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あわせ鏡 改定版 作者:齋藤 一明
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沖縄トラフ

 昼ちかくなった頃だったか、歯科医師会との面談ができると連絡があり、遠山と雅は木下に連れられて出かけていった。役所の市民課に勤める俺には縁のない話だろう。それよりも早く地図を完成させることのほうが大事に思えた。

「勘太さん、どうしても話がしたいって言われて」
 小林が一人の男を部屋に招じ入れた。服装は他の職員と大差ないのだが、髪型といい着こなしといい、妙に型にはまった印象だ。俺たちの知り合いなんて、木下と今枝、それに小林くらいで、そのほかはまったく知らない者ばかりである。当然のことに、この庁舎内で俺たちのことを知っている者だっていないはずだ。その俺に話とはどういうことだろう。無理難題をおしつけられるのでなければいいがと、心細くなったのは事実だ。

「防衛省作戦部の黒木です。松永さんにどうしてもお訊ねしたいことがあります」
 男は、小林が紹介しようとするのを遮り、会釈をよこした。頭の先から爪先までピシッと延ばして、鋭角的な会釈だ。視線だけは俺から外さない目は、冷たく乾いていた。
「この資料によれば、国籍不明の潜水艦が領海を通過とあります。海保と海自の追跡を振り切って消息を絶ったとあります。その二日前に、三宅島沖の領海内で国籍不明潜水艦が浮上航行しているのが目撃されています。それは、明日のことです。これはどういうことですか」
 硬い表情をしていた。領海内をどこの船ともわからぬものに好き勝手されては、防衛省としての面子が丸つぶれになるだろう。が、そういう報道があったとしか俺の記憶にはなかったのだ。ましてや、夢から覚めてもう一ト月になる。細かいことなど覚えているわけがなく、俺は何も言えずに立っているしかなかった。

「この二件は、同じ艦だったのでしょうか? そして、浮上しているのを発見したのはどこだったのでしょう。それを伺います」
 黒木は、俺の目をじっと見据えて言った。歯切れよく、しかも余分なことを一切含まない、必要最低限の言い方だ。
「いや、そういう報道があったことを覚えているだけです。結局逃げられてしまったのですから国籍を特定できなかったようで、ただ国籍不明とありました。久米島だったかな……その近くから中国の方向へ抜けたようですよ。潜水艦を発見したのは……原油を運んできたタンカーだったかなぁ。場所はねぇ……三宅島の北西だったような。違ってるかもしれません」
「時刻は?」
「さあ……」
「発見した船の名は?」
「わかりません。そういうことがあったとしか覚えていないのが本当のところです」
 俺の返事が期待外れだったのか、黒木はむっとしたように俺を見、軽く会釈をして部屋を出て行った。

「コリコリの防衛組だなぁ、もう少し愛想よくすればいいのに。まあ、面子を潰されるのだからわからんでもないけど。だけど、原油を積んでくるタンカーなんてゴロゴロしているわけじゃないだろう。石油会社に問い合わせれば、商社なり海運会社が特定できるはずだ。そうすれば、三宅島を通過する予定時刻も判明する。うまくすると生け捕りにできるかもしれんな。ところで、俺たちは学者さんの意見を聞きに行くことになった。地震学者との面会をとりつけたから、食事を済ませたら出かけよう」
 呆気にとられて顔を見合わせる俺と琴音をなぐさめた今枝が、小林にも同行するよう言いつけた。


 連れて行かれたのは、高名だという地震学者の研究室だった。わさわさ行き交う学生たちに訊ねようともせず、小林はスタスタと構内を進んだ。事務室へ立ち寄って研究室の場所を確かめ、来訪を伝えるよう求めたのも小林だ。彼女は、職員が案内するというのを断って、奥へ進んだ。

