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ひともの

作者:山崎山
 吾輩はこの賑やかな塾の守り神のような存在だった。
 吾輩は隻眼のまま教室の中で最も目立つ場所に置かれ、忙しなくペンを動かす子供たちを黙って見守っていた。
 吾輩はこの光景が好きだ。教室の雰囲気もそうだし、子供たちの笑顔や真剣な眼差しを見るのも好きだ。ここに来て日こそ浅いものの、その短い時間の中でたくさんの子供たちと会い、その分だけたくさんの表情を見てきた。
 なんと幸せなことだろう。
 吾輩の役目は、必ずここで果たすことが出来るのだ。



 子供たちは吾輩の体をよく触る。
「赤くて丸いよ! リンゴみたい!」
「なんかこわい顔だね」
 などと口にしながら、子供たちは吾輩の体をべたべたと触る。
 あまり丈夫に作られてはいないので優しくしてほしいのだが、子供たちが吾輩の構造を理解出来るわけもなく、吾輩が動けないのをいいことに何かと触る。
 しかも吾輩の体を見て何を勘違いしたのか、
「ていっ」
 と、容赦なく殴りつけてくる小学生の少女もいるという始末。
 吾輩はサンドバッグではない。
 途中で先生が止めに入ったが、右フックを頂いた吾輩の左脇腹にはちょっとした窪みが出来てしまった。
 なんてことをしてくれたんだ、と問い詰めようにも、吾輩は声というものを生成出来る器官を持っていないので、思うだけに留まる。
 全く人間という生き物、とりわけ子供というものは、どうしてこうも自己中心的なのだろう。
 確かに吾輩を創造したのは彼らだ。彼らの叡智がなければ、恐らく我々はこの形を得ることはなかっただろう。そしてこうして愛でられることもなく、この体は未だに一本の樹として地面に根を張っていただろう。
 しかし、彼らは吾輩に対して願掛けをしているのであって、それは他でもない彼らの意志によるものだ。その願いが叶うかどうかは吾輩の預かり知らぬところではあるが、少しでもゴールへ近付くために、という想いで私の片目を黒く塗ったのなら、それにしてはあまりにも扱いがぞんざいではないだろうか。
 無邪気という言葉はただの性格を意味する表現であり、悪事を包んで隠すベールではない。故に彼らが何をしてもいいことにはならない。しかし彼らはそれを理解するだけの知性が備わっていない。結果、その言葉はいいように子供たちの隠れ蓑になっているわけだ。
 といっても、吾輩にはどうすることも出来ないのだが。
 この一年が終われば、吾輩の役目は満了となる。満了になれば、あとは究極的な末路が待っている。所詮はゲン担ぎ程度の体だ。吾輩には何をどうこうするという選択の余地などない。
 しかし……いや、だからこそ。
 老い先が見えている一生の中で出会うことが出来るなら、どれだけ無邪気でどれだけ常識知らずであっても、それはそれでいい思い出として吾輩の中に残る。それはそれでいいことだと吾輩は思う。
 吾輩の役目はもうすぐ終わる。
 心残りがあるとすれば、この目で彼らの歩んでいく姿を見届けられないことだろうか。



 冬が始まった。
 これが、吾輩にとって最初で最後の越冬だ。いや、もしかすると冬が終わって春が広がる前に、吾輩はもう用済みになっているかもしれない。
 外気との気温差によって出来た結露で、まるで汗をかいたように窓はびしょ濡れになっている。生徒たちは外の寒さに震えながら教室の扉をくぐり、悴んだ手が温まって動くようになる前にペンを走らせ始める。
 彼らにとって、ここからが一分一秒の勝負である。吾輩に願掛けをしたことも忘れているかのように集中し、室内には異様に張り詰めた空気が充満している。
 吾輩は彼らの苦労を見てきた。模試の点数に頭を抱え、日々勉強に追われるストレスが溜まって疲れ果てていく彼らを見てきた。
 吾輩には、彼らの苦労は分からない。彼らが吾輩にどれだけ幸運を願っても、結局のところ吾輩に出来ることなど何もないのだ。ただここに坐して、吾輩もまた同じく彼らの歩む道に僥倖があらんことを祈るばかりなのだ。
 人間は我らに幸運を望むが、しかし我らにはそれを実現し得る術がない。
