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夏が来れば思い出す

作者:モロクっち
 

「タッツーに意外な新事実を明らかにしようと思うんだけど」
「お? なんだよ」
「おれ実は海苦手なんだよね」
「ハァ!?」
 若い男がふたり。
 彼らが立っているのは、真っ暗で真っ黒な波止場の真ん中。
 時刻は午前1時をまわっていた。夏の夜の海にたちこめる空気は、ぬるっとしていた。昼間の暑さがまだ居座っているかのようだ。潮の香りは、生臭い悪臭にすぎなかった。
 風がないのだ。波も、おだやかというより、止まっているかのよう。
 ふたりはとある波止場から釣り糸を垂らしていた。そばには使い込まれたクーラーボックスがあるが、中身は氷だけだ。
 ここは東京から高速で約1時間半ばかり北上したところにある、実に辺鄙な港だった。
「今日はおまえが誘ってきたんじゃねぇか! つーかちょいちょい海釣り行くだろおまえ。どうせまた冗談だろ?」
 しかめっ面でこうまくしたてた男は、かじ辰章たつあきといった。
「ガチです。おれ泳げないんだよねー」
 無表情かつ棒読みで答えた男は、前橋まえばし尚樹なおきといった。
 一見ではあまり想像がつかないが、ふたりとも、東京のヤクザ者だった。とはいえ、梶はリーゼントに派手なスカジャンという出で立ちなので、半グレやタチの悪い走り屋という第一印象なのは否めない。
 前橋のファッションと髪型は、今どきの若者として特に不自然なところはない。東京の雑踏の中に、すっと一瞬で溶け込めるだろう。
 だがよく見れば、ふたりとも、その目は『普通』とちがっていた。
 前橋の目には、感情らしい感情が浮かんでいない。つめたいようで、飄々ともしている。誰がどんなに覗き込んでも、彼が今何を考えているのか測りかねるだろう。
 梶の目は、オッドアイだった。右目が真っ青で、左目は真っ黒。目が合ったひとを、ぜったいに、必ず、一瞬はっとさせる目だ。しかもこのオッドアイはカラーコンタクトによるものではなく、持って生まれたものだった。
 ふたりとも、ひと言では語り尽くせない過去を持ち、気がついたら物騒な世界に転がり込んでいた。
 この業界にいると実感するのは、『世間は狭い』ということだ。
 ここでは、人と人とのつながり、そこからもたらされる情報と金がものをいう。友達の友達は、ほぼ確実に、他の友達ともつながっている。この業界の糸は、WWWが生まれるよりも先に、無数に、強固に、幾重にも張り巡らされていた。
 梶と前橋は、4年前に顔を合わせたとき、ほんとうに世間は狭いものだと驚いた。めったに驚かない前橋も驚いたくらいだ。
 ふたりは4年前に『出会った』のではない。
『再会』したのだった。
「火と水が苦手って、おまえ動物かよ?」
「人間も動物の一種です」
「屁理屈こねんな。海でなんかあったのか? 溺れたとか?」
「あれ? おまえ覚えてねぇの?」
「なにを」
「事故だよ……、水難事故。小学生のときのさ、あれ」
「あ? ――あぁ!」
「思い出した?」
「あれヤバかったよな。まぁでも、オレは正直、あんまり印象に残ってねぇんだよ」
「そうか」
 前橋はリールを巻いた。
「そりゃうらやましいね」

