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イノセンス・境界・蓋然性

作者:Wofagi
水風船に出した原稿ですが、ひとまずこちらの批評を行っていただけると助かります。
 きのうの夜は大雨だった。窓を閉め切っていても、水滴が家の外壁や屋根に叩きつけられている音が、枕の上でまどろんだ耳に伝わるほどだった。

 ぼくの元にインターホンの呼び鈴が聞こえたのは、そんな夢とうつつの谷底で彷徨っているあいだのことだった。いや、ひょっとしたらあのときにはもう、意識は現実になかったのかもしれない。なんとなく……ふらふらと、受話器を耳に当てていた気がする。
「はい……西本です……」
「もしもし、ゆうくん? えりです」
 扉の向こうで名乗ったえりは、まだ漢字も読めない幼い女の子のようだった。そして……その声は水底から発しているような、くぐもった……響きだった。ただ、ぼくはそれをどこかで聞いた気がする……そんな懐かしさもあった。
「はい……ん、うん……」
 考えたことを声に出すという感覚がうまくつかめなかった。
「五時に下で待ってるから!」
 五時に下? 一体なんのことだったんだろう……。
 ぼくはそれきり、会話の内容、というよりもそれ以上ぼくらの通話が続いていたのかすらも覚えていない。ただ、それでもはっきりと記憶に残っていることがあった。
 受話器からずっと、彼女の声と一緒に、潮騒と海鳴りが絶えず静かに響いていた。

 水中で光が揺れて、ぼくはなす術もなくゆっくりと沈んでゆく。それはまるで、柔らかなゆりかごのような暖かさで……。
 そんな夢からふと目がさめると、部屋はもう薄明るくなっていた。カーテン越しに広がる光は、明るいベージュ。壁掛け時計に目をやると、まだ六時二十分をちょっと過ぎたあたりだった。早起きをするのに、せっかくの金曜祝日の朝はもったいない。ぼくはもうひと眠りしようと思って、ぬくもりの残る毛布の中で身をかがめた。右腕にほおを乗せて……。
 意識がほどよくあいまいになってきた……そんなときに、ふわりときのうの夜の女の子の声を思い出した。あれは夢だったのだろうか、それとも……? そんなことを考えているうちに、まったりとしたおぼろげな感覚が、少しずつ醒めた。そして、しまいには心地よい眠気は消えてしまい、ぼくはベッドの感触を意識してしまうようになった。しかたなく、起きることにした。
 風を通そうとして窓を開けると、ベランダのスズメがぴぴぃと鳴いた。軽やかな日差しと真新しい空気が、ぼくの全身に染み込んでゆく、昨日の土砂降りが虚構のように。伸びをした。さっきまでの溜まりきったディストーションから、筋が解放されてゆく感じ。
 そんなひとときだった。ふわりと、潮の香りが鼻先に触れた。どこからだろう。決して海に近いわけではない。それに、その感覚は一瞬で。気づけば鼻腔に注意を払ってみても、もうその香りを感じることはできなかった。
 フィルターに粉を入れて、コーヒーメーカーにスイッチを入れた。こぽこぽという軽い音色と、しなやかに広がる香りが、ぼくにいつもと変わらない朝の繰り返しとの再会を告げた。

 撮り溜めたトレンディドラマを消化して、昼は話題のラーメン屋の行列に並び、マルイを覗いて……どこにでもある、無個性な三連休の一日目が終わろうとしていた。街に輝く太陽は、夕焼けの色。空と雲、光と影。ひゅうと吹く風がぼくの周りをさすらって頬に冷たさが走ると、芯から熱がこみ上げた。

 マンションのエントランスについた頃、時計の針はちょうど五時を指そうとしていた。床のタイルの上では、茜色の光が乱反射して、数えきれないほどの瞬きを繰り返していた。
 無意識にポケットの中をまさぐっていたときだった。一瞬、ふっと潮の香りがした。ぐるりと、視界が回転したようだった。居心地の悪い不気味な質感が、脳裏に居ついた。言葉にはできないような──さっさと部屋に引き上げよう、そう思った。ポケットから鍵を出して、ロビーのガラス戸を開けようとした。
 ピチャピチャという足音が背後から近づいた。
「ゆうくん!」