 最終的に何かを叶えることが出来るというのは、突き進んだ者の特権であり、それは他でもない彼らの実力なのだ。天命を待っていては始まらない。全ては自身が望む道を築き上げ、そこを何としてでも進みたいという強い意志の表れから起こるもの。
 ただ吾輩が望むのは、彼らに皆同じ喜びを分かち合ってもらいたいということだけ。
 だが受かる者がいるということは、落ちる者もいるわけで。
 そういう仕組みになっているこの世界の中では、全員が全員、一緒の喜びを掴むことなど不可能なのだ。
 それでも吾輩は、何も出来ないなりに彼らの幸せを祈ることにする。あまねく人々が自らの心から望むものを手に入れられるように。
 何も出来ない吾輩は、そうするしかないのだから。



 春が来た。
 予想外なことに、吾輩は捨てられずに塾に残った。
 理由は分からない。ただ、まだ子供たちを見ていることが出来るというだけで、吾輩の心はひどく浮足立っていた。
 受験が一段落した教室には、つい数か月前とは打って変わって和やかな雰囲気が舞い戻っていた。かく言う吾輩のもう片方の目も今は黒く塗られ、吾輩は丸一年を経て両の目を手に入れたのだ。
 これで、まだ子供たちの歩む姿を見ることが出来る。
 これで、彼らの行く末を見守ることが出来る。
 そう考えるだけで、吾輩の心は吾輩の動かない表情とは裏腹に歓喜の雄叫びを上げているのである。
 あの少女も、いつものように吾輩の体を満面の笑みでべたべたと触っては、定期的にボディを叩き込んでくる。無邪気だ。それでいて全く容赦がない。おかげで吾輩の体には日を追うごとに窪みが増えていく。
 しかし何故だろう、悪い気はしないのだ。
 彼女の小さな拳が吾輩の体を捉えて予想外の衝撃が襲っても、痛みを感じこそすれ、恨みがましいなどという感情が一切起こらないのだ。嫌だとも思わない。やめてほしいとも思わない。逆に嬉しささえ感じてしまう。
「ていっ」
 ほら、今日もこうして拳を叩き込んでくる。
 無邪気だ。底なしの笑顔と共に放たれた彼女の小さな拳は、吾輩の脇腹に小さな窪みを作る。
 そんなある時、吾輩はふと気が付いてしまった。
 ──ああ、吾輩は、彼女たちのことを好きになってしまったようだ。
 吾輩の創造主たる彼女ら人間に、恋心を抱いてしまったようだ。
 毎日勉強に追われる受験生も、曇りのない笑みでスキンシップを取る少女も、たった一年同じ場所にいただけで、吾輩はいとも簡単に彼女らを愛してしまったようだ。
 初めて感じた。これが、他人を思いやる感情の果て。
 人間が人間を愛することを吾輩は知っている。そしてそれがかけがえのない、素晴らしいものだということを知っている。
 だが吾輩は、今この瞬間、それがどういうものかを理解した。
 そういうものだと耳にしただけでは感じ得ないものを、吾輩は確かに理解したのだ。
 祈ることしか出来なかった吾輩が初めて手に入れたもの、それはこの感情だったのだ。
 掴もうとしても掴めない雲のようなもどかしさ。手を触れたら壊れてしまいそうな儚さ。そして胸いっぱいに広がる、喜びにも似たこの想い。
 幸せだ。
 モノでしかない吾輩が恋心を抱き、少しでも人間に寄り添っていたいと思うことが。
 どうして好きになったとか、そんなものは些末な問題だ。いつから好きになったとか、それもまた取るに足らない問題だ。
 ただ吾輩の心は今、暖かい手に包み込まれているようだった。
「おねえちゃんがね、だいがくにごうかくしたんだって。だるまさんのおかげだね」
 吾輩の体を持ち上げながら、少女は屈託のない笑みを浮かべて言う。
 今の吾輩にはそれが事実のように思えた。吾輩は何も出来ないことを承知しているが、それでも彼女の言う通り、ほんの僅かなことでも貢献出来たとさえ感じる。
 たとえ本当に何の役にも立っていないとしても、彼女たちがそう思うことが出来るなら本望なのだ。吾輩が彼女たちに与えたのは、吾輩の力で目標を勝ち取ったという錯覚である。だが吾輩は、彼女たちに幸せを与えたのだ。その錯覚が、結局は彼女たちの喜びに繋がる。
