活はすぐに苦しくなるに違いない。そんな彼がディーフェンスと対峙したときに言った「お前は狂っている」という台詞。ディーフェンスや、それに激しく共感を覚えた視聴者からすれば、老刑事こそ「狂っているんじゃないのか?」と思うだろう。何の将来のアテもなく、ストレスに耐え続けるだけの老刑事こそ、狂っているんじゃなかろうか。
ディーフェンスにも、ちょっとだけ狂気じみた描写があるが、それは何も完全に常軌を逸したものではない。ときどきカッとなって怒る癖があるという程度で、何もそこまで異常ではない。天王寺動物園の入口にはそれ以上の、本当の異常者がゴロゴロいるし、生活保護でパチンコ行っている人間の方がディーフェンスなんかよりよほど狂っているだろう。
狂っている、と言えば、ディーフェンスの元妻からも何かおかしさを感じる。離婚したのは妻の方からの申し出なのだが、離婚した理由が特にないのだ。それでも全くないことはない。ディーフェンスの急に見せる執念や怒りのような感情に対して、身の危険を感じた、というものだ。ただ、実際にディーフェンスが妻や娘に暴力を振るったなどという描写もないし、妻も「それはなかった」と警察に話している。つまり、離婚した理由も特にないのだ。暴力を振るいそうだったから、重大なことになる前に先手を打って離婚した、というのが実体だ。ディーフェンスからすれば、娘を奪って勝手に離婚しやがった被害妄想の激しいアバズレとしか思えないだろう。私もそう思う。この元妻は、ストレスを過剰に恐れるあまりにストレスの原因になりそうなものを片っ端から切り捨てているように見える。その態度に警察も愛想を尽かして、元妻の「元夫がしつこく電話をかけてくるし、こっちに来るとか言ってるから守ってよ!」という要求を無視してそのまま立ち去ってしまう。ただ、これは警察のやる気のなさも現れているので、どちらがどうこう言うことはできないかもしれない。警察の怠慢という現代社会のストレスの一因を描いた、ともいえなくもない。
まあ、とにかく、こういう現代社会のストレスに対してキレる、受け流す、先手を打ってなるべく排除する、の三者三様の方式を用意して見せているところなど、意外とFDは奥の深い映画だ。
普通は状況に応じてこの3つの手段を使い分ける。いや、二つといっていい。キレるのはほとんどない。せいぜい最近盛んになったデモくらいだろうか。あれも昔のように徹底的にやりあうというよりはみんなで集まってアピール、というかむしろ「みんなで集まる」ことのほうに主眼が移ってきている感じだ。むしろ“キレたデモ”は国際社会でも日本でも「暴力的だ」として批判される対象になっている。FDでも、ディーフェンスは道中でプラカードを掲げる黒人を目にする。このあたりも象徴的なシーンだ。ディーフェンスもこういうプラカードでも掲げればラストの破滅を避けられたかもしれない。ただ、ディーフェンスの抱える問題はプラカードに書いて主張できるような内容ではない。確かに、会社からの解雇などはそういうこともできそうだが、そういうのはあくまで表面的なことだ。漠然としたストレス、もう我慢なんてしてられるか! という感情であり、プラカードに書くような論理や主張ではない。むろん、そういった感情を描いたからこそこの映画はよくできた映画と言えるのではあるが。もし論理のほうを描いたとすれば、まるでプラカードに書いたような白けた映画になっただろう。
結局このディーフェンスは「ひとりの異常者」として片付けられ、映画もハッピーエンドのような雰囲気で締めくくられる。ただ、視聴者だけに「これでいいのか?」という漠然とした不安と「結局何の問題も解決されてないじゃないか」という不満を残して。
これも計算して作られたものだろう。
ただ、これを見てラストに思ったことは、「この映画ではストレスに対してキレたのはディーフェンスひとりだが、もし100万人のディーフェンスがいればどうなるだろうか?」ということである。それが実際に起こったのが、古代・中世の中国王朝の農民反乱であったかもしれない。もしかしたらフランス革命であったかもしれない。ただ一個だけ言えるのは、100万人が集まればディーフェンスも「ただの異常者」として片付けられはしなかっただろう、ということだ。もし、ディーフェンスが“感情”に対してきちんとした論理づけを行えば、それは政治になり得たかもしれない。
人によって、ストレスへの耐性も違う。まず最初にストレスに対してキレるのはディーフェンスのような人だろう。ただし、この映画が作られた当時のアメリカも今ほど格差も酷くなく、まだまだ豊かな時期だったから大半の人間は切れたいストレスを抱えていても「我慢していればそこそこ豊かだし」と行動に移すことはない。もっとストレスが強まり、また社会も不安定で格差も大きくなれば、100万人のディーフェンスが出てきても全くおかしくない。
そう言う意味では、ディーフェンスは社会における「炭鉱の鳥」のような存在かもしれない。
この映画が作られてからかなりの時間が経過している。93年製作だから、20年たった。20年前の映画と思えないほど現代性をおびているのは、社会にとってはむしろ悪いことなのかもしれない。むしろ20年前より現実味があるのではなかろうか。いまやディーフェンス予備軍はそこらじゅうにいる。
この映画を今の時代に合わせて作り直したらどうなるだろうか、とも思う。現代の日本を舞台にして作り直しても面白そうだ。
手軽に見れるエンターテイメントでありながら、その奥に深いテーマがちゃんとある。かなりオススメの映画なので、ぜひ一度見て欲しい。