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あわせ鏡 改定版 作者:齋藤 一明
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理解者

第4話が欠落していました。
 理解者

「ただいまー。かんたぁ、タオル貸してよ。もぅ、急に降ってくるんだから、まいっちゃう。ねえ、かんたぁー、いないのぉ? お母さーん、タオルー」
 本当に騒々しい奴だ、琴音は。見慣れぬ靴に気がつきそうなものなのに、玄関を開けるなり大声を上げている。母親にしたところが、他人にお母さんと呼ばれて嬉しそうに足音をたてているのだから滑稽だ。それはともかく、来客を教えられたのか、それとも靴に気付いたのか、急に静かになった。

「勘太さん、入るわよ」
 俺の部屋でぎこちなく断っているのが聞こえた。すでに洗いざらい聞かれてしまっているというのに、すまして上品ぶった言葉に改めているのも滑稽だ。苦笑している木下に声をたてないよう合図する俺は、ポリポリと頭を掻きながら照れていた。

「あれ? いない……。勘太さん、どこ?」
 広くもない家をあちこちうろついた末に、客間におずおずと顔をのぞかせた。

「……ごめんなさい、お客様だとは知らなかったので……」
「ごまかすなよ、全部筒抜けだったんだよ。いいから来いよ、北海道の木下さんだ」
 琴音と、笑いをかみ殺した木下との、それが始めての対面だった。

「松永さん、立ち入ったことをお訊ねしますが、前田さんとはどういう関係ですか? こんなことを言ってはなんですが、未成年者なのでしょう? 不純交友ということはないでしょうね」
 木下が真顔で言うものだから俺は呆れ、琴音は有頂天になってしまった。
「やめてくださいよ、幼馴染の同級生なんですから」
「……松永さん、嘘はいけませんよ。私も警察官の端くれです、嘘かどうかピンときます。男らしくいきましょうよ、どう見ても高校生、百歩ゆずって十八歳直前。そうなんでしょう? まさか松永さん、からだの関係はないですよね。知った以上、見過ごすわけにはいきませんよ。青少年保護育成条例に違反することになりますが」
 難しい顔でギロッと俺を見た。
「違いますって。琴音、免許証出せよ、また勘違いされてしまう」
 小柄だから若く見えるのか、それともふっくらした体型だからか、琴音はよく高校生に間違われ、補導員に捕まったりする。さっそく木下を勘違いさせたのは良いが、おかげでとんだ疑いを抱かれてしまった。
「そんなに若く見えますか? 嬉しいなぁ。でも、本当に同級生なんです」
 笑顔で琴音が免許証を差し出した。
「ほう? では、お仕事はなにを?」
「淫乱看護婦です」
 琴音が口を開く前に、俺は正体をばらしてやった。すると、クツクツと木下が笑い出した。どういうことで笑ったのか、俺と琴音は顔を見合わせてしまった。
「しつれい。いや、失礼しました。二人とも邪気のない人だというのがよくわかりました。いえね、いずれにせよ皆さんの身元を確かめねばなりません。いえ、悪気はないのですよ。弁解じみていますが、仕事が言わせているということで勘弁してください。普通なら最後に身元を示すようなものを見せていただくのですが、せっかく仲良くなったのをふいにしたくないのでね、ちょっとだけ悪さをしました。おかげで、前田さんの住まいだけでなく、誕生日まで知ることができましたよ。それにしても、あまりに無防備ですよ」
 それが大人の余裕ということだろうか、木下は朗らかに笑って名刺を取り出した。
「ごめんなさいね、つい、うっかりしてしまって」
 琴音にも名刺を渡すと、皮ケースをポケットから出して、無造作によこした。
「名刺なんか、どうにでも作れますからね。それが身分証です。後先になってごめんなさいね」
 テーブルに置いた皮ケースを開くと、そこに顔写真と警察バッジが入っている。そこには、所属先である北海道警察と、警視正という文字が印刷されていた。そのほかには、俺にはわからない番号が載っていた。
「へぇ、警察手帳じゃないのですね」
 受け取った琴音は、帳面の類が全然ないので戸惑っているようだ。どこそこ警察と金文字が入った手帳を想像していたのだろう。
「俗に言われている警察手帳が、それです。これで私のことも信用いただけますか?」
 証明写真と同じ顔が柔和に笑いかけた。
「警視正……、警視正って偉い人なんじゃないのですか? 参事官……。まるで意味がわからないよ」
 名刺の肩書きを読み上げた琴音は、それがどんな立場の人か想像がつかないようだ。もちろん俺にだって想像できない。
「間に合わないから窓際へ追いやられているのです。でなきゃ、そうは自由に出張なんて。申し訳ないですが、住所を教えていただけませんか。それと、電話も。できれば携帯の番号を教えてください」
 俺が差し出した名刺は、役所のものだ。それ以外に名刺など必要ないのだから、俺個人の名刺などあるわけがない。その余白に書き込みをしたいのか、木下はしきりとポケットを探って筆記具をさがしているようだった。
「おっ、これは珍しい。私なんか、中学に上がったときに親が買ってくれたのがうれしくてねぇ」
 手提げに入れて持ち歩いている万年筆を差し出すと、目を細めて喜んだ。
 いかにも字を書くことに慣れているのだろう、さらさらと達筆に必要なことを書き込んでゆく。そして、裏返すと、琴音の名前を訊ねた。
「ほう、和風の名前をもらったのですね。琴の音色なぁ、いや、ご両親のセンスがわかります。良い名前だぁ」
 軽口を言いながら、さっきチラッと見ただけの住所をさらさらと書き入れた。そして電話番号を訊ねる。
「あのう、琴音の住所って、さっき見ただけですよね」
 あまりの記憶力に俺は驚いてしまった。俺などは、窓口対応の際に何度も住所を見直している。間違いがあってはいけないというと弁解にしかならないが、相手と話していると住所など忘れてしまう。どうせ忘れるのなら余計なことをせずに相手の言うことに耳を傾けるほうがいい。そういう姿勢が身についたのだが、正直なところ覚えられないのだ。
「あぁ、商売柄ですよ」
 木下は、事もなげに笑った。それにしては、たくみな話術を使いながら知りたいことを聞き出し、相手の気持ちを逸らさぬようにしている。それだけでもなかなかできないことだ。それなのに、一瞥しただけの免許証から住所を記憶してしまった。只者ではない。