 吾輩はその代わりにこの感情をもらった。彼女たちにとってはそんなつもりはなかっただろうが、吾輩が勝手に芽生えさせたものなのであろうが──吾輩は見返りとして、人間を、彼女たちを愛するという人間的な感情をもらったのだ。
 幸せだ。
 この幸福を分かち合うことは出来なくとも、吾輩が彼女たちの幸福を感じ取ることは出来る。
 もう吾輩の心は満足していると言っても過言ではない。彼女たちに愛慕の情を抱く側からしてみれば、その幸せに少しでも触れたということがこの上なく嬉しいのだ。
 しかし、どうやら吾輩は、この情念を認識するのが早過ぎたらしい。いやそれ以前に、モノ風情である吾輩がこんな感情を抱くこと自体、許されざることだったのかもしれない。
 そう、吾輩は、限りなく浅はかで、愚かだったのだ。



「お姉ちゃんがね、死んじゃったの」
 それは、吾輩がこの塾に置かれてからちょうど四年くらいが経った頃だった。
 少女は中学生になっていた。セーラー服を身に纏って俯く彼女は、この四年間で随分と背が伸びた。それに元々顔立ちが良かったために、他の同級生たちと比べると大人っぽさが抜きん出ていた。
 彼女は最近吾輩を殴らない。殴るかわりに吾輩の頭にそっと手を置き、今日あったことを短く話すだけになっていた。友達がどうだとか、部活がどうだとか、勉強がどうだとか、そういう話だ。
 吾輩としては少し残念に思うが、それは彼女がしっかりと成長している証拠でもある。決して悪いことではない。むしろ喜ばしいことだ。彼女の成長を見てきた吾輩にとっては、まるで親のように幸せを感じるのだ。
 その少女が今、吾輩の前で顔を伏せている。
「昨日の朝に話したばかりでね、その時はいつもの明るいお姉ちゃんだったんだ。いつも通り一緒に家を出て、いつも通りの道で分かれて、二人して笑って手を振って、お姉ちゃんはいつも通りの電車に乗ろうとしたの。そうしたら──」
 少女の目から溢れた涙が、吾輩の頭の上に一滴落ちた。
 それを皮切りに、彼女の目には次から次へと涙が溢れ出し、吾輩の頭を湿らせていく。
「戻ってきたお姉ちゃんが、お姉ちゃんの形をしていなかったんだ」
 その涙は冷たかった。まるで冬に蛇口からゆっくり落ちる水滴のようだった。
 何も言えない吾輩は、無論何も言えない。彼女に声をかけることも出来なければ、慰めることも出来ない。
 吾輩は、彼女と一緒に涙を流すことも出来ない。
「どうしてお姉ちゃんなのかな……。日本中に、世界中にいっぱい人がいるのに、どうして選ばれたのがお姉ちゃんなのかな……」
 ただ神様は、きっと気まぐれで彼女の姉を選んだのだ。
「どうして私じゃないのかな……。 なんでお姉ちゃんが選ばれちゃったのかな……」
 確率で言えば同じだ。彼女も、彼女の姉も、どちらが選ばれるかなんて分からない。だから、運が悪かったとしか言いようがない。
「……私、もう、何も分からないよ」
 少女は右手で吾輩の体を撫でた。涙を拭ったからか、掌がほんのりと湿っていた。
「お姉ちゃんがいなくなってからね、なんだか私の中に穴が開いちゃった感じがするの。小さいのに、すごく深い穴。そこに何があったのかちゃんと分かるの。それは分かるのに、頭が分かりたくないって駄々をこねるの、だるまさん」
 少女はおもむろに吾輩を持ち上げた。
 涙を流し続けて真っ赤になった双眸を吾輩に向けながら、彼女は懇願するような表情を浮かべた。
「ねえ、どうしたらいい? お姉ちゃんがいなくなっちゃって、私はどうやって生きていけばいいの?」
 分からない。
 吾輩には分からない。どうすればいいかも、この感情をどう伝えればいいかも。
「この穴を埋めるにはどうしたらいいの?」
 分からない。
「苦しいんだよ。だるまさん。私ね、ケガなんてしてないのに、すごい痛くて、苦しいんだ。何でなんだろう。私はすごい健康なのに、何で、こんなに……ねぇ……!」
 分からない。
 分からないんだ。
 吾輩はただのモノ。人間の生死をどうにか出来るはずがない。吾輩には何も出来ない。
 何も出来ない。
「……痛いよ……」
 誰もいない教室に少女の声が霧散する。
 どうしてこうなった?
