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あわせ鏡 改定版 作者:齋藤 一明
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8/9

津波のこわさ

 庁舎に戻ると、すでに会議室には大勢の職員が集まっていて、受付に対策案を渡す順番待ちの列ができていた。さすがに時間には正確で、予定時刻には席につくことができるよう配慮している。たいしたものだと俺は感心した。
 試案の検討には関わらなくて良いということだったので午前中をすごした会議室へ行くと、木下が源太や雅と休憩をしていた。

「やあ、帰ってきたね、どこへ行ってたのかな?」
 にこやかにカップを突き出した木下は、俺の後ろにいる石橋に目をとめた。
「おや、お客をつれてきたのか。どうせ今枝が強引に連れ出したのだろうが、どなたかな?」
 まずは立ち上がって椅子を勧め、雅にコーヒーの用意をいいつける。

「東大で助教をしている石橋さんです。地震に詳しいそうで、ぜひ手伝ってもらうと言って、今枝さんが誘いました」
 その今枝は庁舎に戻るなり、試案をまとめる会場に篭ってしまった。

「最初は別の教授に地震のことを訊ねたのですが、専門外だと。場所がです、場所が専門外だからといって紹介されたのが石橋さんでした。九州西方の地震帯に詳しいそうで、いろいろなことを教えてくれました。九州の西にも地震の巣が広がっているそうなのです。これで嘘つきって言われなくてすむようです」
 木下に今日の行動を報告するとき、俺はうっかり余計なことを言ってしまった。
 それはともかく、石橋から教えてもらったことを皆に伝えねばいけない。だが、石橋本人がここにいる。なら、もう一度説明してもらうにかぎる。そう思って石橋に話すよう求めたのだのだが、石橋は怪訝な表情で俺に質問をよこした。
「ちょっと気になるのですが、嘘つきと言われなくてすむと言いましたよね。いったいどういう意味ですか? そのことと地震と、何か関係があるのですか? それに、失礼だが、あなたとそちらの女性。この役所に馴染んでいない、いや、はっきり言って、浮いた印象を受けます。先ほどの今枝さんでしたか、あの方は室長だそうですね。そんな人が出歩くときに、見習いのような人をアシスタントにするでしょうか。ところが、どうやらここは危機管理室の中枢のようです。どういうことなのですか。しかも、今枝さんのことを心配した言い方ではなかった。あなたです。ほかの誰でもなく、あなた自身のことです。どういうことですか?」
 一番問われたくない質問だ。まさか、一連の作業が俺の夢に端を発しているなどと言えないし、話したところで信じてはもらえまい。どうすれば良いかわからず、俺は言葉を失ってしまった。

「疑問は、もっともです。今枝からは説明を受けていないようですね、なら、私が話しましょう」
 うんうんと頷いていた木下が口をひらいた。莫迦ばかしいと思うかもしれないがと前置きをして、話し始めた。

「ある人が、旅行を計画しました。幼馴染が四人で夏の休日を楽しもうと、鹿児島へ行ったのです。まだ若い二組のカップルですよ、そりゃあ楽しく遊んだことでしょう。その四人が甑島へ渡りました。天気は良い、海はきれい、気心の知れた仲間もいる。それは楽しく遊んだでしょう。ですが、幸せの絶頂というものは長続きするものではありません。泳ぎ疲れた夜のこと、突如大地震に襲われたのです。甘い夢なんて一発で消し飛んで、身支度を整えました。そうこうしていたら、真っ暗な海に白い線が浮き上がりました。遠くで稲妻でも奔ったのかと思っていたら、細かった線が糸のようになり、割り箸のようになったそうです。それが沖から迫ってくる。津波ですよ」
 雅が小林の手を借りてコーヒーを炒れてきた。そういえば小林は今朝からずっと俺たちと行動を共にしていた。だが、小林には本来の机が与えられているはずで、アルバイトのような俺たちとは違って自分の仕事があるはずだ。ところが自分だけのカップを取って、空いた椅子に腰を落ち着けた。俺たちの世話係にでもなったのだろうか。
 それはともかく、まだ熱いコーヒーを一口啜った木下は、熱さのためか顔をしかめてみせ、石橋が手をつけないでいるのを見て、続きを話し始めた。