 しばらくそんな雑談をしていたのだが、源太も雅も現れないので、二人して事の顛末を説明することにした。

「そういうことですか……、それでよく意味がわかりました。ところで、そのメモというのを見せてもらうことはできませんか?」
 一通りの説明をすると、眉を寄せて考える様子をみせた木下が、カレンダーを見たいと言いだした。

「はいはい、お待ちどうさま。殴り書きだから読み難いだろうけど」
 若く見えるとおだてられた琴音は、カレンダーをテーブルに置くと、聞かれもせぬのに説明を始めた。

「なるほど……。この赤丸が現実になったことですね? これも現実になったことですから」
 そう言って昨日の事故を指で示した。琴音がそこを赤で囲うと、うーんと唸りながら改めて目を走らせる。
「そして、最後は八月六日ですか。それにしても、よく覚えていたものですね。いえね、私も夢は見るのですが、目が覚めてしばらくすると忘れてしまいます」
 穏やかに俺を見つめた。もう過ぎた日のことならいくらでも書くことができる。が、将来のことがいくつも書かれているのだから言下に否定することはできないのだろう。
「僕だって覚えているのはこれだけで、今朝の夢だって覚えていませんよ」
 なにも証明するすべがないのだから、いかにも心細い。
「そこが不思議なんですよね。科学的に説明がつけば良いのです、納得できるのです。だけどなぁ……。事情を知らない者に見せたら、きっと鼻の先で笑うでしょうね。お前、預言者になったのかってね。ところで、これはいつ書いたのですか?」
「退院した翌日に東名事故がおきました。その前日に琴音に事故がおきると話したのです。だから、実際に事故がおきて驚いた琴音に、問われるままに話しました。つまり、退院の翌日ということになります」
「それにしても、ずいぶんたくさん書いてありますね。北海道での事件や事故はどうでしょうか?」
「北海道ねぇ、……ここに一件。それと、ここにも一件あります」
 カレンダーを指でなぞりながら北海道に関する事件や事故をさがすと、二つほどの書き込みをみつけた。ただ、ものわかりの良さそうな受け答えをしてはいるが、やはり俺の話を信用できないのだろうと思う。半信半疑だから北海道での事故を知りたがるのだろう。