 梶と前橋はふたりとも東京出身で、しかも、同じ町の同じ町内に住んでいた。そして、同じ小学校に通っていた。
 前橋は4月生まれで、梶は翌年の3月生まれ。ほぼ一歳差だが、子供の頃はそんなことはまったく気にならなかった。同じ学年であれば、『同い年』とみなしていた。そういうものだ。
 同じクラスではなかったが、住まいが近かったのでよく遊んだ。きっかけはポケモン――ではなく、『コレデモ』というゲームだった。
 正式タイトルは『これくと! デーモン』。開発元も販売元もとうに倒産し、今や誰もその存在を知らないに等しい。ポケモンが大流行した頃に発売された、非常に志の低い、いわゆる「パチモン」のゲームだった。
 みんながみんなポケモンをやっている中、梶と前橋だけはコレデモをやっていたのである。パチモンはどこまでもパチモンであり、コレデモは正真正銘のクソゲーだった。今ではふたりとも立派なポケモン廃人だが、当時は親が買ってくれたゲームをやるしかなかった。
 梶の親は、息子がポケモンを買ってくれと毎日毎日うるさいので、ワゴンで500円で売っていたパチモンを叩きつけて黙らせた。前橋の親は、非常にゲームに疎かったのでポケモンと間違えて買ってきてしまった。だから仕方がなかったのだ。
 でも、こんなもの誰も他にやっていないと思っていたけれど、仲間は驚くほど近くにいたのである。ふたりは協力してコレデモをやりこみ、全131種のデーモンをコンプした。クソゲーか良ゲーかなど関係なかった。『戦友』がいるだけで本当に楽しかったのだ。
 梶の思い出の中の前橋はよく笑っている。彼は普通の子供だった。今のように無表情ではなかったし、台詞が主に棒読みということもない。質問をはぐらかすこともない。ただ、当時からすでに成績優秀だった。
 梶の家庭環境は良いとは言えなかった。前橋の家は裕福だったが、両親は仕事で留守がちだった。
 中学校に入ってからいくらもたたないうちに、梶はグレてしまった。そして前橋は、品行方正成績優秀な優等生のまま、ある日、親の仕事の都合で引っ越した。
 それっきりだ。
 大人になってこの業界に入り、偶然再会するまで、一度も連絡を取らなかった。
 ただ、梶は、何度か前橋と話したいと思ったことがある。
 前橋が入学した高校が都内有数の進学校だという噂を聞いたとき、ひと言祝ってやりたくなった。
 そしてその1年後、前橋が突然高校を辞めてまた引っ越したという噂を聞き、なにかあったのかと尋ねたくなった。
 両方とも、叶わなかった。
 こうして『再会』してから、梶はそれとなく前橋に高校や家庭のことを尋ねたのだが、いつものらりくらりとかわされてしまった。そのうち梶は、前橋の過去の詮索をやめた――というより、あきらめた。一見のほほんとしているのに、前橋のガードは恐ろしいほど堅い。それに気づいたから。
 それに誰しも、触れられたくない過去はある。

 前橋が言う「水難事故」は、ふたりが小学5年のときに起きた痛ましい大事件だった。
 ふたりが通っていた小学校は、水泳に力を入れていた。なんでも、オリンピック選手を何人も輩出しているらしい。立派なプールがあり、夏休みの前には臨海学校があった。
 事故が起きたのは、その臨海学校の2日目だ。
 海水浴中、20人が沖に流され、8人もの犠牲者が出た。離岸流が原因とのことだった。前橋はそのとき海には入っておらず、梶はそもそもその場にいなかった。
 梶は運悪くひどい風邪を引いてしまったのだ。しかし今思えば、あれは「運良く」引いたのかもしれない。
 夏休み前の学校は大騒ぎになった。連日マスコミが押しかけ、亡くなった生徒の葬儀もままならないほどだった。数名の教師が責任を問われて学校を去った。卒業するまで、教室の中には、誰も座らない机と椅子があった。事故がトラウマになり、それきり不登校になってしまった生徒もいた。
 それでも、現場に居合わせなかったからか、梶にはほとんど当事者としての実感がない。亡くなった生徒も、さほど親しい間柄ではなかった。その8名の中には梶とまったくそりが合わない男子がひとりいたので、むしろ、ざまぁと思ったくらいだ。
 事故後、前橋は確かに、少し暗くなった。
 でもそれも無理はないと梶は思ったので、理由は深く考えなかったし、空気を読んで少し距離を置いてやった。その道では有名なスクールカウンセラーも来て、前橋はよく面談していた。そして夏が終わり、秋が深まる頃には、前橋の調子も戻っていた。
 前橋は事故のことをいっさい語らなかった。他の生徒も同様だ。みんな臨海学校の話になると一様に青褪め、口を閉ざした。しばらく梶は何が起きたのか知りたくてたまらなかった。なにしろ、先生さえ語ろうとしないのだ。
 梶は結局、事故の経緯をほとんど何も知らないまま、小学校を卒業することになった。
 そして今も、ほとんど何も知らない。

「もう何年前よ?」
「だいたい15年前」
「じゃあもう時効だよな、それ。そろそろ教えてくんね?」
「…………」
 前橋は以前のように黙り込んだ。黙って針にイソメをつけると、竿を振った。
「…………」
「…………」
 これはもう墓場まで持っていく気だな、と梶はため息をつく。
 しかし――。
「あれは離岸流なんかじゃなかった」
 前橋は、真っ黒い海を睨みながら、小さな声で語り始めた。