「遠い沖に見えていた波がどんどん押し寄せてきて、岬の灯台にうちかかり、すぐにホテルの建つ崖にも押し寄せた。第一波がぶちあたって高い飛沫をあげたときにですよ、まさにその瞬間に映像が逆転を始めたのです。まぁまぁ、莫迦ばかしいでしょうが聞いてください」
 なんとも妙な話が始まり、面食らっていた石橋が何か言いかけるのを木下は制し、相手の反応などおかまいなく続きを話す。
「信じられないでしょう? 誰だって笑い出すでしょうよ。でも、最後まで聞いてから結論を出してください。映像が逆転、つまり、過去へ過去へと時間を遡り始めたのですね。光景から声や音まで語丁寧に逆回しだそうでね、なにを話しているのかすら理解できない。そうして約二ヶ月という時を遡って、その人は目をさましました。長い夢をみていたのですね。面白いのはこれから先ですよ」
 木下は、気をもたせるように言葉をきり、熱そうな顔でコーヒーを啜った。
「その人は、夢でみたことを覚えていたのです。夢の中で体験したことを復習したのですから、それははっきり覚えていた。それでね、たまたまそのことを別の人に話しました。もちろん、何の気なしにですよ。すると、それが現実におきてしまったのです。それで、忘れないうちに覚えていることを書き留めてみると、それぞれ関連していないことばかりです。あまりに不思議なので別の友人に話したのですが、そんなこと信じるわけないですよ。それで、大きな事件がおきると予言したのです、その日と場所をはっきり特定してね。まさかと思いながら、友人は念のために警察に通報しました。だけど、警察がお告げを信じるわけがない。悪質な悪戯だろうと笑い飛ばした。ところがですよ、通報されたとおりに事件がおきてしまった。そうなるとあなた、善意の通報なんて誰が信じますか? 共犯者が仲間割れをおこしたと考えるのが当たり前ですよね。ただ、事件は北海道でおきました。通報は名古屋からです。気軽に事情聴取できる場所ではありません。しかたなく、電話で様子をさぐるつもりでした。するとね、警察だと名乗っているのに緊張感がないのですよ。だから不思議に思いまして、直近でなにか事故なり事件なりがおきるか訊ねてみると、ヘリコプターが墜落すると。なにを莫迦なことを言うのだと呆れましたよ、正直なところ。ところがです、翌日になったら落ちたのですよ。こんなねぇ、嘘や出鱈目なら、もっとありそうなことを言うでしょう? そんな、何年に一度という珍しいことをもちだすわけがない。しかも言い当ててしまった。俄然興味が沸きまして、翌日名古屋へ飛びました。会ってみたら、普通の青年なのですよ。その場で書き留めたものを見せてもらいましてね、疑いは晴れました。ところが、最終日に大地震がある。大津波に襲われると知りました。現実にならないかもしれないけど、最悪のことを考えることにためらいはなかったです。私の同期……今枝が危機管理室を任されていたので、すぐさま相談しました。でもね、やっぱり笑われてしまいました。ずいぶん粘ったのですが、駄目でねぇ。けど、久しぶりだからと昼食を一緒に食べたのです。その最中にコンビナート火災の一報が入りました。今枝のやつ、それは驚きましたよ。同席していた管理監が何事だというので説明したのです。そうしたら、官房長官の裁可を仰ぐとなってね、それでこうして準備を始めたということです」
 一気に語り終えた木下は、おもむろに俺を指差した。
「元凶はこの男です。この男が余計なことを言わなければ誰も知らないままだったでしょう。その次に悪いのがこの女性だ」
 こんどは琴音を指した。
「この男の言ったことを記録してしまった。しかも、友人に話してしまった」
 そしてこんどは雅を指した。
「更に悪いのがこの女性だ。通報さえしなければ誰も知らずにいたのです。だけど、知った以上は頬かむりできません。というより、全力で手立てを講じる余裕があると思わねばいけません」
 なにも俺たちを悪者にしなくたって、信用しろと迫ったわけでもないのだ。正直なところ、そんなことをされて面白いわけがない。きっとむくれて見えるだろう。

