『ICO』と『ワンダと巨像』考察(ていうほど大したことない、実はネタバレ前提で感想書きたいだけ)編
以下完全ネタバレ前提なので読む方は注意されたし。
あと、ここに書かれていることは一部資料に書かれていることを除き、すべて筆者の想像、もとい妄想の類なので、このことにも注意されたし。
突然だが、両者の世界観には通じるものが大いにある。それは「角の生えた人間」と例の「黒い物質」である。他にも、ワンダの着ている前掛けとイコの着ている前掛けの模様のデザインが酷似している、 他には『ICO』のセーブ椅子と『ワンダ』の巨像をかたどった石像など、細かいデザイン面でも類似性はあげられる。実際、初期の『ワンダ』はネットで多人数によるプレイを構想していたらしく、そのときのプレイヤーキャラクターは完全に「イコ」そのものだった。
さすがにネットで多人数によるゲーム、というのは時期尚早だったようで、それから『ワンダ』は今のような形で開発が進められることになったそうな。
もうひとつの類似点は、黒い物質だろうか。イコの黒い影とワンダの巨像から噴き出すアレだ。成分的には『ICO』も『ワンダ』も同じものだと思える。
あとは作品の雰囲気だろう。「雰囲気」とはまさしく曖昧などうとでも取れる表現だが、この二つのゲームをやったことのある人なら十分分かっていただけるだろうし、これ以上の表現のしようがない。特に言語にそれは現れている。キャラクターは完全に作品世界の言語で会話する。『イコ』には「ダイジョブ?」とか、ほとんど日本語やんけー、と突っ込みたくなるような言葉があったが、とにかくキャラが喋るのは全く異世界の言語で、それがまた独特の雰囲気を醸し出しているのは間違いないことだ。
また、それに伴って会話の少なさも挙げられるだろう。昨今の小説、というよりライトノベルでは設定を作りこんで、そこを説明するのが(当然賛否はあれど)よく見られるようになった。しかしこの両作品は全く「プレイヤーに対する説明」というのを放棄している。『イコ』ならば、世界観が語られているのはエンディングで流れる歌の歌詞だけ。あとは全部自分で読みとらなければならない。そして、読み取ろうにも肝心のヨルダと女王の会話はイコにすら分からない言語で話されるため、ますます手掛かりがないという……
でも、別にそんなのは必要ないのかもしれない。
なぜなら、『イコ』も『ワンダ』も話は超単純だからだ。
とりあえず、『イコ』の話をさらっていきたい。
イコはとある村で生まれた、角のある子供だ。生まれた時からあったのか、それとも成長とともに突き出してきたのか定かではないが、とにかく角の生えた子供は城へイケニエとして捧げられることになっているようだ。そして、それは村に古くから続く歴史ある風習みたいだ。
まず、城がどこにあるのか、ということだが、これは歌詞の中で「その島は強い陽光を浴び……」とあること、オープニングで船にのって城に上陸していることから、城は周囲から離れた島であることが判明する。だが、絶海の孤島、というわけではなく、一番陸地に近い場所では数百メートル程度の距離しか離れてないようだ。これは最後の門が開いてヨルダと脱出する場面で、橋が対岸まで架かっていることから推測できる。目測なので正確な距離は分からないが、向こうが見えるということは無茶苦茶な距離ではないだろう。無念にも、橋は途中で女王の魔力によって引っ込んでしまうため、そのままヨルダと脱出、というわけにはいかなかったが。
次に疑問に思うのは、なぜ村人は角の生えた子供を城へのイケニエとして、律儀に捧げ続けたのだろうか。あの城にいる女王は、たしかに禍々しい魔力を有しているが、別に城の外に出ていって世界征服しよう、とかそんなことは考えていないように思える。過去に何があったのか分からないが、村人は城に対してかなりの畏敬と恐怖の念を持っているようだ。彼ら自身が神として、あるいは悪魔として、またはその両方として崇めていたのだろうか。
例えば、村が戦争か何かに巻き込まれたとき、あの女王が出ていって石化の魔法で一網打尽、ということも考えられる。そしてそれ以降、村人たちは女王にイケニエを捧げるようになった。女王の魔力の源泉は、どうやらイケニエの魂的なものだろう。ただ、魔力が自分たちに向くことを防ぐため、あの城に女王にいてもらうようになった。
それか、女王自体もイケニエだった、という考えもできる。どう考えても、女王自体あの城に事実上は幽閉されているような気がして仕方ない。
先のような戦争、あるいは災害や疫病など、災いが村を襲った。そしてそれを解決するために、一人の女性が犠牲となって、影の女王になった。その魔力で災いを鎮めたあと、女王は城に戻っていった。そしてイケニエを求めた。
さて、では女王とは結局何なんだろう? 会話の中で「ヨルダは私の魂の器」と言ってたことから察するに、初代女王の魂が別の人間に乗り移って、長い年月を生きてきたようだ。そしてヨルダは「わたしの娘だ」とも言っている。