 あれは離岸流なんかじゃなかった。
 その時間はみんなで海で泳ぐことになってた。臨海『学校』だ。授業なんだよ。プログラムには従わなきゃならない。
 でもおれはもともとあんまり泳ぐの好きじゃなかったし、得意でもなかったからさ。浅いところでサボってたんだ。
 カニ……、カニとヤドカリを見るのに夢中になってた。
 気づいたら、砂浜がカニとヤドカリだらけでさ。最初からいっぱいいたんじゃない。どんどん増えてきたんだ。そんな、砂浜いちめんカニだらけってわけじゃなかったけど、でもあれは、多すぎた。
 それに気づいたのは、サボってたおれと、生理になったっつって海に入らなかった女子の、大沢と山本。タツアキ覚えてる? ガキの頃から妙に色気づいてたあいつらだよ。あいつらふたりとも高校で妊娠して退学食らったってさ。
 おれはカニとヤドカリが気になって勝手に海から上がった。
 そのすぐあとに信じられないことが起きた。
 エイが……他の魚も……砂浜に飛び出してきたんだ。
 それでおれは思った。こいつらは、逃げてきたんだ、って。
 カニも魚も、海から逃げてきたんだって。
 あの日は朝から天気がよくなかった。でも波は、今みたいに、異様におだやかだった。寒くもなかったし。だから先生方は予定どおりにプログラムを進めたんだろう。
 カニと魚が海から逃げてきた頃には、空は完全にいやな色になってた。灰色だ。鉛みたいな。
 海もコンクリートみたいな、冬の北の海みたいな、死んだ色に見えた。
 おれはみんなも海から逃げたほうがいいんじゃないかと思った。大沢と山本はカニと魚にきゃあきゃあビビってたっけな。
 悲鳴が聞こえた。
 海のほうから。
 …………、
 あれは違った。離岸流なんかじゃなかった、おれは見たんだ、あいつらが引きずり込まれてた。
 触手が……タコの……いや、イカかもしれない……本当はどっちでもないんだろう。それがあいつらの身体に巻きついてた。それが見えたんだ。あんまり大きくて……。ダイオウイカなら、あれくらい大きいのかもしれないけど……、いや、ぜったい、あれはダイオウイカよりでかい。
 波が波じゃなくなってた。渦を巻いてるんだ。
 歌みたいな呪文みたいな、とにかく、声も聞こえた。人間の声じゃない。海そのものの声みたいに聞こえた。
『母なる海』? 冗談じゃねぇ。女の声には聞こえなかったし、優しいママの声なんかとはかけ離れてる。バケモノの声だった。海はバケモノだ。
 流されたのは――いや、引きずり込まれたのは、報道されたとおりの20人くらいだ。沈んだままもどってこなかったのが8人。これも記録に残ってるとおりだ。
 でも、残りの12人も無事だったわけじゃない。頭おかしくなってた。一時的な錯乱ですんだやつがほとんどだけど、少なくとも5人は、とうとう正気にもどらなかったみたいだな。
 この業界に入ってから調べたんだ。情報収集に関しちゃ警察以上だろ?
 ――5人自殺してるんだよ。水を異様に怖がるようになったやつもいれば、わけのわからない呪文みたいな言葉しか話せなくなったやつもいる。
 あの事故で死んだのはぜんぶで13人ってことだ。もしかしたらもっと多いのかもしれないけどな……。
 それに、わかったことがある。確証はない。噂話の域を出てないけど。
 もどってこなかった8人のうちの誰かの、腕と足が何本か、翌朝に打ち上げられたみたいだ。
 ああ、調べたのは事故のことだけじゃない。この海岸についてもだ。ここはおかしいんだよ。もっと言えば、あの臨海学校だっておかしかったんだ。あの年だけ、ここでやった。他の年はもっと有名な、無難なところでやってる。あの年だけ、こんな辺鄙なところで。それも疑問に思って調べてみた。
 ここではだいたい15年おきに――。