「いいんですか、今枝さん。案内してもらったほうが良かったのじゃないですか?」
 琴音は、そこがどういう場所なのか察したようで、心細そうだ。
「大丈夫だよ。学部は違うが、彼女の母校には違いないのだから」
 今枝が事もなげに返した。
「ここって、もし間違ってなかったら……」
 各所に貼り出されている案内ビラに、チラチラと学校名がある。俺にとっても琴音にとっても、現実とはかけはなれた英才の集まる学校のようだ。
「あん? ああ、東京大学だよ」
 今枝は、それがどうかしたかとでもいうように、あっさりとそれを認めた。
「母校って言いましたよね。小林さんって東大出なんですか?」
 いかにもやり手という雰囲気の小林。打てば響くようにテキパキと事務処理をこなすことの理由が判ったような気がした。
「なに、東大を卒業したってだけさ。まだ新婚修行はできないのだから、はるかに君たちのほうが優秀だよ」
 単なる相槌、慰めであり励ましのつもりだろう。しかし琴音はぷぅっと頬を膨らませたのだ。
「今枝さん、それってセクハラですよ。なんですか、新婚だって莫迦にして。いまさらガツガツしてなんかいませんよ、年季が違うんですからね」
 琴音が暴走を始めた。年季を積んだ新婚なんて、どこの世界にいるのだ。そうして自分の恥をさらすことにちっとも気付いていない。俺は、まだ何か言いたげな頬をぎゅっと捻ってやった。
 しかし問題発言はしっかり聞かれてしまった後なので、被害拡大を防ぐ効果しかなかった。が、とにかく、こうして小林の秘密が明かされ、琴音もまた打ち解けるのに働きをみせたのだった。

 今枝が訪ねたのは、身なりのいい紳士だった。落ち着いた口ぶりで、相手の気を逸らさない話し方をする男だ。
 窓際に大きな机をでんと据え、壁には専門書がずらりと並んでいる。そのくせ資料ファイルの数は多くなく、ちょっと奇妙な印象を受けた。それに、部屋の真ん中に豪華なソファーがあることにも違和感があった。この学者は、有名であるがゆえに来客が多いのだろうが、研究よりも、対人関係が急がしそうに感じたのだ。

「そうですか、いや、お訊ねの趣旨はよく理解しました。ですが、その情報の根拠はどういうことでしょうか」
 ふんふんと物分り良く相槌をうっていた学者は、あからさまに侮蔑した表情になり、最後にそう締めくくった。当然情報源を訊ねられるだろうと覚悟はしていた。ここは今枝がどう切り返すのかが不安だ。
「そこなのですが、まだ公式に動いていないので申し上げることができません。ただ、これから一ヵ月後の地震を予測することについて、どう考えられるかお訊ねしたいのです」
 情報の出所についてはさらりと交わし、今枝は地震予知について質問をした。
「あいにく、私の研究は駿河湾を中心としたものでして、九州西方となると詳しくありません」
 学者はあっさりと専門外だと言って逃げた。
 そもそも台風などと地震とはまったく違うように思う。というのは、駿河湾を専門に研究しているということだが、度重なる伊豆諸島を震源とする地震の予想など一度もなかったではないか。であれば、何を研究しているのだろう。そういう突っ込みを予防するための逃げではないか。室内があまりに整頓されすぎていることから、俺は不信感を抱いていた。
「おや、そうでしたか。国内トップと評される教授なら詳しいと思っておりましたが、残念なことですな。……どうでしょう、そちら方面を研究されている方を紹介していただけませんか」
 今枝は、がっかりしたような表情をしている。せめてヒントめいたことでも持ち帰らねば立場がなくて困るというように、顔を曇らせた。
「ああ、構いませんよ。うちの助教に石橋というのがおります。彼なら詳しいでしょうから、すぐに呼びましょう」
 快く応じてくれたのだが、やはりこの人物に好感がもてない。言葉は丁寧で、物腰穏やかだ。が、こちらの知っていることを聞き出そうとするばかりで、自分の知っていることを話そうとしないのだ。その良い例が、石橋という人物を呼び寄せるということにつながるのだと思う。石橋に連絡をとり、研究室の場所を教えるだけで良いはずではないか。なるほど親切で呼び出してくれたのかもしれないが、石橋の受け答えや、俺たちが話すことをじっと聞くことができるのだ。つまり、話す内容をすべて知ることができる。ましてや雲を掴むような内容であってみれば、知るだけで役立つかもしれない。他方、高名な学者というのであれば、震源域から連想することがあるはずだ。なのに専門外として口を噤むことに不信感を抱いたのだ。