 周りの物音が、一斉に消えた。その刹那に背筋が凍りつき、硬直した。確かにその声を聞いた。背中越しに鈍い響きの声で勢い良く呼びかけられた。あの、えりという昨日の女の子に!
 鍵を抜いて、とにかく後ろを振り向かないように歩いた。声は出せなかった。ただ歩くということしか考えられなかった。いや、考えてもいなかった。ただひたすらに前へ、前へ。エレベーターに乗りこんで、扉が閉まった音を確認して恐る恐る振り返った。

 そこにはただ、閉じた二枚戸が重みと冷たさをもって佇んでいるだけだった。安堵して、全身の力がどっと抜け落ちた……そこに立っていることも、できないくらいに。身体中を濡らしてシャツに染み込んだ汗の、質の悪い冷たさがぼくにまとわりついた。
 重くなった腕を持ち上げて、三階のボタンを押した。エレベーターを降りると、細々とした風が袖口から流れ込んだ。脇に寒気が走った。駆け抜ける氷が肌に触れたような感触に震えた。
 玄関を閉めきると、ぼくはベッドに倒れこんだ……崩れ落ちた、という方が正しいかもしれない。肌に張り付く布地の冷たさは相変わらずそこにあったまま……それでも、すぐには起き上がる気力がなかった。暖かな橙色に照らされた白い壁を、ただずっと虚ろに……いつまでもぼんやりと見つめ続けていた。ただただ、ぼんやりと……。

 再び身を起こしたとき、壁に掛けた時計は五時七分を指していた。そんなものだったのかと、ぼくはどこかに信じられないような思いを抱いていた。もっと永かったはずだ……もう、二度と動かないんじゃないかというくらいには……。
 コートをハンガーに掛けた。じっとりと濡れきった服を脱いで全身をタオルで拭き、寝間着になった。身体がいくぶん軽くなった気がした。

 携帯電話の画面を見ると、母さんからの留守電が入っていた。時間はー十七時ちょうど。ぼくは恐ろしさのあまり、着信音も聞こえなかったらしい。再生して、受話器を耳に当てた。
「もしもし佑? 母さんです。いきなりで申し訳ないんだけど……健太郎叔父さんちの絵里ちゃんっていう子が、昨日の晩に亡くなったの。 一回あんたと遊んでたの……覚えてる? それでね、明日と明後日、こっちに戻って来るのってできる? たまには私も顔見たいし……無理言ってるのは百も承知だから、どうにもならない予定が有るならいいんだけど。また連絡ください」
 ツー、ツー、ツー……。五時ちょうどの着信? きのうの夜? そして──えり? 何か、出来すぎているんじゃないのか。得体の知れない誰かの書いた戯曲を、ぼくは演じているのか? つかみどころのない気味の悪さに襲われた。
 ぼくはしばらく動けなかった。
 太陽はいつの間にか沈んでいて、部屋にはぼんやりとした青が漂っていた。

 昨日の晩は母さんに連絡をして、荷物をまとめた。東京駅で新幹線の当日券を買うと、そのまま乗り込んだ。実家の最寄りはこだましか止まらない駅だった。三時間ほど電車に揺られて……さらに、そこから一時間ほど山越えのバスに乗った。かかった時間以上に、疲れの溜まる旅だった。
 バスを降りると、灰色の低い空に潮の香りが漂っていた。二十七年ぶりに訪れた父さんの故郷は、海に近い町だった。

 家では喪服に袖を通した父さんがいた。浮かない表情で……ただ、しばらく会わないうちに前みたいな威厳は消えていたように思う。それでも、重くて苦しい空気……そこが哀しみに満ちた場所であることに変わりはなかった。
「久しぶり、父さん」
 ぼくはどういう風に振舞って良いのか、考えつかなかった。
「十一年ぶりか……変わったな」
 そう言う父さんはかすかな笑みを表情にひきつらせていた。
 ぼくは居間の隅に荷物を置くと、おじいちゃんの霊前に手を合わせた。そこから退がって携帯の画面を見ると、『圏外』と言う二文字が左上に浮かんでいた。