「ちょっと待て。ナオキ、今……」
 たまらなくなって、梶は前橋の話をさえぎった。
「ん?」
「『この海岸』、って言ったか、おまえ。『ここ』はおかしいって」
「ああ」
 前橋は目だけ一瞬そっぽを向いた。無表情だったが、それは、気まずい思いをしたときの彼の仕草にちがいなかった。
 梶は今日、前橋から釣りに誘われた。そしてこの場所は、彼に指定されたのだ。穴場をみつけたんだ、と言われて――。
「そうだよ。ここだ。おれは今日、この海岸に来たかったんだ。話のわかるやつといっしょに」
「ばっ……」
 海の、生臭い匂いが、身体にまとわりついている。
 梶は深夜の海原を見た。波が見えない。月も星も出ていない。自分を取り囲むのは、真っ黒なタールのようだった。どどどう、どどどう、という波の唸りはやまない。やむはずがない。
「ここではだいたい15年おきに大きな水難事故が起きてる」
 前橋は静かに話を続けた。
 梶はついさっきの、前橋の『怪談』が始まる前のやり取りを思い出さずにはいられなかった。
『もう何年前よ?』
『だいたい15年前』
『じゃあもう時効だよな、それ』
 梶は無意識のうちに固唾を呑んで、一歩後ずさった。ほんの少しでも、この海から遠ざかりたくなったのだ。
「タツアキ、おれたちはたぶん生贄にされたんだと思う」
「い、」
「あの年の臨海学校だけ、企画した教師がちがってた。名前見ても顔がぜんぜん思い出せない。ろくな写真がない。あいつが黒幕だ。事故の責任取って辞めさせられてるけど、計画通りってやつだろう。――きっと何百年も前から続いてるんだ。15年おきに『あれ』にエサをやるのが、このへんの風習というか……儀式というか……義務なのかもしれないな」
「なに言ってんだバカ! そんなことあるわけねぇだろ!? だいたいなんだよその……『あれ』って! 触手!? そんなもん映画じゃあるめぇし――」
「え。信じねぇの、タツアキは」
 前橋は梶とはちがって、いつものように冷静だった。けれども、そのひと言には、意外そうなふしがあった。
 梶はぐっと言葉に詰まる。
 そうだった。
 幽霊、妖怪、悪魔、呪い、怪奇現象。梶はその手のものを実際に見たり経験したりしている。梶の組には、ちょっと風変わりな生い立ちの組員がいる。彼は恐ろしく霊感が強かった。
 彼がそういったモノゴトを憑れてくるというわけではないが、彼がいるおかげで、梶は怪談や伝説がすべてフィクションではないということを知っていた。
 だから前橋は、梶が信じるという前提で話したのだろう。
 梶の沈黙と表情で、前橋は話の続きをする気になったようだ。
「生きのびたおれたちも、無事じゃすまなかったのかもしれないってね、そう思うんだ。おれたちは……、呪われたんだ。この海にいるなにかに目をつけられたんだよ」
「そんなわけあるか。オレは行かなかったのに今このザマだぞ。高校のときに何が起きたのか知らねぇけどよ、ナオキ、今の自分がそうなっちまったことを.わけのわかんねえ何かのせいにすんな!」
 梶が声を荒らげると、前橋が、すっと目を細めた。
 珍しく彼が気分を害し、少し怒り始めたのが梶に伝わった。
「……なに? おれが悪いっての? ヤクザになったのはおれ自身の問題だって? おれがここでこうしてるのは……、そうだな、家族が突然めちゃくちゃになったからだ」
 めったに感じ取れない、前橋の怒り。
 けれども梶は、ひるまなかった。毎日毎日、怒ると怖くて怒らなくても怖いヤクザの中で暮らしているのだ。
「原因わかってんじゃねぇか、そんなら復讐は親にしろよ! とんでもねぇバケモンのせいになんかすんな。オレらはフッツーの人間なんだから、勝てるヤツと勝てねぇヤツがいるんだ。どうにもならないヤツを憎んだらそのうちアタマがどうにかなるぜ、そういうもんだッ。おめぇ頭いいんだからわかるだろ、ナオキ!」
「……っ……」
「帰るぞ」
 梶は釣り竿を海からもぎ取った。
 重い。
 そう言えば、竿がしなって、垂れていたような。