「ところで、駿河湾一帯に観測機器を設置したそうですが、予知に役立つのでしょうか」
 さりげない問いかけだった。どう頑張ってみたところで自分は素人なのだ。何一つ知らない。今枝はそんな表情をしている。学者は一瞬蔑んだような表情をみせたが、愛想笑いでそれを覆い隠してしまった。
「皆さんそれをおっしゃいます。ですが、我々の学問は、地震を予知することが目的ではありません。地殻の動きを知ることで、地球の成り立ちを研究するものなのです」
「えっ、地震の研究をなさってるのではないのですか?」
「ですからね、地震という現象は、地殻の動きによって引き起こされるものですから、直接の研究対象ではないのです」
「それにしては妙ですね。海底地震計とやらを設置しているのは、ほとんどが駿河湾だということを誰かから聞きましたよ。地殻というのなら、あんな狭い範囲に観測機器を沈めても意味ないように思います。だから、きっと地震予知のためなのではないかと思っていましたが」
 と、素人なりに理屈をこねた今枝を、教授は妙な表情で窺った。薄笑いは浮かべたままだが、探るような目つきになっている。
「たしかに、駿河湾に集中的に設置しました。駿河湾という場所は特殊な場所でしてね」
「テレビなどでやっていますね、私もそれで覚えました。三つのプレートが重なる場所だとか」
「おお、よくご存知で。そういう場所ですと、地殻が複雑な動きをしますが、その過程で地震が多発するのですよ。伊豆半島沖から伊豆諸島にかけて地震が多発するのは、そのためです」
「なるほど。では、初歩的なことを教えていただけませんか」
 今枝は、恥ずかしそうに頭に手をやった。
「ええ、おやすいことです。さきほど言いましたが、一方のプレート、ユーラシアプレートが庇のように張り出しています。たとえば、そこに太平洋プレートが潜り込んでいる。それが地殻構造なのですが、こっちのプレートと、こっちのプレートが擦れ合っています。私たちの想像を超えた力がかかっていますので、せめぎ合いになります。しかし、太平洋プレートは後からあとからやってきます。そこで、庇の部分が引きずり込まれるのですよ」
「ほう」
「ご存知でしょうが、地殻はけっこう堅いものです。引き摺り込まれるとはいえ、巻き込まれるようなことはありません。いずれかは曲げの力を支えきれずに跳ね上がる。それが地震です」
 学者は、自分の指を地殻に見立て、別の手でそれを押し下げ、そのままずっと押してゆく。その手が離れた瞬間、押し下げられていた指はピンと跳ね上がった。
「なるほど……。そういうことなのですか。ですがね、跳ね上がったらそれで地震は収まると思うのですが、余震というのですか、あれが何年も続きますよね。それはどうしてです?」
「それはですね、跳ね上がった衝撃で地下の構造が壊れるからです。均質だった岩盤が砕け、もしくはヒビがはいって、そこの強度が極端に減る。そこに力が集中するからまた壊れる。それが余震の正体です」
「そうですか。地下でそんなことがおきているのですか。ですが、それなら本震と同じくらいの強さの余震があるというのはどうしてですか? だって、減衰していくのではないですか?」
「ですから、ヒビの入ったところが大きく崩れたということでしょうね。そこから先になると専門的になりますので」
 学者はそう言って更なる質問を穏やかに断ったのだ。
「そうですか。いや、予知などと気軽に言うけど、簡単なことではないのですね。しかし、庶民からすれば、将来地震がおきることは確実だと考えるでしょう。たとえば、駿河湾であれ、東京であれ、発生場所をピンポイントで予想することもできます。でも、分からないことが一つだけあります」
 今枝は、そこで言葉を切った。
「いつ発生するかです。それを知るために莫大な費用を注ぎ込んでいるのです」
 鼻白んで黙ってしまった学者にポツンと言った。

 石橋は、活発な印象の男だった。まだ四十にはなっていないだろうが、身を構わないからか老けて見えた。
「率直にお訊ねしますが、九州西方沖を震源とする地震に心当たりがないですか?」
 学者に対するのと同じ質問を今枝がぶつけた。
「九州西方ですか。珍しいですね、そっち方面に興味を向けるとは」
 石橋が続けて話そうとすると、教授が愛想笑いを消して背もたれに寄りかかった。ちょうど学者に正対している石橋には、学者の表情がよくわかる。世間が注目していない地域のことが話題だと知って嬉しそうな素振りをみせたのは一瞬のことで、すぐに忠実な家来のように表情を消した。
「今のところ心当たりはありませんが、どうしてですか?」
「そこで地震がおきると予想した人がいるそうだ。知っていることは全部話してあげなさい。そして、丁寧に教えてあげるといい。九州西方なんか、地震がおきる場所ではないとね」
 明らかに莫迦にした笑みを貼りつけて、石橋にどう答えるかえお強要しているようだ。
「予想した者がいるのです。それで教授にお訊ねしたのですが専門外ということでして、石橋さんが詳しいからと紹介してくださったのですよ」
 教授の態度が変わったことなどおかまいなく、今枝は話を続けようとした。
「そんな、まだ教授に学ぶことばかりですから、教授のご存知ないことを私が知っているわけないですよ」
 石橋は奥歯にモノが挟まったような言い方をして、それきり口を噤んでしまった。