 定年を迎えた父さんは、母さんを連れて生まれ故郷に戻った……祖霊のため、そして自分のために。ぼくはその頃には都内の大学に進むことが決まっていたため、東京に残った。後から母さんに電話で聴いた話だと、父さんは僕を連れてこれなかったことを相当悔やんでいたらしい。そして、自分の死後は僕をこの土地に連れ戻すと言っているそうだ……ただ、ぼくはそれに応えようとは思わない。戻るも何も、ぼくはここで生まれたわけでも育ったわけでもないのだ。はっきり言って、ここはぼくがいなければならない土地ではないと思っている。
 これよりも前に父さんの故郷の土を踏んだのは一度だけだった。おじいちゃんのお葬式──僕が生後数ヶ月ときのことだったそうだ。記憶の引き出しには、ほとんど残っていない。
 しかしよくよく考えてみると、ぼくはこの町に葬儀でしか訪れたことがないということだ。不思議な縁だと思う。しかも、ぼくが送り出そうとする人のことを、ぼくは思い出すことができない……僕がこの土地で見届けようとするのは、知らない人の旅出なのだ。

 小一時間して帰ってきた母から、大方の事情は聞いた。絵里というその従姉は、二十七年もの間、つまり昨日の晩までずっと植物状態にあったこと、一歳にも満たなかったぼくは、かつて六歳だった彼女に海へ遊びに連れて行ってもらったことがあるということ、健太郎叔父さんの一人娘だったこと。
 ただ、母さんは何か隠し事をしているようだった。なぜ絵里は植物状態になったのか、どうしてぼくは二十七年間も、従姉の存在を誰の口からもはっきりとは知らされずにいたのかということ……。

 一晩過ごす以外は好きなようにしても良いということだった。
 淡々と儀式は進んだ。
 ここに来たからといって、親族とぼくは会話するわけではなかった。一人一人、軽く挨拶を交わしはしたものの……なにぶんお互いに面識がほとんどないのだから。お香を焚いて戻るときにぼくに集まっていた視線は、まるで狂ったものを見るような……異質な存在に向けられるそれに等しかった。そして、絵里の両親……とりわけ健太郎叔父さんの瞳からは、それを言い表すのがおこがましくなるような、本質的に純然たる怨嗟が、ぼくを貫き通した。
 父さんと母さんの、悲しみを浮かべつつも敵意のない顔つきだけが、ぼくがそこにいることを赦してくれていた。
 やはりぼくは、この土地に存在すべき人間ではないのだと感じた。

 かくして、通夜が終わった。粛々と夜が明けた。ぼくは早く式場となっている叔父さんの家を出て、少し父さんのところで寝たらさっさと帰り支度をしようと思っていた。
 玄関を出ようとして靴を履き、引き戸に手をあてたときだった。
「待て」
 よく響く低音だった。不意を突かれて、ぼくは一瞬びくりと身を震えさせてしまった。その声の主は、叔父さんだった。
「何ですか?」
 ぼくは向き直ってそう言った。ぼくの存在が認められないこの空間に、これ以上留まりたくないのだ。
「お前に言っておくことがある……」
 体格が良く、口ひげを蓄えた叔父さんは静かなる鬼気を備えていた──そう、ふつふつとした溶岩を一身に蓄え続けた、胎動を持つ火山のように。
 叔父さんは、口元を震わせながら重厚に言葉を発した。
「絵里は、お前に殺された」

 その一言に、ぼくのすべての思考が停止した。世界が、動かなくなった。色も、音もーすべての質感が失われた。
「お前はもう、二度とここに来るな」
 叔父さんはそう言い放つと、襖を閉じて居間の方へと戻った。ぼくはその後ろ姿を、ただ見つめることだけしかできなかった。

 ぼくがーぼくが絵里を殺したのか?
 ぼくは、ぼくの知らない罪を抱えているのか?