 吾輩は、ただ彼女たち人間を愛しただけだ。吾輩には彼女たちに対する誰にも負けない愛情があった。人が人を愛する気持ちを知った。理解した。解かることが出来たのだ。
 だが、たった今、あることに気が付いてしまった。とても初歩的で、きっと誰もが当たり前と思っていること。
 愛することは、幸せなのと同時に、辛い。
 自惚れていた。人間と同じ感情を手に入れたことに吾輩は舞い上がって、そんな当たり前のことさえ見えていなかった。いや、無意識に考えないようにしていたのかもしれない。愛することの辛さを思考から除外して、幸福を味わいたいという一心で愛情に溺れていたのかもしれない。
 それでも、吾輩は分かっていたはずだ。人間には『死』という終わりがあることを。
 そして『死』が来れば、人間は吾輩の前から消え失せていく。そんなものは原始から決まっていた。人生の終着点を持たない生物はいない。吾輩が生物ではなく、人間が生物である以上、吾輩と人間はひどく僅かな時間しか共有出来ない。宇宙的に見たらそれは爪ほどの時間でしかない。そんなことは知っていた。
 ただ吾輩は、別れの時はもっとずっと先にあるのだと思っていた。
 ただ吾輩は、別れが来ることすらも愛情で覆い隠して、気が付かないフリをしていた。
 ただ吾輩は、愛を抱いてしまったがために、彼らと共にいることを望んでしまった。
 もし吾輩が人間に対してこんな感情を抱いていなかったら、吾輩の心は少女の言葉を受け流していたに違いない。彼らの幸福を願いこそすれ、吾輩の心は誰かに向いているわけではないと無意識に思い込んでいた。それはそれで楽だった。嫌なわけではなかった。純粋に彼らの幸福を願っていれば、吾輩のある程度の目的は果たされたことになる。
 しかし吾輩は、彼らの幸福を願い過ぎた。願い過ぎた挙句、自分の愛情の向かう先にいるのは『人間という生き物』ではなく『一人一人の人間』だということに、今気が付いた。
 その一人が、死んだ。吾輩の知らないところで、吾輩に一言も告げずに。
 辛い。
 この黒い目で見てきた人々がいずれ死んでいくことを思うと、どうにも気が触れてしまいそうだ。
 でも吾輩には何も出来ない。なぜなら吾輩に出来ることは幸福を願うことだけで、人間の死に抗えるものなどこの世には存在しないから。
 本当は、何ものも愛してはいけなかったのだ。
 静かだった教室は、いつの間にか雨の降る音で満たされていた。
 だが吾輩に伝わって来たのは音だけ。降っている様子は吾輩には見えない。
 雨は、吾輩の心も、少女の心も、洗い流してはくれないらしい。



 少女は塾に来なくなった。
 はっきりとした理由は分からない。だが何となくこうだから、という想像はついた。
 教室はいつもの雰囲気に包まれている。あの時の少女の様子が全くもって嘘であったかのように、微塵も変化がなかった。子供たちは笑顔で講師の話に耳を傾け、受験生はやや張り詰めてペンを動かす。今年もいつもの光景だ。勉強にひたむきながらも、和気藹々とした空気が漂う、いつもの光景。
 彼らは何も変わっていない。今までと同じように。
 吾輩は変わった。今までとは打って変わって。
 今まで吾輩がいた場所には、吾輩と同じ形をした違う吾輩が鎮座している。片方の目がまだ黒く塗られていない。いわゆる吾輩の後継であり、新参者だ。
 かく言う吾輩は使い古して使い物にならなくなった道具同然に、邪魔にならないよう教室の隅に置かれた。辛うじて蛍光灯の光が届くような場所だ。都の凋落とはこういう気分なのだろうか。
 考えてみれば、吾輩の役目は何年も前に終わっていた。今まで何年もの間あの場所に安住していたのが不思議だったのだ。そう考えると、あそこに佇む彼が新参者であるというより、むしろ吾輩が定年を過ぎていたという方がしっくりくるのかもしれない。