「なるほど雲を掴むような話ですね。信じろというほうがおかしい、いや、狂っています。しかし、九州西方で地震がおきると指摘したことが気になります。このご時勢ですから、南海トラフのほうが信憑性が高い。それに、九州西方なんて、誰も危険視していません。なのに、敢えてそうした。そこに興味が沸いたから同行したのですが、……といって、ここは紛れもなく内閣府の庁舎なのでしょう。とすると、少なくとも騙されているのではなさそうですね。ということなら、一般的なことを教えるという程度のお手伝いをしましょう」
 石橋はそう言うと、ボードに留めた日本地図に目をやった。
「地図に書き込みをしてかまいませんか?」
「どうぞ、いくらでも書いていただいてけっこう。ただし、その前にお茶を飲みましょう」


「先ほどもお話ししましたが、ここから、こういう具合に深い切れ込みがあります。琉球海溝という名です」
 足摺岬の南から始まる線は、大隅半島に向かってくの字を描き、あとは奄美、琉球の列島線に沿って台湾に届いた。
「そして、沖縄トラフがこの位置に広がっています」
 やはり列島線に沿って台湾の近くから五島列島までの間をウィンナーのように描いた。その中に、沖縄トラフ、深さ二千二百メートルと書き入れる。

「次に、糸魚川から南アルプスの北端に達し、アルプスに沿って御前崎へ。また、佐渡の南からこういう具合にきて、房総半島の付け根に至る線。大雑把ですが、この二本の線の間がフォッサマグナです。ここで日本列島は東西に分断されています。さて、中央構造線ですが、松本からこう延びて新城へ、豊橋へ、真っ直ぐに紀伊半島を横断して四国へ渡ります。それが伊予半島を経て九州へ。臼杵から八代を経て、天草から海の底を薩摩半島の付け根に至ります」
 キュキューッ、キューーーーッ
 フェルトペンが何本もの線を引いた。

「つまり、どういうことですかな?」
「要は、この線を境に日本は南北に分断されている、長大な断層なのですよ。衛星写真にもくっきり映っていまして、豊川、櫛田川、紀ノ川、吉野川は、断層と一致しています。諏訪湖は、断層が広がって湖になったのです。ここを見てください。阿蘇山が真上に位置していますね。活発に活動している理由が判るでしょう。そして、構造線は甑島の近くを通過しています」
「ですから、分りやすくお願いしますよ。断層が延びていることは分かりました。しかし、それがどういうことなのですか?」
 専門的な知識を持ち合わせていない俺たちには、断層だの中央構造線だのと言われてもピンとこない。木下にとってもなじみのないことのようだ。
「それだけ地震がおきやすいということです」
 うぅむと木下が唸り声を上げた。
「なんだか、危なっかしいところばかりですね」
 源太がボソッと言った。
「日本列島で安全なところなんてありませんよ。ところで、地震がおきる場所にも注目しなければいけません」
 そう言うと、石橋は地図の余白に地下の断面図を書いた。

