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アンラ・マンユ・ジルワ

作者: 雪芳

ファンタジー企画の作品です。他にもたくさん企画作品があるので、ぜひ楽しんでくださいね。

 黄昏時、ふたつの太陽が西の山稜に千切れていく。煌煌と世を照らす残り火は荒野を金色に染め上げていた。


 ふいに、金が灰にくすんだ。雲の間から鯨のような影が光を遮ったのだった。

 飛空艇だ。飛行魔法によって紫色の膜に装われたその巨躯の脇腹には、ある紋章が輝いている。槍を咥えた銀色の鷹。アルネス帝国守護団所有の飛空艇である証が、ぎろりと大地を睨み付ける。


 飛空艇の向かう先、もう暗く沈み始めた東の大地は幾分か瞬いていた。星の絨毯のようなそれは、ムエタと呼ばれる商業都市であった。



 ムエタは炎の神に守護を置く。それ故に無数の松明が街に焚かれ、絶え間なく火の爆ぜる音色が踊る。齢十九の若き帝国兵士ミスラは、耳に心地よい火の旋律が酒場の喧騒に消えてしまうのを寂しく思いながら、干し肉を千切り、水で流し込んでいた。


 酒場は戦友たちに占領され、右も左も騒がしい。久しぶりの地上に、皆が興奮しているのだ。本来なら、下っ端のミスラは彼らに混ざって上の者のご機嫌とりをしなければならない。


 しかしどうにも、今晩は気が乗らなかった。もともとの気性の所為ではない。今回の任務が特別なものだからだ。


「ミスラ、杯を間違えているぞ」

 そう言いながらミスラの横にどすんと腰を下ろしたのは、同期に入団した青年兵士ユーリであった。麻で織った赤い帯を頭に巻き、革の胸当てを締め、腰には丸みのある半月の剣を下げる。ミスラと同じ様相だ。

 唯一違うとすれば、ミスラはまだ成人ではないために帯が青いこと、そして肌の色か。ミスラの肌は、彼ほど黒くはない。


 ユーリはミスラの杯を然り気無く自分の杯とすり替えた。杯には白濁色の酒が揺らめいている。ミスラはため息と共に杯の縁を撫でた。


「気分が乗らないんだ」

 吐息に不安の混じるミスラに、ユーリは薄く口角をあげる。

「怯えているのか?」

「ちがう。ただ、女を斬るのは忍びないんだ」

「……女、女ねぇ。まさか経験がないのか?」

「下らない」


 品のない言葉にミスラは眉間を寄せた。

「ははッ、あいかわらず冗談が通じねえな。けどよォ……」

 肩を竦め、

「女は女でもアンラだ。自分の子供でさえ悪魔ダエーワに売る奴を女なんて言うのかね」


「虫酸が走るよ」

「違いねぇ」


 二人の杯が進む。しばしの沈黙の後、ユーリは顎をしゃくった。

「ほら、女っていうのはああいうのを言うんだよ」

 酒場の中央には石で組まれた小高い舞台があった。厚く閉ざされた幕の向こうから太鼓と笛の音が響き始め、喧騒が少しずつ落ち着いてゆく。舞が始まるのだ。


 素早いいたちのように幕が開く。裾から舞台へ飛び出した踊り娘は、異国から来た旅芸人のようだった。帝国の人間は肌が浅黒い。しかし娘は白かった。そして、若々しく熟れた肉体を僅かな帯で隠しているだけだった。


 酒場の空気が先ほどまでの喧騒とは違う熱気に包まれる。ぬめった、ミスラの苦手とする夜の臭い。

 酒場の客の過剰とも思える反応には故がある。帝国の女たちは肌を晒したりしないのだ。

帝国の女は神物であり、肌を露出することは神の怒りを買うことに繋がる。そのため年頃になると、顔まで布で隠す。酒場の娘でさえ、顔以外は布で自身の身体を覆う。

 