 兎にも角にも、吾輩はこれで本当に用済みになった。あとはこのまま忘れ去られるか、廃棄の道を辿る。吾輩には、自分がどう転ぶか分からない。吾輩のこの体がこれからどうなろうとも、全ては吾輩が決めることではない。
 今日も雨が降っている。あの日のようだ。雨音は聞こえるのに、雨の降っている様子は見えない。
 吾輩はどうやら、人間を愛することを忘れてしまったようだ。
 もしかすると、これまでに何度か無意識の内に愛したのかもしれないが、たとえそういうことをしていたとしても、愛情という吾輩の一部が吾輩の中からごっそり刳り貫かれたように思い出せない。
 理由は分かる。吾輩の立ち位置が変わってしまったからだ。
 もっと正確に言えば、吾輩があの場所から退いたことで、少女だけでなく人間との関わりを失ったからだ。
 吾輩の愛情は彼女たちとの関わりで生まれた。彼女たちに幸福を与えた吾輩は、等価交換として愛情という感情をもらった。そして今はその関わりが消えたのだ。考えてみれば、そうして愛情を忘れるというのは憎らしいくらいに道理である。
 憎らしい。全く以て、憎らしいものだ。感情というのは。
 吾輩にこれだけ幸福を感じさせておきながら、消える時は気が付かないくらいあっさりといなくなってしまう。吾輩の中を荒らすだけ荒らして消えるとは、子供たちに負けず劣らず無礼だ。
 そう、愛情とはあの時の子供たちのように無礼で、無邪気だ。
 そんな愛情は子供たちのように、知らず知らずのうちに吾輩の元から離れて行ってしまったみたいだ。
 もう戻って来ない。そんな気がする。
 だがもしかしたら戻って来てくれるかも。そんな気もする。
 とにかく今は、教室の入り口に集中しよう。
 運命の悪戯などという洒落た出来事が起こる可能性も、ないわけではないのだから。



 新参者の目が両方黒くなって、新参者ではなくなった。
 これで彼の役目は終わったということになる。たった一年の短いものだが、かなり大きな充実感はあったはずだ。経験者が語るのだから間違いない。
 こうなるともう先は決まったようなものだ。吾輩のように部屋の片隅に置かれて忘れ去られるか、その日のうちにここを追い出されるか。どちらにせよ、役目を終えた吾輩たちに向こうはもう用などない。言い方は悪いかもしれないが、こちらがどうなろうと向こうには最早関係ないのだ。
 彼の前で生徒たちは満面の笑みを浮かべている。どうやら彼が幸福を与えた生徒たちのようだ。いつになく声の大きい彼らは、あたかも彼を祀り上げているかのように彼を囲んでいる。
 懐かしい雰囲気だ。吾輩が今の彼の位置にいた頃が遥か遠い昔の出来事だったように思われる。
 それはまあ、確かにあれから何年も経ってはいるが、あの頃から今日ここに至るまでの間に苦楽というものを経験したのだ。人間ではない吾輩が。時間の経過がこうして異様に早く感じられるのも、全ては吾輩が本来得るはずのなかった経験をしたからだと思う。
 楽しかったか? と問われれば、はっきりと首を縦に振れない。
 じゃあつまらなかった? と問われても、はっきりと首を縦に振れない。
 吾輩が過ごした時間はそんなものだ。その程度のものだった。はっきりとした感想もなく、言うなれば流れに任せていただけの時間。受容的でしかなかった時間。役目を終えた吾輩の老後と捉えることも出来る。
 だがその時間は、吾輩の中でひどく印象に残った。いつ何が起こったとしてもつい思い出してしまうような、そんな経験をした時間だった。たとえ吾輩が何も出来なくとも、自然と幸福を感じられる時間だった。
 そして、せっかく手に入れた感情を、いとも簡単に失ってしまったという無力さを思い知る時間だった。
 ……ああ、過去を回想するなど、これではまるで本当に老人のようだ。間違いではないが。