 話し込んでいるうちにかかっていたのか? 魚が。
 はっ、と目を剥く。
 魚ではない。
 針につけていたイソメが……何かに変わっ……いや、それは『腕』だ。腐ってぶよぶよになった、男のものか女のものかもわからない、白い腕だ。人間の右腕だ。爪は剥がれ、皮暦もところどころ剥げ落ちていた。そしてその指は、大きな釣り針をつかんでいた。引っかかっているのではない。つかんでいるのだ。
 キシキシワシワシと、背筋も凍るおぞましい音。釣り針に一匹刺していただけのはずのイソメが、十数匹に増えていた。イソメは腐乱した腕にまとわりつき、肉の中に頭を突っ込んでいる。腕の中にもイソメが詰まっているのだろうか。白い皮膚と肉の表面はところどころが蠢いていた。まるで腕は生きているかのようだった。梶は情けない声を上げて釣り竿を落とした。
 前橋もさすがに驚いた顔で硬直していた。その目が、不意に、自分の釣り竿に向けられた。
 引いている。
 前橋の竿がヒットした。
 何かが……、針にかかっている。
 ジいいいいいいィィイ、とものすごい勢いでリールが回る。糸がどんどん引っ張られている。海の中に引きずり込まれていく。
 魚ではない。
 謎の確信。ぜったいに魚ではない。
「ナオキ! 上げんな! 触んな! 逃げるぞ!」
「でもこれけっこう高かっ……」
「バァァカァア!! ンなこと言ってる場合かぁ! 早く!!」
 梶は力いっぱい前橋の服を引っ張った。前橋がよろめくように竿から離れた次の瞬間、釣り糸が切れる音がした。そして、水しぶきが上がった。
 波止場に跳び上がってきたものは、見たこともないおぞましい『物体』だった。それが生き物であることを認めたくもない風貌だった。
 それは恐らくは魚なのだが、全身からイソギンチャクめいた触手が生えていた。本体は、ふくれ上がったランプフィッシュやニュウドウカジカに似ていなくもない。だがランプフィッシュ自体、まるで魚の水死体のような不気味な風体だ。そんなぶよぶよとした灰色の肉塊から、触手が数十本生えているのだ。
 ぞわッ、とふたりの肌は栗立ち、総毛立った。
 この世にこんなにキモイ生物がいるのか。いてたまるか。いったいこいつはなんだ。食えるのか? 毒でも持っていそうだ。そもそもこれは生きているのか? 死体の臭いがする。このいきものは腐っている。
「おばぁぁぁああ」
 そいつは、ばかでかい口を開けてうめき声を上げた。
 梶はまた非常に情けない悲鳴を上げた。
 前橋は何も言わなかった。
「あがば、うばぁぁぁああ」
 またそいつが何か言った。
 言った。そう、言ったのだ。
 こいつは言葉を話している。日本語ではない、人間のものでもないが、言葉を持っている。その声はひどく濁っていた。
 どんな動物の声よりも醜かった。分厚い唇には釣り針とイソメが引っかかっている。血が出ていた。青いような黒いような、赤くない血だ。
「あ゛ぁぁぁあ!」
「うわあああ!」
 そいつが雄叫びを上げて突進してきたので、梶も叫び声を上げて逃げ出した。
 信じられない。
 話したところで誰が信じる?
 魚が!
 突進!
 してきたのだ!
 転がりながら! ボールのように、前に伸ばした触手で身体を引っ張るように!
 梶はつんのめってわずかに我に返り、振り返った。前橋がいない、来ないのだ。前橋はその魚めいたいきものの前に立っていた。
「うおいっ何してんだッナオキッ逃げろッわあッバカッッ」
 梶は自分が何をどうわめいたのかももうわかっていない。しかし、前橋が何をしようとしているかはわかった。
 前橋が、愛用のカランビットナイフを取り出していた。映画の悪役のようにくるりとあざやかにナイフを回し、ブレードを出して、軽く振りかぶった。
「ナオキ!!」
 車に向かって逃げかけた、そのきびすを返して、梶は前橋に駆け寄る。
 前橋のつぶやきが聞こえた。
 無感情な、無機質な、静かな口ぶりだったのに――梶に聞こえたそのつぶやきには、すさまじい憤怒と憎悪がこもっていた。