 早々に今枝はそこを退出してしまった。
 コツコツと廊下を進み、曲がり角までくると立ち止まった。
「小林、あの石橋という助教を待ち伏せするぞ。お前は向こう側で隠れてろ。なに、じきに出てくるだろうよ。学外で話をしよう。勘太と琴音は車に戻ってくれ。様子を窺っているかもしれないからな」
 今枝には石橋が口を噤んだ理由が判っているのだろうか、すぐに教授の研究室を退出すると睨んでいるようだ。小林は異議をはさまず、すぐにその場を離れた。俺たちも指示されたように車に戻って待った。
 携帯が鳴ったのは、車に戻って五分と経っていない。出入り口まで車を移動させろということだった。


「九州西方で大きな地震ということでしたが、詳しく教えてもらえませんか」
 石橋は積極的だった。上司のいない場所で、上司には絶対に内緒にするからと約束すると、あっさりと応じてくれたのだ。彼としては、上司の前で意に沿わぬことを言うわけにはいかないと弁解したものの、今枝が漏らした話には興味を惹かれたようだ。
「正直なことを話します。実は、何の根拠もないのです。いわば、お告げのようなものでして」
 今枝は率直に言った。もちろんそれが俺の夢だなどとは一言も触れずに。が、石橋は黙って頷いたきり、何も言わない。少し考えるそぶりをみせたかとおもうと今枝の目を正面から見つめ、そして反らし、ずいぶん迷っているようだった。

 今枝は、彼が口を開くのをじっと待っていた。コーヒーを飲み、タバコに火をつけ、それでも彼が黙ったままだったので追加のコーヒーを注文した。

「九州西方は、こと地震に関しては盲点なのです。地震などおきないというのがこれまでの定説でした。しかし、どうやら違うようなのです。数千年に一度の割合でマグニチュード九クラスの地震がおきる可能性がある。一部の学者の間では、そう囁かれています」
 苦々しげだ。自分の考えを並べれば教授と対立することになる。日本の地学界を代表する学者に楯突くと、研究者としての生命が絶たれるのではないかと不安なのだろう。しかし、石橋はカバンからノートを取り出すと、日本列島を描き始めた。

「ここに琉球海溝があります」
 石橋が引いたのは、足摺岬の南から薩摩半島の南を通り、奄美諸島や沖縄諸島の南を迂回して台湾に至る弓のような線だった。そしてその外側に破線を引いた。
「ここがプレートの境界。こっちがユーラシアプレートで、こっちがフィリピン海プレートです。このフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下にもぐりこんでいる。そうするとユーラシアプレートの先端が引き摺られるかっこうで巻き込まれる。そうして琉球海溝ができました」
 石橋は言葉を停め、皆が説明を理解しているか確かめ、そして続けた。
「プレートというものは堅いものです。皮膚や餅のように柔らかくありません。堅いものが無理に曲げられると、そこだけで力を吸収することができないのです。つまり、柔らかだと、その部分が伸びることで力を吸収しますが、それができない。すると、反作用が生じます。つまり、もちあがるのです。そうして海面上に隆起したのが琉球列島なのです。一部が隆起すれば、その反作用が生じます。その反作用ですが、隆起した先が周囲より沈降して、盆地のようになってしまいます。ということで、沖縄トラフが、こういう具合に分布しています」
 沖縄諸島の大陸側に弓を描いてゆく。西は台湾から、沖縄諸島に沿って九州西方へ線は伸び、一番北側は五島列島に達するものだ。そして、その線に平行にもう一本の線を描いた。まるでウィンナーのようである。
「長さ千キロ、幅二百キロ。最大深さ二千二百メートル。背弧海盆と呼ばれていて、現在も拡大していて、東シナ海で最も深い海域です」
「おそれいります。トラフというのは何なのですか?」
 意を決して話し始めたのを、今枝はフンフン頷きながら聞いている。そしてやたら専門用語が混じると、すかさず質問した。
「トラフですか。トラフというのは、今しがた説明した海底の盆地のことです。プレートが潜り込むところは海溝となりますが、少し離れたところは、沈み込む作用によって海底が隆起します。するとまた反作用で沈降する。簡単にいえば皺のようなものですね。そして、そういう場所には熱水鉱床が多く生成されます。現実に多くの鉱床が発見されていますね」
「それがなにか?」
「つまり、地震の巣といえます」
「では、教授の言ったことは?」
 今枝は、さして驚くふうでもなかった。
「まったくの嘘です。教授は駿河湾にこだわっている。駿河湾の研究をしたい。ところが観測機器は高価です。その費用を用立てるためには駿河湾の危険なことを煽らねばなりません。九州西方が危ないなんて騒がれたら、研究費がそっちに奪われてしまう。つまり、そういうことなのです」
 軽蔑した言い方だ。が、言い終えると、自分が強烈な教授批判をしたことに気付いたのか、うろたえたようにタバコに手を伸ばし、引き抜きかけたのを戻すということを繰り返した。
「勘太、この際だから遠慮なくやっていいぞ」
 今枝はそうけしかけて自分も一本咥えた。安物のライターが火を点す。その火を石橋に示し、喫煙を促した。
「……なんとねぇ、そういうカラクリですか。自分の研究のために不安を煽り、興味のない地域のことは知らんふり。学会というところも生臭いものですな」