 しかし、自身の未来が想像出来ないのもまた事実だ。生徒たちのように明確な目標があるわけでもないし、自分で動く術もない。何も出来ないなら、持て余した時間で過去を回想するしかない。
 だが、ダメだ。
 時間を潰すために過去を覗けば彼女に行き当たる。彼女に行き当たれば『愛情』という言葉を思い出す。でも吾輩の中に愛情はない。愛情という概念がない。どうしようもない。現に今この瞬間、どうしようもなくなっている。
 もどかしい。
 昔このもどかしさと似たようなものを感じたが、双方が何となく違うもどかしさだというのは分かる。
 吾輩の持っていた『愛情』とは一体何なのだろう。温かいのか。冷たいのか。柔らかいのか。硬いのか。
 与えるものか。与えられるものか。
 そこまで問答を繰り返して、吾輩はようやく分かった。
 吾輩の中のあの少女が、だんだん消えかけていることに。



 それから一年を跨いで、再び吾輩は冬を越してしまった。
 教室では去年の今頃のように、努力を実らせた生徒たちが満面の笑みで言葉を交わしている。実際これまで何度も見てきた光景ではあるが、何度見ても微笑ましいと思える光景だ。彼らの心情は吾輩には分からないとはいえ、これまでの苦労が綺麗に昇華出来たというのは、さぞ嬉しいことなのだろう。
 そう言う吾輩は、廃棄が決まった。昨日のことだ。
 何も驚いたわけではない。吾輩の寿命を考えれば、吾輩は明らかに長生きし過ぎた。ここに来てやっとか、という思いの方が強いくらいだった。
 覚悟自体は役目を終えた時にもう出来ていたのだ。吾輩に役割以上の何が出来るわけではないし、そもそも何も出来ないのだから役目を終えた吾輩に存在価値などない。
 寂しい、という思いはあまりない。後悔の念などはほとんどないと言っていい。
 それもこれも、かの『愛情』というものを吾輩が失ったからだろうか。人間だったら涙の一つも出ていいところなのかもしれないが、いかんせん吾輩の中からはそれ以外のものも消えかかっているようなのだ。『愛情』というものがそれらの根底を成していたとしたら、吾輩は大変なものを早々に失ってしまったということになる。
 穴だ。吾輩の中の『愛情』があった場所に大きな穴があき、アリジゴクのようにその周りにあるものを削り取っていく。残されたのは空白だった。
 先生によると、吾輩の廃棄は四、五日先だそうだ。余命などという仰々しいものではないが、期限を決められるとなるほど落ち着かない。なぜかは吾輩にも分からないが。
 しかしまあ、今更どうにかなることでもない。静かにその時を待つのが賢明だ。
「こんにちは」
 そう思っていた矢先、聞き覚えのある声が教室の入り口から聞こえた。
 それはずっと前に聞いて以来耳にしなかった声。あの時から成長したのか、声音が随分と大人びていた。
 そして彼女は、すぐに吾輩の視界に入ってきた。
「報告遅れちゃいました、先生。合格ですよ、合格」
 あの少女だった。
 吾輩の中から消えかけていたあの少女が、数年越しに戻って来た。
 笑みを湛える少女は、しかしあの少女である確信を持てるだけの面影があった。かなり大人っぽくなってはいるが、その笑みは吾輩に幾度となく向けられていたそれと何ら変わらない。
 そして今の言葉からすると、彼女も受験生だったらしい。しばらく会っていないうちに学年まで忘れてしまっていた。
 だが……ああ、そうか彼女は、また一段と吾輩の知らない少女になってしまった。
 いやそれでも、吾輩の中の少女が戻って来てくれた。どこかへ行ってしまいそうだった吾輩の少女を、少女自身が引き留めてくれた。
 少女はしばらく先生と会話したのち、
「あのだるまさんって、まだ残ってます?」
 と言い放った。
 先生が吾輩に目配せし、それを以て少女の問いに答えた。先生の視線を追った少女は吾輩に目を留めると、「ありがとうございます」と言って吾輩の前に座った。