 踊り娘の汗ばんだ肢体が艶めかしく揺れるたび、ミスラは胸が詰まった。目のやり場に困り、呼吸さえ忘れてしまいそうになる。


 戸惑うミスラの脇腹をユーリが小突いた。見やると、図体の大きな男が踊り娘に言い寄っている。

「隊長だ。相変わらず夜の方も指揮が激しいようで……」

 隊長マーフは帝国守護団の四番隊を指揮しており、下にミスラを含めて百人の兵士を持つ地位の高い人物だ。しかし娘は手練なのか、マーフの太い腕を擦り抜け鼻でくすりと笑った。

 ――弛んでる。

 苛立ちが急に吹き出て、ミスラは俯いた。任務を思い出して心臓が重く湿る。


 逆賊アンラがムエタで大帝の暗殺を目論んでいるという情報が入り、団は派遣された。

 アンラは恐ろしい存在だ。強大な魔法によって悪行を繰り返す。アンラによって滅ぼされた村は三つ、殺された戦士は百を越える。それほどまでの殺戮に手を染めて尚、捕まらない。噂によると、男も慄くほど大柄だという。


 それだけではない。ミスラが真に恐れているのはその強固な肉体の中にある冷徹な心だ。アンラが魔法を得たのは、自分の腹に宿る子供を悪魔に捧げたからである。


 悪魔のすむ死の国と生き物が触れることが出来るのは出産と死だけだ。魔法を使う方法は二種類あり、ひとつは死の国に最も近い物質である化石を使う。化石は貴重で、多くのものは目にすることも出来ずに死ぬ。


 アンラはもうひとつの方法、まさに人徳に反した禁忌を犯している。肉体の形成途中である胎児は死の国と繋がっている。肉体のない悪魔に肉体を与え、受肉させることで悪魔を使役できるのである。胎児は無論、死ぬ。

 魔法を得るために実の子供を殺す。血も涙もない、正に死神のような女。それが怒りのアンラなのだ。


 考えに耽っていると、ユーリの声が意識を叩いた。

「お、おい、ミスラ」

 ハッと顔をあげる。瞬間、鼻腔に甘い芳香が広がった。思わず目を丸めて鼻の先に認めたのは、あの踊り娘だった。ミスラを挑発するように、その豊満な胸を揺らしている。


 ――ああ、この娘は手練ではなく無知なのだ。

 そう悟って顔をそらすと、マーフと視線が交わった。マーフはあからさまにミスラを睨み付けていた。嫌な汗が背中を伝い、席を外そうと立ち上がったとき、不意に後頭部をガツンとした激痛がえぐった。

 そのままミスラは、暗闇に落ちていった。



 鈍い痛みでゆっくりと我に返った。緩慢に目蓋を開いてみると、見知らぬ天井が広がっていた。全身がずきずきと疼く。その痛みを伴う火照りに、記憶が背をもたげる。

 女に挑発され、女に振られた上司の腹いせとして殴られ、外に放り出された……はずだったが。目を瞬くと、あるのは夜空ではなく天井だ。一体何故だろうか。


「気が付いたか」

 凛とした声。呼ばれて見やると少年が立っていた。染めてもいない麻の帯で頭を巻き、余った生地を長外套のように垂らしている。済んだ黒い瞳は、驚くほど大きい。

手には香炉を持っている。そういえば甘い匂いがする。


「あんた守護団の戦士だろう。今晩は休むといい。まだ痛むんだろう」

「君は」

「通りすがりの旅芸人だよ。剣舞を踊ってる」


 部屋が薄暗いため最初は気付かなかったが、少年の肌の色は白かった。

「すまないな」

「良いんだ。同族は家族だ」

 その言葉に、なぜミスラは酒屋で踊り娘に挑発されたのか理解した。あれは挑発ではなく、ミスラの肌を見て好感をもち行った挨拶のようなものだったのだろう。

 ミスラの母は異国の人間だ。上司から過剰な嫉妬を買ったのも薄い肌の色のせいかもしれない。


 そう思うと、母への怒りを感じた。乳飲み子だったミスラを置いて出て行った、顔も覚えていない母。彼女のせいで孤児院に投げ込まれた。肌の色で差別を受ける、貧しく厳しい幼少時代、這い上がるために血の滲む努力し続けた日々。それらを思い出し、ミスラはほぞを噛んだ。嫌悪が沸き立った。