「おれの思い出を返せ」

 梶はたたらを踏んだ。
 初めて親友のことが心底恐ろしくなった。
 前橋の刃がきらめいた。彼らしくもない大振りだった。おまけに梶がすぐそばにいることをまるで意識していない様子だ。
 猛禽の爪のようなカランビットナイフの刃は、醜悪な水棲生物を深々と次々と斬り裂いた。
「ぃばぁぁぁああああ!」
 そいつは悲鳴を上げた。
 ぐヂょばッ、と音を立てて、赤くない血が噴き出す。触手がてんでばらばらに暴れだす。目を背けたくなる奇怪な動き。前橋は何度も何度も斬りつける。突き刺す。踏みつけ、斬る。刺す。刺す。開く。刺す。斬る。無言で。
 地響きのような音が、はるか彼方から迫ってくるのを、梶は聞いた。
 梶の目はほとんどひとりでに、真っ黒い海原に向けられる。本能がそちらに注目させた。
 海が……。
 空と海の区別がつかない漆黒の中で、紅色の、にじむような光が生じていた。
 海が怒っている。
「ナオキ! マジでもうやめろってマジで!!」
 梶は無我夢中だった。こんなナリだが、梶は非常にケンカが弱い。ケンカどころか運動全般がダメだ。まともにできるのは車の運転だけ。だが今はそんなことも忘れて、前橋の右腕にしがみついていた。
 前橋は一瞬、反射的に梶を振り払おうとしたが、細い目をいつもよりも大きく開いて、振り返った。
「逃げるぞ! ほら! ヤベェから!」
「逃げてばかりじゃ――」
「逃げるしかねぇヤツもいるんだよバカッ!! 頭冷やせコラァア!!」
 梶はこれ以上出せないくらいの大声で怒鳴りつけ、前橋を、海から、波止場から、怪物から、引き剥がした。
 いきものは動かなくなっていた。
 そのかわり、海が動き始めていた。
 声が聞こえる。
 ……これが、
 この声が、15年前、前橋が聞いた声か。
 梶は今その声を聞いた。

 歌みたいな呪文みたいな、とにかく、声も聞こえた。人間の声じゃない。海そのものの声みたいに聞こえた。
『母なる海』? 冗談じゃねぇ。女の声には聞こえなかったし、優しいママの声なんかとはかけ離れてる。バケモノの声だった。