「この出っ張っているところがユーラシアプレートです。もぐりこんでいるのがフィリピン海プレート。地震は、大まかに分けて三種類あります。まず、プレート内部。そして、プレート境界面。最後に、もぐりこんでいるプレート」
 それぞれに異なった目印を書き込んだ。そしてそれを地図に転記すると意外なことが判ってきた。
「勘太ァ、沖縄トラフって二種類の印が混ざり合ってるけど、それにしては騒がれなかったのはどうして?」
 琴音が小声で漏らした。
「いい疑問です。正に的を射た疑問だ」
 それを聞きつけた石橋はフェルトペンを琴音に突きつけて、得意そうな先を続けた。
「九州西方では地震がおきないとされてきました。なぜか。それは、過去の記録がないからなのです。東北や関東の地震はかなり古い記録が残っていて、それで周期を予想できるのです。つまり、過去の記録を元にして周期を割り出しているだけです。ところが、九州西方沖の場合、そういった記録がないのです。地震などおきなかったのかもしれない。また、定期的におきていたのだけれど、記録が流失したのかもしれない。一方で、地質を調べると地震の巣窟ともいえます。確かな根拠はありませんが、数千年に一度という周期で巨大地震が発生する可能性があると考えられています。予想最大規模はマグニチュード九。つまり、東北大震災に匹敵する規模です」

「うそ……」
 雅が掠れた悲鳴を上げた。木下と源太は、声をなくして石橋と地図を交互に見つめるばかりだ。
「心配なことはまた別にあります。というのは、このすぐ近くに地震の巣があって、連鎖反応を引き起こす可能性があることです」
 そう言うと、別の色をしたフェルトペンで線を付け加えた。
「琉球海溝から潮岬、御前崎、そして富士川の河口へと線が延びますが、これが南海トラフを示す線です。ここは活発な地震がおきる地域で、こういう具合に範囲が考えられています。また、ここには駿河トラフが、そしてこっちには相模トラフがあります。特に南海トラフの地震が危険視されているのは、連動型だという理由からです。仮に九州西方で規模の大きな揺れがあったとすると、高い確率で南海トラフに影響を与えます。現在の状況は、安定しているのでは決してなく、微妙なバランスを保っている状態。そう考えるべきでして、何らかの力によって均衡は崩れてしまいます。そうすると連鎖的に内部崩壊がおこる。つまり、連動型地震となるのです。更にいえば、沖縄トラフは背弧型海盆といって、癖が悪い。いや、悪いというのは性質が掴めないという意味です。ですので、どちらが先にせよ、別の地域で同時に地震がおきる可能性が高い。私はそう考えています」

 突然、木下が手を上げた。話を遮るというのではなく、声を失った俺たちへの配慮だろうか。
「石橋さん、ちょっと内容が濃すぎますよ。今のような話を一気に聞いてしまうと身が竦んでしまいます。悪いけど、ちょっと休ませてください」
 難しい顔で立ち上がると、その場で腰を捻った木下は、灰皿を持って窓際へ行った。ぼんやりと外を見ながら一本吸う。
「厭なことを聞いてしまったなぁ。知らなきゃ知らないで済んだだろうに」
 目をしかめて生え際をポリポリ描きながら、木下は情けない声を漏らした。
「寝言ですか? 室長から聞いていますよ、俺よりはるかに豪胆な奴だって」
 そう言ったのは小林だ。石橋の話をじっと聞き、しきりとメモをとっているのが印象的だったが、なかなか歯に衣きせぬ物言いをする。
「嘘を教えられたんだよ、君は」
 木下は乾いた笑い声をあげ、不意に石橋に向き直った。
「ところで、津波ってどれくらいの速さなんでしょうね。地震発生から津波到達までの時間がわかれば、震源までの距離を算出できませんかね」
「できますよ、電卓があれば簡単なものです。ですが、海の深さがわかりますか?」
 こともなげに答えたのだが、どこを基点にしているのか判らないので答えように困っているのかもしれない。
「それは判っているのです。ですが、十分なのか、十五分なのかあやふやでして」
 甑島から真っ直ぐに伸びた線を木下が叩いた。