 おぞましい、女……。


 涙が溢れそうになって、ミスラは誤魔化すように頭を掻いた。痛みのためだろうか、気弱になっている。

 目を瞑りながら溜息をついていると、額に冷たい湿りが沁みた。少年が濡れた布をミスラの額に置いたのだった。

「良いのか? 水は高いだろうに」


 少年は微笑むと、何も言わず椅子に座った。

途端に、ミスラは戸惑ってしまった。彼の優しさに心が震える。安らかな、穏やかな、木漏れ日のような感覚が身体に溢れる。それはミスラにとって初めての感覚だった。形容しがたいほど心地がいい。癒される、とでもいうのだろうか。


 温かい……。

 少年はというと、じっとミスラに視線を注いでいた。何かを愛でるようだった。

気恥ずかしくなって、「君は」言葉が漏れる。

「君は、随分落ち着いているね。何だか俺より年上みたいだ……」

「もしかしたら、そうかもしれないね」

 夜は更けていく。その晩ミスラは、よく眠った。


 ムエタは伝統的な帝国建築でできている。帝国のすぐ東に広がる大砂丘ザミャート。そこからくる砂風に耐えるため頑丈な石と丸太で組まれた街並みは、昼ともなると熱を含み、まるで小さな太陽のようになる。夜は夜とて松明が燃え続ける。昼も夜も熱の灯る街なのだ。


 街が瞬くさまは、街から幾分離れた飛空艇の停車地帯から眺める。ミスラは汗を拳で拭きながら飛空艇の警備にあたっていた。

 早朝に少年と別れ宿に戻り、すぐさま振り分けられた仕事についた。団の殆どは街の見回り、調査に出ている。本格的にアンラ狩りが始まったのだ。


 アンラは捕まるだろうか。魔法とはどのようなものだろう。悪魔を使役し、人の身体をぼろきれのようにしてしまうという噂を聞いたことがある。アンラは本当にムエタにいるとして、団は無事でいられるのだろうか。

 思えば、どこから情報はきたのだろう。もし自分がアンラだとして、情報が流れるようなことをするだろうか。そもそもどうしてムエタなのか。その目的は?


 暑さのせいだろうか。妙に思考を貪ってしまう。

 あの少年は、元気だろうか……。


 少年の小動物のような顔を浮かべた、刹那。

 硬質な突風が頬を掠った。頬が熱を持ち、何かと触れてみる。掌にこびりついたものは、血だった。


 ミスラは瞬時に屈んだ。風を切る音、続いて矢の突き刺さる音が頭上を駆けていった。

「ぎゃああああっ!」

 悲鳴が四方からあがり、あたりに血の粉塵が飛び散る。更に身を縮めると、重たい振動が後方に響き、間一髪で岩のようなものを避けたことを知る。振り向きざまに薄目を開けると、赤黒いものが広がっていた。


 手を伸ばす。生臭い、ぬくい、どろりとした、鉄の匂い。鼻腔に認めた瞬間、吐き気が込み上げる――、それが血だまりだと理解する。

 視線をずらし、血だまりの源まで視線を走らせた。あったのは、無数の矢が突き刺さり、苦悶の表情を浮かべた指揮官だった。


「なっ……」

 鼓動が警鐘のように打ち始める。雨の如く矢が放たれる中、ミスラは地に臥せながら前に進んだ。辺りは蜂の巣を突いたようだった。それもそのはず、非常事態だというのに指揮するものがいないのだ。

