避ける
カラン、カラン――。
小気味好い音が響いた。
それはこの喫茶店で静かに流れるジャズの音色よりも、少し大きく。
俺はコーヒーカップに伸ばそうとしていた手を止め、正面の入り口を見た。
「涼平」
入ってきた男に声をかける。それは俺の待っていた人、田崎 涼平だった。俺の高校時代の友人だ。
涼平はこちらに気付くと、笑顔で応えた。俺も左手を挙げ、挨拶をする。
「待ったか?」
「いや」
涼平は俺の正面に座ると、近くにいた店員を目配せで呼んだ。
「アイスコーヒー」
店員は特に何も言わず、軽く会釈をしてその場を離れる。
涼平は胸ポケットからソフトパックの煙草とジッポーライターを取り出した。高校の時から変わっていない、アメリカン・スピリットのメンソール・ウルトラ・ライト。ライターは俺が高校の時に、涼平の誕生日にあげた物だった。
「珍しいな、お前が遅れて来るなんて」
涼平が待ち合わせの時間に遅れてくるだなんて、珍しいこともあるもんだ。俺は待っている間、そう思っていた。こいつの場合、待ち合わせ場所に二十分早く着いているなんてことも、ざらにある。
「ん? あぁ……」
煙草の箱を上下に振り、器用に一本だけ出す。それを口元に持ってゆき、直接咥えながら返事をした。
その表情は、言い辛そうな何かを含んだ顔だった。
何かあったな。
と俺は直感する。
涼平はライターの蓋を振って開け、慣れた様子でフリント・ホイールを回す。雫のような形をした、綺麗な火が付いた。
「撒こうと思ったんだけどな」
咥えた煙草を火の先端に持って行き、炙る。チリチリ、と小さな音が聞こえた。
「撒く?」
テーブルの端にあった鈍色の灰皿を涼平の前に差し出し、俺は聞く。
すると涼平は上を向き、「フーッ」と煙混じりの息を吐き、言った。
「吸わねぇの?」
……煙に巻くつもりか。
「禁煙中」
「はぁ!? マジかよ」
表情をあからさまに歪め、涼平は言った。もう一度煙草を咥え、吸い、吐く。人差し指と中指で挟んだ煙草の、燻る先端をしげしげと眺ると、「禁煙、かぁ……」と呟いた。
「……違くて。『撒く』ってなんだ、っつう話だよ」
俺がそう言うと、涼平は「んー」と喉を鳴らしながらキョロキョロ視線を泳がせる。
やはり。涼平が話をする前にこの仕草をするという事は。大抵アレ関係の話だ。
ああいう話をすると、“寄ってくる”とよく言うだろう。あれは本当らしい。涼平はそういった話をする時は、周りの環境、状況を確認してから話し出す。たくさん“いる”所で話すのは、危ないらしい。
俺は自分が緊張しているのを感じていた。それは、久しぶりの感覚だった。
高校の時、涼平がしてくれた話はいつも、嘘も誇張も無い本当の話だったからだ。
「今日な、来る途中。そこの駅前の交差点、あるだろう。そこを歩いてたんだよ。そしたらさ……」
そこまで言った時。店員が向こうからアイスコーヒーを盆に乗せ、やってきた。
「お待たせしました。アイスコーヒーです。ミルクとお砂糖はお使いになりますか?」
「一つづつ。あと塩、あります?」
涼平がそう言うと、店員は訝しげな表情を浮かべる。
「塩、ですか?」
「うん、塩」
店員はかしこまりました、と言った風に一礼するとすぐにその場を離れ、速やかに調味料入れに入った塩を持ってきた。
どうぞ、と差し出す店員に、どうも、と挨拶をする涼平。店員の表情には今だに、薄っすらと疑問の色が見えた。
去ってゆく店員の背中を見送りながら煙草を一服し、再び涼平が話し出す。
「どこまで話したかな……あぁ、交差点を歩いてたってとこだよな。そしたらな、正面から女が歩いてきたんだよ。全身灰色っぽい、地味ィな服着て、真っ黒な髪が腰ぐらいまであって。そんな奴が真っ直ぐ、歩いてきたんだ。まぁ、その時点で気付いてはいたんだよ。ソイツが“生き物”じゃあない、ってことにはな」
そこまで話し、涼平は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。ジュゥッ、という音が鳴る
。
「でもなんかさぁ、ソイツの中を通り抜けるのも嫌じゃんか。前にも話したと思うけど、何回かあるんだよ。“そういうヤツ”の中を通り抜けたこと。でもまぁ、あんまりいい気持ちじゃあない。だから俺は咄嗟に避けたんだ。でも今思うと、その避け方がいけなかった。“あからさま”過ぎたんだ。もっと気付いた時点から、少しづつ進路を変えるようにして、避けるべきだったんだ」
俺の目を見ながら語る涼平はここで話を区切り、ガムシロップとミルクの入ったプラスチックの容器を開け、アイスコーヒーに入れた。一つづつ、ゆっくりと。
涼平はそれをすぐには混ぜなかった。真っ黒なアイスコーヒーの中で、透明なシロップと真っ白なミルクが澱み、混ざる様を眺めていた。
「気が抜けてたっつうのか、うっかりっつうのか……。その女をギリギリの所で、肩を引いて避けちまった。そしたら、気付かれちまった。『あぁ、この人には私は見えてるんだ』ってな。通り過ぎた後、ソイツが振り返ったのがなんとなくわかった。そして、ついてきた」
コーヒーの中をストローで掻き回す。三色の液体が混ざり、茶色く濁る。
「わりぃな。久々だってのにこんな話で。……まぁでもお前、こういう話好きだったもんな」
俺は静かに頷く。手に汗をかいていた。
さっきから、寒気がする。
涼平のこういう話は、本当だ。高校の時、それを実感したことが何度もあった。つまり、この話も今さっき起こった、本当の話。
「『撒こうと思ったんだけどな』って言ったよな、さっき」
俺が言う。涼平はコーヒーを一口飲み、頷く。
「うん。そこいら早足で歩いて、撒こうと思った。でも、ダメだった」
涼平はそう言いながら、先ほどと同じ動きで煙草を一本取り出し、火を付ける。
「ダメだったってのは……」
俺が言った。
涼平は煙草を深く吸う。
「今もそこにいるよ」
俺の顔の右横に向かって、フゥーッ、と煙を吐いた。
「振り向くなよ」