「ふぅむ、函館本線で脱線ですか……、それと? 根室で漁船が転覆……。なるほど、どちらもありうることですね。ただ、日付が問題なんだよなぁ。」
 むつかしい表情になって腕組みをした木下は、そのままどっと背もたれに倒れこんだ。ふんぞり返ったままコブシを口にあて、媚をかしげて腕を組み直す。その間、喉の奥から唸り声が漏れていた。
「それより大事なのは、八月六日の地震です。もしこれがおこってしまうと東北の二の舞です。いえ、それが南海地震を誘発するかもしれません。東南海や東海地震を誘発したら、それこそとんでもないことになります。だから……」
 実のところ、列車が脱線しようが、、漁船が沈もうが、そんなことは日常の事故にすぎないのだから関心がない。しかし、最後のだけは別だ。あんなことが現実になってほしくはない。といっても、そうなるかどうか自分ですら懐疑的なのだ。笑い話として忘れることもできるのだが、こんなにいろんなことが現実となっている今、正直なところどうすれば良いのか判断できない。もやもやした気持ちを木下にぶつけただけのことだった。
 俺の言うことに、木下はしきりと頷いていた。頷きながら手の平を下に向けて落ち着くように何度も振った。

「たしかにそのとおり。そんなことになったら東京から西は壊滅でしょう。だからといって、誰がそれを信じるか、そこが問題です。ぶっちゃけた話、松永さん自身も半信半疑でしょう?」
 学校の先生に諭されているようだ。どうも俺は情動的になるのが欠点だ。そして三人とも黙ったまま時間だけが過ぎていった。
 時計を見れば、もう七時を過ぎていた。遠山と雅が来たとしても簡単に済むような話ではないので、寿司の出前を注文するよう琴音に耳打ちした。

「……とりあえず、これまでの経緯を上に報告しましょう。そして、管内の事故を教えます。でも、それはまだ一週間以上先の事故ですから、時間を無駄にしてしまいます。そこで、直近の事件や事故を二つほど教えてもらえませんか。それが現実となればこちらの言うことに耳をかしてくれるかもしれません」
 木下は真剣な目をしていた。さっきまでの、冗談を交わしていた時とはまるで違う、厳しい眼差しである。
「信用……してくれるのですか?」
 意外だった。銀行強盗を通報したことで縁ができ、ヘリの墜落を報せただけなのである。ほかには何も実績がなく、慎ましく暮らす一般庶民の妄言でしかない。なのに木下は、警視正という身分にありながらすぐに俺を訪ねてきた。
 それらしく様子を探るつもりだったのかもしれない。だが、琴音を交えてすっかり打ち解けている。木下は、もう定年が近いように見受けられるが、かくしゃくとしている。それに、屈託がなかった。俺とは親子ほども歳が違うというのに、年齢差をまったく感じさせないのだ。じっくり言い分を聞き、冗談をまじえながら納得できるまで訊ねる。相手の地位も年齢も度外視しているような姿勢は、とても好感がもてた。
「実を言いますとね、あなた方は容疑者と紙一重でした。だってそうでしょう。犯人しか知りえないことを通報したのですから。罪の重さにいたたまれなくなったか、それとも仲間割れ。そう考えるのが当然でしょう。そして、ヘリの事故を予測しました。穿った見方をすれば、政治的意図があるとも考えられます。そこでこうしてお話させてもらったわけです。ただねぇ、これを見せられてね、その線は違うなと」
 トントンとカレンダーを指で叩いた。
「やっぱりなぁ、へたに通報すると疑われますよね」
 いくら親切からとはいえ、通報を受ける側にすればそんな受け止めはできないはずだ。雅に忠告したことは正解だったのだ。胡散臭く思われるだけならまだしも、容疑者扱いされるところだったと聞いて、正直なところゾッとした。
「弁解するつもりはありませんが、無関係な者が知っているわけないですからね。でもね、こうして身分をさらけ出しているのに妙な素振りがありません。松永さんだけでなく、前田さんも自然な受け答えをしている。そんな芝居ができるのは、よほどの役者しかいませんよ。いずれにせよ、私たちは事実だけを見て判断します。その意味で、あなた方の話を否定しません。いや、気持ちとしては笑い飛ばしたいのです。でも、これですわ、問題は」
 苦笑しながらまたしてもカレンダーを叩いて続けた。