「て、敵襲……?」

 何処からの攻撃か。矢は立っている者達、逃げ出す者達を次々と屠っていく。ミスラは懸命に這い、岩陰に隠れた。


 身を縮めていると、漸く攻撃はやんだ。敵襲、アンラという言葉が脳味噌に木霊する。狙いは何だ。まさか、まさか。

「飛空艇?」

 確信を持って呟くと、遠くから足音が聞こえた。その数は予想外なことに、複数だった。


「早くしろ、隊が戻ってくるぞ」

 男の声だ。ミスラではない。そっと、気付かれないように岩陰から覗いてみる。アンラではなく、それは集団のようだった。屈強な身体をした男が一人、十人程度の男たちに命令を下している。表情と物腰から、只者ではないことは瞬時に分かった。矢を使い切ったのか弓を捨て、剣を握り締めている。


「……盗賊か」

 男たちは素早い動作で生き残った戦士に切りかかり、容赦なく息の根を止めていく。虫の息といった者にまで刃を振る姿に、背中を氷が伝う。

 外の警備で生き残った者はミスラひとりのようだった。飛空艇の中にいるのは、少しの見張りくらいのもの。戦力の集中する街までは距離がある。


 つまりそういうことだったのかと、彼らの計画を悟ったミスラは絶望した。


 アンラの情報を流し飛空艇を呼び出し、手薄になったところで奪うつもりだったのだろう。飛空艇に積まれた化石は魔法を帯びた高価なものだ。盗賊ならば喉から手が出るほど欲しいものだろう。飛空艇を盗むつもりか化石を盗むつもりか……、なんにせよ死体しか残らないのだから、アンラの殺戮のひとつとなり、彼らは追われない。まんまと帝国守護団は踊らされたのだ。


 ミスラは深く呼気を吐き出すと、腹を括った。

 狼煙をあげる。

 一刻も早くこの事態を伝えるのだ。盗賊たちの素早さを思えば狼煙をあげても間に合わないだろう。だが一人生き残ったミスラにできることはそれくらいしかない。いや、狼煙さえあげられるかどうか……。


 狼煙台は外にあったが、非常用に置かれた松明は無残にも踏み消されている。火を熾さなければならない。しかし少しでも近づいたら、火をつける前に殺されるかもしれない。多勢に無勢だ。しかもミスラには実戦経験が少ない。

 どうするべきか思案して、地面に突き刺さった矢のひとつに、閃いた。


 すぐさまミスラは敵に気付かれないよう弓兵の死体の傍まで這うと、その懐を探った。ミスラの予感は当たった。手に目的のものを握ると、ミスラは岩陰に戻った。

 矢尻に布を巻きつける。剣に塗るための油を懐から出し、染み込ませた。

 地面に置いたのは短弓、矢、そして油に火打石。弓兵が火矢を放つための道具である。

 矢尻に布を巻きつけると丹念に油を染み込ませ、火を着けた。短弓はあまり扱ったことがないが、狼煙台まで走って火をつけるよりは確実だ。失敗したら、そこで走り出せばいい。


 ミスラは岩陰から身を乗り出すと短弓をめいっぱい引いた。盗賊がミスラに気付き、凄まじい形相で向かってくる。構わずミスラは懇親の力を込め――、火が疾駆する!


 祈りは通じた。

 矢は一度空のほうへと高く上がると、吸い込まれるように狼煙台へと墜ちた。みるみるうちに大きな炎がはためく。もうもうと白煙が空へと昇る。


 と同時に、ミスラは短弓をもう一度引いた。矢は剣に弾かれ、空へと円を描く。

 すぐさまミスラは短弓を投げ捨て剣を鞘から抜いた。飛空艇の方へと大地を蹴る。脱兎の勢いで。背中を壁につける。


 盗賊の一人が切りかかる。素早い一振り、右によける。敵の剣が飛空艇の壁に噛み付く。動きが僅かに鈍ったのを見計らい、ミスラは敵の腕に剣を振り下ろした。確かな感触に、血飛沫。敵は呻き、咄嗟に身を反らしたがミスラは逃さなかった。横に振りなおし、喉笛に刃を叩きつける。