 海はバケモノだ。

 梶の愛車はブルーのダッジ・バイパー。中古。古い年式。だが、ダッジ・バイパーはダッジ・バイパー。アメリカが誇るスーパーカーだ。前橋も現行モデルのフェアレディZに乗っているが、ふたりでどこかに行くときは、たいてい梶の車が使われた。ダッジ・バイパーだ、車好きなら誰もが乗りたがる。
 前橋を助手席に押し込み、梶は運転席に飛び込むと、キーを回した。
 ホラー映画ならなかなかエンジンがかからないところだ。
 だが、こまめにメンテナンスしているおかげか、すぐにかかってくれた。タイヤを鳴かせながら、梶は呪われた海から逃げ出す。
 声が追ってくるような気がした。
 しかし、時速120キロでぶっ飛ばせば、すぐに遠のいていった。
 しばらく、梶ははあはあと荒い息をしながら運転しているだけで、前橋は食い入るように、ブレードを出したままのカランビットナイフを見つめているだけだった。カーステの電源は切っていた。車内には、ロードノイズと、エンジンの咆哮だけがあった。
 何十分、何時間、無言でいただろうか。ほんの数分の沈黙だったかもしれない。車は海から遠く離れ、高速に入っていた。梶は次第に、匂いが気になり始めていた。
 助手席の前橋からは、放置した海水や、腐った魚のような匂いが漂ってくる。
 車のスピードを徐々に落とし、梶は前橋の様子をうかがった。前橋はカランビットナイフを手に持ってうつむいている。ブレードはもう収納されていた。その手もナイフも、イカスミにまみれているかのようだった。顔にも服にも点々と、同じ色の汚れがついている。
 あのいきものの血。
 あれは夢でも幻覚でもない。
 前橋はあれを殺したのだ。
 互いの自宅はまだまだ先だが、梶は次のインターチェンジで高速を下りた。前橋がふと顔を上げる。
「なんでこんなとこで下りんの」
 それが、車に乗ってから初めての前橋の声だった。いつもの棒読みだったが、いつもよりかすれていた。
「こうするためだよ」
 梶は目についたコンビニの駐車場に入り、車を止めた。
 じっと前橋の目を見つめ、梶は何度かまばたきし、しばらく間を置いてから口を開いた。
「おまえ落ち着いたか?」
「おれずっと落ち着いてるけど」
「ねぇよバカ。明らかにおかしかったわ」
「そうか」
 前橋はふいっと梶から目を背け、またナイフをいじりだした。かと思うと、それをようやくポケットにしまった。
 彼は、そこで初めて自分の手が青黒く汚れていることに気づいたようだった。わずかに眉間にしわを寄せて、汚れをこすり始める。乾いた塗料のように、汚れはぽろぽろと落ちていった。
「なんか」
「あ?」
「なんかタツアキに助けられたような気がする」
「は?」
「あそこにあと10秒でもいたら、ヤバイことになってたんじゃねぇかな。あのときは気づかなかったけど」
「オレもそう思う」
「なんかごめん」
「いいんだよ。たぶん助かったし。あ、いや、そうだ。明日笙さんにお祓いしてもらおう」
「お祓い。ああ。そうだな、これって『神社生まれのHさん』案件かもな」
「その呼び方さあ……」
「Hさんの管轄内ならいいんだけど」
 梶の組には、ちょっと風変わりな生い立ちの組員がいる――それが、比嘉笙矢という男だ。前橋はネットスラングをもじって、よく「神社生まれのHさん」と呼んでいる。
 元神主で、いろいろと常識外れなことをやってのける人物だ。ものすごく面倒くさがりでいつも寝ているのが欠点だが、『こういうとき』は頼りになる。
 彼ならなんとかしてくれるだろうか。あのいきものや、海からの声のことを知っているだろうか。
「すっきりしない。……それどころか、いやな気分だ」
 前橋がぼんやり前を見ながらつぶやいた。
 その細い目に、コンビニの光がうつろに映っている。
「復讐が済んでないからかな」
「まだ言ってんのかおまえ」
「何に対して復讐すればいいのか、確かに、おれにもよくわからないんだけどさ」
「なあ」
「ん?」
「何があったのか教えてくれよ」
「だから離岸流じゃなくて謎の怪獣が」
「そっちじゃねぇ、高校のことだよ! 軽くでいいから。せっかくいい高校入ったのに、おまえ頭いいのに、なんで辞めたんだ? オレずっと気になってて――、なんで……」
「『なんでヤクザなんかに』?」
 前橋がわずかに口元を歪めた。笑みのかたちに。
「……おれはなんにも悪いことしてなかった。万引きだってやったことない、おれは普通の高校生だったんだ」
 今日の前橋は、はぐらかさないようだ。梶は知らず身を乗り出していた。
「なのに、いろいろあって、親が両方ともほとんど同じ時期に仕事なくしてさ。でかい借金もついてきて、家はなくなった。おれは、姉ちゃんといっしょに暮らすことになって……金、稼がなきゃならないから、それで高校は辞めた。辞めるしかなかった、『普通の高校生』なんて」
「……そうか」
 もう、それで充分だった。
 きっと自分が想像しているよりはるかにひどい生活を送ったのだろう、と梶は踏んだ。そういうものだ。梶のまわりには、前橋のように転落した人間しかいないと言っていい――聞き飽きたくらいの身の上話だ。
 しかし前橋は、梶にとって、「まわりによくいる人間」のひとりではなかった。
 こうしてふたりで、東京から少し離れた海まで釣りに行くほどの仲だ。
 梶はそれ以上、もう、聞きたくなかった。聞かせろと今までさんざん問い詰めてきて、いざ聞かせてもらったらこれだ。
「そういや、姉貴いたよな、おまえ。美人の」
「死んだけどね」
「えっ。…………、そうか」
「タツアキの妹は元気?」
「ああもう、そりゃもう」
 前橋の姉が死んだと聞いたとき、梶は絶句して、もしも自分の妹が死んだらと想像した。
 梶は今、妹とふたり暮らしだ。高校卒業後、梶はいわゆる『毒親』を捨てて――あるいは、逃げて――ひとり暮らしを始めた。
 数年後、いろいろあって実家から妹を助け出すことになった。
 昔から口喧嘩は絶えないが、妹は梶の戦友のようなものだ。幸い、妹もそんなふうに思ってくれているらしい。両親との戦いはこれからも続く。どちらかが死ぬまで。殺す度胸は、梶にはなかった。
 妹が死んだら。
 肉親の中の、唯一の『味方』が死んだら……。
「大事にしてやりなよ」
「わかってるよ。でもあいつマジでバカだからなー。最近オレの言うこと聞きゃあしねぇ」
「まあ、おれも姉ちゃんのことは大事にしてたけど。でも、ダメだったからな。……ああ。……うん。おまえの言うとおり、どうにもならないことは……ある」
「…………」
「ベタだけど、まだ、幸せだった頃さ」
「うん?」
「おれんちは、夏に家族で海に行くのが、毎年恒例の行事だった」
「へぇ」
「親父の親友が海辺でペンションやっててさ。そこに泊まって。メシがめちゃくちゃうまいんだ、そこ。3日間くらい泊まってさ。ずっとうまいメシ食って。夜、花火やって。泳いで、魚釣って。……おれ、海が、好きだった」
「…………」
「あの年までは」