「厚かましいお願いですが、北海道の分と、直近の二件くらいをメモさせてもらってかまいませんか? 上司を説得する材料として……」
 遠慮がちに言ったのは、ほんの少しだけでも写させてほしいということだった。
「いいよね、勘太。木下さんなら心配ないよ、きっと私たちにできないことをしてくれるよ」
 琴音が何をしようとしているのか、俺には十分わかった。コピーを渡そうというのだろう。それはかまわないが、ただ一つ、雅が言った経済への影響が心配であった。
「そんな、書き写さなくても、コピーを差し上げますから。しかし、ひとつだけ懸念があります」
「なんでしょうか? 決して悪いことには使いませんよ」
 快く応じたことで木下は嬉しそうにしたが、心配なことについては思い当たらないようだ。
「実は、将来の出来事がわかっていれば、ぼろ儲けできるそうなのですよ。そんな情報が漏れたら暴落する株や急騰する株があるというのです。そうすれば、日本の経済は無茶苦茶になってしまいます」
「あっ、なるほど……。では全面的に公開できないのですね?」
 不意を衝かれたという表情になった。警察官という勤め柄、俺と同じように市場経済のことを考えることがないのだろう。だが、言わんとするところは理解したようだ。
 難しそうな表情をした木下は、しばらく黙り込んだ。やがてポケットからタバコを取り出して一本引き抜き、許しを請うようなしぐさをして煙を吐き出した。

「いえ、たった一つでも同じだそうです。事件や事故の内容によってはそれだけで儲かるそうで、つまり、未来を知っていること自体が莫大な財産なのだそうです」
「なるほどねぇ……。警察なんかにいると、経済なんぞ外国のことのように考えてしまいますが……、いや、そうですか……。だとすると、どう説明するか、説得できるかですね」
 木下は、またもむつかしそうな表情でチョンチョンと灰を落とした。そして、ポッと点る火先をじっと見つめている。
「そうなんです。特に最後の地震なんか最悪ですよ。あんな津波が押し寄せたら、きっと原発は被害を被るでしょうし、鉄道はズタズタになるでしょう。そんな会社の株なんか、今のうちに売ったほうが儲かるかもしれません。少なくとも損はしないはずです。その資金で復興資材を作る会社の株を買い占めることもできます。食料品に投資してもいいのだそうです。もし、夢が現実になったら、地震がおきたら、きっと値上がりする株があるでしょう。そこで売り逃げしてしまえば大きな利益が転がり込みます」
 雅の受け売りだ。だが、それで公開できないことを理解してくれるだろう。
「なるほどなぁ。私のような貧乏人には想像できない話ですけど、そういうものかもしれませんねぇ」
 事件も事故も、ましてや大災害でさえ金儲けの材料だ。個人的には目を背けたいことだが、社会はそうして成り立っているのかもしれない。
「もし三連動地震を誘発すれば、太平洋岸に巨大津波が押し寄せます。地震による被害だけでも甚大でしょう」
「うぅむ……、そのとおりだ……」
「たとえば、被災する人を全員避難させるにしても、どこへ収容するのですか? いつまで? それに、人々が事前に避難するでしょうか」
「……」
「無理やり避難させたとしてですよ、食べるもの、飲み水を支給しなければいけない。そんなもの、どこに備蓄してあるのでしょうね。うちの役所でも、災害時の非常食を少しなら保管しています。でも、そんなもの僅かな数ですよ。全部の住民に配るほどの数はありません。仮に全員にいきわたったところで、一食でおしまいです。そんなこと考えると、外れてほしいと思います」
 そこまで言って、俺はやるせなくなった。木下につられてタバコを手にしたものの、火をつけずにもてあそんでいた。
「あーぁ、妙な夢なんか見なければよかった」
 ため息をついて火をつけると、木下が気の毒そうに俺を見た。
「まただ。すぐに勘太はグズッとするんだから。あんた、それで剣士なの? 心配しなくたって、人は必ず死ぬんだよ。グズグズ言わないで、死ぬ瞬間まで悪足掻きすればいいじゃない。コーヒー炒れてくるから元気出そうよ」
 琴音が助け舟をだしてくれた。いつもは控えめなのだが、こういう状況になると俺を励ましてくれる。ポンポンと俺の膝を叩いた琴音は、台所へ立って行った。