 血を浴びながらミスラは剣を引き抜き、再び構えなおした。ミスラの反撃に、盗賊たちが警戒する。距離を置いて、取り囲む。

 万事休す。もう手がない。

 敵も分かってか、じりじりと詰め寄ってくる。ミスラは死を覚悟した。


 そのときだった。猛然と風が吹き荒れた。砂塵が舞い、反射的に目を瞑り、開く。

 あの少年が屹立していた。まるでずっとその場所にいたかのように。


 摩訶不思議な出来事に、盗賊たちがたじろぐ。少年を知るミスラでさえ動揺していた。いるはずのない人物がさも当然にいるのだから。

「お前たちか……。私の名を汚すのは」

 澄んだ声だった。濁りがなかった。昨晩の声と違う。

 混乱するミスラに少年は「狼煙をありがとう、また会ったね」と言った。今度は声変わりを控えた少年の声だった。

 まるで彼の中にもうひとり、女性がいるような感覚に、身の毛がよだつ。


 ――そんな。大男のような女だと。

 少年の身体が紫色の光を帯びる。どこか遠くから、獣の息遣いが聞こえる。閃光が周囲に飛散し、少年の四肢が伸びていく。丸みを帯び、黒髪がするすると生えていく。輪郭が変貌する。

 気付けば周囲は、薄暗く淀んでいた。そして目の前にいるのは、少年ではなく十七、八の女だった。

 長い髪の毛は獅子のような金色、肌は白と黒の斑で、美しい手足には蛇が巻きついたような痣が浮かび、胴へと結ばれる。下腹部は紫の光を抱いたように輝き、炎のような文様を刻んでいた。

「あ……、アンラ……」

 盗賊の一人が青ざめて呟く、あの名を。

「呼ばれる筋合いは無い!」


 たった一言が轟音のように響く。圧倒的な存在感が、絶対的な力の差を予感させる。皆が皆、足が地に着いてしまったように動かなかった。滝のような汗を流しながら、アンラの一挙一動に怯えている。

 その様にアンラは……、ミスラにはなぜかアンラが寂しそうに見えた。


「だが良いだろう。お前たちには感謝しなければならないからな」

 一体何処からか。獣の唸り声が、吐息が、耳元まで近づく。すぐ傍に、巨大な獣がいる。視覚には感じられないが、その他の感覚が危険を叫んでいる。

「無駄な殺しをしないですむのだから」

 アンラはミスラに背中を晒すと、右手を掲げた。


「喰らいなさい! 魂さえ残らぬほどに!!」

 盗賊たちの背後の空が甲高い悲鳴をあげながら割れる。ぱっくりと暗闇が現れ、中から獣の生暖かい、雄雄しい匂いが漏れる。

 断続的に赤ん坊のような泣き声が響き――、ぬっと出てきたのは巨大な手だった。紫色の肌に黒く鋭い爪をしたその手はあまりにも大きく、たったひと掻きで盗賊たちを握りこむと、躊躇無く潰した。


 断末魔が木霊し、あっという間に立ち消える。滂沱と血が滴り、腸が指と指の間からミミズのように飛び出す。

 手は完全に盗賊たちを包み込むと、肉団子のように掌で転がし、闇の中へと戻っていく。


 あまりのことにミスラはその場に倒れこんだ。血の小川が闇からこぼれ、ミスラの足を汚す。ぐちゃぐちゃという咀嚼音、そして時折、喜ぶような唸りが聞こえた。


 やがて闇は糸で繕うように閉じていった。するすると空へと戻り……、再び眩いばかりの太陽の光が周囲を照らした。そしてアンラもまた、少年へと姿を変えていた。

 アンラが振り返る。そこに在るのは、昨晩と同じく穏やかで大きな瞳だった。しかし今は、凍てつくような恐怖を与える、恐ろしいものにしかミスラには感じられない。なにもかも信じられない。