「この線はそういう意味ですか」
 なるほどと頷いた石橋は、小林から電卓を借りるとパパッと結果をはじき出した。
「線は、真っ直ぐ沖縄トラフに向かっています。最大深さは二千二百メートルですが、便宜上水深を二千メートルとしますと、秒速百四十メートル。一分で八千四百メートルですね。単純に十倍すれば八十四キロ先が震央です。ただし、岸近くまで二千メートルも水深があるわけないですから、それを加味しなくてはいけません。水深百メートルの場合の速さは秒速三十一メートル。ということは、分速千八百六十メートル。三分間この速度と仮定して、七分間をさっきの速度とすると、六十四キロのところが震央ということです」
 そして、縮尺ゲージで距離を測ると、そこに×印を書いた。

「こんなに近いのですか」
 源太が額に手をあてて仰け反った。
「遠く見積もるより、近いと考えたほうがいい。けど、どうしてですか?」
 石橋は知らないのだから無理はないのだが、源太にとっては切実な問題なのだ。
 東北大震災は、真昼間の出来事だったにもかかわらず甚大な被害となった。金銭的な被害を指すのではなく、人命被害という意味だ。
 災害で人が死んだとき、その身元を調べるのは歯科医の役目なのだ。ましてや地震がおきるのは夜。昼間とは比較にならないくらいの被害者がでるだろう。流出した死体は、水で着衣を剥ぎ取られることが多く、当然のように身分証明などを身につけてはいない。それをいちいち調べて個人を特定することは、気の小さい源太にすれば想像すらしたくないことなのだ。

「歯科医なんです、主人」
 主人と言って雅は頬を赤く染めた。戸籍上は夫婦になったのに、俺たちにはその実感がない。どうやら雅も同じだったようだ。他人に対して主人というのも、おそらく最初のことのはずだ。
「はあ……、そうですか。それがどうか」
 しましたかと続けようとして、急に石橋が口をつぐんだ。雅が腰に手をやって挑戦的な目を向けたからだ。
「はあ? 本当にわからないの? よくそんなことを言えるわね。ただ研究してれば良い身分じゃないのよ、死体の身元確認しなきゃいけないのよ。まったく、暢気でいいわね」
 雅の言葉に険が混じった。
「そうだよ。けが人や病人がいっぱい担ぎ込まれてさ、きっと病院はパニックになるんだよ。もっと真面目に考えてよ」
 琴音が胸の上で腕を組んだ。子供の頃そうやって俺たちを痛めつけた二人が、今は石橋に矛先を向けている。

「まあ二人とも、感情的にならないの。それよりも、石橋さんからいろんなことを聞き出して対策を講じることが先だよ」
 木下は苦笑しながら間を分けた。
「そんな大きな地震がおきたら、津波はどれくらいになるでしょうね。いえね、東北の例を考えて、二十メートルの等高線に沿って色分けしてみたのですよ。最低でもそれより高いところへ避難させておかねばいけないですから」
「ああ、そういう意味だったのですか。それについては、各自治体がハザードマップを用意したはずですので、それに倣えば良いでしょうと言いたいですが、そうはいかないのですよね」
「なぜです?」
「連動地震です。連動地震がおきると、時間差をおいて別方向から津波が襲います。地形によってはそれが複合するところも考えられます」
「複合?」
「そうです。たとえば、ここで津波が発生したとして、波はこういう経路をたどってここに達します」
 石橋の指は、対馬海流に沿って動き、関門海峡を指した。
「時間差をおいて発生した津波が、ここを通ってやってくる」
 足摺岬沖を指した指が、豊後水道を抜けて瀬戸内に止まった。そこから左に曲がると関門海峡だ。
「津波は、狭められると高さを増します。そりゃそうでしょう、速度が変化すれば前後に伸びることができますが、そんなことはできません。押し寄せる量が同じなら横へはみ出るか、それが不可能なら上へ逃げるしかないですからね。そして、流速が上がります。両方からの津波が衝突すると……、恐ろしいことになるでしょう」
「いまさら堤防なんて作れないよ」
 雅がぽつんと呟いた。
「堤防になにを期待するのですか?」
 莫迦にしたような言い方だ。
「だって、少しでも食い止めてくれたらなぁって思うでしょう」
「無駄ですよ、そんなもの作っても。それは東北で痛い目にあったでしょう?」
「だけど、十分な強度があれば」
「ですからね、第一波が最大の波だとは限らないのです。第一波を食い止めたとしても、それでもう強度を失ってしまいます。まして、想定していた二倍の高さの波がきたらどうなりますか?」
「つまり、十メートルの堤防に二十メートルの波ということでしょう? そんなの、溢れた十メートルが危ないということじゃないの」
「いやいや、そうではないです。その堤防は、十メートルの波に耐えられるというだけです。ですから、十二メートルの波がきたら壊れてしまって、ないのと同じことです」
「どうしてよ、二メートル分の被害が出るだけじゃないの?」
 雅には石橋の言わんとする意味が理解できないようだ。