「剣士ですって? 松永さんは剣道をしておられるのですか?」
 木下は、柄を握る真似をした。
「高校から始めました」
「そうですか。いや、奇遇ですね、私もこっちでした。学生の頃から警察を希望していましたので、けっこう夢中になって稽古したものです。松永さんはどれくらいの腕ですか?」
 気分転換にはちょうど良い話題だ。晴れやかな木下の様子からすると、きっと高段位なのだろう。竹刀を合わせたら、身動きすらできないような達人かもしれない。
「三段でとまっています」
 言い訳するように言って、木下を見た。彼の目が、まっすぐ俺の目を捉えている。その力強さにぞくりとした。
「そうですか、三段なら十分自慢できますよ。……こんなこと言っても仕方ありませんが、くよくよ考えても解決しません。相手に討ちこむ気迫をもたねば。空元気でいいから大きな声を出しましょうよ」
 木下は、そう言ってカレンダーに目を移した。

「私も松永さんと気持ちは同じです。こんなもの見なきゃよかった、外れてくれればいい、そう思います。でも、見てしまった。見た以上、判断しなきゃいけない。そこで、あなたの意見を教えてくれませんか。もし、実際にこんな災害がおきたらどうなると思います?」
 琴音が炒れてきたコーヒーを一口すすり、木下が硬い表情を俺に向けた。
「もし、それが南海や東南海の地震を誘発したとすると、西日本の太平洋沿岸は壊滅でしょうね。更に東海地震まで連動してしまうと、内房から伊豆半島まで被害が広がるでしょう」
 そこで俺は、琴音に日本地図をもってこさせた。

「うろ覚えですが、たしかここが南海地震の震源域。東南海の震源域がここで、東海の震源域がここです」
 地図に赤ペンで線を引いた。こんなことになるなら真面目に覚えておけばよかったと後悔が先にたつ。そして、宿泊予定のホテルの位置に印をつけた。
「考えてみると、工業地帯というのはすべて太平洋側に偏っています。ということは、ここが被害を受けたら物資を作れないということになります」