 これが魔法、これが悪魔、そしてアンラ……。

 がちがちと歯を鳴らす。心臓がばくばくと激しく打ちつけ、今にも破裂しそうだ。殺戮を目の前にしてミスラは震える唇を魚のように動かした。

 呆然としながら、真っ白な頭で出てきた声は、蚊の音のようだった。


「……俺も……、殺すのか」

 それを耳にしてアンラは眉をあげた。まるで意外とでもいうように。

 彼女はそっと眉根を顰めると、少しずつ後じさった。長外套が絹のようにはためき、揺れる。

 そしてアンラは、少年は、

「同族は、家族だ」

 小さく微笑んだ。

「それに君は、私の子供と同じくらいだな……」


 ミスラの胸は唐突に裂かれた。なんともいえない切ない感覚が心臓を襲い、悲しみが溢れてきた。

 これは同情だろうか。ミスラは唖然としながら打ち震え、そしてあの晩を思い出していた。あれは、あの初めての感覚は……。


 風が額を撫でる。熱風ではなく、木漏れ日のような瑞々しくやおやかな風が。ミスラの涙を少しだけ拭って、アンラの姿はもうどこにもなかった。



 胸がすくような蒼穹が何処までも続いている。地平の先は赤ん坊の腹のようになだらかだ。

 槍を咥えた銀色の鷹、アルネス帝国守護団の飛行艇は永劫にも広がる空を飛んでいた。窓からひとり、空を見るのは一人の青年。先日ようやく成人となって赤い帯を頭に巻くことを許されたミスラだった。


 数ヶ月前、帝国守護団飛空艇を襲った事件は、結局アンラのものとされた。一人生き残ったミスラに説明できる言葉などなく、しかし甚大な被害から、なによりアンラが来たことは真であったから、否定できなかったのだ。

 今でもふいに、ミスラの胸を締め付ける。アンラは名前を汚されることを好まないはずだ。あの笑顔は、悲しんでいるだろうか。


「ミスラ隊長!」

 呼ばれて、ミスラは窓から視線を外した。ユーリが畏まって、膝を折っている。

「まもなく帝都に到着します」

「分かった」

 あれからミスラは、アンラの殺戮から唯一生き残ったことと飛空艇を守った功績により、若き隊長として就任した。これからは兵士として、真の意味でアンラを追う側となったのだ。


 いつかアンラにまた会える日が来るだろうか、と思う。恐ろしい力を持ち、同時に穏やかな日差しのようなアンラ。彼女に再びめぐり合う日が――。


 ミスラはそっと自身の額に手の甲を押し付けると、赤い長外套を纏い、歩き出した。

 締め切りぎりぎりの滑り込みセーフです。卒論でてんやわんやすぎて何もわからない状態ですが、少しでも楽しんでいただけたら何よりです……。

 この度は企画作品を読んでくださり、ありがとうございます。

 また、参加してくださった方に心から感謝を。

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― 新着の感想 ―
[一言] 執筆お疲れ様でした。最初このタイトルを見た時は一体どんな内容だろうと思っていましたが、読んでみるとすごく深いストーリーだなぁと感じました。文章も描写も真似できないくらい上手くて、するするとこ…
2008/10/30 09:55 退会済み
管理
[一言]  なんて鮮烈な邂逅譚なんだろう、と思いました。短編のファンタジーで『出会い』が描かれることは多々ありますが、これほど印象的で目に焼きつくような作品ははじめてでした。アンラとミスラ、ともに謎多…
[一言] 執筆お疲れ様でした! 楽しませていただきましたよ。あらすじからもう面白そうだなとは感じていましたが。 幻想的な火の帝国、ムエタ。想像するだけで美しいですね。 ミスラとアンラ……。これからどう…
2008/10/23 20:28 退会済み
管理
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