「中央構造線をご存知ですか?」
 何を思ったのか、石橋が唐突にその名を口にした。少しばかり知識のある者なら、一度ハ耳にしたはずの名だ。だが、少しでも突っ込まれると途端にうろたえてしまう。恥ずかしながら俺など、かの黒部川ダムを題材にした映画を観て、崩れ易い地層だとか、出水しやすい地層という程度の認識しかないのだが、どうやら今枝も似たり寄ったりの知識しか持ち合わせていないようだ。 
「名前を聞いたことがあるという程度でして」
 今枝はにこりともせず先を促した。
「地図を見るかぎり、日本はそれぞれの島だと思われがちですが、実はいろんな地盤が寄り集まってできているのです。活断層という名前を聞いたことがあると思いますが、ほとんどの活断層は小規模なものです。ところが、とてつもなく大規模な断層で、実は本州は分断されているのです」
「分断と言いますと?」
「新潟県の糸魚川、親不知のあたりかた諏訪湖を経て安部川に至る線を糸魚川断層帯と呼びます。もう一つ、やはり新潟県の直江津からこう斜めに下って千葉に至る線。この線と、先ほどの糸魚川断層帯との間のことを大地溝帯と呼びます。いわゆるフォッサマグナです」
 ノートに描いた日本地図に二本の線を引き、その間を斜線で埋めた。
「この一帯が地層の合流部にあたりまして、東と西では地層がまったく違います。次に、霞ヶ浦のあたりから諏訪湖へ延びる線。そして諏訪湖から長野県の水窪へ、そして愛知県の豊川に沿って渥美半島を通り、伊勢へ渡ります。その線は、ほぼ真っ直ぐ西へ向かい、和歌山県の吉野川を経て、新居浜へ渡ります。そのまま四国を横断して佐多岬から佐賀関へと達します。そして、途中で方向を変えて八代に達し、そのまま鹿児島に達します。これが中央構造線と呼ばれる、巨大な断層なのです。もし、この中央構造線に逆の力がかかっているのなら、本州だけでなく、四国も九州も分断されてしまいます」
 石橋はそこで言葉を切り、今枝の反応を窺っているようだった。
「なるほど。巨大な断層だということはわかりましたが、それが?」
 はからずも地質の講義をうけることになったのだが、今枝には石橋の言わんとしていることの意味に気付けなかった。
「終点と考えられているのがここです。そして、ここに何があるかというと」
 石橋は、線の終点に小さな丸を二つ描いてみせた。それは何のことかと今枝が訊ねると、甑島だと言って続けた。
「このように、本州から九州にかけての構造はほぼ解明されていますが、その先は解明が進んでいません。つまり、九州から沖縄トラフにかけての構造が解っていないのです。もしかすると、甑島が終点とされている中央構造線は、実は沖縄へ延びているのかもしれません。いえ、台湾に達している可能性もあります」
「ということは?」
「つまり、九州西方を震源域とする地震は、十分に考えられるということです」
 じっと聞いている今枝の指先で、薄紫の煙がスーッと立ち昇っている。時に指先にまとわりつき、時に渦を巻く煙を見ていた今枝が、トントンと灰を落とすと、石橋も同じように長くなった灰を落とした。
 今枝は、水を一口ふくんだきり、ずっと黙ったままだった。