 ぼくは、ぼくが絵里と一緒に行ったという海岸に向かった。
 さほど遠くはなかった。歩いて五分程度のものだった。
 海岸の近くの路上には、建物が取り壊された、たくさんの更地が遺されていた。

 コートを着ていたとはいえ、潮の香りを含んで吹き付ける浜風は、ぼくの身に裂き切る冷たさをぶつけた。ぽつりと、雫が肌に触れた。海の上には密度の高く重たいグレースケールが広がっていて、空がとても低いように思った。遠くの雷鳴の名残が耳の奥で震えていた。
 かろうじてコンクリートで整備された歩道から砂に踏み込むと、反発のない柔らかさに足を呑まれるようだった。かつてはまだ先まで歩道が続いていたようだが、いまでは砂に埋もれていた
 そこからの一歩一歩は、砂を足でかくようだった。どんなにもがいても進まない、虚しい水底にいるような。
 どれほど進んだかはわからない……ただ、波の音が徐々にはっきりと聞こえるようにはなっていた。ざざーん、ざざーん、ざざーん……おぼろげだった波打ち際の白いしぶきが、だんだんと明らかになった。ごうごうという、ずっと深くからこみ上げるようなうねりが、鳴り響き続けていた。
 体重のかかった場所から、ぼくは沈んでいくようだった。

 時折、足元に目を向けながら歩いていた……そして目を上げた、ある一瞬だった。視界の端の方ーうたかたの消失する線上に、水玉模様のワンピースを着た小さな女の子が立っているのが見えた。そしてその子は、彼方の水平線を眺めていた。ずっと、ずっと、ずっと……。ただ、おぼろげにそこにいた。
 風は強くなり、波は荒さを増していた。つん裂くような寒さは、さらにその鋭さに磨きをかけていた。
 ぼくはその彼女のもとへと、からみつく砂を蹴って駆け出した。

「そんなところで何してるんだ!」
 浜を走りながら、ぼくは彼女に呼びかけた。息が上がっていた。渾身の叫びだった。
 虚空を見つめていた彼女はゆっくりと、ぼくのほうへ振り返った。
「やっぱり……きてくれたんだね。ううん、わたしがよんだんだもん」
 呼んだ? ひょっとするとこの子は……いや、それどころではなかった。右の頬に殴られたような跡があった。そして、髪もワンピースもその華奢な体躯も、全てが海水に濡れきっていた。むっとした、きつい潮の香が漂っていた。
「そんなことはいいから、早くここから離れなきゃ……お父さんとお母さんは?」
 ぼくはそう言って周囲を見渡したが、曇天の冬の海岸には吹き荒ぶ寒風が音をあげているだけだった。
「……」
 彼女はただずっと、ぼくの顔に焦点を当てていた。
「名前は? 家に帰らなきゃ、ね?」
 ぼくは彼女を抱きかかえようとして、冷たく濡れたワンピースに手をあてた。
「わたしは、これからかえろうとしてたの。ねぇ、わたしがゆうくんをだっこしてここにきたのおぼえてる?」
 彼女の脇に触れて視線がぶつかった瞬間に、ぼくの意識に無数の光景が飛び込んできた。

 熱気を含んだ西日に、赤ん坊のぼくは畳の上で身を包まれていた。
 ねっとりと絡みつくような暑さだった。寝苦しくて目が覚めたのだった。でもぼくは身動きが取れなかった。ただひたすら、ぎゃあぎゃあと喚き散らしていた。
 そんなぼくを、そっと胸に抱きかかえた水玉模様のワンピースの少女がいた。小学校にもあがらないくらいの……そう、これが絵里だ。狭くて透き通るような白い頬には、それを埋め尽くすほどのーちょうど男の拳くらいの大きさの、紫のあざがあった。
 ぼくたちは、二人で留守番をしていたのだ。
「はいはい、なかないのなかないの……ほら、えりおねえちゃんでちゅよー」
 絵里はぼくをあやそうとして、語りかけていた。
「おしめ? そうでもないみたい……おなかすいた? でもわたしおっぱいでないから……おかあさんたち、はやくかえってこないかなぁ」
 絵里はすこし困り顔でぼくのことを抱えながら、時折揺すっていた。
「う……」
 泣き止んだぼくは必死で何かを言おうとしていた。おそらく、絵里の表情を見て喜ばせようとしたのだろう……多分、覚えた言葉を口にして、母さんがぼくを褒めてくれたように。絵里は頭に疑問符が浮かんでいるようだった。
「どうしたの? ねぇ」
 絵里はますます不思議そうな顔つきになった。不安を隠しきれないようだった。
「う……み、うーみ!」
 そう、海……それがぼくの初めて覚えた言葉だった。そして、そのとき唯一、声にできるものだった。
「うみっていえるんだ! すごい……すごいよゆうくん!」
 絵里の表情が一気に明るくなった。ぱっとしたその輝きを見て、腕の中にいるぼくもきゃっきゃと笑っていた。