『おれの思い出を返せ』

「思い出は上書きされた。記憶は、悪ければ悪いほど強烈に残る。『夏』って聞くと、おれは、真っ先にあの臨海学校のこと思い出すようになった。それまでは、家族で過ごした夏しか思い出さなかったのに。海も苦手になっちまった」
「でもおまえ、そのわりに釣り行くじゃねぇか。さっきもツッコんだけどよ」
「また記憶を上書きしたいからだ。なるべく、いい思い出で」
 前橋の顔が、梶に向けられた。
 梶は言葉に詰まって、目を伏せてしまった。
 しかし今度の沈黙は、ほんのわずかなものだった。
「タツアキ」
「?」
「酒、買ってこねぇ?」
 前橋はコンビニに向かって軽く顎をしゃくった。彼は珍しく微笑んでいた。
「あ……、ああ。いいけど……」
「でさ。タツアキさえよければ、盃、やろう」
「あっ!?」
「五分の」
「へっ!?」
「あ。そう。嫌か。じゃ、いい」
「い、いや、いやいやいやいや。べつに嫌じゃねぇし!」
「あ? そう。なら決まりだ。つーか、なにその顔」
「お……、おまえが、おまえが盃がなんたらなんて言うの、なんか意外で……」
「おれたちヤクザだろ? べつにおかしかねぇじゃん」
 前橋はもういつもの涼しげな顔になっていて、先に車を下りた。彼が動くと、例の悪臭がした。コンビニの中に入ったら、店員に嫌な顔をされるかもしれない。前橋が普段から「臭う男」と思われるのは、梶にとっても、なんだか妙に不本意だった。
 梶はもうしばらく呆気に取られていたかったけれど、前橋に続いた。
 自分たちはヤクザだ。組に入るときは、親分と親子の盃を交わした。飲み屋で超略式の兄弟盃が交わされるところも、梶は何度も見たことがある。
 それでも、前橋のほうから盃の話を持ちかけてくるとは思わなかった。
 もしかしたらこの驚きは、自分が、彼と盃をやろうと思ったことが一度もなかったからなのかもしれない。それに気づいたとき、梶はぎくりとした。前橋を裏切っているような気がして。
 義兄弟になりたいという気持ちがなかったからといって、前橋を信頼していないわけではない。
 ただ……。
 ただ、自分たちは、この先もずっと、『親友』という関係でいるのが当たり前だと思っていたのだ。
 前橋は棚から清酒を取った。本格的な盃にするつもりなのだろうか。梶はべつにビールやチューハイでもかまわないのに。そのあたりにも、互いの気持ちにズレがある。
「な、なあ」
「ん?」
「『兄弟』って呼び合うのは、その、やめとこうぜ」
「あ、そう。まあ、べつにいいよ。タッツーがそうしたいなら今までどおりタッツーでいこう」
「そのタッツーもビミョーだけどな……」
「そうかな。シードラみたいな目つきだし似合ってると思うんだけど」
「あ」
「なに」
「さっきガキの頃の話してただろ。オレ、コレデモのこと思い出したよ」
「ああ」
 前橋の横顔が、かすかに笑ったような気がする。
「あのクソゲー、たぶん、探せばまだどっかにあるわ」
「たぶんおれもだ。捨ててない。あれは捨てられなかった。買取10円とか言われたし」
「売ろうとしてんじゃねぇか!」
「売ってないっていう事実があれば充分じゃん」
 適当につまみやスナック菓子も取ってレジに向かう前橋は、もう、完全にいつもの前橋尚樹だった。
 と思ったら、車に乗る前、前橋は――
 梶の目をまっすぐに見つめて、微笑んだ。
「タツアキ。今日はいい思い出になりそうだ」


 梶はその夜、前橋の家に泊まった。
 盃を交わすだけでは収まらず、缶チューハイと缶ビールをついでに何本もあけることになってしまった。
 まだ酒が残る意識の中、梶はテレビをつける。朝のニュースが流れた。
 そのニュースは、にわかには信じがたいもので――梶は自分がまだ酔っているせいにしたかったのだが、着替えてきた前橋も、どうやら同じものを見てしまっているようだった。
 ふたりが酔い潰れて寝ているあいだに、局地的な大地震があったらしい。
 そして、数時間前まで釣りをしていた、あの波止場が。海岸が。小さな港が。
 津波に呑まれて、消えていた。
 梶と前橋は、何も言えずに、ただ顔を見合わせるしかなかった。

 酒の香りの向こうから、海の声と悪臭が忍び寄ってきたようだった。



〈了〉

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