「では、前もって作っておけばいい」
「そう思います。ですが、物を作るには材料が必要です。ましてや期間もありません。たとえば、食料を作るにしてもほとんどが輸入ではないですか? それに、工場だって通常の製品を作ろうとするはずです」
「……」
「次に交通網についてです。まず、通信がどうなるか、鉄道がどうなるか、道路はどうかと考えると、明るい将来を思い描けないのです。それに、復旧の指揮系統がとれなくなるとも思います。人員だって集められないでしょう。なにせ、大都市のほとんどが被災するのですから」
「まあまあ、そう先走って考えても知恵は浮かばないでしょう。ところで、津波を見たホテルはどこだったか覚えていますか?」
 ついつい悪い方へばかり考える俺をやんわりと制し、木下は思ってもみなかったことを言った。
「はい、覚えていますが、それが?」
「たしか、部屋から波が寄せるのを見たのですね。その方角ってわかりますか? もし判ったら震源の方向が分かるんじゃないですかね」
「そうか! そうですよね」
 どうして気付かなかったのだろう、少なくとも波が寄せる方向に震源があるはずではないか。
「そうだよ、そうすればおよその方角がわかります。待ってくださいよ、たしか予約したのと同じホテルでしたから」
 俺はホテルのパンフレットを持ってきた。それなら詳しい場所もわかるし、建物の向きもおおまかに判ると思ったのだ。

「このホテルに間違いないのですか?」
「はい」
「どうして夢と同じホテルを予約したのです?」
「順序が逆なのです。予約は既にしてありました。夢をみたのはその後で、琴……前田が怖がるといけないから黙っていたのです」
「かまいませんよ、普段と同じ呼び方をなさってください。えーっと、ホテルの位置はここですね。それで、大雑把ですが、窓の方向はこっちに間違いないですか?」
 夕食の時、水平線に沈んでゆく太陽が正面に見えた。正面といっても、レストランの南よりに見えたのだから、窓はほぼ真西を向いているのだろう。そこからの岬の見え方は部屋からの眺めと同じだったから、きっと方角は合っている。
 いいですかと断った木下が、地図に線を書き込んだ。
「それで、地震の発生時刻はわかりませんか?」
「いえ、それはわかりません」
「テレビを見ていたとか、電話をしていたとか、何かヒントはありませんか?」
「それは何も」
「もうお休みでしたか?」
「いえ、そのぅ……、ほ、星がきれいだったので、それを見ていました」
「時刻の手がかりはありませんか」
「実は、そのぅ……。琴音と……、した後だったのです。だから、時刻なんか」
 ちょっと勘太と琴音が恥ずかしそうに膝を叩いた。俺の夢の中なのだから、なにも顔を赤らめることもないのに、すっかり照れてしまっている。
「あっ、いやぁ、これは気がつかなくて……。羨ましいですなぁ、こんなきれいな女性を独占して。そういうことなら無理もないことですね。……ではね、地震がおきてから、津波が打ち寄せるまでの時間はどうでしょうか。一時間くらいあったのか、三十分で到達したのか、それとも五分くらいしかなかったのか。思い出せませんか?」
「時間といわれても……」
「わかりました。じゃあ、具体的にお訊ねします。揺れが治まって、まず何をしましたか?」
「なにって、そりゃあ、服を着ました」
「服はすぐに着ることができましたか?」
「いえ、真っ暗になっていたので探すのに手間取りました」
「それから何をしましたか?」
「隣の源太は無事か、確認に行きました」
「普通に行動できましたか?」
「それが、オートロックなので蹴破るのに時間がかかりました」
「それで?」
「服を着るよう言っているときに琴音の叫び声が聞こえて、戻ったら沖に白い線が見えたのです」
「それが津波ということですね。それで、津波はすぐに岸に到達しましたか?」
「はっきり覚えていないのですよ。一分だったか、五分だったか」
「いえ、かまいませんよ。それで大まかな時間が割り出せます。学者なら震源までの距離を推察するでしょう」
 やはり警察官だ。俺なんかが気付かないことを一つづつ積み重ねている。状況を把握することには長けている。