だが、その割には父親の存在が思い浮かばない。娘というのも、直接腹を痛めて生んだ正真正銘の娘というより、このヨルダもイコのようなイケニエだったのではないだろうか。ヨルダが城の扉やセーブ椅子を使えるのは女王の血脈を受け継いでいるから、というなら、先の女王イケニエ説が正しいのならば、女王の親族は村のどこかで生きているはずだから、そこから養子的にもらってきた、とも考えられる。
この説だと、女王は完全な悪ではないし、むしろ必要悪ですらある。もしもまた甚大な災難が村を襲った時の、備えだ。
では、女王はなぜイコをはじめとする「角のある子供」を集めてきたのだろうか。
ひとつ考えられるのは、それが魔力の源だった、ということだろう。ラストで石化したヨルダを前に影と闘う場面があるが、そこでの影は完全に「角の生えた子供」の姿だった。そして影をひとり倒すたびに、石棺の光が消えてゆくことからも影=元・角の生えた子供たちという結論が自然だ。
もう一つは影を奴隷として使うためだろう。城の警護や、ヨルダの警護などだ。これは一つ目とほとんどイコールになる。
だが、もうひとつ理由があるように思えてならない。
最後の女王との戦いだが、あれは別にイコでなくても闘えると思うのだ。確かに、イコは角の生えた子供の特徴として、超人的な跳躍力など、通常の子供では考えられないような身体能力、耐久力を持っている。だが、それでもイコはまだまだ子供であり、剣を持って戦うことなら大人でもイコと同じか、それ以上にできるはずだ。
なぜ、大人たちは女王と闘わなかったのか? それは上記が正しいなら、女王が「イザというときの保険」というのもあるだろうが、それ以上の理由があるように思う。
つまり、あの剣を使って女王を倒せるのは、イコ(角の生えた子供)だけなのではないか、ということだ。推測だが、普通の大人がどんだけ力をこめて剣を振っても、女王は倒せない。なぜなら、イコには女王と同じ魔力が(少ないとはいえ)備わっているから。だからイコだけが、女王を倒すことができた。もしイコがイケニエで死んだなら、イコが有していた魔力は女王のものとなっただろう。だが、イコは死ななかった。
女王がイケニエとして角のある子供を集めているのは、魔力だけでなく自分を守るためであったのかもしれない。自分を倒せる存在を、イケニエとして殺してしまえる上に魔力の補充にもなる。これほど効率的な「攻防の一手」もないだろう。
さて、ではイコの有している(と思われる)魔力とは一体なんだろう。
これはあくまで『イコ』が『ワンダ』の世界観をつながっている、と仮定しての話だ。『ワンダ』の最後で、ワンダはドルミンと一体化して、赤ん坊の姿で生まれ変わる。そして、その赤ん坊には角が生えていた。上田氏自身も「ドルミンは浄化されたが、完全に浄化されなかった部分が角として残った」と語っている。
もしイコがワンダの子孫だとすれば、その魔力はすなわちドルミンの魔力の残りだと言えるだろう。
だからこそ、イコ(と角の生えた子供)にしか女王は倒せなかったのではないか。
もっというと、なぜ角の生えた子供が男の子限定なのかも気になるが、ここらへんはゲーム上の都合なのだろうか。それとも、何か意味があるのだろうか。
ここまで考えて、もう一個角の生えた子供がイケニエにされる理由を思いついた。
もしかしたら、角の生えた子供が成長すると何かマズイことが起きるのではないだろうか。ナルトの九尾のように、自分の中の魔力を抑制できなくなるとか、何か不都合が起きるのかもしれない。超人的な身体能力が備わった代償と考えると、十分妥当だと思う。が、これは完全にただの妄想の域である。
とりあえず女王やイケニエはここら辺でいったん切り上げるとして、『イコ』のエンディングについて考えてみたい。といっても、ほとんど上田氏が語ってくれているのだが。
浜辺についたとき、イコは両方の角が折れてしまっていた。それによって超人的能力は失ってしまった=浜辺でジャンプしようとするとぎこちない動きになるのだが、それと同時にイコの魔力的なものもなくなってしまったらしい。
つまり、イコは普通の男の子になった。
ヨルダも、エンディングを見る限りは普通の女の子になってしまったようだ。
だが、ここでのヨルダには何か疑問が残る。
エンディングで、ヨルダは完全に影に飲み込まれた。女王が「次に目覚めたときにはお前のことなど覚えていない」と言っていたが、この影に完全に飲み込まれると、女王になってしまうと思われる。ただ、イコを船に乗せて助けた時点ではまだ完全に影に飲み込まれていなかったので、ああいう行動を取ることができたのだろう。ただ、その後砂浜に打ち上げられていたヨルダらしき人物は一体なんだったのだろう? 黒い影のヨルダはどうなったの?