「波というのは、水のエネルギーのことです」
 石橋は、一旦言葉をとめて皆を見回した。
「わかりやすく、波の形を三角形としましょう。高さが二倍になれば面積は当然二倍です。しかし、底辺の長さが同じだと崩れてしまいます。とすると、底辺も二倍にならないと理屈に合いません。すると、三角の面積は四倍になります。伸び縮みしない物体ならその考え方で良いのです。しかし、水は形が定まりにくいですね。角度のある三角にはなれません。盛り上がったものを支えるためには、底辺がよほど大きくないといけないのです。ですから、高さを二倍にするためには、底辺を十倍にも二十倍にもしなけりゃいけません」
「それで、結論は?」

「ハザードマップを信じてはいけない。三十メートルの津波が予想される地域なら、五十メートルより高いところに避難しないと危ないと考えます」
「なるほど……。では、ハザードマップの二倍にしよう。そこまで色を塗ってみよう」
 木下は、あっさりとそれを受け入れた。津波から逃げながらの避難ではなく、事前に避難するのならかまわないと考えたのだろう。俺にはそう思えた。

 今枝が姿をみせたのは、八時を過ぎた頃だっただろうか。さして疲れた風ではなく、それよりも表情が明るくなっているように感じられた。
「なんだこれは、すっかりそれらしい地図になったなぁ」
 カメレオンのように、とりどりの色分けをされた地図を見るなり、嬉しそうな声を上げたのだ。
「だけど、こうしてみると人口が集中している地域は完全に水没だな」
 頭の後ろをポリポリ描いてふぅんと息をついた。
「おい、会議で疲れただろうけどな、水没はないだろう。台風の高潮とはわけが違うのだぞ、木造住宅は流されるというのによ。足の踏み場もなくなるのだぞ」
 木下がちびたタバコを咥えたままそれに応じる。
「わかってるよ。要するに全滅。産業も経済も全滅ということだ。けどさ、ここまでやってくれたら考え易いよ。この地図、これからの会議で使わせてもらうからな。明日、同じものを作っておいてくれ。それは俺たちが使うことにする。ところで、いろんな計画案が出てきたよ。まあ、それは明日からだ。今日は終わりにして、食事にしよう」
 鶴の一声である。いくら気心のしれた木下とはいえ、責任者の言には素直に従った。

 総勢八名がゾロゾロ足を運んだのは、俺たちが泊まったホテルだ。政府関係者が定宿にしているそうで、すんなりと連泊の予約をとると、小林のために一室とり、皆で遅めの食卓を囲んだ。
「どうだ、この人を連れてきて良かったろう」
 今枝は上機嫌だった。その理由は石橋だけにあるのではないだろう。もし対策案が気に入らないのなら、もっと不機嫌なはずだ。が、自分の考えに近い素案が出されたことを想像させるほどにこやかだ。
「どうだ、妙案が集まったか?」
 木下の軽口に余裕のある笑顔で応えた今枝は、こくりと頷いてみせた。
「基本的な方針は、逃がすことだ。防ごうなんて無駄はしない。そんなことをしているゆとりがどこにある。逃げる、できるだけ必要なものをもってな」
 肝心な話はそれだけだった。


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