 源太と雅が連れ立ってやってきたのは、それから三十分もしてからで、俺たちは寿司を食べながら話の続きに夢中だった。
 無遠慮な雅は本物の警察官なのかと怪しみ、身分証明の提示を求めたのだが、木下は嫌な顔一つせず、皮ケースに収められた身分証明を提示した。
「あのう、警視正というと、どのくらいの階級なのですか? 警察なんて、警部くらいしか知らないし……、偉い人なんですか?」
 得心がいった雅は仕事用の名刺を差し出し、感じている疑問を口にした。銀行強盗に対処する訓練があったときに対応してくれた課長が警部だったそうで、その上が警視ということは知っているようだ。が、警視正とか、警視監という階級があることすら知らないらしい。
「署長くらいの人じゃないのか?」
 源太が小声で雅に耳打ちした。
「いや、たいした階級ではありませんよ。所轄の署長なら二度経験しましたが、本当に役立たずなので本部に戻されたくらいですから」
 木下は、首筋に手をやって照れたように笑った。
「あなたが電話をくれた加藤さんですね? あのときは失礼しました。真面目に対応していたら未遂ですませられたはずなのに……、申し訳ない」
 几帳面に立ち上がった木下は、ぴしっとした姿勢を崩さずに会釈をした。
「いえ、私だって信じていなかったことだし……。だけど、飾らない人ですね、木下さんって」
 慌てて雅も立ち上がった。
「いまさら見栄を張ったところで、得なことはひとつもありません。それより、松永さんが言っておられた経済への懸念ですが、とても興味深いことです。私に理解できるよう教えていただけませんか」


「おかげでよく理解できました。とすると……、これは県レベルで考えることではないですね。松永さんのみた夢が当っていれば、いや、そうでなくても国レベルの対策が必要です。となると、国を動かさなきゃ話にならない。しかも、極秘に……」
 雅が語りだすと、木下は所々で疑問を質すだけでじっと聞き入っていた。それが終わって、こんどは下唇を噛んで黙りこくっている。一分、二分、じっと身動きせずに考えこんでいた。
「何か方法がありますか?」
 たまりかねて声をかけた。
「危機管理室……。真面目に対応するだろうか……」
 ぽつりと呟いて、また黙ってしまう。ただ、目の力はどんどん増しているように見える。


「わかりました。明日、連絡をとってみます。残りは一ヶ月しかありません、急がねば。ただし、皆さんにも協力してもらうことになりますが、よろしいですか?」
 しばらく考えていた木下は、何かを決断したかのように歯切れの良い言い方に変った。

「協力って、どういうことでしょうか。全員仕事がありますので」
 考えてもみなかった展開だ。俺たちは木下の言ったことを理解しきれなくて顔を見合わせた。
「ですから、当分の間、仕事は休んでいただきます」
 方針を決めたのだろう、木下はきっぱりと言い切った。
「そんな無茶な、できませんよ、そんなこと」
 それぞれが仕事に就いているのだ。休日に手伝えというのなら理解できるが、木下の言い方では全面的に休めということのようだ。
「仕事先には政府から要請させます。疑ってかかる者では話になりませんからね。それと、すべての情報を統制します」
「どういうことですか?」
「政府が動けば地震学者や火山学者を動員できますし、緊急物資の備蓄もできます。実際におきると想定して準備していれば、被害を限定できるかもしれません。防ぐなんてことはできないのです。とすれば、逃げるしかない。強権を発動できるのは政府しかありません」

「そんなことをしたら経済がボロボロになります。政府なんて信用できませんよ」
 雅が悲鳴をあげた。たった今説明したばかりではないかと言いたげに。
「わかります。でも、皆さんが考える政府は、ただの国会議員です。警察だって、国を壊すようなことを政府が企むのなら、遠慮なく取り締まりますよ。空騒ぎならそれでいい、いくらでも責任をとってやりますよ。でも、もし現実になったら。それこそ国が滅びてしまう。ここは現場を信じてください」
 堅い話はそこまでだった。集まった四人と打ち解けるうちに俺たちの関係を察したのか、木下はニヤニヤしていた。
「それにしても珍しいですなぁ。小学校からの幼馴染ですか? こっちの二人と、そっちの二人。なるほどねぇ……。ものの言い方、気配り、仕草。それ、その視線。羨ましいなぁ……。それなのにまだ苗字は元のままですか。呑気に構えていたら愛想つかされますよ」
 そう言い残し、翌朝には東京に行く必要があると言って夜行バスで帰って行った。
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