ここらへんはよく分からない。もしかしたらゲームで苦労したプレイヤ―に対して、少しでも救いを持たせた終わらせ方にするためにあえてそうしたのかもしれない。
一説によると、『イコ』は生殖をモチーフにして作られているらしく、その説によれば象徴的な意味で説明はできるようだ。興味のある方は調べてみてはいかがだろうか。
ただ、今回はストーリー的な解釈を突きつめていきたい。ていうか生殖とかいうテーマが専門外なのでご勘弁を。
話を戻そう。このヨルダは、影ヨルダがいわゆる浄化されて生まれてきたのであることは、想像に難くないし、こじつけでもないだろう。
エンディングの場所も象徴的だ。城内は茶色や灰色が多く、敵はすべて黒である。つまり、どことなく暗い色が多い。
それとは対称的に、浜辺は砂浜が白だし、まさに歌詞通りの「強烈な陽光」に照らされて一面真っ白だ。どことなく岩の色も少し明るめのような気がする。そこに横たわる純白のヨルダ。ヨルダは本当の場所に帰って来た、ということの暗示なのかもしれない。
ここで疑問に思うのが、女王の「あなた(ヨルダ)は城の外では生きていけない」という台詞だろう。ただ、生まれ変わったヨルダには、もうその掟は通用しないのかもしれない。どちらにせよ、イコが女王を倒して影の力が消えたから、ヨルダも外に出られるようになった。そういう解釈もありうる、という程度にとどめておきたい。
あとは、語り残した『イコ』と『ワンダ』の共通点について書いていきたい。
どちらもデザイン面において、西洋とも東洋ともつかないようなデザインになっている。上田氏は『イコ』のインタビューで「場所を特定されたくない」という意思があったことを語っている。また、『イコ』は説明書にも「それは、いつだかわからない時代の、どこだかわからない場所でのお話」とあり、さらに時代も曖昧にしている。それはオブジェクトにおよそファンタジーらしからぬ蛍光灯、段ボールなどが配置されていることからも読み取れるだろう。さすがに『ワンダ』は時代は明らかに古代・中世だろうが、場所は先に述べたとおり、どこだかわからないようになっている。
そして、それは自然物にも配慮されていると思う。
『イコ』の木は資料を見て作ったのではなく、何も参考にせず、心の中にある木を描いた、という意味のことを上田氏は語っている。どこかの木を参考にすれば、場所を想像させてしまう。例えば桜など配置した日には(上田氏的には)最悪なことになるだろう。そうすることで、徹底的に「ここにはない、どこだか分からない世界」を作りだすことに成功した。
『ワンダ』もそうだろう。遺跡の形式はアンコール・ワットのようにも見えるし、南米の古代遺跡のようにも見えるし、西洋の中世石造建築のようにも見える。『ワンダ』の自然もよく考えればすごく漠然としている。あの木の実は何だったのだろう。
今思えば、あの古の地というのは巨像たち(あるいはドルミン)によって滅ぼされた旧文明なのかもしれない。
そして何より共通していることは、全てにおいて余計な要素を一切削ぎ落としてシンプルかつ奥深いゲームに仕上げたことだろう。それゆえ描写する対象が絞られ、徹底的に作り込むことができる。そこからゲームを超えた迫真のリアリティがにじみ出てきている。
ゲームだけでなく、創作全般に通用するひとつの手法かもしれない。