「地震と一口に言いますが、大きく四種類に分類されます」
 沈黙を破ったのは石橋だった。彼も咽を湿らせると、こんどは地震の話を始めた。
「四種類……。教授の説明では、跳ね上がることと、ヒビが入ることの二種類でしたが」
 ずっと黙ってメモをとっていた小林が、遠慮がちに口をはさんだ。
「大きく分類すればその通りです。ただ、それに位置の要素がからんできます」
 フィルターのそばまで灰になったのを名残惜しそうにもう一度吸い、ギュッと押し潰しながら石橋は小林に目を向けた。
「……位置ですか」
「解りやすくするために断面図を描きましょう」
 黙って聞いていて、話題が反れたと俺は思ったのだが、小林も石橋の意図を推し測れないようだ。が、そんなことにはおかまいなく、石橋は隣のページに絵を描き始めた。
「ユーラシアプレートがあって、その下にフィリピン海プレートが、こうもぐりこんでいます。すると、ユーラシアプレートの先端が沈んで海溝となり、少し離れたところが隆起する。琉球列島です」
 言いながらペン先を上へ下へと小刻みに動かした。そうして描き始めたのは、大地の断面図だった。ページの中ほどにあった線が、急に上へ伸びた。
「そして反作用が働いて、列島の反対側が落ち窪む、これが沖縄トラフです。やがて海底は平均的な深さに落ち着くと」
 そうしてまたも言葉を切った。
「まず、フィリピン海プレート内部の地震。これはプレート内部の圧壊によるものですから、比較的浅いところでおきます。次に、プレート境界部の地震。これには、圧壊に加え、跳ね上がりです。まぁ、そこそこの深さです。そして、ユーラシアプレート内部の地震も割合浅い。最後に、沈み込んだフィリピン海プレートでの地震で、これは深い場所でおきます」
 図の上に丸やら三角やらでど地震のおきる場所に目印を入れた。
「これを地図にあてはめて位置関係を見てください」
 そう言うと、自分が描いた日本列島に、舌のような形の線をひいた。もちろん、九州から台湾にかけての領域にだが、驚いたことに、東シナ海がそっくり舌の上に乗っている図だ。舌先の尖ったところは、上海の沖に届いていた。
 そこに三角やら四角を書き込み、沖縄トラフの範囲を丸く囲った。
「どうですか」
 琉球列島の北側には、二種類の地震を示す印が混じりあっている。しかもそれは、五島列島にまで続いていた。

「ところで、津波の速さというのは、いったいどれくらいでしょうか」
 今枝の質問は、俺にとっても興味のあることだ。
「速さは海の深さで決まりますので一概には答えられませんが、深ささえ判れば計算式に当てはめるだけです。重力加速度と深さの積の平方根が秒速になります」
 そう答えた石橋は、つまらなそうな表情をしていた。
「すると、逆算すれば震源までの距離がわかると?」
「まぁ、おおよその位置は掴めるでしょう」
 石橋は、つまらないことを聞くなとでも言いたげに、ぶっきらぼうに言った。

「石橋さん、我々は内閣府の危機管理室の職員だということは申しましたね。今、わが国に差し迫った脅威を予測して対応にかかったところです。理由を話せばきっと笑い飛ばすでしょう。しかし、我々はそれを既定事実と捉えています。しかも、時間的猶予はありません。それで、住民保護を最優先に考えているのですが、手伝ってはいただけないでしょうか」
「手伝うといっても、私はただの研究者ですし、それに、そもそもの根拠を話してもらっていませんし」
「ですから、手伝っていただけると確約がなければお話できないのです。同じ考えの研究者に声をかけていただきたい。地震学者の協力が必要なのです。議会を説得するには、それでも足りないでしょう」
 考える猶予を与えずに承諾させると、今枝はその場から庁舎へ石橋を連れて行くことにした。すでに時刻は四時になろうとしていた。

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