「久しぶり。元気してた? 会いに来れなくてごめんね」
 苦笑しながら言う少女を、吾輩は無言で見つめる。
 そしてゆっくりと吾輩に手を伸ばすと、吾輩の体中にある小さな窪みをいくつか撫でた。
 柔らかく、温かい手だった。
「ねえ先生」
 少女は吾輩に手を添えたまま、笑顔で振り返った。
「これ、もらっていってもいいですか?」



 吾輩の知らなかった世界はあまりにも大きかった。
 井の中の蛙大海を知らず、とは誰が言ったか。ともかくその言葉は今の吾輩を表すのに丁度いい。あの教室の外にこんな世界があるなんて知らなかったし、考えたこともなかった。大発見というやつだ。
 少女は吾輩を体の前で抱きかかえ、ただ歩き続けている。少女は厚着だ。コートの上にマフラー、手袋などなど、思いつく限りの防寒具を装備している。この寒さを考えれば当然ではあるが。
「寒いねぇ。去年はまだもうちょっと、あったかかったんだけどなあ」
 冬らしい灰色の空を見上げながら少女は呟いた。
 変わらない。やはり少女はあの少女だ。そしてそれを確信して安心する吾輩もまた、昔と変わっていないのかもしれない。
「ずっと顔見せなくて、ごめんね」
 少女の口からまた小さく白い声が漏れる。別に気にしてなんかいないさ。吾輩はただあそこに座っていただけだ。君が戻って来てくれて吾輩は嬉しいよ。などと思うが、もちろん言えない。もし言えたとしても言うことはない。
「私ね、医学部に行くんだ。お姉ちゃんが行ったところと同じ大学の医学部」
 少女は微笑みを浮かべて吾輩を見下ろした。
「だるまさんと最後に話したあの日から、私には夢が出来たの。ちょっとベタだけど、医者になって世界中の人を救うっていう夢。かっこいいでしょ?」
 ああ、かっこいい。最高に。
 少女はまた顔を上げて、
「私はさ、人の死に方はあんまり問題じゃないって思うんだ。だってお姉ちゃんは事故だったけど、みんながみんな都合よく事故で死ぬわけじゃないもんね。病気とか、事件とか、寿命とか、いろいろさ。でもね、その中でも助けられる人たちはいるんだよ」
 心なしか、少女の口調が強くなった。
「だから私は、あの日から死に物狂いで勉強したの。医者になれば、少しでも人を助けることが出来るからさ。これでお姉ちゃんの悔いも晴らせそうだし、私の夢も叶いそう。結果オーライっていうのかな、こういうの」
 少女は吾輩の頭の上に手を置いた。
 手袋に包まれた、決して大きくはない手。昔吾輩を殴り続けた手が、今度は人を治すために使われる。
 そう考えるとなんだか面白かった。人間の選択肢の多さと、それらがどんなに正反対でも選んだものを追い求めることが出来る自由さが。きっと人間にしか出来ないことだ。少し羨ましい。
「だからね、だるまさん」
 少女は突然立ち止まり、微笑みを浮かべて吾輩と目を合わせる。
「ありがとう」 
 呟くように小さな声で、そう言った。
「私がここにこうしていられるのは、あなたがいてくれたおかげです。あなたの力がなかったら、私は人を救うことを志していなかった。本当にありがとうございました」
 静かに目を伏せる。そして、
「これからもどうかよろしくね、だるまさん」
 そんな彼女の笑みは、吾輩の中の大きな穴を埋め、山にさえしてしまった。
 雲の隙間から光が射し込み、灰色の背景にカーテンをかける。
 吾輩はモノ。何も言うことが出来ないし、何をすることも出来ない。彼女たちが感じたものはおそらく錯覚で、吾輩が意識的にもたらしたものではない。
 でも、やはり吾輩はそれでいいのだ。それが吾輩の役目であり、吾輩が最もしたかったことなのだと思うから。
 少女の笑みがこの黒い瞳に焼きつく。
 どうやら吾輩は、また新しい春を迎えなければならないようだ。



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