 そこで終わっていれば、きっとみんな幸せなままでいれたはずだ。

「それで……ゆうくんはうみにいきたいの?」
 絵里はにこやかに尋ねた。ぼくは、ただはしゃいでいるだけだった。
「しかたないなぁ……おねえちゃんがつれてってあげる。うみっていえたごほうび。でも、みんなにはないしょだよ?」
 そう言って、絵里は玄関へと行き、抱きかかえていたぼくをベビーカーに乗せた。
「ん、じっとしててね……」
 絵里はぼくにそう語りかけた。サンダルを履いて戸を開けると、ベビーカーを押して外に出た。
 舗装されていない砂利道に、翳りをたたえてふわふわと浮かんだ雲の欠片。空は濃い茜色から淡い黄色へとコントラストを描いていた。ベビーカーを押す少女の影法師は長く伸びて、その周りには何匹かの赤とんぼが、その直線的なボディラインを宙に浮かせていた。

 海岸が近づくにつれて、道が黒く平らになり、旅館やコンベンションセンターが道の脇に続々と現れた。しかし、絵里がすれ違ったのはどこかから駆け落ちてきたような若い一組の男女だけだった。鉄筋コンクリートで作られた、無機質な白い箱……この町は、かつて観光名所になるはずだった。
 松林を抜けた先の海岸には、人工的に舗装された歩道があった。絵里はベビーカーを押して、そのうえを歩いた。
「もうすぐだよ、もうすぐだからね……」
 絵里はぼくにそう呼びかけた。歩道は緩やかな下り坂になっていた。絵里は手を離さないように、力を込めて柄を握っていた。
 波打ち際まで来ると、絵里はベビーカーを歩道から浜に寄せて、ぼくを抱きかかえた。ただ、その細腕には力が入っているようには思えなかった。震わせながら……。

「これがうみだよー! ゆうくんはくるのはじめてだよね?」
 ぼくをそのちいさな胸元に収めた絵里は、リズミカルにぼくを揺すった。ぼくは腕の中で、そこから溢れ出そうとするくらいに全身で喜びを表現していた。
「ちょっとだけ、はいってみる?」
 絵里はよたよたと、心許ない足取りで砂の上を歩み始めた。抱えられたぼくは、はしゃぐのをやめずにいた。
 うたかたの。

「でもね、あのときはおうちにかえりたくなかったの」
 その一言で、ぼくの意識は実体に戻った。気づけば土砂降りで、水平線には不規則な閃光が走っていた。
「帰りたく、なかった……?」
 ぼくは尋ねた。戸惑いを含ませて。
「うん」
 ずぶ濡れになってそう応える瞳は、何よりも純粋な輝きを持っていて、つぶらな輪郭を煌めかせていた。
「わたしは、うみにだっこされたの。あたたかくて、きもちよくて……おかえり、もうずっとここにいてもいいよって、そういってた」
 どういう意味だ? 揺れる波間、沈む身体……一体何を見たんだ? 何を聞いたんだ? ぼくは言葉をうまく出せなかった。ただただ、心の疑問符を浮かべていた。
 独白は続いた。
「それでね、だんだんねむたくなって……おきたらいつのまにかゆうくんおとなになってて。びっくりしちゃった! わたしはまだろくさいなのにね」
 そう、時計の針は止まったままだったのだ。ずっと、ずっと。
「君は……」
 ぼくは言葉を紡ぐことができなかった。
 痛々しい頬の傷跡には、静かな微笑みが添えられていた。
 雲の切れ間に、光が差した。
「わたしね、ゆうくんにおわかれをいいにきたの。これから、みんなとひとつになるの」
 お別れ? 皆? 
「しんぱいしないで。ゆうくんも、きっといつかかえってこれる。じゃあね! ゆうくん……」
 ちょこんとした裸足がふわりと浮いた。そして彼女は穏やかな表情で……。
「待って!」
 音もなく波の上を進む小さな背中に、ぼくは叫んだ。でも、その景色には何の揺らぎもなかった。姿が、彼方へ遠ざかってゆくだけだった。

 いつしか、東の空が白く輝いていた。みなもは、きらきらとゆらめく無数の煌きを浮かべていた。

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